第50話 今日のすべて
「刹那様ー!」
「太郎もよくやったぞ!」
「二人とも、最高の試合だった!」
刹那の名を呼ぶ声。
太郎の敗北を惜しむ声。
二人の激闘を称える声。
それらが混ざり合い、会場を揺らしていた。
そのどれもが、今の刹那には酷く耳障りだった。
刹那は視線を落としたまま、表彰台の中央に立っていた。
目の前には、マイクを手にしたリリア。
医務室で見せていた硬い表情も、震えていた唇も、今はどこにもない。
実況席にいた時と変わらない笑顔を、観客へ向けていた。
「では! 栄光を勝ち取った刹那選手! 一歩前へどうぞ!」
会場から、さらに大きな歓声が上がる。
刹那は動かなかった。
呼びかけが聞こえていないかのように、足元の一点を見つめ続けている。
「……刹那選手?」
二度目の声に、刹那は顔を上げた。
リリアは口元に笑みを貼りつけたまま、わずかに目を細めている。
「チャンピオン、呼ばれてますよ」
隣から、穏やかな声が届いた。
太郎が、こちらへ小さく笑いかけている。
その声には、負けた悔しさも、結果への不満も感じられなかった。
刹那は一度だけ太郎を見てから、一歩前へ出た。
リリアの目元が、ほんの少しだけ緩む。
「優勝、おめでとうございます!」
差し出されたのは、小ぶりなトロフィーだった。
台座の上に、大会のエンブレムが刻まれている。
刹那はそれを見つめた。
優勝。
その言葉だけが、頭の中で異物のように残る。
それでも、差し出されたトロフィーを受け取った。
「それでは、今一度! 栄えある優勝者へ、大きな拍手をお願いします!」
割れんばかりの拍手と歓声が、刹那へ降り注ぐ。
その中心で、刹那はトロフィーを強く握り締めた。
────────
表彰台の裏手へ続く厚い扉が閉まった。
途端に、会場の歓声が遠い音へ変わる。
刹那は、少し前を歩いていた太郎の背中を見た。
「太郎さん」
呼び止められた太郎が、足を止めて振り返る。
刹那はトロフィーを持ったまま、その前へ歩み寄った。
「えっと……」
何から口にすればいいのか分からない。
しばらく迷ったあと、刹那はぎこちなく頭を下げた。
「こんなことになって、すみませんでした」
太郎はすぐには答えなかった。
「……何に対してです?」
責める響きはない。
本当に分からないという声だった。
最後の一撃。
勝者を告げた表示。
表彰台で受け取ったトロフィー。
どれに対して謝っているのか、刹那にも分からなくなっていた。
答えられないまま、頭を下げ続ける。
「治療が終わったあと、暇だったんでリプレイを何度も見返してたんです。最後の一撃、明らかに不自然でしたね。なんとなく、予想はついてます」
その言葉が、刹那に重くのしかかる。
太郎は、気づいていた。
あの急停止が、刹那の意図ではなかったことに。
太郎が小さく首を横に振った。
「でも、頭を上げてください。刹那さんが謝ることじゃありませんよ」
刹那はゆっくりと顔を上げた。
「でも、あのままなら……あんたが勝ってた」
「そうだったかもしれません」
太郎は、あっさりと認めた。
「ですが、運も実力のうち、です」
言葉を探すように視線を上げ、太郎は続けた。
「あれが、あの一瞬ではなく別の場面で起きていたら……勝っていたのは僕だったかもしれませんし」
太郎は穏やかな目で、刹那を見ている。
「刹那さんは、悪くありませんよ」
手に握られたトロフィーが、小さく軋む。
「そんな簡単に──」
「最後だけは、少し残念でしたけどね」
太郎は先ほどの試合を思い返しているのか、目を伏せた。
そして、口元に薄い笑みを浮かべた。
「そこまでの試合は、本当に楽しかったですよ」
刹那の言葉が止まった。
「僕にとっては、優勝がどちらになったかより、どんな試合ができたかのほうが大事ですから」
太郎は一度だけ、閉じた扉の向こうへ顔を向けた。
「それに──この感じだと、ログにも残っていないんですよね?」
「……ああ」
「じゃあ、運営もあまり認めたくはないでしょうね」
少しだけ声を落とし、続ける。
「我々は、どちらかというと被害者ですから」
刹那は手元のトロフィーへ視線を落とした。
「……それでも、納得はできない」
「ええ。無理に納得する必要もないと思います」
太郎はそれ以上、刹那を説得しようとはしなかった。
「ただ、刹那さんが謝ることではない。それだけは、間違えないでください」
そう告げて、太郎は振り返り、歩き始める。
その背中が通路の角へ消えるまで、刹那は同じ場所に立っていた。
────────
時間が経つにつれて、会場から観客の声が消えていった。
賑やかだった通路も静まり、遠くから撤収作業の音だけが聞こえてくる。
