第52話 いつもと同じ距離
フレグランスオイルの香りが、ゆっくりと意識に戻ってきた。
美咲は身体を起こし、シナプスヘルムを頭から外した。
一瞬だけ、身体の重さと感覚が噛み合わない。
「ふぅ……まだ、慣れないな」
部屋の明かりに目を細め、頬にかかった髪を耳へかけた。
机の上では、PCが静かに駆動音を響かせている。
つい先ほどまで聞こえていた銃声も、地面を揺らす足音もない。
明日の出撃が決まったあと、五人はもう一度シミュレーションへ戻った。
美咲と刹那も、アリスから集合時間や明日の動きを聞き、そのまま見学を続けていた。
繰り返される突進。
《Zorn》の咆哮に重なる、イオの一発。
何度見ても、次に誰が動くのかを目で追ってしまった。
美咲はベッドから立ち上がり、ヘルムを専用のスタンドへ戻した。
水を飲みながら、スマホで時刻を確かめる。
午前一時を、少し過ぎていた。
ログインしてから、もう五時間。
普段なら、日付が変わる頃には終えているはずだった。
「……やりすぎた」
美咲は苦笑し、空になったグラスを置いた。
明日は休みだ。
それでも、いつまでも起きているわけにはいかない。
着替えを手に取り、浴室へ向かった。
────────
シャワーを浴び、髪を乾かしてから、美咲はベッドに腰を下ろした。
枕元へ置こうとしたスマホを、もう一度手元へ戻す。
画面には、《ARCADIA》のグループLINEが開かれていた。
明日は、五人が《Zorn》と戦う。
自分たちはその周りを警戒し、近づいてくるエネミーがいれば排除する。
五人が、目の前の相手に集中できるように。
自分の役割は分かっている。
けれど、一人で静かな部屋にいると、別のことまで考えてしまう。
周囲の変化を見落とさずにいられるだろうか。
二人が気づく前に、自分から何かを伝えられるだろうか。
画面の入力欄に、指先を置いた。
『明日はよろしくお願いします』
文字を眺め、少し考えてから消した。
さっき別れたばかりなのに、改まって送るのも変だろうか。
でも、何か一言だけ伝えておきたい。
打っては消し、また短い言葉を並べる。
「もう、寝てるかな……」
画面の上では、時刻が二時に変わっていた。
二人のアイコンを交互に見つめる。
明日も、いつものように三人で歩く。
刹那が何かを言って、アリスが呆れて、自分が間に入る。
そんな光景を思い浮かべると、少しだけ口元が緩んだ。
『明日、頑張ります! おやすみなさい』
送信のボタンを、しばらく見つめた。
それから、そっと押した。
三人の会話の一番下に、自分のメッセージが並ぶ。
美咲はそれを数秒眺めてから、スマホを枕元へ置いた。
布団に潜り、顔を枕へ埋める。
「……大丈夫」
明日は、二人も一緒だ。
目を閉じると、銃声の合間に交わした、何気ない声が浮かんだ。
やがて、それも少しずつ遠ざかっていった。
────────
短い電子音が鳴った。
カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいる。
美咲は枕に顔を埋めたまま、手探りでスマホを探した。
画面を目元へ寄せ、寝ぼけた指でロックを解除する。
《ARCADIA》のグループLINEに、メッセージが二件届いていた。
『あんまり気負うなよー おつかれさん』
『おはよう。遅刻しないように』
美咲は、二つのメッセージを読み返した。
アリスらしい一言に、ふっと笑みがこぼれる。
その上へ視線を戻し、刹那の送信時刻に目を留めた。
三時二十一分。
美咲は、その数字をしばらく見つめていた。
それから、そっとスマホを胸に抱き寄せる。
布団の中は、まだ温かかった。
もう少しだけ。
美咲は口元を緩めたまま、再び目を閉じた。
