第24話 獣
男は崩れたビルから目を離せなかった。
さっきまで、あの角には建物があった。今は瓦礫と土煙が道を塞いでいる。
「早く立てよ!」
隣に座り込んだ女へ声をかける。
少し先では、もう一人の男が煙の向こうを警戒していた。
「次が来るぞ!」
「ま、待って……! 足が……」
男は女へ視線を落とした。
呼吸が浅い。破れたボトムスの下から、血が流れ出していた。
押さえた手の隙間を伝い、地面へ落ちた。
男は目を疑った。
「お前……! いつ怪我したんだよ!」
「分かんないよ……! あいつがすれ違ったとき、急に痛くなって……!」
あの獣の突進は大きく外れた。
もし直撃していたなら、脚を押さえて話せているはずがない。
男が答えを探していると、前に立つ男が振り返った。
「まさか、追ってきてたやつの仕業か?」
「分かんないって!」
女は唇を噛み、痛みに耐えきれず声を漏らした。
手で押さえても、血は止まらない。
足元が、かすかに揺れた。
三人は同時に煙へ目を向ける。
移動しなければならない。
このままいれば、誰も助からない。
男は再び女を見た。
女は傷を押さえたまま、自分を見上げている。
「置いていかないよね……」
男は答えようと口を開いた。
だが、言葉が出てこない。
女の目を見ていられず、視線を逸らした。
地面の揺れが強くなる。
煙の中から、歪んだ角の先端が現れた。
────────
あの不快な音が鳴った瞬間、刹那は走り出していた。
耳の奥がざらつく。
視界が一瞬歪んだが、足は止めなかった。
向かう先は、最初に崩壊音がした場所だ。
いくつかの建物を通り過ぎ、角を曲がる。
もう少し。
そう思ったところで、刹那は歩調を緩めた。
何もない。
建ち並んでいたはずの建物は崩れ、車や電柱、街灯までが、重機に踏み潰されたようにひしゃげていた。
刹那は周囲へ視線を走らせた。
右奥。
巨大な何かが通ったのか、建物がなぎ倒され、奥まで一本の道が伸びていた。
幅はゆうに十メートルを超える。
前に見た、異形のアンドロイドが通った跡とは思えない。
通信障害。
あの不快な音。
目の前の破壊の跡。
「……いったい何が起きてんだよ」
考えても、答えは出なかった。
刹那は右の太腿にあるポーチから、左手で《Karmesinblitz》を一本抜いた。
逆手に構え、小指でボタンを押す。
刀身が振動を始め、刃の縁が赤く光った。
何かが通った道を、刹那は再び走り出す。
前方から、重い衝突音が響いた。
続いて、建物が崩れる音。
「あそこか」
地面が震え、銃声が立て続けに聞こえてきた。
誰かがいる。
刹那は速度を上げた。
建物の切れ目から、開けた場所が見えた。先ほどと同じように、辺りは更地になっている。
その左手に、三人のプレイヤーがいた。
女が地面に座り込み、片脚を押さえている。その周りには血だまりが広がっていた。
傍らの男が女の肩を支え、立たせようとしている。
もう一人は二人を庇うように前へ出て、銃を撃ち続けていた。
連携も何もない。
ただ、目の前の何かから逃れようと、引き金を引いているように見えた。
背後の二人が、同時に銃口の先を見た。
「は、早く! 轢かれるぞ!」
「誘導してくれよ!」
「痛い……! 痛いって!」
三人が見ている先は建物に隠れ、刹那からは見えない。
だが、その声だけで、何かが迫っているのは分かった。
「クソッ……間に合えよ」
刹那が横道から飛び出すと、右手の建物の陰から四足歩行の鉄の獣が姿を現した。
三人へ向かって突進している。
刹那は獣と三人の間へ、斜めに踏み込んだ。
小指でボタンを深く押し込む。
耳鳴りのような音が《Karmesinblitz》から響き、刀身の赤が強まった。
「逸れろ!」
獣の頭が目の前を通過した。
刹那は身を低くし、続いて迫った手前側の後脚へ刃を押し当てる。
刃が脚の半ばまで斬り込んだ。
巨体が、刹那のいる側へ沈む。
刹那は刃を押し抜き、すぐに跳び退いた。
獣は勢いを殺せないまま三人の手前で進路を逸らし、道端の瓦礫へ突っ込んだ。
砕けた瓦礫が舞い上がり、獣の姿を覆う。
姿が見えなくなったところで、押し込んでいた小指を緩めた。
刀身を覆う赤い光が弱まった。
刹那は振り返り、三人へ駆け寄った。
「大丈夫か」
三人は口をわずかに開けたまま、刹那を見ていた。
「おい! 返事しろ」
