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第55話 ARCADIA

 アリスの言葉に、一瞬誰も口を開かなかった。


 店内に、静寂が落ちる。


 刹那はカップを置き、眉をひそめた。


「今度はなんだよ」


「今後のことよ」


 アリスはそう言って、テーブルの上に置かれた装備へ視線を落とした。


 刹那の装備。

 回収されたアイテム。

 残ったキャッシュ。

 保存ログ。


 それらは、確かにここにある。


 けれど、それは運が良かったわけでも、簡単なことでもなかった。


「今回のようなことを、二度と個人単位で処理すべきではないわ」


 刹那が小さく息を吐く。


「また難しい話か?」


「必要な話よ」


 アリスは即座に返した。


「死亡時の装備回収。保存ログの保管。緊急時の連絡経路。復帰後の確認。対外的な窓口」


 そこで、アリスは一度言葉を切った。


「そういったものを、個人の善意と、その場の判断だけに任せるのは危険よ」


 美咲は、全部を理解できたわけではなかった。


 けれど、アリスが何を言いたいのかは、少しだけ分かる。


 今回、美咲とアリスは戻った。


 刹那の装備を回収するために。

 保存ログを持ち帰るために。

 あの白い研究所へ、もう一度。


 でも、それは正しかったのだろうか。


 何を優先するのか。

 どこまで危険を許容するのか。


 その全部を、その場の気持ちだけで決めていた。


「今回、刹那の装備は回収できた。保存ログも残った。けれど、次も同じように動ける保証はないわ」


「それって……」


 美咲は、テーブルの上に置かれた刹那の装備を見た。


「次に誰かがこうなった時のために、あらかじめ決めておくってことですか?」


「そうよ」


 アリスは頷いた。


「誰が回収に向かうのか。何を優先して持ち帰るのか。誰が復帰を確認するのか。戻ってきた相手を、誰が迎えに行くのか」


「でも、えっと……」


 美咲は言葉を探す。


「ただの約束だけじゃ、足りないんですか?」


「足りないわ」


 アリスの返答は即座だった。


「権限が必要になる。ログの保管先も、共有範囲も。個人同士の約束では、扱えないものがある」


 そこで、刹那が小さく息を吐いた。


「……お前、それ」


 刹那はアリスを見る。


「クランを作るつもりか?」


 美咲は目を瞬いた。


「クラン……?」


 アリスは、ほんの少しだけ黙った。


「……便宜上は、そうなるわね」


「便宜上でクランは作らねぇよ」


 刹那が呆れたように言う。


 アリスは刹那を一瞥した。


「形式の話をしているのよ」


「そういう顔じゃねぇけどな」


「刹那」


「はいはい」


 刹那は肩をすくめる。


 美咲は、アリスを見つめていた。


 クラン。

 その言葉は、美咲にとってまだ少し遠いものだった。


 人が集まる、大きな場所。

 強い人たちが作る組織。

 自分には、まだ関係のないもの。


 そう思っていた。


 けれど、アリスの言うクランは、少し違って聞こえた。


 強くなるためだけの場所ではない。

 戦うためだけの集まりでもない。


 誰かが死んだ時に、戻ってこられる場所。

 誰かが迷った時に、連絡できる場所。

 おかえりと言える場所。

 言ってもらえる場所。


 そういうものに聞こえた。


 アリスの視線が、美咲から刹那へ移る。

 そして最後に、マリアへ向いた。


「マリア」


「はい〜」


「貴女にも、加わってもらいたいわ」


 美咲は驚いて、マリアを見た。


 マリアは少しだけ目を細め、それからいつものように柔らかく笑った。


「嬉しいわ〜。ありがとう、アリスちゃん」


 けれど。


「でも、ごめんなさいね。私は入らないわ」


「えっ、で、でも……マリアさん……」


 思わず、美咲が声をあげた。


 マリアは美咲を見る。

 その表情は優しかった。

 けれど、困っている顔ではなかった。


「私はね、これからもいろんな人を助けたいの。あなたたちだけじゃなくて、クランに入っていない子たちとか、始めたばかりで迷っているプレイヤーとか。そういう人たちも」


「でも……入ってからも、他の人を助けることって……できないんですか?」


「できるかもしれないわ」


 マリアは静かに頷いた。


「でも、私はそこまで器用じゃないのよ」


 そして、視線を少し落とす。


「クランに入ってしまったら、私はきっと、あなたたちを最優先にしてしまう。それは、私のスタイルと少しだけズレてしまうの」


 その言葉は、優しいのに、揺るがなかった。


「それに」


 そこで、マリアは少しだけ笑った。


「私がクランのマリアになってしまったら、他の誰かが気軽に、私を頼れなくなる気がするの」


 美咲は、何も言えなかった。


 Code:VIRを始めてからのことが脳裏に蘇る。


 右も左もわからない時に、マリアは声をかけてくれた。

 穏やかで、優しく。

 時には厳しく。

 一緒にその時を過ごしてくれた。


 美咲は口を結び、小さく俯いた。


 マリアは、そんな美咲を見て、ふわりと笑う。