刹那は控え室の長椅子に座っていた。
顔を出す気にはなれない。
立ち上がる気にもなれない。
表彰式で受け取ったトロフィーは、目の前の机に置かれている。
小ぶりなはずのそれが、今は妙に重たく見えた。
不意に、控え室の扉がノックされた。
「あの……美咲です」
「入っていいぞ」
すぐには、扉が開かなかった。
「いえ。ここで大丈夫です」
「……なんだよ」
少しの間を置いて、美咲の声が返ってくる。
「私は、勝負事とかは全然ですから……刹那さんが今、どういう思いなのか、正直、分かりません」
扉の向こうから聞こえる声は、とても穏やかだった。
慰めようとする声ではない。
ただ、扉一枚ぶんの距離を置いて、そこにいてくれる声だった。
「でも、最後まで誠実であろうとする姿は、すてきだと思います」
刹那は膝の上で、両手を組んだ。
「それに、あの最後があったからって、今日の刹那さんの全てが否定されるわけではないと思います」
美咲は一度、言葉を止めた。
扉の向こうから、小さく息を吸う音が聞こえる。
「誰がどう言おうと……私の中では、刹那さんが一番です」
刹那は何も返せなかった。
控え室に、短い沈黙が落ちる。
「あはは……私ったら、一人で何を言ってるんでしょうね」
少しだけ早くなった声が、静けさを埋めようとする。
「ごめんなさい。疲れているのに」
扉の前で、衣擦れの音がした。
「それでは、また明日。おやすみなさい」
美咲の気配が、扉から離れかける。
「今日の刹那さん、かっこよかったです」
その一言を残して、足音が遠ざかっていった。
刹那は閉じた扉を見つめた。
やがて、目の前のトロフィーへ視線を戻す。
美咲の言葉が、何度も頭の中で繰り返された。
今日の刹那さん。
刹那は長椅子から立ち上がった。
────────
メイン会場には、もう誰も残っていなかった。
照明は落とされ、非常灯だけが客席と表彰台を淡く照らしている。
歓声も、拍手もない。
刹那の足音だけが、広い会場に響いた。
客席を見上げる。
「……こんなに広かったか?」
思わず、声が漏れた。
緊張で、まともに前を向けなかった初戦。
ボロボロになりながら、どうにか勝ち取った二回戦。
観客から向けられた、困惑と好奇の入り混じった目。
喉元へ刃を当てられたなこが、震える声で告げた降参。
そして、決勝戦。
最初の一撃が太郎へ届いた感触。
リボルバーが弾き飛ばされ、路面を跳ねた金属音。
『いつでもどうぞ』
静かに構え、自分の答えを待ってくれた太郎。
その喉元へ向かって、地面を蹴った。
【速度情報に同期誤差を検出しました】
踏み込んだ足が、動きを止めた。
太郎の刃だけが、目の前を通り過ぎていく。
刹那の中では、最後の一瞬が、それまでの全てを塗り潰していた。
『あの最後があったからって、今日の刹那さんの全てが否定されるわけではないと思います』
刹那は、小さく息を吐いた。
その時、吹き抜けた風が背後から足音を運んできた。
「珍しく、感傷に浸っているのね」
刹那が振り返る。
長い銀髪を揺らすアリスが、薄暗い会場に立っていた。
その髪が、非常灯の淡い光を受けて柔らかく輝いている。
アリスは刹那の隣まで歩み寄り、同じように誰もいない客席を見渡した。
「……なんだよ。煽りに来たのか?」
アリスは刹那を一瞥する。
「ええ、そうよ」
迷いのない答えに、刹那の口元がわずかに緩んだ。
「最初は頭を抱えたけど、参加してよかった」
正面へ視線を戻す。
「久々に、心の底から楽しめた」
「そう」
アリスは短く返した。
再び吹き抜けた風が、その銀髪を優しく撫でる。
アリスは顔にかかった髪を指先で払い、視線だけを逸らした。
二人の間に、沈黙が落ちる。
「それで、本題は?」
刹那が問いかけると、アリスは顔を上げた。
「あら、意外に勘が鋭いのね」
アリスの碧眼が、刹那をまっすぐ見つめる。
「でも、もう確かめる必要はなさそうね。邪魔したわ」
アリスはそう言うと、踵を返して歩き始めた。
アリスが、何を確かめに来たのか。
今なら、刹那にも分かる。
その背中を、何も言わずに見送る気にはなれなかった。
「……ありがとな!」
アリスの足が止まる。
振り返らないまま、静かに答えた。
「何のことかしら」
それだけを残し、再び歩き始める。
遠ざかっていく銀髪を見送り、刹那はもう一度、誰もいない会場をぐるりと見渡した。
さっきまで響いていた歓声は、もう頭の中にしかない。
初戦から決勝まで。
最後の一瞬だけではない、今日一日の全てがそこに残っていた。
「また機会があったら、再戦だな」
そう呟き、刹那は静まり返った会場に背を向けた。