強く呼びかけると、前にいた男がようやく頷いた。
刹那も小さく頷き返す。
「私があとは引き継ぐ。お前らはさっさと、座ってるやつを治療して身を隠せ」
三人は顔を見合わせるだけで、動かなかった。
グズグズしないでくれ。
込み上げる苛立ちを押し込め、刹那は獣が突っ込んだ瓦礫へ視線を向けた。
立ち上る煙の奥に、まだ姿は見えない。
「あの……」
銃を握った男が、声を絞り出した。
刹那は小さく舌を鳴らす。
「さっさとしてくれ。全員まとめて死にたいのかよ」
「プ、プレイヤーが潜んでるんです。多分こいつ、そのプレイヤーに撃たれて」
刹那は耳を疑った。
なぜそう思ったのか。
そもそも、相手は誰なのか。
聞きたいことは山ほどあったが、今は問いただしている時間がない。
「……なるべくここから離れずに、射線が切れる場所に隠れろ。あいつを引き離して戻ってくる。私が戻ってきたら、全員で逃げるぞ」
男はまだ何か言おうとした。
「早くしろッ!」
二人の男は女を両側から支え、建物の陰へ移動を始めた。
刹那は煙へ視線を戻す。
二本の歪んだ角が現れた。
風に流され、煙が薄くなっていく。
焦げた鉄のような色。
左右非対称にひん曲がった、用途も分からない角。
巨大な鉄の闘牛。
目の前の獣は、刹那にはそう見えた。
「さて、どうすっかな」
刹那は小さく呟き、二本目の《Karmesinblitz》を抜いた。
刹那は獣を見据えた。
その背後では、獣が通った道路がめくれ上がり、舗装としての役目を失っている。
辺りに響くのは、心臓の鼓動のように規則正しい駆動音だけだった。
獣もまた、刹那を見ていた。
値踏みでもするかのように、動かない。
「……その巨体でびびってんのか? 来いよ」
呟いた途端、獣が地面を蹴った。
一直線に迫る巨体は、ブレーキの壊れた大型トラックそのものだった。
足元が揺れる。
刹那は三人の逃げた方向から獣を引き離すように走り出した。
だが、数歩も行かないうちに距離を詰められる。
背後で金属が軋んだ。
刹那は横へ跳ぶ。
獣の身体がすぐ脇を抜け、建物へ突っ込んだ。
刹那は、両足と片手を地面に擦りつけて勢いを殺し、すぐに立ち上がった。
崩れた壁を押しのけ、獣が向きを変えた。
再び突進。
刹那はかわす。
すれ違いざまにナイフを振るった。
獣は建物を壊し、向きを変え、また突っ込んでくる。
何度も。
何度も。
壊れたように、同じ軌道を繰り返した。
刹那は右へ、左へと身をかわし、そのたび外殻へ刃を当てた。
気づけば周囲の建物は崩れ、道路の形も分からなくなっていた。
刹那は一度距離を取り、ナイフを見た。
刀身を覆う光が、わずかに弱まっていた。
外殻は硬い。
だが、動きは単調だ。
視線を戻す。
先ほど切り裂いた後脚は、まだ塞がっていない。
刹那の口元がわずかに上がった。
「……いけるな」
獣が向き直るより先に、刹那はさらに走った。獣も追ってくる。
三人との距離が十分に開いたところで、足を止める。
狙うのは、傷の残る後脚。
あれを完全に断てば、少なくとも突進は止まる。
ボタンを、もう一度深く押し込んだ。
ナイフの刀身が高周波で震え、赤い光を強めた。
獣が迫る。
刹那はぎりぎりまで引きつけて横へ跳び、着地と同時に地面を蹴った。
獣が急停止する。
そして、頭を持ち上げた。
二本の角が、細かく振動し始める。
刹那の目の前には、傷ついた後脚。
歪んだ外殻の奥から、ケーブルと鉄の骨が覗いている。
貰った──
刹那がナイフを横薙ぎに払う。
後脚が弾け飛んだ。
同時に轟音が響き、刹那の身体が宙へ弾き飛ばされた。
視界が歪んだ。
上下も分からないまま地面に叩きつけられ、刹那はすぐに起き上がる。
だが、視界は歪んだままだった。
反射的に距離を取る。
獣はすでに向きを変えていた。
脚を一本失った巨体が、揺れる景色を割って迫った。
刹那はほとんど無意識で身をかわす。
かわしきれなかった右腕を、獣の身体が巻き込んだ。
「……ッ!」
腕のバイタルデバイスが警告を発した。
【バイタル異常:右腕壊死】
激痛が遅れて押し寄せる。
視界が元に戻った。
「そんな簡単ってわけには、いかないわな……」
刹那は、ありえない方向に曲がった右腕を見て苦笑した。
左手のナイフを構え直した。
獣が向き直る。
轟音。
視界が、また歪んだ。
その音に紛れて、低い、ライフルの銃声が聞こえた気がした。




