第50話 傷
リヴェラの正門前。
街は、いつもと同じように少しうるさい。
人の声もある。
行き交うプレイヤーの足音もある。
けれど、マリアの立っている場所だけ、空気が違っていた。
マリアは、しばらく何も言わなかった。
それから、静かに口を開いた。
「あなた達、今まで何をしていたの?」
マリアの声は、静かだった。
怒鳴られたわけではない。
責め立てられたわけでもない。
それなのに、美咲はその場で足を止めたまま、動けなかった。
マリアは、美咲とアリスを順に見た。
アリスの服に残った赤黒い汚れ。
美咲の暗い表情。
それから、二人の背後。
そこに、刹那はいない。
マリアの表情は、いつものように柔らかくはなかった。
「連絡したわ」
その言葉に、美咲は息を詰めた。
「何度も」
美咲は、反射的に端末を開いた。
視界の端に、通知欄が展開される。
未読通知が並んでいた。
マリアからの通話。
マリアからのメッセージ。
もう一度、通話。
さらに、メッセージ。
そして、その上に残ったままの通知。
【SETSUNA が死亡しました】
見たはずの文字だった。
知っていたはずの文字だった。
それなのに、今あらためて目に入った瞬間、胸の奥が冷たくなった。
マリアにも届いていた。
アリスにも。
美咲にも。
刹那が死んだことは、もう自分たちだけの出来事ではなかった。
「気づいて、いませんでした」
美咲の声は、ほとんど音にならなかった。
隣で、アリスも端末を確認していた。
アリスは何も言わない。
ただ、通知欄を閉じた。
「お店で聞くわ」
マリアはそれだけ言うと、背を向けた。
にじいろパウダーまでの道のりは、短い。
短いはずだった。
それなのに、今日だけはひどく長く感じた。
前を歩くマリア。
その後ろにアリス。
さらに少し後ろを、美咲が歩く。
さっきまでは、アリスの沈黙だけで息が苦しかった。
今はそこに、マリアの沈黙が加わっている。
無言の圧が、一人分増えた。
そう思ってしまって、美咲は自分で自分が嫌になった。
マリアは心配してくれていた。
連絡してくれていた。
待っていてくれた。
それなのに、自分はまた、責められているように感じている。
気づけば、お店に到着していた。
にじいろパウダーの扉が開く。
いつもなら、火薬の匂いと柔らかい灯りに、少しだけほっとする場所。
今日は違った。
店の中の空気が、あまりにも静かだった。
マリアはカウンターの奥へ回り、救急箱を取り出した。
「座りなさい」
美咲は言われた通り、椅子に腰を下ろした。
アリスも隣に座る。
マリアはまず、アリスの傷を見た。
服の破れた部分を確認し、布を外し、出血の具合を見る。
「深くはないわね」
「問題ないわ」
「問題がないかどうかは、私が判断するわ」
アリスは黙った。
消毒の匂いが広がる。
マリアの手つきは、いつもと同じだった。
丁寧で、迷いがない。
けれど、表情は笑っていなかった。
次に、マリアは美咲を見た。
「傷を見せなさい」
「……はい」
握った拳を、ゆっくり開いた。
自分でつけた傷が、露わになる。
浅い。
けれど、たしかに切れている。
マリアの指が、一瞬だけ止まった。
「これは?」
美咲は口を開いた。
説明しなければ、と思った。
何があったのか。
どうしてこうなったのか。
自分が何をして、何ができなかったのか。
ちゃんと、自分の口で言わなければいけない。
「私が」
「私が話すわ」
アリスの声が、美咲の言葉を遮った。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
まただ。
戦えなかった。
守れなかった。
刹那を連れて帰れなかった。
そのうえ、説明することさえ任せてもらえない。
美咲は開きかけた口を閉じた。
アリスは、美咲を見なかった。
マリアだけを見て、淡々と話し始める。
「美咲と刹那は、未登録区域の研究施設に入った。内部で隔壁が閉じて、通常ログアウトができない状態になったわ。出るためにはカードキーが必要だった」