────────
美咲は壁の時計へ目を向けた。
十九時。
昼のうちにも確かめた集合時刻を、スマホでもう一度確認する。
まだ、余裕はある。
「……よしっ」
カップに残った紅茶を飲み干し、美咲は立ち上がった。
軽く身体を伸ばしてから、シナプスヘルムを手に取る。
ベッドに腰を下ろした。
朝読んだ、二人の返信を思い返す。
美咲は小さく息を吐き、ヘルムを装着した。
身体をベッドへ沈める。
低い起動音とともに、視界が白んでいった。
────────
仮拠点のロビーでは、アリスが紅茶を飲んでいた。
「こんばんは」
美咲の声に、アリスが顔を上げる。
「こんばんは」
「すぐに向かいますか?」
「刹那がログインしたら出るわ。準備をしておいて」
「はい!」
美咲は大きめのバックパックを手に、補給室へ向かった。
棚を眺め、必要なものを順に取り出していく。
飲料水。
回復キット。
鎮痛剤と、止血材。
携帯食料も、少し多めに。
予備の弾薬に手を伸ばしかけ、動きを止めた。
「これは……《BCC》が用意してくれるんだっけ」
アリスから、そう聞いていた。
手を引っ込め、代わりに隣の医療品を取る。
使わずに済むなら、それでいい。
けれど、必要になってから持っていないと気づくのは嫌だった。
パルスシールドも入れ、バッグの口を閉じようとする。
閉まらない。
美咲は中身を押し込み、少しだけ位置を変えた。
「……よし」
どうにか閉じたバッグを持ち上げ、ロビーへ戻った。
ちょうど、刹那も部屋へ入ってきたところだった。
「おっす」
「刹那さん、こんばんはー」
挨拶を返し、バッグを床へ下ろす。
鈍い音が響いた。
刹那の視線が、床へ落ちる。
カップを置いたアリスも、同じものを見ていた。
「お前、旅行にでも行くつもり?」
「え? 行きませんよ?」
「予備の弾薬は、《BCC》が手配してくれるわ」
「はい! ですので、弾薬は持ってきてません」
美咲が答えると、アリスの視線がゆっくり上がってきた。
「……美咲、中身を見せて」
「えぇ……せっかく入れたのに……」
美咲は屈み、バッグを開いた。
詰め込んだものを、一つずつ床へ並べていく。
飲食物と回復アイテムが増えるたびに、刹那の眉が上がった。
「まだ出てくんのかよ」
「これで、最後です」
パルスシールドを置くと、アリスが小さく息を吐いた。
「過剰よ」
「準備は万全の方がいいかなって……」
美咲は気まずくなり、二人の装備へ目を向けた。
アリスは腰にバトルベルトを着けていたが、自分ほど大きな荷物はない。
刹那も、両腿のナイフポーチはいつもどおりだった。
二人とも、これからエリア41へ向かうとは思えないほど身軽だった。
アリスが隣へ屈む。
まずパルスシールドを取り、バッグの取り出しやすい位置へ戻した。
「不安なのは分かるけれども、補助する道具で身動きが取れなくなったら、本末転倒よ」
美咲は唇を尖らせながらも、頷いた。
「……はい」
「今回は、補給班も同行するわ。私達も必要な物資はそちらで補充できる。すべてを一度に持ち歩く必要はないの」
「弾薬以外も、ですか?」
「ええ。飲食物も、医療品もよ」
「すみません、そこまでは知りませんでした」
アリスの手が止まった。
「……これは、説明しなかった私に非があるわね」
手元の回復キットを一つ戻し、残りは床へ寄せる。
美咲もその手元を見ながら、飲料水と携帯食料を減らした。
「私達は周囲を動くことになるわ。持ち場と補給地点の位置は、現地でも確認しましょう」
「はい」
必要なものだけを戻すと、バッグの中には余裕ができた。
閉じる頃には、中身は半分ほどになっていた。
「このぐらいで問題ないわ。足りなくなる前に、補充すればいい」