「ありがとう。本当に、ありがとう。でもね」


 マリアは、美咲とアリス、それから刹那を順番に見た。


「クランと無所属だからって、関係が変わるわけじゃないの」


 その声は、いつもと同じように柔らかかった。


「これからも、仲良くしてね」


 美咲の胸の奥にあった小さなものが、少しだけほどけた。


 アリスは、すぐには答えなかった。


 ほんの少しだけ。

 本当に、ほんの少しだけ。


 言葉を探すような間があった。


「……そう。理解したわ」


「振られたな、アリス」


 刹那が小さく笑う。


「提案の一部が棄却されただけよ」


「そういう顔じゃなかったけどな」


 アリスは、わずかに目を細めて刹那を見た。


「はいはい。悪かったって」


 刹那は両手を軽く上げる。


 マリアは楽しそうに笑っていた。


 アリスは、本当はマリアにも一緒にいてほしかったのだと思う。

 美咲にはそう感じた。


 合理的な理由だけではない。

 仕組みのためだけでもない。


 ただ、ここにいる人たちが、これからも同じ場所に帰って、同じ時を過ごせるように。

 きっと、アリスはそう考えていた。


「それで」


 刹那が椅子の背にもたれた。


「作るとして、名前はどうするんだ?」


 美咲ははっとして、アリスを見る。


 クラン名。

 そんなものまで、もう考えているのだろうか。


 アリスは少しだけ視線を落とした。


 迷っているようには見えなかった。

 けれど、簡単に口にする言葉でもないように見えた。


 やがて、アリスは静かに言った。


「ARCADIA」


 その響きが、店内に落ちる。


「アルカディア……?」


 美咲が、そっと繰り返した。


「理想郷、という意味よ」


「随分、大きく出たな」


 刹那が口元を緩める。


 アリスは否定しなかった。


「現実に理想郷なんて存在しない」


 静かな声だった。


 美咲は、アリスを見る。

 アリスの視線は、店の窓の向こうへ向いていた。


 リヴェラの街明かりが、硝子越しにぼんやりと揺れている。


 そこには、たくさんのプレイヤーがいる。


 クランに所属している人。

 まだどこにも入っていない人。

 始めたばかりの人。

 迷っている人。

 死んで、戻ってきて、それでもまた歩き出す人。


 美咲は、テーブルの上に置かれた刹那の装備を見た。


 持ち帰ることができたもの。

 失わずに済んだもの。

 戻ってきた人。


 その全部が、ここにあった。


「それでも」


 アリスは言った。


「帰る場所は、理想であるべき。私は、そう考えるわ」


 誰も、すぐには答えなかった。


 刹那は小さく息を吐き、椅子の背から体を起こす。


「ARCADIA、ね」


 その声には、呆れたような響きがあった。

 けれど、否定ではなかった。


「いいんじゃねぇの」


 美咲の胸が、小さく跳ねる。


 アリスが刹那を見る。


「軽いわね」


「重く言えばいいのか?」


「そういう問題ではないわ」


「でも、本当に悪くないと思ってる」


 刹那はそう言って、テーブルの上のカップを持ち上げた。


「帰る場所が理想郷ってのは、大きく出すぎだけどな」


 アリスは少しだけ目を伏せた。


「希望的観測は、大きすぎるくらいでいいのよ」


 その言葉に、美咲はなぜか、胸が熱くなった。


 理想郷。

 まだ、何もない。

 拠点もない。

 正式な登録も済んでいない。


 名前だけの、小さな始まり。


 けれど、その名前は確かにここに生まれた。


 白い研究所の奥で、何かを失いかけたあとに。

 灰色の名前が、もう一度灯ったあとに。

 誰かが帰ってこられる場所を、もう二度と偶然に任せないために。


 美咲は、アリスと刹那を見た。

 それから、マリアを見る。


 マリアはクランには入らない。

 けれど、そこにいる。

 これからも、きっと。


 美咲は小さく息を吸った。


「私も」


 声は少しだけ震えていた。

 けれど、今度は逃げなかった。


「私も、そのクランに入りたいです」


 アリスが美咲を見る。

 刹那も、少しだけ目を細めた。

 マリアは、嬉しそうに微笑んでいる。


 アリスはほんの一瞬だけ黙ったあと、小さく頷いた。


「当然よ」


 その言い方があまりにもアリスらしくて、美咲は少しだけ笑ってしまった。


 刹那も笑う。


「そこは歓迎してやれよ」


「歓迎しているわ」


「どこがだよ」


 店内に、小さな笑いが落ちた。


 重かった空気が、少しずつほどけていく。

 でも、消えたわけではない。


 失いかけたこと。

 戻ってきたこと。

 これからのこと。


 その全部を抱えたまま、四人は同じテーブルを囲んでいた。


 そして、その夜。


 まだ拠点も、正式なメンバー登録も、何もないまま。


 ひとつの名前だけが、静かに決まった。


 ARCADIA。


 帰る場所は、理想であるべき。


 そう願った、最初の名前だった。

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