第42話 手を離したわけじゃないのに
白い扉は、何の抵抗もなく開いた。
刹那は、まず音を聞いた。
くちゃ、くちゃ。
湿ったものを噛むような不快な音。
それが、白い部屋の奥から聞こえていた。
「……美咲、離れるな。私の後ろにいろ」
刹那が低く言う。
返事はない。
代わりに、美咲が息を呑む音がした。
刹那は、音の方へ視線を向けた。
部屋の奥に、黒い何かがうずくまっている。
それは背を丸めるようにして、床に落ちた何かへ、身体を沈めていた。
くちゃ、くちゃ。
何をしているのかは、考えたくなかった。
だが、少なくとも今すぐこちらへ飛びかかってくる気配はない。
刹那は視線を手前へ戻した。
部屋の床に、誰かが座り込んでいた。
壁に背を預け、両腕を抱きしめるようにして震えている。
顔は真っ青で、唇だけが何かを繰り返していた。
「ちが……違う。ベンが……私、止めたのに……」
「後ろに……いたのに……」
「開けなきゃ……でも、カード……」
その声は、ほとんど言葉になっていなかった。
美咲が、弾かれたように走り出した。
「大丈夫ですか!」
「待て、美咲」
刹那の声が飛ぶ。
だが、美咲の足は止まらなかった。
刹那の視線は一度黒い何かに向いた。
動かない。
そして、美咲の背中に視線を戻した。
三歩以上離れるな。
勝手に触るな。
私の指示が最優先。
さっき言った約束を、三つとも破っている。
刹那は舌打ちしかけた。
だが、今それを責めている時間はない。
美咲は座り込んだ女の前に膝をつき、肩へ手を伸ばした。
「大丈夫です。聞こえますか?」
その瞬間、女の肩が跳ねた。
「触らないで!」
叫び声。
美咲の手が止まる。
「メイ、さん……」
その名前に、刹那が眉を寄せる。
美咲を騙し、正門前で泣き真似をしていた女の名前。
メイがゆっくりと顔を上げ、焦点の合っていなかった目が、美咲を捉えた。
次の瞬間、メイの顔から血の気が引いた。
「み、さき……」
喉が引きつったような声。
それから、メイは美咲から逃げるように身をよじった。
「ち、違うの。私は、私は悪くない。ベンに無理やり……! 私は嫌だって言ったのに、あいつが、あいつが」
刹那は、その反応で理解した。
こいつは、美咲が助けに来たとは思っていない。
報復に来たと思っている。
だが今は、そんな話をしている場合じゃない。
「美咲、そいつの腕を見ろ。デバフと被弾の確認だ」
「は、はい。メイさん、腕を……」
「いや!」
メイは腕を抱え込み、美咲の手を振り払おうとした。
「やめて、触らないで! ごめんなさい、違うの、私は……!」
刹那はしゃがみ込み、メイの腕を掴んだ。
裂けた袖口が目に入る。
浅い傷。
指先に、赤い液体がぬるりと付いた。
「悪いが、時間がない」
「いやっ、離して!」
「暴れるな。状態を見るだけだ」
「離して、離して!」
メイは必死に腕を振りほどこうとした。
だが、刹那の手は動かない。
腕のバイタルデバイスが揺れ、画面が点灯する。
総合状態は〈注意〉。
心拍は異常上昇。
呼吸は乱れ。
意識は正常。
部位損傷は軽度。
デバフ表示は、なし。
刹那は表示を一瞥した。
「デバフじゃない。被弾も浅い。動けるな」
「わ、私は……」
「答えろ」
刹那はメイの腕を離さないまま、怯えきった目を見据えた。
「カードキーはどこだ」
メイは答えなかった。
唇が震えている。
目だけが、美咲と刹那の間を行き来していた。
「聞こえなかったか。カードキーはどこだ」
「し、知らない……」
「嘘をつくな」
刹那の声が一段低くなる。
「出口を開けるカードキーだ。どこにある」
メイは美咲を見つめ、小さく、けれどはっきりと呟いた。
「あいつに……関わるんじゃなかった」
その言葉に、美咲はほんの少しだけ唇を噛んだ。
「私たちは、助けに来たんです」
静かな声だった。
「だから、教えてください。ここから一緒に出ましょう」
メイの顔が歪む。
何か言おうとして、言葉にならない。
その間にも、奥から音は続いている。
くちゃ、くちゃ。
くちゃ、くちゃ。
「黙ってると、お前も死ぬぞ」
その言葉に、メイの肩が大きく跳ねた。
震える指が、ゆっくりと奥を指す。
「……あ、そこ」
声にならない声。
「それの……足元……」
刹那はもう一度、黒いものを見る。
部屋の奥。
床に広がる赤黒い液体。
倒れた端末。
転がった銃。
そして、そのすぐそばに、小さなカードキーが落ちている。
黒いものの足元に。
くちゃ、くちゃ。
黒いものは、まだ何かを食べていた。
刹那の背筋に冷たいものが走る。
美咲が息を止めたのが分かった。
「……ベン、は」
メイの声がかすれる。
その先は、続かなかった。
黒いものの背中が、ゆっくりと揺れる。
そこから伸びているのは、腕ではなかった。
六本。
