第2話 合言葉は、トラとミケ
美咲は、スマートフォンの地図と、目の前の看板を見比べた。
《Re:na’s》
間違いない。
駅前の通りに面した、小さな喫茶店。年季の入った外壁と、色褪せた木枠。その中で、扉の横に掛けられた看板だけが新しく見えた。
磨かれた窓の向こうには、暖かな灯りがついている。
美咲は画面の時刻を確かめた。
十三時半。
待ち合わせまでは、まだ一時間半ある。
少し早かっただろうか。
そう思いながら扉へ手を伸ばし、その横に貼られた紙に気づいた。
『本日、十五時より貸切』
美咲は、刹那から届いたメッセージを開き直した。
十五時。
同じ時刻だ。
まさか、刹那さんが。
三人でご飯を食べるために、わざわざお店を貸し切ったのだろうか。
いや、偶然かもしれない。
美咲はスマートフォンをバッグへしまい、恐る恐る扉を押した。
店内に、人の姿はなかった。
「あの……すみませーん」
カウンターの奥へ声をかける。
物音がして、女性が一人、顔を出した。金髪を後ろでお団子にまとめ、エプロンを着けている。
「いらっしゃーい……って言いたいんやけど」
女性は両手を合わせ、申し訳なさそうに笑った。
「すんまへん。今日はこのあと貸切やから、もう通常営業は終わっててん。また今度、いらしたってや」
その声に、美咲は瞬きをした。
聞き覚えがある。
声だけではない。独特の喋り方も、人懐っこい笑顔も。
いつも笑いながら、プレイヤーと話している《月の厨房》のレイナ。
彼女に、似ている。
「……聞こえてますかー?」
女性が首を傾げ、こちらへ手を振った。
「あっ。す、すみません」
美咲は慌てて頭を下げた。
「あの……多分、その貸切のうちの一人……です」
「えっ?」
女性の手が止まる。
「あれ? 今日は知り合いしか来ぇへんはずなんやけど……」
改めて顔を覗き込まれ、美咲はわずかに背筋を伸ばした。
「すんません。お名前、聞いてもええ?」
「美咲、といいます」
女性の眉間に、皺が寄った。
視線が一度、足元まで下がり、また顔へ戻ってくる。
「……ちょいまち」
女性は振り返り、厨房へ顔を向けた。
「楓ー! ちょっと来てやー!」
厨房から現れたのは、黒髪の、和装の女性だった。
「玲奈さん。どうかしましたか?」
落ち着いた声。
柔らかな物腰。
そして、楓と玲奈という名前。
美咲は、ようやく確信した。
やっぱり、《月の厨房》の二人だ。
「美咲ちゃんや」
玲奈が、こちらを示す。
楓は美咲へ目を向け、小さく首を傾げた。
「……ちゃんと説明をしてくれませんか?」
「いや、うちも分かれへんねんもん」
二人の顔を交互に見ながら、美咲は口を開きかけた。
その様子に気づいた楓が、一度玲奈に視線を戻し、それから美咲へ微笑む。
「立ち話もなんですから。どうぞ、お掛けください」
「あ……ありがとうございます」
案内された席へ向かい、美咲は店内を見渡した。
木目のテーブルと、揃いの椅子。カウンターも棚も、落ち着いた木の色で統一されている。
美咲はバッグを脇へ置き、椅子に腰を下ろした。
────────
「つまり、このお姉さんが、あのちびっ子の美咲ってことなん?」
玲奈が、隣に座る楓へ顔を向けた。
「みたいですね……」
「……お恥ずかしながら」
美咲は小さく頭を下げた。
玲奈は腕を組み、まだ納得しきれない顔で美咲を見つめている。
やがて、その目がわずかに細くなった。
「ほな、美咲がよう頼む、《月の厨房》のメニュー言うてみ」
「ミルクティーと、日替わりクレープです」
「《月の厨房》の配膳NPCの名前をどうぞ」
続けて、楓からも質問が飛んできた。
「トラです。お会計をしてくれるのが、ミケです」
二人は黙った。
「……本物やん」
「みたいですね……」
美咲は、膝の上で指を組み直した。
「えっと……信じていただけましたでしょうか?」
「トラとミケの名前を言えるなら、信用するしかあらへんな」
「そこなんですね」
小さく笑っても、二人の視線を受けると、まだ少し落ち着かなかった。
今、見られているのはアバターではない。
いつもの、自分だ。
「まあ、なんにせよ。玲奈や。よろしゅう」
玲奈は笑い、それから少しだけ言いよどんだ。
「美咲……さん?」
「急に改まらないでくださいよ! 美咲でいいですって」
ふふっ、と笑う声がした。
二人が目を向けると、楓が慌てて口元を押さえた。
「ごめんなさい。楓です。今後ともよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
美咲も頭を下げる。
顔を上げると、玲奈が頬杖をつきながら、こちらを見ていた。
「それで、美咲」
「はい」
「高乖離アバターでも動けるんはええわ。仕様ってことにしたる。そんなことより、なんで子供の見た目にしたん?」
「えーっと……」
美咲は口ごもった。
仕事に行き、帰って、眠る。
また同じ朝が来るのを、ただ待っていた頃。
そんな日々を送る自分が、嫌だった。
子供の頃、もっと遊びたかった。
何をして遊ぶか、それだけ考えていられる日が欲しかった。
現実を忘れられる姿になって、何もかもから離れたかった。
今ではそれが、遠い昔のようにも感じられる。
美咲は、膝の上へ視線を落とした。
「……子供の頃みたいに、何も考えずに遊べたら、って」
玲奈が快活に笑った。
「なんやそれ。大人でも──」
「玲奈さん」
楓の声が、静かに遮った。
玲奈が口を閉じる。
「遊んでいても、仕事や明日のことが頭から離れない時はありますよね」
楓は美咲へ向き直った。
「遊んでいる間くらい、全部忘れたい。その気持ちは、私にもよく分かります」
美咲は一度店内を見渡し、楓に視線を戻した。
「楓さんも、そうなんですか?」
好きな料理を仕事にして、玲奈とお店を営んでいる。
そんな楓にも、何もかも忘れたくなるような時があるのだろうか。
「はい。サボりますし、接客は雑ですし。言うことも、なかなか聞いてくれませんし」
「ちょっ、ちょっ。うちに対する愚痴になっとらん?」
「あっ。つい」
楓が口元へ手を添えた。
「『つい』で愚痴言わんとってよ」
玲奈が不満げに口を尖らせる。
美咲の口元にも、思わず笑みが浮かんだ。
二人は、いつもと変わらない。
けれど、自分は。
「あの……」
二人の目が、こちらを向いた。
美咲は一度唇を結び、口を開いた。
「現実の私を見て、騙されたとかは……思わないんですか?」
玲奈が瞬きをする。
「思わへん。こっちが勝手に勘違いしてただけやから」
「はい。こちらの美咲さんも素敵ですよ」
楓が、穏やかに微笑んだ。
膝の上で組んでいた指が、少し緩む。
「……ありがとうございます」
美咲は顔を上げ、二人を見た。
「アリスさんや刹那さんも、そう思ってくれますかね?」
楓と玲奈が、顔を見合わせた。
一拍の間。
「それとこれは話が別や」
「えぇ……」
美咲が落胆の声を漏らすと、楓は頬に片手を添えて、困ったように笑った。
「そもそも、あのお二人は特殊ですから……」い




