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第44話 どうしたいの

 アリスに言われた通りに、美咲は白い建物から少し離れた茂みの陰に身を隠していた。


 建物の入口は、ここからでも見える。


 白い壁。


 閉じた扉。


 その先に続いているはずの、長い廊下。


 さっきまで、自分が走ってきた場所。


 美咲は足元にバッグを下ろし、力が抜けるようにしゃがみ込んだ。


 そして、膝を抱える。


 指先も、膝も、まだ震えている。


 逃げてきたからだ。


 そう思おうとして、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 違う。


 逃げてきたからじゃない。


 逃げてしまったからだ。


 視線が足元のバッグに向く。


 半分ほど開いた口から、応急キットとスモークグレネードが覗いていた。


 自分でも、ちゃんと使えるようになりたいと思って、選んで入れたもの。


 誰かを助けるために、使われるはずだったもの。


 なのに、美咲はそれを取り出しもしなかった。


 美咲は手のひらに視線を移した。


 メイの手を握っていた。


 握っていたはずだった。


 けれど、黒い触手が伸びてきて。


 悲鳴が途中で途切れて。


 手の中から、あの人の温度が消えた。


 離したつもりはなかった。


 でも、離れた。


 目を伏せ、胸の前で手を強く握る。


 耳の奥で、刹那の声が何度も繰り返される。


 足手まといは邪魔だ。


 あの声は、怒っていた。


 突き放すための声だった。


 分かっている。


 分かっていたはずなのに。


 美咲は逃げた。


 刹那は残った。


 そして、死亡通知。


 何度思い返しても、その事実は変わらなかった。


 風が茂みを揺らしていた。


 葉の擦れる音が、やけにはっきり聞こえる。


 土の匂いも、遠くで鳴く鳥の声も、ここが外なのだと教えてくる。


 けれど、美咲の手のひらだけは、まだあの部屋に残っていた。


 手の感触。


 鼻の奥にこびりついた臭い。


 刹那の声。


 どれも、終わってはくれなかった。


 美咲は震える指で端末を開いた。


 半透明の画面が、淡く光る。


 アイテム。


 ログ。


 フレンド。


 マップ。


 その端に、見慣れた文字があった。


 ログアウト。


 指先が、自然とそこに向かう。


 押せば、戻れる。


 この匂いも、白い建物も、黒い口も、見なくて済む。


 布団の上で目を開けて、これはゲームだったのだと、夢だったのだと思えばいい。


 そうすれば、きっと。


 きっと、何もできなかった自分を、いつかは忘れられる。


 指先が、ボタンの手前で止まった。


 自分だけ、逃げるのか。


 また、自分だけ。


「美咲」


 声がした。


 美咲はびくりと肩を跳ね上げた。


 反射的に端末を閉じると、胸元へ押し込む。


 まるで、見られてはいけないものを隠すように。


 顔を上げると、茂みの向こうにアリスが立っていた。


 白と青の衣装は、普段通り整っている。


 背筋も、声色も、何も変わらない。


 けれども、その目だけは違っていた気がした。


 冷たいわけでもない。


 怒っているのでもない。


 ただ、何かを押し殺しているように見えた。


 アリスの視線が、一瞬だけ美咲の手元に向いた。


 けれど、何も言わなかった。


「怪我は」


 短く問われた。


 美咲は口を開くが、言葉が出ない。


 代わりに、少し遅れて首を横に振った。


「話せるかしら?」


 美咲は俯き、沈黙する。


 まただ、また迷惑をかけている。


「ゆっくりでいいわ。状況を説明して」


 その声は、いつものアリスだった。


 冷静で。


 無駄がなくて。


 透き通った声。


 美咲はそれに縋るように、言葉を絞り出した。


 メイがいたこと。

 奥に黒い何かがいたこと。

 触手の先が口のように割れていたこと。

 メイが連れていかれたこと。

 刹那がカードキーを取ったこと。

 自分に渡して、逃げろと言ったこと。


 一人だけで、逃げたこと。


 うまく話せたかは分からない。


 途中で何度も言葉が途切れた。

 同じことを繰り返したかもしれない。

 順番も、きっとおかしかった。


 それでもアリスは遮らなかった。


 最後まで聞いてから、ほんの少しだけ目を伏せる。


「ログを見せて」


 美咲は一瞬だけ戸惑い、それから端末を操作する。


 震える指先で、直前の行動ログを開いた。


 アリスは画面に視線を落とす。


 黒い未登録個体。


 非常退出用カードキーの受領。


