第25話 信用
刹那は、右腕を身体の横に垂らしたまま立ち尽くしていた。
再び歪んだ視界の向こうで、獣の巨体が揺れる。
だが、こちらへ迫る振動も、地面を踏み鳴らす音もない。
代わりに、一定の間隔で銃声が響いていた。
刹那はナイフを握ったまま、左の拳でこめかみを二度叩いた。
ここで倒れたら、間違いなく死ぬ。
少しずつ視界が定まっていく。
獣の頭から火花が散った。
何かに横から押されたように、大きくぶれた。
銃声。
また頭が揺れた。
「……何が起きてんだ?」
刹那は音のした方角へ顔を向けた。
近くに人影はない。
崩れた建物と、踏み荒らされた道路が見えるだけだった。
さらに遠くへ目を凝らす。
道路の向こうにそびえるビルの上部で、何かが一瞬光った。
遅れて銃声が響く。
体勢を立て直しかけた獣の頭が、また横へ跳ねた。
遠くから、誰かが撃っている。
刹那は反射的に振り返った。
観測班が隠れた建物の陰から、男が顔をのぞかせている。
今しかない。
左手のナイフをポーチに戻し、数歩先に転がったもう一本へ走る。
背後で、獣が一歩踏み出した。
「しつけーな……!」
振り返るのと、銃声が鳴るのはほぼ同時だった。
獣の横っ面で火花が弾ける。
踏み出した脚が止まった。
刹那はナイフを拾い上げる。
誰が撃っているのか分からない。
いつまで獣を足止めできるのかも分からない。
それでも、信じるしかなかった。
刹那は獣に背を向け、観測班のもとへ走った。
背後でまた銃声が響く。
────────
美咲たちは建物の中へ入り、身を潜めていた。
入口にはロックが立ち、外を警戒している。
遠くからは、時折建物の崩れる音が聞こえた。
美咲は端末を取り出し、フレンド欄を開く。
刹那の表示は、まだ点っている。
居場所までは分からなかった。
少なくとも、今は生きている。
「何かあったときのために、合流地点を決めてあるわ。身体を晒さずそこに向かえるのは……このルートね」
アロマが端末のマップを指でなぞる。
「今は《Zorn》のいる場所から離れたいわ。音のする方角を避けて、東寄りに進むのがいいでしょうね」
隣でマップを見ていたアリスが、窓の外へ一瞬視線を向けた。
「でしたら、私たちはその地点へ向かいましょう。四人、あるいは一人でも合流できたなら、すぐに撤退。通信が回復次第、増援を要請するのが最善です」
美咲は顔を上げた。
アロマもアリスの横顔を見る。
四人が来なければ、どうするのだろう。
刹那はその合流地点を知らない。
観測班と一緒じゃなければ、たどり着くことさえできない。
「刹那さんはどうするんですか? 観測班の方と一緒じゃないと、その場所だって分かりませんよね」
アリスの冷たい視線が、美咲に向いた。
それでも美咲は、目を逸らさなかった。
「一人で助けに行った刹那さんを……」
その先は言いたくなかった。
自分の聞き間違いだと、アリスに言ってほしい。
その望みだけで、言葉を続けた。
「見捨てるなんて、言いませんよね?」
沈黙が落ちた。
「一人で行ったからよ。私は二度も止めたわ。勝手なことをしないようにと」
美咲は息を飲んだ。
「あの時点で独断行動に出たなら、それ以降の責任は──」
やめて。
それ以上は、言わないで。
「刹那が取るべきよ。私たちの命を、彼女の身勝手に付き合わせるつもりはないわ。それに、合流地点には向かう。ただ、待ち続けないだけ」
「それが、見捨てるって──」
遠くで銃声が鳴った。
三人の視線が窓へ向いた。
少し間を置いて、また一発。
アリスは美咲の言葉の続きを聞かずに、アロマを見た。
「時間がありません。決断を」
アロマはその視線を正面から受け止めた。
「一つだけ聞かせて。アリスさんはどうしたいの?」
「先ほども申しました。合流地点で一時待機し、その後──」
「違う違う。最善かどうかを聞いているんじゃないわ」