床を這うもの。
壁に張りつくもの。
天井近くで揺れるもの。
触手だった。
どれもが何かを探すように、ゆっくりと揺れていた。
その先端が、ぱっくりと割れる。
口だ。
歯のようなものが、びっしりと内側で細かく震えていた。
刹那は小さく息を吐き、ナイフを握り直した。
「美咲、そいつを連れて入口まで下がれ」
「でも、カードキーが」
「私が取る」
美咲が何か言いかける。
刹那は振り返らなかった。
「走る準備だけしてろ」
刹那は踏み出した。
一歩。
黒い触手の先が、わずかに揺れる。
二歩。
床に落ちたカードキーまでの距離を測る。
刹那はゆっくりとカードキーまで歩み寄る。
もう少し。
あと数歩。
刹那は身を低くし、指先でカードキーを拾い上げた。
その瞬間。
黒い影が、視界の端で跳ねた。
刹那へではない。
後ろだ。
「美咲!」
叫ぶより早く、刹那は反転した。
一本の触手が、床を滑るように美咲とメイへ向かっている。
速い。
見ていなければ、反応できない。
美咲がメイの手を取って立たせようとしていた。
メイはまだ震えている。
逃げる準備など、できていない。
刹那は咄嗟に踏み込む。
間に合え──
その瞬間、別の触手が刹那めがけて伸びてきた。
刹那の脇腹を、黒い先端が抉る。
「ぐ……っ」
声になりきらない息が漏れる。
熱い。
痛みより先に、足が少し鈍る。
だが、止まれない。
刹那は床を蹴ると同時に、叫んだ。
「美咲、引け!」
刹那の叫び声に、美咲はメイの腕を掴んだまま顔を向けた。
その手が、不意に軽くなった。
メイの身体が、後ろへ引かれる。
「え」
美咲の声。
触手の先端にある口が、メイの上半身を飲み込んでいた。
メイの足が床を掻く。
爪先が白い床を擦る。
「いや、いやぁ! たす──」
こもった声は、途中で潰れた。
黒い触手が、メイを奥へ引きずっていく。
美咲が震える手を触手に伸ばしかけた。
「メイさん!」
「触るな!」
別の触手が、美咲の後方から伸びてきていた。
美咲は気づいていない。
刹那は美咲と触手の間に滑り込む。
黒い口が開く。
美咲の肩へ届く寸前。
赤い光が走った。
触手が、床に落ちる。
それと同時に、刹那の膝が崩れた。
切り落とされた口がびくびくと跳ね、黒い巨体が、初めて動きを止めた。
怒ったのか。
痛がったのか。
それとも、ただ理解できなかったのか。
刹那には分からない。
ただ、その一瞬だけ、化け物の動きが止まった。
「刹那、さん……」
美咲は何が起きたのか分からないまま、刹那へ顔を向けた。
声は震え、息も荒い。
刹那は痛みを押し殺し、左手のカードキーを美咲の胸元へ押しつける。
「持て」
「メイさんが……」
「持て!」
美咲の手が、反射的にカードキーを握る。
その時、美咲の視線が刹那の脇腹へ落ちた。
赤い液体が、装備の隙間から流れている。
「刹那さん、傷が」
「見るな」
刹那は遮った。
「出口まで戻れ。カードキーを使え。外に出たら、アリスに連絡しろ」
「い、嫌です。刹那さんも一緒に」
「心配すんな、これはゲームだ」
「でも」
「美咲」
刹那は大きく深呼吸をすると、美咲を見た。
怖がらせたくはなかった。
泣かせたくもなかった。
でも、優しく言えば、この子は残る。
刹那は知っている。
美咲は、そういう人間だ。
だから、言葉を選ばなかった。
「……足手まといは、邪魔だって言ってんだよ」
美咲の顔が凍った。
刹那は目を逸らさない。
「グズグズすんな」
「走れ!」
美咲の唇が震える。
それでも、カードキーを握った手に力が入った。
「……っ」
美咲は背を向け、走り出す。
足音が遠ざかる。
扉の向こうへ。
白い通路へ。
ほんの少しだけ、息を吐く。
まだ助かったわけじゃない。
出口までは遠い。
それでも、美咲はこの部屋から出た。
今は、それでいい。
脇腹からはとめどなく血が流れ、視界がゆがみ始める。
感覚はほとんどない。
刹那は左腕のデバイスを横目で見る。
総合状態は〈危険〉。
心拍は異常上昇。
呼吸は乱れ。
意識は低下。
身体部位表示。
胴体。
濃い赤。
デバフ一覧には、重度出血と行動制限。
腰のポーチから白い錠剤を取り出し、口に放り入れた。
「……よし」
ナイフを握り直す。
視線を、黒いものへ戻した。
黒い巨体が、ゆっくりと立ち上がる。
触手の先端が、いっせいに刹那を向いた。
五つの口。
床で跳ねる、切り落とされた一つ。
そして、こちらに振り向くと、黒い胴の中央が、縦に裂けた。
そこにもまた、口があった。
触手のものより、ずっと大きい。
ただ食べるためだけに開いた、黒い穴。
刹那は笑う。
「来いよ、バケモン」
「残りカスで、腹の足しにもなんねぇかもしれないけどな」
返事の代わりに、その口が、大きく開いた。
くちゃ。




