第8話 その名
「私たちが、ですか?」
ナナが自分を指さした。
「ああ。すまない」
イオはもう一度、ナナとれんへ頭を下げた。
納得していない様子のナナを、れんが立ち上がりながら促した。
「行こう、ナナ」
「えー! 絶対に面白い話なのに」
ナナは首を小さく傾げ、甘えるようにイオを覗き込んだ。
「……私たちだけ除け者?」
「すまない」
「うっ……。はいはい、分かりましたよ」
ナナは顔をひきつらせた後、渋々といった様子で椅子を離れた。
「終わったら呼んでよね」
「分かりました」
美咲が答えると、ナナは何度も振り返りながら、れんに続いて部屋を出ていった。
扉が閉まる。
刹那は先ほどまでナナたちが座っていた中央のテーブル席へ移動した。
美咲はイオとなこを向かい側へ案内し、自分も刹那の隣に腰を下ろした。
四人が席に着くと、イオが口を開いた。
「今日、アリスくんは?」
その第一声に、美咲は少し驚いた。
イオたちが来たのは、昨日の件ではなかったのだろうか。
「今日は、まだログインしてないですよ」
刹那が答える。
美咲は携帯端末を開き、現在時刻を確認した。
二十一時を少し過ぎたところだった。
今日もログインするなら、いつも通り二十一時半頃には来るはずだ。
「てか、昨日の件じゃないんですか?」
「いや、昨日の件だ。アリスくんにも同席してほしいのだよ」
イオは静かな口調で答えた。
「昨日は、何も言われませんでしたけど?」
「あの場にいた者たちの一存では話せなかったんだ。許してやってくれ」
「銃口を向けられたことは?」
「それは、すまなかった」
イオはすぐに頭を下げた。
刹那は気まずそうに顔を逸らす。
「……冗談ですよ」
「アリスさんなら、あと十分ほどで来ると思います」
美咲が付け加えると、イオは顔を上げた。
「なら、それまで待たせてもらってもいいかな?」
美咲は隣へ視線を送った。
刹那は面倒そうに片手を振る。
「好きにしてください」
「ありがとう」
イオが短く礼を言った。
それから、しばらく誰も口を開かなかった。
なこは刹那と目が合いそうになるたび、わずかに顔を伏せていた。
その様子を見ていた美咲は、小さく首を傾げた。
こんな子だっただろうか。
大会の控え室で会ったなこは、もう少し明るい印象を受けた。
だが、目の前にいる彼女は、まるで別人のように静かだった。
自分たちが中心部に入ったせいで、何か問題が起きたのだろうか。
昨日のことを聞きたい。
そして、セラのことも。
けれど、詳しい話はアリスが来てからなのだろう。
美咲が何から尋ねるべきか迷っていると、刹那が先に口を開いた。
「で、結局あれは何なんですか?」
イオはすぐには答えなかった。
「その前に、君たちは七つの大罪を知っているかね?」
脈絡のない問いかけに、美咲と刹那は顔を見合わせた。
「キリスト教の教えでしたっけ?」
曖昧な記憶を辿りながら美咲が答えると、刹那もそれに続いた。
「怠惰とか、貪欲とか。人間の誘惑だろ?」
「……強欲じゃないですか?」
「は? 貪欲だろ」
「そうでしたっけ?」
「ど、どちらも間違いではありませんぞ……!」
俯きがちに様子を窺っていたなこが、勢いよく顔を上げた。
「訳し方によっては、貪欲とも言いますので……。一般的なのは強欲ですが」
美咲と刹那は、揃ってなこを見つめた。
「すごい……」
「詳しいな」
感嘆混じりの二人の言葉に、なこは恥ずかしそうに首を横に振った。
「いえいえ! ゲームや漫画ではよく使われる題材なので、ただのオタクですぞ」
そう言うと、なこは再び俯いてしまった。
「話が逸れましたけど、その大罪が何なんですか?」
「君たちも、その名を冠したエネミーを知っているだろう」
イオの言葉と共に、一つの名前が脳裏に浮かんだ。
《Völlerei》。
暴食。
黒い触手に覆われた身体。
耳の奥へこびりついた、あの咀嚼音。
刹那が敗れた後、アリスと二人で撃退した大罪。
そして、《ARCADIA》が作られるきっかけになった存在。
