第49話 理由
外の空気を吸っても、肺の奥に残った冷えは消えなかった。
美咲は膝に手をつき、荒く息を吐く。
白い建物の扉は閉じている。
けれども耳の奥に、あの音がこびりついていた。
またどこからか、あの不快な咀嚼音が聞こえてくるんじゃないかと、思わずにはいられなかった。
「……戻るわよ」
美咲が顔を上げる。
アリスは白い建物を見たまま、銃を下ろしてはいなかった。
その横顔は、普段よりずっと冷たく見えた。
「はい……」
美咲は小さく頷いた。
二人は歩き出した。
来た道を戻る。
赤黒い油痕は、まだ地面に残っていた。
行きは、それを追って進んだ。
今は、それから目を逸らすように歩く。
アリスは何も言わなかった。
美咲も、何も言えなかった。
沈黙が重い。
足音だけが、はっきりと聞こえてくる。
美咲は、胸の奥を押さえるように手を握った。
自分のせいだ。
助けたいなんて言ったから。
刹那の言うことを聞かなかったから。
またアリスに迷惑をかけたから。
刹那は、あんなことになった。
そして、アリスは怒っている。
怒られて当然だ。
責められて当然だ。
それなのに、アリスは何も言わない。
その沈黙の方が、ずっと怖かった。
怒ってくれてもいい。
呆れてくれてもいい。
せめて、何か言って欲しかった。
「……ごめんなさい」
気づけば、美咲は小さく呟いていた。
アリスは何も答えなかった。
歩く速度も変わらなかった。
美咲は俯いたまま、もう一度口を開く。
「ごめんなさい。私が……」
「貴女は、何に謝っているの」
その声は静かだった。
冷たいほどに。
美咲は歩みを止めかけた。
アリスは前を向いたまま歩いていた。
「え……?」
「何に対して謝罪しているのかと、聞いているの」
美咲は言葉を詰まらせた。
喉がうまく動かない。
それでも、言わなければいけないと思った。
「アリスさんに、迷惑をかけたこと……です」
アリスは答えない。
「それから……刹那さんを、あんな目に遭わせてしまったことです」
そこで、アリスの足が止まった。
美咲も、反射的に止まる。
アリスが振り返った。
その碧い目に、感情はほとんど見えなかった。
だからこそ、怖かった。
「私が貴女に言いたいのは、そこではないわ」
美咲は息を呑む。
「なぜ、あれが血に反応すると分かっていて、自分の手を傷つけたの」
美咲の右手が、わずかに震えた。
包帯も何も巻いていない掌。
切った場所が、今になってじくじくと痛む。
「それは……」
「答えなさい」
アリスの声が低くなる。
怒鳴ってはいない。
けれど、逃げ道を塞ぐ声だった。
「触手の気を、逸らせれば……なんでもよかったんです」
美咲は視線を落とした。
「アリスさんが追われていて、このままだと危ないって思って……私の血なら、あれが反応するかもしれないって」
「それで?」
「助けたかったんです」
言葉が、こぼれる。
「役に立ちたかったんです。支援職として」
アリスの目が、わずかに細くなった。
美咲はその視線に、喉を締められるような感覚を覚えた。
「あれは、ただの囮よ」
静かな声だった。
だからこそ、鋭かった。
「支援じゃないわ」
美咲は何も言えなかった。
アリスは一歩、美咲へ近づく。
「貴女が自分を傷つければ、敵の標的が増える。貴女が狙われれば、私は貴女を守るために動かざるを得なくなる」
言葉が、一つずつ落ちてくる。
「結果として、全体の生存率が下がる」
美咲の肩が小さく震えた。
「でも、あの時は……」
「あの時だからよ」
アリスは即座に遮った。
「余裕がない時に出る判断ほど、その人の根に近い。貴女は、役に立つために自分を傷つけた」
美咲は唇を噛んだ。
違う、と言いたかった。
でも、言えなかった。
自分でも分かっていたから。
アリスを助けたかった。
役に立ちたかった。
そのためなら、自分が少しくらい傷ついてもいいと思った。
本当に、そう思ってしまった。
「貴女が傷つけば済む、という考え方は捨てなさい」
アリスの声が、少しだけ低くなった。
「それは優しさではないわ」
美咲の胸が痛んだ。
「……ごめんなさい」
「謝罪ではなく、理解が必要よ」
アリスは目を逸らさなかった。
「次に同じ判断をするなら、私は貴女と一緒には戦えない」
その言葉は、何よりも重かった。
美咲は顔を上げる。
「……はい」
声が震えた。
アリスはしばらく美咲を見ていた。
けれど、それ以上は何も言わなかった。
再び歩き出す。
美咲は、その少し後ろを歩いた。
右手が痛む。
胸の奥も痛む。
その痛みを抱えたまま、美咲は歩き続けた。
やがて、木々の向こうにリヴェラの正門が見えた。
いつもの街の灯り。
人の気配。
戻ってきたのだと、ようやく分かる。
その正門の前に、人影があった。
美咲は足を止めた。
見慣れたエプロン。
柔らかな栗色の髪。
けれど、いつもの微笑みはなかった。
マリアが、立っていた。
マリアは、二人の姿を認めると、静かに顔を向けた。




