第46話 血
黒い触手が、床を削って跳ねた。
美咲は、考えるより先に引き金を引いていた。
短く、ばらけた銃声。
何かを狙ったわけではない。
触手の進路に、弾を置いた。
アリスの言葉が頭の奥で響く。
倒そうとしない。
止める。
逸らす。
弾幕に触れた触手の先端が、わずかに軌道を変える。
アリスの横を抜けるはずだった黒い触手が、床に叩きつけられた。
その一瞬に、アリスの拳銃が火を噴く。
乾いた銃声。
触手の付け根に弾丸が吸い込まれ、青黒い液体が飛び散る。
黒いものの身体が小さく揺れた。
けれど、倒れない。
うずくまっていた身体を起こし、こちらへ向き直った。
見られた。
そう思った瞬間、美咲の背筋に冷たいものが走った。
頭のない、肥大した黒い肉の塊。
その中央には、赤黒い液体がこびりついている。
黒い影の大きな口が、ゆっくり開いた。
くちゃ。
くちゃ。
さっきまで何かを噛み砕いていた音が、今度は喉の奥で反響する。
「右」
アリスの声。
美咲は反射的に銃口を振った。
右の床を這っていた触手が、壁を蹴るように跳ねる。
美咲が撃つ。
弾は直撃しない。
けれど、触手は弾幕を避けるように、わずかに速度を落とした。
その隙に、アリスが半歩だけ位置を変えた。
黒い拳銃が、また鳴る。
一本、二本と、伸びてきた触手の動きが止まる。
見えている触手なら、アリスは読めている。
美咲にもそれが分かった。
アリスの動きは、怖いほど静かだった。
無駄がない。
触手の起点を見る。
音を聞く。
美咲が作った隙に、必要な一発だけを差し込む。
けれど、触手は引かない。
弾が当たっても、液体を吹き出しても、何度も二人に向かってきた。
床に転がっていた切断された触手が、びくりと震える。
「美咲、足元」
「はい!」
美咲は床へ銃口を向けた。
蠢いた触手の残骸が、まるで生きているみたいに跳ねる。
撃つ。
散った青黒い液体が、白い床にべたりと広がった。
「本体から切り離されても、完全には死んでいない……?」
アリスが小さく呟く。
その声には、焦りではなく、理解の速度があった。
「近づきすぎないで。残骸も攻撃判定を持っている可能性があるわ」
「は、はい」
美咲は頷く。
でも、足は震えていた。
刹那のブーツが見える。
黒いものの足元。
床を濡らす青い液体の向こう。
見覚えのあるブーツと、腰から下だけが、そこに残っている。
呼吸が止まりそうになった。
視界が狭くなる。
見てはいけない。
でも、見てしまう。
「美咲」
アリスの声が低く落ちた。
「今は、あれにだけ集中しなさい」
その言葉で、美咲は息を吸った。
見る。
でも、飲まれない。
アリスが一歩進む。
それだけで、黒いものの反応が変わった。
残った二本の触手が、同時に動いた。
一本は天井近くへ。
もう一本は床を這い、アリスの足元へ。
上と下。
「上!」
美咲は叫びながら銃口を上げた。
天井を走る触手の進路に、弾を置く。
当たった。
けれど、止まらない。
触手は軌道を変え、壁へ叩きつけられるように逸れた。
その瞬間、アリスは下を見ていた。
床を這う触手が跳ねる。
アリスは半歩だけ身を引き、黒い拳銃を下へ向けた。
乾いた銃声。
下の触手が弾かれる。
次の瞬間。
さっき壁へ逸れたはずの触手が、壁面を蹴るように曲がった。
上からではない。
横から。
美咲の弾で逸れた軌道を、そのまま別の角度に変えて、アリスへ戻ってきた。
「戻ってきます!」
アリスの身体が流れる。
避けた。
けれど、完全ではなかった。
黒い触手の先端が、アリスの腕をかすめる。
白い袖が裂け、赤い線が細く走る。
「アリスさん!」
「止まらないで」
アリスの声は変わらない。
アリスの腕から落ちた赤い滴が、床に触れた。
その瞬間、黒いものの動きが変わった。
二本の触手が、アリスへ向く。
「……損傷反応」
アリスが低く呟いた。
「血、いえ、損傷した対象に寄っている」
美咲の中で、何かが繋がった。
メイの腕。
裂けた袖口。
赤黒い液体。
それに触れた刹那。
だから──
「アリスさん、血に反応してます!」
叫んだ瞬間、その動きが確信に変わった。
迷いがない。
傷ついたものを、食べようとしている。
美咲はSMGを構え直した。
止める。
逸らす。
でも、足りない。
このままでは、アリスまで持っていかれる。




