第40話 胃袋
時間は、少しだけ戻る。
美咲と刹那が赤い油痕を見つける、少し前。
街の外れへ続く道を、メイとベンは歩いていた。
歩いていた、というより、言い合いをしながら足だけが勝手に進んでいた。
「だから、お前が余計なこと言うからだろ」
「はあ? 最初に声かけたのベンじゃん!」
「お前が泣き真似なんかするから、話がややこしくなったんだよ」
「言い負かされてたのは誰よ!」
メイは舌打ちするように言った。
「アリスなんかに関わるんじゃなかった」
ベンは言い返さなかった。
アリスに返り討ちにされてから、数日が経っている。
腕の痛みは、もうない。
治療も済ませた。
けれど、噂だけは治っていなかった。
女ふたりに叩きのめされた。
しかも相手は、あのアリス。
噂は面白おかしく形を変え、本人たちが一番聞きたくない形で広がっていた。
「くそ……どいつもこいつも、好き勝手言いやがって」
「だから、しばらく大人しくしてようって言ってるじゃん」
「大人しくしてたら、そのまま笑い者だろ」
「じゃあどうすんのよ」
「知らねえよ!」
ベンの声が、森の奥に吸い込まれていく。
街の喧騒は、いつの間にか遠くなっていた。
メイはそこでようやく足を止めた。
「……ねえ」
「なんだよ」
「ここ、どこ?」
ベンも遅れて周囲を見た。
舗装の割れた細い道。
左右に並ぶ枯れた木々。
崩れかけたフェンス。
その向こうに、灰色の建物が沈むように建っていた。
外壁にはひびが入り、窓のいくつかは割れている。
放棄された施設。
そう呼ぶのが、一番しっくりくる場所だった。
「……こんな場所、あったか?」
ベンは端末を開き、マップを表示した。
だが、画面には何も出てこなかった。
現在地を示すカーソルだけが、空白の上で小さく点滅している。
【未登録区域】
その表示を見た瞬間、メイの顔から血の気が引いた。
「戻ろう」
「待て」
ベンの声が変わった。
さっきまでの苛立ちとは違う。
もっと熱っぽい、嫌な声だった。
「未登録区域だぞ」
「だから危ないんでしょ」
「違う。ログがないってことだ」
ベンは端末を握り直した。
「誰も知らない場所。誰も取ってない情報。中に何かあれば、売れる」
「またそういうこと言う……」
「このまま笑われっぱなしでいいのかよ」
メイは口を閉じた。
その言葉は、嫌なところを突いていた。
いいわけがない。
あの視線も、笑い声も、このままずっと残るなんて。
けれど、目の前の建物は、それ以上に嫌だった。
フェンスの隙間の奥に、赤黒い油のようなものが細く伸びている。
乾ききってはいない。
まだ、濡れている。
「なに、これ」
「油だろ。機械系の」
ベンはそう言った。
けれど、声は少しだけ硬かった。
赤い痕は、建物の中へ続いている。
まるで、何かが這っていった跡のように。
「入口だけ見て、ログ取って、やばそうなら戻る」
「絶対戻る?」
「ああ」
返事は早かった。
早すぎた。
メイは眉を寄せ、俯いた。
フェンスの切れ目には、鍵がかかっていた。
「閉まってるじゃん。戻ろう」
「待てよ」
ベンは腰の銃を抜いた。
「ちょ、何してんの」
「開けるんだよ」
乾いた銃声が、森の奥に跳ねた。
錠前が弾け、足元に転がる。
メイは肩を震わせ、周囲を見回した。
「馬鹿じゃないの!? 音、響いたじゃん!」
「誰もいねえよ」
ベンは壊れた錠前を蹴り、フェンスを押し開けた。
「ほら、開いた」
「……それ、壊しただけじゃん」
「開けば同じだろ」
ベンはそう言うと、歩き始めた。
メイは一度だけ、来た道を振り返った。
建物の扉には鍵などは付いていなかった。
ベンが扉に手をかけると、錆びた金属が、重い音を立てて開いた。
「……え」
先に声を漏らしたのは、メイだった。
外観からは想像できないほどに、中は綺麗だった。
白い床。
白い壁。
等間隔に並ぶ照明。
天井には細い光のラインが走り、通路の奥までまっすぐ伸びている。
埃ひとつない。
まるで新築の研究施設だった。
「……なに、ここ」
メイの声が、妙に小さく響いた。
受付カウンター。
壁際に並ぶ端末。
奥へ続く通路。
すべてが整っているのに、人の気配だけがなかった。
その白さの上に、赤黒い線が一本だけ引かれている。
油のようで、血のようで。
照明を受けて、ぬらりと光っていた。
メイは一歩下がった。
「やっぱり戻ろう」
その瞬間、背後で低い電子音が鳴った。
白い壁の一部が滑るように動き、入口の内側に厚い隔壁が降りてくる。
音は静かだった。
けれど、その静けさがかえって嫌だった。
「……は?」
ベンが駆け寄り、隔壁に手を叩きつける。
反応はない。
すぐ横の認証端末だけが、青白く点灯していた。
【施設セキュリティ:ロック】
【退出には職員用カードキーが必要です】