アロマは首を横に振り、アリスの胸元を指さした。
「あなた自身はどうしたいのかと聞いているの。感情の話をしているのよ」
アリスの言葉が途切れた。
美咲に目を向け、すぐに視線を落とす。
「……分かりません」
答えを探すように、アリスは続けた。
「助けに行くべきだとも思えません。先ほどの言葉も、嘘ではありません」
また黙った。
外では、銃声が繰り返されている。
アロマも美咲も、アリスを急かさなかった。
数秒後、アリスが口を開く。
「……やはり、変わりません。私は私たちの生還を優先したいです」
「なら、答えは決まったわね」
アロマは端末のマップを示した。
「合流地点で待つ。そのあと私とロックで捜索に当たるわ。あなたたちは撤退して。通信が回復したら、《BCC》に増援を要請してちょうだい」
「リスクが高すぎます」
「承知の上よ。私は、あなたやサジほどすべてを切り分けられる性格じゃないの」
アロマは少しだけ笑った。
「それに、私たちを誰だと思っているの? 《BCC》のナンバースリー、アロマに、メインタンクのロックよ。迷子四人を連れて帰るくらい、造作もないわ」
自信に満ちた声だった。
美咲の冷えた胸にも、わずかに熱が戻る。
「アリスさんは、私に判断を委ねたわね。その時点で、私の判断に逆らう気はない。そうでしょう?」
「はい」
「なら、この話は終わり。そもそも刹那さんが三人を連れて戻れば、全部丸く収まるのよ」
「そうです」
アリスの即答に、美咲は思わず顔を向けた。
アリスは、刹那が戻ると、どこかで信じているのだろうか。
「えらく信用しているのね」
「そのくらいしてもらわなければ、独断行動の埋め合わせにはなりません」
「そう。それでもいいわ」
アロマが端末をしまう。
「移動しましょう。合流地点の周囲も確かめないと」
合流地点の建物に入ったあと、アロマたちはまず周囲を確認した。
ロックが一階の入口を守る。
アリスはスナイパーライフルを持って隣の建物の屋上へ上がり、高い位置から通りを見張った。
美咲とアロマは二階の一室に残った。
安全を確認してから、アロマが時間を決めた。
「十分待つわ。それでも来なければ、私とロックで捜しに行く。いいわね」
美咲は頷き、窓の脇で待った。
何度も端末の時刻を確かめる。通りに人影は現れなかった。
待機時間の大半が過ぎたころ、美咲はマップを見つめるアロマに声をかけた。
「アロマさん、ありがとうございます」
「気にしないで。巻き込んでいるのはこっちよ」
「それでも言わせてください。アロマさんがああ言ってくれて、嬉しかったです」
アロマが端末から顔を上げる。
「アリスさんって、頑固ね」
「え?」
「助けたいなら、そう言えばいいのにね。手伝ってくれって。苦労する性格よね」
美咲には、アリスがなぜあそこまで感情を押し込めるのか分からなかった。
簡単に触れていいこととも思えない。
けれど、自分が見てきたアリスは、ただ冷たいだけの人ではない。
「自分の感情に正直になるのが、苦手なんだと思います」
アロマは美咲を見つめたあと、柔らかく笑った。
「だから、あなたたち三人は相性がいいのかもしれないわね」
「それって……」
続きを尋ねるより先に、アロマが立ち上がった。
「そろそろ時間ね」
美咲は言葉の意味を考えながら、そのあとを追って階段を下りた。
「ロック、そろそろ時間よ」
入口に立つロックは、アロマを一度見て頷いた。
銃声も、建物が崩れる音も、とうに聞こえなくなっている。
美咲は隣の建物を見上げた。
屋上に、アリスの姿はなかった。
どこへ行ったのか考える間もなく、正面の建物の角から、地面を擦るような音が聞こえた。
ロックがすぐさまシールドを構える。
その後ろで、アロマが角へ銃口を向けた。
「誰かしら。両手を上げて出てきなさい」
アロマの低い声が、静かな通りに響く。
建物の陰から、両手を上げた一人の男が姿を現した。




