第33話 死なない理由
ホログラムに浮かぶログを前に、美咲はまだ言葉を失っていた。
観測されたものだけが、記録される。
観測されなかったものは、欠ける。
その事実だけでも十分重かった。
けれど、アリスの講義はまだ終わっていなかった。
「それと、もう一つ」
アリスは美咲を見た。
「死亡した場合、ログは簡略化されるわ」
「簡略化……ですか?」
「ええ。死亡前後の詳細な記録は失われ、残るのは最低限の結果だけになる」
美咲は、表示された文字列を見る。
その一つ一つが、急に重く見えた。
「仮に、貴女があの場で殺されていた場合。貴女の端末に、これほど詳細なログは残らなかったでしょうね」
「……私が生きていたから、残ったんですか?」
「そうよ」
アリスは迷いなく頷いた。
「彼らは貴女を初心者だと判断した。殺す必要はない。少し痛い目を見せて、キャッシュを奪えば十分。そう考えたのでしょうね」
美咲は唇を結ぶ。
「その判断が、彼らの失敗だったわ」
「失敗……」
「ええ。中途半端に生かしたから、貴女のログが残った。やるからには、徹底的にやるべきだったわね」
刹那が眉をひそめる。
「言い方」
「事実よ」
アリスの声は揺れない。
「もちろん、彼らの行為を肯定しているわけではない。けれども、悪意のある相手は、こちらの都合に合わせて動いてはくれないわ」
マリアが少しだけ目を伏せる。
店内の紅茶の香りが、いつもより薄く感じられた。
「優秀なプレイヤーほど、死なない立ち回りを意識するわ。痛みを避けるためだけではない。死ねば、自分に何が起きたのかを証明する手段まで失うから」
美咲は視線を彷徨わせながら、恐る恐る口を開いた。
「死ぬって……実際、どんな感じなんですか?」
聞きたくはなかった。
でも、今聞かないと後で後悔する。
そんな気がした。
美咲の問いに、刹那が少しだけ眉を動かした。
「……まあ、気持ちいいもんじゃねぇよ」
「やっぱり、痛いんですよね……?」
「すげー痛い。で、強制ログアウト。悪夢から跳ね起きたみたいになる。息は上がってるし、身体は現実に戻ってんのに、痛みだけ残ってる気がするし」
刹那は軽く肩をすくめた。
「それが嫌で、辞めるやつもいるしな」
その言葉に、カップを置こうとしていたマリアの手が、ほんの少しだけ止まった。
いつもの柔らかな笑みは消えていない。
けれど、その目だけが、少し遠くを見ていた。
「……ええ。いるわね〜」
マリアは静かな口調で話す。
「一度きりの死亡で、もう戻ってこなかった子も。何度も戻ろうとして、結局だめだった子も」
美咲は、何も言えなかった。
エリア9.2での出来事が脳裏に蘇る。
もし、あの二人の気が変わって、殺されてたら──
マリアはすぐに、いつものように微笑んだ。
「だから、みさきちゃん。死なないことは、本当に大事なのよ〜」
アリスはマリアが話し終わるのを確認すると、静かに口を開いた。
「そう、死なないこと」
「それが、このゲームで最優先すべきこと」
短い言葉だった。
けれど、それはどんな攻撃よりも重く響いた。
「勝つことでも、倒すことでも、格好よく戦うことでもない」
アリスの碧い瞳が、美咲を捉える。
「生きて帰ること。ログを残すこと。自分が何をされたのか、証明できる状態で戻ること」
美咲は膝の上で手を握った。
「それができなければ、どれだけ正しくても、何も残らないわ」
店内が静まり返る。
火薬の匂い。
紅茶の香り。
遠くで鳴る小さな金属音。
そのすべてが、急に遠くなった気がした。
しばらくして、アリスは続けた。
「ただし」
美咲が顔を上げる。
アリスの碧い瞳が、静かにこちらを見ていた。
「ログは万能ではないわ」
ホログラムの文字列が、淡く揺れる。
「記録されるのは、観測された行動と結果だけ」
アリスは、表示されたログを指で示す。