忘れられるはずがなかった。
「君たちが対面したアンドロイドは、それと同じ枠組みにある」
美咲は昨日の異形を思い浮かべた。
肥大化した身体。
角のように変形した両腕。
攻撃を受けても、わずかに怯むことすらなかった姿。
「名前は?」
刹那が尋ねた。
「《Zorn》」
「つぉーん?」
美咲と刹那は、揃って首を傾げた。
「──《Zorn》。ドイツ語で、怒り、あるいは憤怒を意味する言葉よ。発音は、ツォルンに近いわ」
背後から、淡々とした冷たい声がした。
四人が一斉に顔を向ける。
そこには、アリスが立っていた。
いつログインしたのか。
どこから話を聞いていたのかも分からない。
ただ、ずっと前からその場にいたかのように、静かに佇んでいた。
「アリスさん、こんばんは」
「遅かったな」
美咲と刹那へ順番に視線を向けた後、アリスは二人の正面に座るイオとなこを見た。
「珍しいお客様ね」
「邪魔している」
イオが軽く頭を下げると、なこもそれに倣った。
「お前に話があるんだと」
「面倒事なら、遠慮するわ」
「それ、本人の前で言っちゃうんですか……」
美咲は思わずイオを見た。
黒いレンズが、美咲へ向けられる。
表情の見えないガスマスクに見つめられ、それだけで責められているような気がした。
イオは何も言わなかった。
アリスが補給室へ向かったのを確認して、美咲は小さく頭を下げた。
「す、すみません」
「ん? ああ……気にしないでくれ。彼女のあれには慣れている」
「え?」
刹那が背もたれへ身体を預けた。
「アリスも私と同じで、イオさんとは昔からの知り合いって、大会の時言っただろ?」
「そっか……そうでしたね」
刹那とアリス、そしてイオ。
三人には、自分の知らない時間がある。
そう思うと、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
やがて補給室から戻ってきたアリスは、ティーセットを片手に空いていた席へ座った。
手早く紅茶を淹れ、その香りを確かめるように、カップを鼻先へ近づけた。
「アリスくん。彼女たちから、どこまで聞いている?」
「何も」
「ふむ……。では、まずはこれを見てもらおう」
イオは携帯端末を取り出し、机に置いた。
「昨日、BCCの観測班が記録した、君たちと《Zorn》の戦闘ログだ」
刹那の眉が寄った。
「待てよ。なんでそんなものを持ってんだよ」
「あの場に、BCCのメンバーもいただろう?」
ログは、実際に観測したものしか記録されない。
確かに、中心部へ入る手前の交差点にはBCCの姿があった。
けれど、交差点を抜けてから助けてもらうまで、彼らの姿はどこにも見えなかった。
それなのに、自分たちと《Zorn》の戦闘が記録されている。
つまり──。
「交差点を抜けたあたりから、監視してたってことか」
「監視していたことは否定しない。だが、君たちを利用するために見送ったわけではない」
イオは落ち着いた声で続けた。
「封鎖を越えて中心部へ入った以上、救援のためにも動向を追う必要があった。その過程で得られた記録だよ」
「物は言いよう。いい性格してますね」
刹那が呆れたように眉をひそめる。
「刹那、話が進まないわ。静かにして」
「はいはい」
アリスは端末を手に取り、机へ接続した。
中央にホログラムが展開され、複数の観測ログが時系列に並んでいく。
刹那と美咲が交差点を抜けた記録。
二人の動向を追っていた、複数のBCCメンバーの観測記録。
その観測地点は、それぞれ異なる建物の屋上だった。
異形のアンドロイドとの遭遇。
刹那による攻撃。
それを受けても止まらない《Zorn》。
続いて記録された、美咲の射撃。
そして、BCCの介入から撤退まで。
アリスは表情を変えることなく、流れていく記録を目で追っていた。
やがて最後の記録が表示され、ホログラムの動きが止まった。
アリスはログから視線を外し、正面のイオを見る。
「では、これを前提に──ここへ来た理由を聞かせてもらいましょう」