 SETSUNAの損傷確認。


 美咲の退避。


 そして、死亡通知。


 アリスの表情は変わらない。


 ただ、端末を持つ指先だけが、わずかに強くなった。


「……分かったわ」


 その一言で、美咲の中の何かが崩れそうになった。


 分かってほしくなかった。


 でも、分かってほしかった。


 責めてほしくはなかった。


 でも、責められないことが怖かった。


 美咲は服の裾を握り締めたまま、口を開いた。


「私は……!」


 声が震える。


「……私は、どうすればいいですか」


 言ってから、自分でもその言葉に息が詰まった。


 また、聞いている。


 自分で決められないまま。


 誰かに、正しい答えを求めている。


 アリスはすぐに答えた。


「ここにいなさい」


 迷いのない声。


「私が中に入る。貴女はここで待機。何か異常があれば、一人で逃げなさい」


 アリスはそう言うと、背を向けた。


 それは正しい判断だった。


 美咲にも分かる。


 自分が行っても、邪魔になる。


 また足手まといになる。


 また誰かを危険に晒す。


 だから、頷けばいい。


 はい、と言えばいい。


 そうすれば、きっと。


 ──ちゃんと言うことを聞きなさい。


 不意に、遠い声が耳の奥で響いた。


 大人の言う通りにしてればいい。


 余計なことはしなくていい。


 お前のために言ってるんだから。


 お前は、言われた通りにしていればいい。


 美咲の喉が固まった。


 また私は、自分で決めないまま──


「……嫌です」


 小さな声だった。


 けれど、その言葉は確かに口から出た。


 アリスが、振り返る。


「……美咲」


「嫌、です」


 もう一度、言う。


 膝が震えていた。

 手も震えていた。

 アリスを見るのが怖かった。


 それでも、美咲は顔を上げた。


「私は、ここにいたくありません」


 アリスは黙っていた。


 その沈黙が怖くて、美咲は息を吸う。


「分かっています。私が行っても、きっと邪魔になります。戦えないし、また足を引っ張るかもしれません」


 言葉にすると、胸が痛かった。


 でも、止められなかった。


「でも、私……また、誰かに言われた通りにして、それで終わりにしたくないんです」


 アリスの瞳が、わずかに細くなった。


 怒ったのかと思った。


 けれど違った。


 アリスは責めなかった。


 慰めもしなかった。


 ただ、静かに問いかけた。


「なら、私も貴女に聞きたい」


 美咲は息を止める。


 アリスの声は、いつもと同じように静かだった。


「美咲。貴女はどうしたいの?」


 その瞬間、音が消えた気がした。


 ただ、問われただけなのに。


 どうしたいのかと。


 どうすればいいかではなく。


 誰の言葉を聞けばいいのかでもなく。


 自分が、どうしたいのか。


 美咲は唇を噛んだ。


 泣きそうだった。


 逃げ出したかった。


 全部投げ出して、誰かの指示に従っていたかった。


 でも。


 それでは、また同じだ。


「……戻りたい、です」


 声は掠れていた。


「役に立つかは、分かりません。戦えるかも、分かりません」


「でも、私はあの場所を見ました。道も、カードキーも、あれが何をしたのかも、私が知っています」


 メイの手。

 刹那の声。

 黒い口。


 思い出すだけで、胃の奥がひっくり返りそうになる。


 それでも、目を逸らしてはいけないと思った。


「だから……私が、サポートします」


 アリスは答えない。


 美咲はバッグを掴み、震える足で立ち上がった。


「私も、一緒に行かせてください」


 アリスは小さく息を吐いた。


「感情で戻るなら、連れていけないわ」


 その言葉は、冷たく、まっすぐだった。


 でも、ここで逃げたら、もう二度と戻れない。


 美咲はアリスから視線を逸らさないまま、答えた。


「足手まといでも、何かできることがあるはずです」


 アリスは無言で美咲を見つめていた。


 そして、静かに口を開く。


「……非合理的ね」


 そう言って、アリスは背を向けた。


 やっぱり、私なんかじゃ──。


 美咲が俯きかけた時、アリスが足を止める。


「何をしているの」


「……え」


「行くのでしょう。歩きなさい」


 アリスの声は冷たい。


 認められたわけでも、頼られてるわけでもない。


 それでも、美咲の胸が熱くなった。


「は、はい!」


 美咲は返事をすると、アリスの背中を追った。


 誰かに言われたからじゃない。


 今度は、自分の意思で。

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