マリアは美咲の手を包んだまま、黙って聞いている。
「先に入っていたプレイヤーが二人いた。そのうち一人はすでに死亡。もう一人は生存していたけれど、未登録個体に捕獲された」
美咲の喉が鳴った。
黒い触手。
消えた手の感触。
メイの声。
思い出したくないものが、言葉に合わせて浮かび上がる。
アリスは続ける。
「未登録個体は、捕食と、模倣体の生成に近い挙動をしていた。刹那は美咲を逃がすために残った。その後、死亡通知が出た」
マリアの指が、美咲の手を包む力を少しだけ強めた。
痛くはない。
でも、その変化は分かった。
「私は美咲と合流した。目的は討伐ではなく、刹那の装備と保存ログの回収。再侵入して、個体と交戦した」
アリスの声は揺れない。
揺れないことが、余計に苦しかった。
「個体は、損傷した対象に反応していた。私の傷に反応したわ」
マリアの視線が、アリスの傷から美咲の手へ移る。
アリスは、ほんの少しだけ息を置いた。
「それを見て、美咲は自分の手を切った。血をつけた携帯食を投げて、触手を逸らした」
店の中が、さらに静かになった気がした。
マリアは何も言わない。
美咲は俯いた。
その沈黙が怖かった。
怒られるより、ずっと怖かった。
「結果として、回収と撤退は成功した」
アリスは言った。
「でも、美咲の判断は間違いよ」
「……無謀、と言ってもいいわね」
その言葉が、まっすぐに落ちた。
美咲は唇を噛んだ。
マリアは、まだ美咲の手を離さなかった。
「まずは、治療よ」
マリアは静かに言った。
それ以上は何も言わず、消毒液を取る。
傷に触れた瞬間、鋭い痛みが走った。
美咲の肩が震える。
「痛むかしら?」
「……大丈夫です」
「大丈夫じゃないわ」
マリアの声は、静かだった。
その静けさが、かえって美咲の胸を締めつける。
包帯が巻かれていく。
白い布が、自分でつけた傷を隠していった。
でも、隠れたからといって、なくなるわけではない。
手当てを終えると、マリアは美咲の手をそっと膝の上に戻した。
それから、アリスを見た。
「アリスちゃん」
「何かしら」
「どうして、そこまで言うのかしら」
アリスは目を逸らさなかった。
「必要だからよ」
「みさきちゃんは、助けたかったのよ」
「知っているわ」
「役に立ちたかったの」
「それも知っている」
「なら、どうしてそんな言い方をするの?」
「知っているからよ」
美咲には、アリスの声が冷たく聞こえた。
でも、怒鳴ってはいない。
ただ、切り分けるように言葉を置いていく。
「あれは支援じゃない。自分を差し出しただけよ」
美咲の胸が痛んだ。
帰り道で言われた言葉。
分かっていたはずなのに、もう一度聞くと、また刺さる。
マリアは静かに言った。
「判断が正しかったとは、私も思わないわ」
アリスは黙っていた。
「でも、帰ってきた子に最初に渡す言葉が、それでいいのかしら」
「帰ってきたから言えるのよ」
マリアはすぐには答えなかった。
アリスの視線は、まっすぐマリアに向いていた。
「自分が傷つけば済む。自分を差し出せば役に立てる。美咲がそう覚えたら、次はさらに危ない場面で同じことをするわ」
美咲は顔を上げられなかった。
自分のことを話している。
でも、自分の声は入る隙がない。
アリスもマリアも、自分を見ている。
どちらも自分のことを考えてくれている。
それなのに、二人の言葉は、美咲の頭上でぶつかっていた。
「初心者が、怖い中で必死に考えた結果よ」
「だからこそ、最初に線を引く必要がある」
アリスの指先が、机の上で一度だけ跳ねた。
「線を引くことと、追い詰めることは違うわ」
「追い詰めてでも、止める必要があることはあるわ」
マリアの表情が、わずかに変わった。
それでも声は荒げない。
「それでも、あなた達は戻ってきたわ」
「今回は、ね」
短い言葉だった。
その一言で、店の温度が下がった気がした。
アリスは続けた。
「褒めて、慰めて、それで危ない判断を危ないまま残すの? それで美咲が死んだら、誰が責任を取ると言うの」
