第45話 エンゲージ
背後から電子音が聞こえてきた。
隔壁が、下りていく。
美咲は反射的に振り返りかけて、それをこらえた。
さっきまでなら、この音だけで足がすくんだかもしれない。
けれど、今は自分でここへ戻ってきた。
美咲は、小さく深呼吸をすると前を向いた。
アリスは、気にした様子もなく歩き始めた。
その後ろを、美咲が追いかけた。
二人は無言のまま歩き続ける。
白い壁と床。
油痕。
開いたドア。
刹那と歩いた時と、何一つ変わっていなかった。
静寂の中で、足音が反響した。
その静寂は、ただ音がないだけではなかった。
奥で、何かが次の獲物を待っている。
美咲には、そう思えた。
自分の意思で戻ると決めた。
それでも、不気味なほど静かなこの空間が、美咲の決意を赤黒く塗りつぶしていく。
「……未観測のエネミー」
唐突にアリスが声を漏らした。
美咲が顔を向けると、隣を歩くアリスが、何かを考えるように視線を落としていた。
「……六本の触手……刹那が一本落としている」
「二本……いえ、三本までなら……そもそも、本体の目的は……」
聞こえてくるのは、断片的な言葉。
なのに、その声を聞くだけで、美咲の中に少しだけ輪郭が戻ってくる。
美咲は手元の武器を強く握りしめると、前を向いて歩みを進めた。
しばらく歩いていると、視界の先にあの扉が見えてきた。
この通路の最深部。
あの黒いものがいる部屋の扉。
美咲の足がぴたりと止まった。
足を動かそうとすると、鼓動が早くなる。
扉まで、まだ距離はある。
なのに、足の裏が床に縫い付けられたみたいに動かなかった。
「美咲」
アリスの声に美咲が顔を上げた。
「ご、ごめんなさい」
美咲は反射的に謝った。
戻りたいと言ったのは、自分だ。
一緒に行かせてほしいと言ったのも、自分だ。
それなのに、扉が見えただけで足が止まった。
情けなさで、胸の奥が冷たくなる。
「謝罪は不要よ」
アリスの声は、静かだった。
アリスは美咲の足元に視線を向けた。
膝が震えている。
自分でも分かるほど、足に力が入っていなかった。
「怖いのね」
美咲は答えられなかった。
喉の奥が詰まる。
大丈夫です、と言いたかった。
けれど、口を開けば、その言葉ごと崩れてしまいそうだった。
「克服しなくていいわ」
思わず、美咲はアリスを見る。
アリスはいつもと変わらない表情で、扉の方へ視線を向けていた。
「今ここで恐怖を消せとは言わない。そんなものを簡単に消せるなら、最初から問題にはならないもの」
「でも、私……」
「怖いままでいい」
アリスの言葉が、美咲の声を遮った。
冷たい言葉ではなかった。
けれど、甘い言葉でもなかった。
「必要なのは、怖くなくなることではないわ」
アリスが一歩、美咲の前に出る。
「怖いまま、次に何をするか決めることよ」
美咲は唇を噛む。
扉はまだ先にある。
けれど、遠いはずのその扉から、見えない触手が伸びてきているような気がした。
黒いもの。
割れた口。
引きずられていくメイ。
刹那の声。
足元から、全部が這い上がってくる。
「まず、呼吸を整えなさい」
アリスが静かに言った。
「扉を見る必要はないわ。私の声を聞きなさい」
美咲は小さく頷いた。
吸う。
吐く。
うまくできない。
それでも、もう一度。
吸う。
吐く。
少しだけ、胸の奥に空気が戻る。
「次に、手元を確認」
美咲は言われるまま、自分の武器を見た。
SMG。
震える手の中で、見慣れた黒い銃がかすかに揺れた。
「弾数」
「……残っています」
「予備マガジン」
「あります」
「セーフティ」
「解除できます」
「なら、貴女はまだ動ける」
美咲は息を呑んだ。
大丈夫とは言われなかった。
怖くないとも言われなかった。
それでも、アリスの言葉はひとつずつ、美咲の中に散らばっていたものを拾い集めていく。
「貴女に必要なのは、勇気ではないわ」
アリスは扉へ向き直る。
「役割よ」
「役割……」
「そう。だから確認する」
アリスは歩き出した。
今度は、少しだけゆっくりと。
美咲も、その後ろを追う。
一歩。
足は重い。
二歩。
まだ、怖い。
三歩。
それでも、止まらなかった。
扉の前まで来ると、アリスは足を止めた。
白い扉。
その向こうに、あの部屋がある。
美咲の喉が小さく鳴る。
アリスは背負っていた白い長銃を外すと、壁際へ静かに置いた。
美咲は思わず目を見開く。
「アリスさん……それ、置いていくんですか」
「ここから先では使えないわ」
アリスは腰のホルスターに手を伸ばす。
抜かれたのは、マットブラックの拳銃だった。
装飾も、光もない。
ただ近距離で撃つためだけの、無骨な黒。
「距離が取れない。相手の速度も、攻撃範囲も不明。初動で構え直す余裕がない以上、長銃は邪魔になる」