「カードキー……?」
「そんなの、持ってるわけないじゃん」
メイは震える指で端末を操作し、メニューを開いた。
ログアウトを押そうとして、動きが止まる。
ボタンが、灰色になっていた。
【このエリアではログアウトできません】
【エリア外へ移動するか、施設ロックを解除してください】
「……なんで」
メイの声が裏返った。
「出られないのに、ログアウトもできないって、どういうこと……?」
ベンは答えず、周囲を見回した。
受付の横に、小さな扉がある。
扉の上には、青白い文字が浮かんでいた。
【SECURITY】
「……セキュリティルームだ」
「だから何よ」
「カードキーがあるかもしれない」
その言葉に、メイは反射的に顔を上げた。
ベンが押すと、扉はあっさり開いた。
中も、やはり綺麗だった。
机。
椅子。
監視端末。
壁に並ぶ小型ロッカー。
ベンはロッカーを開けていく。
三つ目で、透明なケースを見つけた。
中には一枚の白いカードが収められている。
【非常退出用カードキー】
「……これだ」
メイの声に、安堵が滲んだ。
「よかった。これで出られる」
ベンはケースを開け、カードキーを取り出した。
メイが手を伸ばした。
「貸して。すぐ出よう」
けれど、ベンはカードを渡さなかった。
「待て」
「何でよ」
「これで出られるんだろ」
「だから出るんでしょ!」
「違う。出口は確保したってことだ」
メイの顔が引きつった。
「まさか、まだ奥に行くつもり?」
「少しだけだ」
「またそれ?」
「ここ、普通じゃない」
ベンは監視端末を見た。
誰もいない白い通路。
赤黒い油痕。
灰色に沈んだログアウト表示。
「未登録区域で、ログアウト不可で、施設ロックまでかかる。こんな場所、絶対に何かある」
「だから危ないんでしょ」
「危ないから価値があるんだよ」
メイは言葉を失った。
ベンの目に、また熱が戻っていた。
恐怖ではない。
欲だった。
「ログだけ取る。やばそうならすぐ戻る」
「信用できない」
「じゃあここで待ってろ」
そう言われて、メイは黙った。
ひとりで待つ。
この白すぎる施設の中で。
ログアウトもできない場所で。
それは、奥へ進むのと同じくらい嫌だった。
「……最悪」
ベンはすでにセキュリティルームを出ていた。
端末を操作する。
【Observation Log:Recording】
表示された文字を見て、ベンの口元がわずかに緩んだ。
「これで、笑われっぱなしは終わりだ」
ふたりは、白い通路を進んだ。
赤黒い油痕を辿って。
照明は明るい。
壁も床も清潔なまま。
なのに、一歩進むたびに、空気だけが重くなっていく。
途中にある扉は、どれも開いていた。
研究室。
保管庫。
休憩室らしき小部屋。
中は整っている。
まるで、ついさっきまで誰かが使っていた場所から、人間だけを綺麗に取り除いたみたいだった。
その時、奥の通路から、かすかな音が聞こえた。
くちゃ。
メイの肩が跳ねる。
くちゃ、くちゃ。
湿った音。
何かを噛むような。
何かを潰すような。
生き物の音ではない。
けれど、機械の音にも聞こえなかった。
「……今の」
「録れてる」
「そういうことじゃないでしょ……」
音は、通路の奥から聞こえていた。
赤黒い油痕も、そこへ続いている。
「行くぞ」
「本気で言ってる?」
「カードキーはある。見て、戻るだけだ」
ベンは歩き出した。
メイはその背中を睨んだ。
けれど、置いていかれるのが怖くて、結局その後を追った。
通路の先に、大きな扉があった。
わずかに開いた隙間から、青白い光が漏れている。
ベンは息を殺し、扉を少し押し開けて中へ入った。
広い部屋だった。
白い壁。
白い床。
中央には、巨大な培養槽。
そのひとつが、割れている。
床一面に、赤黒い油が広がっていた。
壁には、何かが内側から叩きつけられたような痕が残っている。
そして、その奥に。
黒いものが、うずくまっていた。
くちゃ。
くちゃ。
それは、何かを食べていた。
ベンは息を忘れた。
メイは、声も出せずに後ずさる。
逃げようとした足が、床の油を踏んで小さく滑った。
その音に、黒いものの動きが止まる。
ベンは、それでも端末を向けていた。
最初に胸を満たしたのは、恐怖ではなかった。
欲だった。
欲に引かれるように、足が自然と前に出た。
「……ネームドだ」
小さく、声が漏れる。
「いや、違う。イベント個体か……?」
端末のログ欄に、文字化けのような表示が走る。
ベンは震える指で、それを保存しようとした。
「売れるぞ、これ」
その瞬間。
背後で、メイが小さく息を呑んだ。
「べ、ベン……」
「なんだよ。静かにしろ」
「ま、前……」
ベンは苛立ったまま顔を上げた。
次の瞬間。
視界が、黒に塗りつぶされた。