「貴女が何を思ってあの扉を開けたのか」
美咲の胸が、きゅっと縮んだ。
「何に傷ついたのか」
「なぜ、正門前であの二人に言い返したのか」
「そういうものは、ログには残らない」
美咲はホログラムを見る。
そこには、自分が撃たれた記録がある。
奪われた記録がある。
でも、アリスを探したかった気持ちは残っていない。
信じてしまった理由も。
怖かったことも。
悔しかったことも。
何も、残っていない。
「ログだけで人を判断してはいけないわ」
アリスは静かに言葉を続ける。
「でも、ログを読めない人間は、自分を守れない」
その言葉は、刃物のように鋭かった。
けれど、美咲を傷つけるためのものではないと分かる。
美咲は俯き、唇を強く結ぶ。
「……私、何も分かってなかったんですね」
「そうね」
アリスは即答した。
美咲の肩が小さく落ちる。
刹那が横で苦笑した。
「そこは少し濁してやれよ」
「濁す必要があるのかしら」
「ある時もある」
「次から考慮するわ」
「それ絶対しないやつだろ」
マリアが紅茶を置く音がした。
「でもね、みさきちゃん」
穏やかな声が、少しだけ場を柔らかくする。
「分からなかったって気づけたなら、次は覚えられるわ〜」
美咲はゆっくり顔を上げる。
マリアはいつものように微笑んでいた。
アリスはもう一度、ホログラムを操作する。
「では、美咲」
「は、はい」
「今回のログから、次に同じ状況になった時、貴女が取るべき行動を三つ挙げなさい」
美咲は固まった。
「……え?」
「三つよ」
「い、今ですか?」
「今よ」
美咲は救いを求めるように、刹那を見た。
刹那は腕を組んだまま、視線を逸らす。
「ほらな。普通だろ?」
「どこがですか……」
美咲の声が、火薬と紅茶の匂いの中に弱々しく溶けていった。
アリスが端末を操作すると、淡いホログラムがゆっくりと消えていく。
「今回は、答えをすぐに出せなくてもいいわ」
「けれど、考え続けなさい。考えない人間は、また同じ場所で間違える」
そして、美咲を見つめる。
その瞳は、まるで何かを探しているようでいて、どこかまっすぐだった。
「……貴女は支援寄りに動いた方がいい」
アリスの言葉に美咲が首を傾げる。
「支援、ですか?」
「ええ。少なくとも、今の貴女が前衛に出る理由はないわ」
刹那はアリスの提案に強く頷いた。
「確かに。美咲は撃って倒すより、後ろで見て、必要な時に動く方が合ってるかもな」
2人の言葉に、美咲は少しだけ俯く。
「それ、下手くそだからってことですか……?」
「違う違う。前に出るやつばっかだと全員死ぬんだよ。後ろで見て、状況を回して、逃げ道を作れるやつがいる方が強い」
刹那が、机に頬杖をついたままアリスを顎で指した。
「こいつだって前線には出ないぞ。後ろでペシペシ撃ってるだけだし」
アリスはわずかに眉をひそめ、小さく息を吐く。
「随分と雑な説明ね」
「でも間違ってないだろ?」
「正確性に欠けるわ。……けれど、役割が違うという意味では間違っていないわね」
アリスは美咲に視線を戻す。
「適材適所、よ」
美咲の胸に淡く光が灯る。
かっこよくではなく、自分ができることを。
そう考えると、今の悩みが少しだけ軽くなった気がした。
アリスが端末を操作すると、美咲の端末が短く鳴った。
美咲は首を傾げ、画面を確認する。
画面には1つのファイル。
ファイル名は、【各マップにおける出現エネミーと最適射線管理 1】
容量は500MB。
美咲は眉を下げ、ゆっくりと顔を上げる。
「え……?」
美咲がつぶやくその声は、店の外のざわめきに紛れるほど小さかった。
アリスはもう一度端末を操作し、ホログラムが起動する。
「ここからが本番よ」
美咲は無言で刹那を見つめる。
刹那は顔を背け、何も言わない。
「私……耐えられますか?」
小さく呟く美咲。
だが、やっぱり誰も答えなかった。