アリスは淡々と言いながら、マガジンを抜いた。
弾を確認し、戻す。
「触手は六本。観測できた範囲では、刹那が一本落としている」
アリスは黒い拳銃のチャンバーを確認しながら言った。
「ただし、再生能力の有無は不明。残存数は、良くて五本。最悪、六本と見るべきね」
「六本……」
アリスの視線が、美咲のバッグへ向く。
「それも置いていきなさい」
「え……でも」
美咲は反射的にバッグの肩紐を握った。
中には、スモークグレネードも、スタングレネードも入っている。
何かあった時のために持ってきたものだ。
何かできるかもしれないと思って、入れてきたものだった。
「効くかどうか分からないものに頼るより、動ける状態を優先する」
アリスは美咲の迷いを見透かしたように続けた。
「揺れれば反応が遅れる。触手に掴まれる面も増える。狭い室内では、引っかかる可能性もあるわ」
「でも、スモークなら……」
「煙で相手の動きが鈍る保証はない。こちらの視界だけを奪う可能性もある」
美咲は何も言えなかった。
アリスの言葉は正しい。
正しいのに、バッグを置くことが、ひどく心細かった。
「使えるかもしれないものを持つのではなく、使うと決めたものだけ持ちなさい」
美咲はバッグを下ろした。
腰のポーチへ、予備マガジンと小さな回復アイテム、楓から貰った携帯食の包みだけを移す。
スモークグレネード。
スタングレネード。
それらはバッグの中に残した。
何かを置いていくたびに、自分の守りが削られていくような気がした。
それでも、美咲はバッグから手を離す。
「貴女の武器は、そのままでいいわ」
アリスの視線が、美咲のSMGへ向いた。
「短い。取り回しが利く。面で押せる分、触手の接近を止めるには向いている」
「止める……」
「倒そうとしないで」
アリスの声が、少しだけ鋭くなる。
「触手が伸びたら、進路に弾を置く。逸らせれば成功。止まれば十分。撃破を狙えば、判断が遅れる」
美咲はSMGを握り直した。
倒すためではない。
助けるためでも、ない。
まず、近づけさせない。
アリスが動くための隙を作る。
そのために撃つ。
「目的は討伐ではないわ」
アリスは黒い拳銃を握り直し、扉を見据えた。
「刹那の装備、アイテム、保存ログの回収。そして撤退」
美咲は小さく頷く。
「決まった手順は組めない。相手の速度も、攻撃範囲も、行動原理も未知数よ」
アリスの声が、白い廊下に静かに落ちる。
「必要なのは、反応。反射。そして、即興の連携」
「即興の……連携」
「私が撃つ。貴女は近づくものを止める。私が動いたら合わせなさい」
アリスはそこで一度、美咲を見る。
「それから、私を助けようとしないこと」
美咲の指が、ぴくりと動いた。
「それは……」
「助けようとして手を伸ばせば、二人とも持っていかれる」
アリスの声は冷たかった。
けれど、美咲には分かった。
これは突き放す言葉ではない。
連れていくための条件だ。
「私を助けるのではなく、私の隙を埋めなさい」
美咲は、ゆっくり息を吸った。
声は震えていた。
それでも、言葉は途切れなかった。
「……倒そうとしません」
美咲はSMGを胸の前で構える。
「近づいてくるものを、止めます。逸らします」
一度、扉を見る。
まだ怖い。
体の奥が冷たい。
でも、今度は目を逸らさなかった。
「見えたものは、すぐに伝えます」
アリスは短く頷く。
「十分よ」
その言葉に、美咲の胸が小さく震えた。
認められたわけではない。
けれど、今の自分にできることは、確かにそこにあった。
その時、扉の向こうからかすかな音が聞こえた。
くちゃ。
くちゃ。
美咲の指先が冷たくなる。
それでも、手は離さなかった。
アリスが扉へ手を伸ばす。
「行くわ」
白い扉が、低い音を立てて開き始めた。
隙間から、鉄の臭いと、濡れたような甘い臭気が流れ込んでくる。
床を濡らす青黒い液体。
切断された触手。
壁と床に刻まれた斬撃痕。
アリスの視線が、床に転がる触手の残骸を数えた。
一本。
二本。
三本。
四本。
美咲が見た一本とは別に、さらに三本。
アリスは、ほんのわずかに目を細めた。
「……流石ね」
その声は、小さかった。
誰に向けた言葉なのか、美咲にはすぐに分かった。
だが、奥の黒い影はまだ動いている。
傷ついているはずなのに、弱っているようには見えなかった。
むしろ、何かを食べるたびに、失ったものを埋めているように見えた。
アリスが一歩踏み出すと、奥の黒い影がゆっくりと顔を上げた。
くちゃ。
音が止まる。
床に散らばる触手の残骸が、びくりと震えた。
黒い影の背から、残った二本の触手がぬるりと持ち上がる。
アリスは拳銃を構えた。
「美咲」
美咲がSMGを握り直す。
アリスは触手から目を逸らさず、静かに口を開いた。
「エンゲージ」