美咲は立ち上がり、アリスへ頭を下げた。
「ありがとうございました」
「覚えていけば、問題ないわ」
「私も初の大型レイドは、多めに持っていったな」
横から刹那が口を挟んだ。
美咲が顔を向けると、刹那は苦笑していた。
「ほとんど使わなかったけど」
「刹那さんも、ですか?」
「今は……見ろ」
刹那がジャケットの前を開いた。
脇にはハンドガンのホルスター。
あとは小さなポーチがいくつかあるだけで、美咲のバッグとは比べものにならなかった。
刹那が自慢げに口角を上げる。
「貴女は準備をしなさすぎよ」
アリスの冷たい指摘に、刹那が目を細めた。
「でもお前、もっと準備しろって口うるさく言わないよな」
「言っても、どうせ聞かないからよ」
美咲は小さく頷いた。
「ちょっと、分かるかもしれません」
「なんだよ、美咲まで……」
眉をひそめた刹那から、アリスが視線を外した。
「そろそろ行くわよ」
「はーい」
美咲はバックパックを背負った。
肩の紐を直す。
先ほどよりも、肩にかかる重さはずっと軽くなっていた。
アリスが入口へ向かう。
その後ろで、刹那はまだ納得のいかない顔をしていた。
美咲は二人を見て、口元を緩めた。
半分になった荷物を、背中で軽く揺らす。
あれほど詰め込もうとしていたのに、今はこれで大丈夫だと思えた。
二人の後を追う美咲の足取りは、軽かった。
────────
ARCADIAが仮拠点を出る少し前。
エリア41では、BCCが出撃の準備を進めていた。
崩れた高架道路の上で、サジは双眼スコープを覗いていた。
瓦礫の街を見下ろす視界の先。
ビルの残骸に囲まれた広場を、鉄塊のような巨体が移動している。
《Zorn》。
二階建てほどの高さがあるその巨体は、何かを探すように、ゆっくりと顔を巡らせていた。
周囲に、ほかのエネミーの姿はない。
捕食を繰り返したZornだけが、静まり返った街の中央を歩いていた。
「中央部、小型・中型の姿はない……」
サジは一度スコープを下ろし、広場へ続く道路を見渡した。
後方では、通信端末を片手に、ハルが指示を出している。
「補給所は、そこで大丈夫です。観測用のカメラは……問題なさそうですね」
右へ左へ歩きながら、各メンバーと連絡を取っている。
そんなハルを、クルツが気だるそうに見つめていた。
側壁にもたれ、あくびをかみ殺す。
「暇なら、作戦の見直しでもすれば?」
クルツが視線を落とす。
隣で端末を見ていたセラが、眉をひそめた。
「もうやった」
「あんたのやったは、信用できないんだけど」
「やった」
壊れたラジオのように、同じ言葉を繰り返すクルツ。
セラは首を横に振り、大きく息を吐いた。
「じゃあ、咆哮のタイミングが変わったら?」
アロマが横から問いかける。
「同時着弾は中止。前のやり方に戻して、俺が先にヘイトを取る。撤退の指示が出たら、ロックさんと切り替えながら下がる」
淡々と答えるクルツに、セラは目を見開いた。
アロマは口に指を添え、微笑む。
「なんか……腹立つ」
「やる時はやる子ね」
クルツは背伸びをすると、眠気を飛ばすように声を上げた。
「あー暇! ウォーミングアップする敵もいねーし!」
サジは再びスコープを覗きながら、メンバーの会話に耳を傾けていた。
通信を終えたハルが、その横顔へ目を留める。
サジの口元が、わずかに緩んでいた。
ハルは小さく笑い、端末へ視線を戻した。
しばらくして、背後で瓦礫を踏む足音が重なった。
サジはスコープを下ろす。
「来たか」
振り返った先に、三つの人影があった。
三人が足を止め、その中から銀髪の少女が一歩前に出る。
「ARCADIA。合流しました」
サジが軽く顎を引く。
