第47話 記憶の声
アリスは跳ねるように本体から距離を取った。
触手がアリスを追う。
十分に引きつけたところで、アリスは一瞬だけ足を止めた。
向かってくる、二本の触手を見据える。
一本目は、正面から。
二本目は、床から。
アリスはそれをかわし、さらに距離を取る。
執拗に触手がアリスを追いかける。
美咲は、視線だけを走らせた。
何か、何か触手の気を逸らす方法。
黒い本体は、口を閉ざし佇んでいる。
床には、黒いものから飛び散った青黒い液体が広がっていた。
美咲は腰のポーチに手を入れた。
指先に触れたのは、小型のナイフ。
そして、楓からもらった包み。
本当は、食べるためのものだった。
支援の勉強にと、渡してくれたもの。
それを、こんなことに使っていいのか。
迷いは、一瞬だけだった。
美咲はナイフの刃を、自分の手のひらに押し当てた。
痛み。
熱。
赤い線が、掌に走る。
血が滲んだ。
それでいい。
血に反応するなら。
一瞬でも、こちらへ向くなら。
アリスを追う触手が、一瞬でも逸れるなら。
ごめんなさい。
美咲は楓の包みに掌を押し当てた。
白い包みに、赤が滲んでいく。
「アリスさん、左へ!」
叫びながら、美咲は包みを投げた。
血の滲んだ包みが、白い床の上を滑る。
アリスを追っていた二本の触手が、同時に揺れた。
ほんのわずか。
けれど、確かに軌道が変わる。
触手の先端が割れ、口のように開いた。
包みへ向かう。
食いつく。
くちゃ。
濡れた音が、部屋に響いた。
「逸れた……!」
その隙に、アリスが触手の軌道から外れる。
アリスが美咲のいる側へ切り返す一瞬、その視線が美咲の手を捉えた。
床へ落ちる、小さな赤い点。
「美咲。手を握りなさい」
「でも」
「今すぐ」
短い命令。
それ以上の言葉はなかった。
美咲は反射的に、血の滲む手を握り込んだ。
血のついた包みへ触手が食いついた瞬間、黒いものの中央にある大きな口が開いていた。
捕食のために。
反射のように。
隠れていた内側が、一拍だけ露出する。
奥で、赤黒い何かが鈍く脈打っていた。
「中央、開いてます!」
美咲の声に、アリスの銃口が上がった。
黒い拳銃が鳴る。
一発。
二発。
三発。
弾丸が、開いた大口の奥へ吸い込まれた。
黒いものの身体が、大きく震える。
くちゃ、という音が途切れた。
床に広がる青黒い液体が、波紋のように揺れる。
倒れない。
弱ったようにも見えない。
ただ、食べる動きだけが止まった。
「効いた……?」
「違うわ」
アリスは拳銃を下ろさない。
「捕食動作が止まっただけ」
その直後だった。
開いた口の奥から、何かがこぼれ落ちた。
黒い。
人の形に似た何か。
腕のようなもの。
脚のようなもの。
顔のあるはずの場所には、穴のような影だけがある。
それが床に落ち、べちゃりと音を立てた。
それと同時に、腐った食べ物を蒸したような、不快な匂いが美咲の鼻をつく。
「うっ……」
美咲は咄嗟に片腕で口元を覆う。
「……関わらなきゃ……」
声。
声とも言えない、潰れた音。
「……ちが……私は……」
美咲の背筋が凍った。
その声を、知っていた。
さっきまで、この部屋で震えていた女の声。
自分に向けられた言葉。
「……可哀想……厄介事……」
メイの言葉だった。
喉の奥が詰まる。
あれは、メイなのか。
それとも、メイだったものなのか。
「……悪趣味なものを、作るのね」
アリスは、迷わず引き金を引いた。
人型の頭にあたる部分が弾け飛ぶ。
黒い肉片が、白い床へ散った。
それは悲鳴を上げなかった。
ただ、形を保てなくなったように、ぐずりと崩れた。
アリスの銃口はまだ黒いものを狙い続けていた。
残った触手が震えた。
床に転がっていた、切断された触手の残骸が、青黒い液体を吸い上げるように震えていた。
本体へ戻ろうとしている。
再生しようとしている。
美咲は傷にも構わず両手でSMGを構えた。
手のひらが痛い。
血が滲む。
それでも、銃口だけは下げなかった。
倒そうとしない。
止める。
逸らす。
今度は──
潰す。
美咲は残った弾を、床へ叩き込んだ。
短い銃声が連続する。
触手の残骸が弾け、青黒い液体が白い床へ飛び散った。
黒いものが、一歩退く。
さらに一歩。
奥の暗がりへ、沈むように下がっていく。
美咲は、奥へ消えていく黒い影を見た。
追うのか。
そう尋ねる前に、アリスが短く言った。
「追わない」
「目的は討伐ではないわ」
黒いものは、まだこちらを見ていた。
弱っているようには見えない。
倒されたわけでもない。
ただ、今この場で食べ続ける条件が崩れた。
そんなふうに見えた。
切断された触手の一本が、最後に美咲の方へ向きかける。
アリスの銃口が、それより先に動いた。
乾いた銃声。
触手の先端が弾ける。
「下がりなさい」
命令だけが飛ぶ。
美咲は息を詰め、血の滲む手でSMGのグリップを握り直した。
黒い影が、奥へ引いていく。
くちゃ。
遠くで、まだ音がした。
けれど、この部屋からは消えた。
数秒。
二人は動かなかった。
討伐ログは出ない。
勝利表示もない。
ただ、目の前から消えただけ。
アリスは拳銃を構えたまま、短く言った。
「撃退」
美咲は震える息を吐く。
アリスは奥の闇から目を逸らさない。
「今だけよ。回収に移るわ」




