第51話 灰色の名前
店内には、まだ消毒液と火薬の匂いが残っていた。
包帯を巻かれた右手は、膝の上でうまく握れない。
マリアに言われた言葉も、アリスに言われた言葉も、まだ胸の奥に沈んだままだった。
助けたかった。
役に立ちたかった。
その気持ちは悪いものではない。
でも、そのために自分を傷つけていいわけではない。
分かった、と思う。
けれど、分かっただけで痛みが消えるわけではなかった。
マリアはカウンターの奥で、温かい飲み物を用意していた。
いつもなら、その背中を見るだけで少し安心できる。
けれど今は、湯気が立つ音さえ遠く感じた。
アリスは椅子に座ったまま、端末を操作している。
表情は変わらない。
指先も迷わない。
けれど、美咲には、どこかいつもより静かすぎるように見えた。
アリスは端末から視線を上げないまま、独り言のように呟いた。
「刹那の装備は回収済み」
「保存ログも取得済み。アイテム類の欠損も、わずか」
淡々とした声。
報告書を読み上げるような声。
それなのに、美咲の胸は少しだけ締めつけられた。
「ログとアイテム類に関しては、損失は最小限で済んだと言っていいわ」
その言葉の中の、たった一文字が引っかかった。
は。
ログとアイテム類に関しては。
なら。
それ以外は。
美咲は、膝の上の右手を見た。
包帯の下が、じんと痛む。
「刹那さんは……」
声に出した途端、喉が震えた。
アリスの指が止まる。
マリアも、カップを置く手を止めた。
「刹那さんは、戻ってきてくれるんでしょうか」
言ってから、美咲は自分の言葉が怖くなった。
そんなはずはない。
ゲームなのだから。
死亡ペナルティがあるだけなのだから。
二十四時間後には、ログインできるようになる。
それは分かっている。
分かっているのに、あの白い部屋を思い出すと、胸の奥が冷たくなった。
黒い触手。
床に残った斬撃痕。
青い液体。
そして、奥で聞こえていた音。
死んだ、だけではなかった。
食べられた。
その感覚が、刹那の中に残っていたら。
戻れるはずの場所に、戻りたくなくなったら。
美咲は、それ以上考えられなかった。
マリアは何も言わなかった。
いつものマリアなら、きっとすぐに言ってくれたはずだった。
大丈夫よ。
戻ってくるわ。
そう言って、柔らかく笑ってくれたはずだった。
でも、マリアは黙っていた。
その沈黙で、美咲は思い出してしまう。
一度きりの死亡で、もう戻ってこなかった人。
何度も戻ろうとして、結局だめだった人。
以前、マリアが静かな声で話してくれたこと。
だから、言い切れない。
戻ってくる、と。
「戻ってくるわ」
静かな声が、沈黙を切った。
美咲はアリスを見た。
マリアも、アリスを見た。
アリスは端末を閉じていた。
視線はまっすぐ、テーブルの向こうではなく、もっと遠くを見ているようだった。
「必ず」
その言葉には、迷いがなかった。
希望を渡すための優しさではない。
慰めでもない。
アリスは、確かめるまでもないことのように、そう言った。
「どうして」
美咲の声は小さかった。
「どうして、そう言い切れるんですか」
アリスはすぐには答えなかった。
ほんの一瞬だけ、まぶたを伏せる。
その横顔に、美咲の知らない時間がよぎった気がした。
「刹那は」
アリスは静かに口を開く。
「約束を違えるほど、薄情ではないわ」
約束。
その言葉だけが、店内に残った。
美咲は、言葉の意味を理解できなかった。
マリアも、すぐには何も言わなかった。
アリスと刹那の間に、自分の知らない何かがある。
それだけは分かった。
アリスがこんなふうに誰かを信じるところを、美咲は初めて見た気がした。
強いから戻る。
上手いから戻る。
ゲームだから戻る。
そうではない。
アリスは、刹那が約束を守る人だから戻ってくると言った。
「昔」
アリスが、ぽつりと言った。
けれど、それ以上は続かなかった。
言いかけて、やめたように見えた。
美咲は聞けなかった。
聞いてはいけない気がした。
アリスは、もう一度端末に視線を落とす。
「二十四時間よ」
いつもの声に戻っていた。
「それまでは戻れない。刹那が戻るのは、明日になるわ」
明日。
たった一日。
けれど、美咲にはその一日がひどく長く感じた。
刹那の装備は戻ってきた。
保存ログも戻ってきた。
でも、刹那本人は、まだ戻ってこない。
マリアが温かい飲み物をテーブルに置いた。
「ここで少し休んでいきましょう」
その声は柔らかかった。
「ログアウトするにしても、その前に落ち着いてからよ」
美咲はカップを見た。
湯気が細く揺れている。
手を伸ばそうとして、右手がうまく動かないことに気づく。
左手でカップを持つ。
温かかった。
その温度に、ようやく自分の指先が冷えていたことを知った。
アリスは飲み物に手をつけなかった。
ただ、端末を見つめている。
美咲も、自分の端末を開いた。
フレンドリスト。
名前が並ぶ。
マリア。
アリス。
そして、刹那。
刹那の名前だけが、灰色になっていた。
オフライン。
ただ、それだけの表示だった。
死亡通知よりも静かで。
死亡通知よりも長く残る文字。
美咲は、その灰色の名前から目を離せなかった。
戻ってくるわ、必ず。
刹那は、約束を違えるほど薄情ではないわ。
アリスの声が、胸の奥で繰り返される。
約束の中身は分からない。
アリスと刹那の間に何があったのかも、分からない。
それでも、その言葉だけは信じたいと思った。
信じなければ、今は立っていられない気がした。
美咲はカップを握る左手に、少しだけ力を込めた。
包帯を巻かれた右手は、まだ膝の上で動かない。
灰色の名前は、まだ灰色のままだった。
それでも。
アリスは、戻ってくると言った。