アリスはそのまま、サジに歩み寄っていった。
美咲はその後ろ姿を見送り、刹那とともに、待機しているBCCメンバーのもとへ向かった。
瓦礫に腰をかけていたセラが、小さく手を振る。
美咲も手を振り返し、そのもとへ駆け寄った。
「こんばんは」
「こんばんは、美咲ちゃん。準備万端?」
美咲は背中のバッグを軽く叩いた。
「はい!」
元気な返事に、セラが微笑む。
「そっかそっか。緊張してない?」
美咲は少し考え、眉を下げて笑った。
「実は、少しだけ」
「初めてなら仕方ないよ。私なんて今でも緊張するし」
美咲がぱちりと瞬きをする。
「え、そうなんですか?……てっきり慣れてるのかと」
不思議そうに小首を傾げる美咲に、セラは小さく笑った。
「そりゃもちろん。誰だって不安だし、緊張するよ」
美咲は、周囲のメンバーに視線を滑らせた。
「サジさんがよく言っててね」
セラは小さく咳払いをすると、低い声を出す。
「この感情がない者は、チームを乱す。程よく緊張感を持て」
片目を閉じ、いたずらっぽく笑った。
「……てね。似てるでしょ?」
それにつられ、美咲も笑う。
「なになに、ちびっこに先輩ムーブしてんの?」
二人が視線を横に向ける。
腕を組んだクルツが、目を細め、口元を歪めていた。
セラは呆れたように視線を逸らす。
「そんなんじゃないから」
口をつぐんだセラの周りを、クルツが歩き回る。
「どんな先輩ムーブしてたん?」
「うっさいなー! 何でもいいでしょ!」
眉をひそめるセラの耳は、ほんのり赤く染まっていた。
程なくして、アリスとサジが歩いてきた。
それだけで、空気が変わる。
クルツが足を止め、セラも顔を上げた。
サジはメンバーに、ゆっくりと視線を滑らせる。
「時間だ。準備はいいな」
低く重い声。
「普段通り戦え」
それだけを告げると、サジはアリスへ視線を送った。
「周囲には我々が対応します。皆さんは、Zornに専念してください」
アリスの淡々とした言葉に、BCCのメンバーは小さく笑った。
「現時刻より、Zornの偵察作戦を開始する。全員、戦闘配置に付け」
サジの掛け声とともに、メンバーがそれぞれの持ち場へ向かい始める。
美咲は、隣のセラとクルツに向き直った。
両手の拳を握りしめ、二人を見つめる。
「頑張ってください!」
「またな、ちびっこ」
美咲に笑いかけ、クルツが歩き去っていった。
「それじゃ、美咲ちゃんも頑張ってね」
セラが立ち上がり、その後を追う。
美咲は二人の背中を見送った。
さっきまで交わしていた軽口の余熱が、まだ頬に残っている。
歩きながらも、クルツが何かを言っていた。
セラがその背中を軽く叩く。
いつもどおりの二人が、瓦礫の向こうへ進んでいく。
美咲は、ショルダーストラップを握り直した。
「大丈夫か?」
気づけば、刹那が横にいた。
普段より、少し落ち着いた表情をしている。
「……はい」
「大丈夫だろ。あの二人は慣れてる」
美咲が頷いたところで、アリスも歩み寄ってきた。
「私たちも移動か?」
「ええ」
刹那に返事を返し、アリスは美咲へ視線を向ける。
美咲も顔を向けた。
碧い瞳と、視線が交わる。
「貴女は、私の指示をこなせば良いだけ。私達はチーム、問題ないわ」
そして振り返り、歩き始めた。
「心配なら心配って言やあいいのに」
刹那が美咲の肩を軽く叩き、アリスの後を追った。
美咲の口元が、少し緩んだ。
胸の奥には、まだ緊張が残っている。
けれど、二人の背中は、いつもと同じ距離にあった。
美咲はストラップを握る手を緩め、前を向いた。
五人が、目の前の相手に集中できるように。
自分も、持ち場へ向かおう。
「はい。よろしくお願いします!」
二人の背中を追い、美咲も歩き出した。