「責任の話をしているんじゃないの」
「私はしているわ」
アリスの声が、少しだけ鋭くなった。
「美咲を次に戦場へ連れていくなら、その判断に責任がある。危ないものは危ないと言う。間違いは間違いだと切る。嫌われるのは、慣れてるわ」
マリアは、少しだけ目を伏せた。
ほんの一瞬。
けれど、美咲には分かった。
今、何かが触れた。
見えていない傷に、アリスの言葉が触れた。
「マリア」
アリスが名前を呼んだ。
その声は、さっきよりも低かった。
「貴女なら、知っているはずよ」
マリアは答えない。
「その結果が、何をもたらすのかを」
静寂。
消毒液の匂いが、急に強くなった気がした。
マリアの指が、ほんのわずかに動いた。
それだけだった。
でも、そのわずかな動きで、美咲にも分かった。
アリスは、踏み込んだ。
踏み込んではいけない場所に。
アリス自身も、それに気づいたのだと思う。
言葉を発した直後、アリスの表情がかすかに変わった。
店の中に、誰の声もない。
外の音が遠い。
美咲は息をするのも怖かった。
やがて、アリスが先に視線を落とした。
「……言いすぎたわ」
その声は、先ほどまでより少し低かった。
「ごめんなさい」
マリアは、すぐには答えなかった。
美咲は二人を見比べる。
アリスが謝った。
マリアが黙った。
どうしてなのか、美咲には分からない。
分からないのに、そこに触れてはいけない何かがあることだけは分かった。
しばらくして、マリアがゆっくり息を吐いた。
「いいの」
短い返事だった。
それから、マリアは美咲の方を見た。
いつものように笑ってはいない。
けれど、その目はちゃんと美咲を見ていた。
「みさきちゃん」
名前を呼ばれただけで、胸が詰まった。
「はい」
「怖かったわね」
その一言で、何かが崩れそうになった。
美咲は俯いた。
泣いてはいけないと思った。
泣いたら、また迷惑をかける。
そう思った瞬間、アリスの言葉が頭の中で響いた。
自分が傷つけば済むと思うなら、それは間違い。
美咲は、膝の上の右手を見た。
白い包帯。
その下の、小さな傷。
自分でつけた傷。
役に立ちたかった証だと思いたかった傷。
でも、それだけではなかった。
誰かを危険に巻き込むかもしれなかった傷。
「助けたかったのよね」
マリアの声は優しかった。
美咲は声を出せず、小さく頷いた。
「役に立ちたかったのよね」
もう一度、頷く。
マリアは少しだけ目を細めた。
「その気持ちは、悪いものじゃないわ」
美咲の目元が熱くなる。
けれど、その瞬間。
「でも」
マリアの声が、ほんの少しだけ変わった。
「そのために、自分を傷つけていいわけではないの。それは現実も、ゲームも、同じ」
美咲は顔を上げた。
マリアは、静かに美咲を見ていた。
「アリスちゃんの言い方は、少し怖かったわよね」
アリスがわずかに眉を動かす。
マリアは続けた。
「でも、言っていることは間違ってないの」
その言葉が、美咲の胸にゆっくり落ちていく。
責められているわけではない。
許されているわけでもない。
ただ、見られている。
自分の気持ちも。
自分の間違いも。
どちらも、なかったことにされていない。
「次に助けたいと思った時は」
マリアは、美咲の包帯にそっと触れた。
「自分を傷つける方法以外を、探しましょ」
美咲は、唇を震わせた。
「……はい」
声は小さかった。
けれど、ちゃんと出た。
アリスは何も言わない。
マリアも、それ以上は責めなかった。
店内には、消毒液と火薬の匂いが混じりあっていた。
いつもは温かい灯りが、今日は少しだけ痛い。
でも、痛いままでいい。
忘れてはいけない痛みなのだと思った。
右手の痛みも。
アリスの言葉も。
マリアの沈黙も。
それから、未読通知の中に残っていた、刹那の死亡通知も。
全部、まだ消えていない。
消えていないまま、美咲は膝の上で左手を握った。
包帯を巻かれた右手は、まだうまく握れなかった。




