第52話 灯る名前
リヴェラの中央広場から西へ離れた場所、荒れ果てた街並みの一角に、その建物はあった。
白い壁。
細い窓。
必要なものをただ並べたような、飾り気のない建物。
街の中にあるはずなのに、そこだけ人の声が少なかった。
街の喧騒が遠い。
まるで、リヴェラの賑わいから隔離されているみたいだった。
この荒れた街並みの中でさえ、そこだけが浮いて見える。
美咲は建物を見上げたまま、身体の前で指を握った。
右手の傷は完全に消えている。
でも、痛みだけはまだ残っているように感じた。
「ここに……刹那さんは戻ってくるんですか?」
声にすると、喉の奥が少し震えた。
隣に立っていたアリスが、建物から視線を逸らさずに答える。
「ええ。未所属プレイヤーの復帰施設よ」
「復帰施設……」
「死亡ペナルティが明けたプレイヤーは、ここから再ログインするわ。クランに属していない場合は、ね」
美咲はその言葉をゆっくり飲み込んだ。
死亡ペナルティ。
二十四時間のログイン制限。
フレンドリストで、灰色のままだった名前。
その名前が、もうすぐ戻る。
そう思いたいのに、胸の奥はまだ冷たかった。
「クランに入っている人は、違うんですか?」
「所属クランの拠点に戻るわ」
アリスは短く言った。
「所属クランに拠点があれば、そこが復帰地点になる。医療ベッドでも、休憩室でも、指定された場所へ戻るわ」
「じゃあ……」
美咲はもう一度、白い建物を見た。
もし、誰も迎えに来なければ。
死んで。
二十四時間待って。
戻ってきた最初の場所が、この静かな建物だったら。
誰の声もなく。
誰の足音もなく。
ただ、無機質な建物の中で目を覚ますだけだったら。
美咲は視線を落とした。
「ひとりで、戻ってくるんですよね」
美咲の問いに、アリスは答えなかった。
マリアは美咲の横にそっと立つと、優しく微笑んだ。
「だから、迎えに来たのよ〜」
いつもの柔らかい声。
けれど、その笑みは少しだけ静かだった。
「戻ってきた時に、誰もいなかったら寂しいものね〜」
美咲はマリアを見る。
マリアの言葉は優しかった。
でも、その優しさの奥には、昨日と同じ沈黙がまだ少しだけ見え隠れしている気がした。
戻ってこなかった人。
戻ろうとして、だめだった人。
以前、マリアが話してくれたことを思い返す。
マリアは、何度ここを訪れたのだろう。
何度待つことを諦めたのだろう。
美咲にはわからない。
それでも、マリアはここにいる。
アリスもいる。
そして、美咲も。
刹那を待っている。
建物の入口には、復帰予定者と処理状況を示す簡素な表示があった。
数名の名前。
その中にひとつ。
【SETSUNA:復帰処理待機中】
その名前を見た瞬間、美咲の息が止まった。
灰色だった名前。
死亡通知として届いた名前。
それが今、目の前の表示にある。
戻ってくる。
戻ってきてくれる。
そう信じたい。
でも、まだ扉は開かない。
アリスは表示を見上げていた。
表示は変わらない。
それでも、アリスの表情に迷いはなかった。
「……本当に、戻ってきますよね」
美咲は小さく呟いた。
問いかけというより、こぼれた声だった。
マリアが隣で視線を落とす。
言い切れないことを、美咲はもう知っている。
けれど。
「戻ってくるわ」
アリスの声が静かに落ちた。
昨日も、アリスはそう言った。
刹那は、約束を違えるほど薄情ではない、と。
約束。
美咲の知らない、アリスと刹那の間にあるもの。
アリスはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、扉を見ていた。
表示が、ゆっくりと切り替わっていく。
【復帰可能】
並んでいた名前のひとつが消えた。
美咲は息を呑む。
刹那の名前だと思った。
扉が、ゆっくりと開く。
「刹那さんっ」
思わず、足が前に出た。
謝らないと。
お礼も言いたい。
けれど、扉の向こうから現れたのは、見ず知らずの男性だった。
美咲の足が止まる。
男は三人を一瞥すると、小さくため息をつき、何も言わずに通り過ぎていった。
美咲は、表示をもう一度見上げる。
刹那の名前は、まだそこにあった。
消えたのは、別の名前だった。
胸の奥で、膨らみかけたものが、行き場をなくして沈んでいく。
まだ。
まだ、刹那は戻ってきていない。
「……落ち着きなさい」
アリスの声が、横から落ちた。
「すぐにログインしてくるとは限らないわ」
「……はい」
返事をしても、喉の奥は乾いたままだった。
表示は変わらない。
【SETSUNA:復帰処理待機中】
美咲は、その文字から目を離せなかった。
それから、少しずつ時間だけが過ぎていく。
5分。
10分。
すでに、24時間経過している。
それでも、刹那はまだ現れない。
何も変わらないとわかっているのに、美咲は何度も端末を見てしまう。
風が吹き、街の喧騒が遠くから聞こえてくる。
三人はただ、刹那が帰ってくるのを待ち続けることしかできなかった。
不安が喉から込み上げてくる。
「アリスさん……」
美咲はアリスを見た。
アリスは普段と変わらない様子で、静かに扉を見つめ続けていた。
「あの、刹那さんは……」
美咲が言いかけた時、アリスが無言で美咲を一瞥する。
そして、すぐに視線を戻した。
アリスは刹那を信じている。
なら、今自分ができることは、刹那を、アリスを信じること。
美咲は小さく息を吐くと、もう一度扉に目を向けた。
その時、白い扉がゆっくりと開いた。
扉の先から現れたのは、黒髪の女性。
刹那。
刹那は、扉を閉めると軽く体を伸ばし、大きく息を吐いた。
そして、刹那が三人の姿を認めた。
「ん? 揃いもそろって暗い顔してんな。……葬式でもしてんのか?」
拍子抜けするほど、軽い声。
アリスが小さく息を吐いた。
マリアは安心したように目を伏せた。
「……刹那さんっ」
美咲は跳ねるように走り始めると、刹那のもとに駆け寄った。
涙で視界が滲む。
足がもつれる。
それでも、足は止まらなかった。
【SETSUNA:ログイン】
フレンドリストで、刹那の名前が静かに灯っていた。




