第49話 勝者の名
歓声が、爆発した。
立ち上がった観客たちが、両腕を突き上げる。
重なった声が会場を揺らし、たった今まで戦場だったフィールドへ降り注いだ。
『決着ですッ!』
リリアの声が、歓声をさらに大きくする。
『優勝は──刹那選手ですッ!!』
誰もが、接戦を制した勝者へ声を送っていた。
その中心で、刹那だけが動かなかった。
正面に浮かぶ勝者表示にも、会場を埋め尽くす観客にも目を向けない。
目の前に倒れた太郎を、ただ見下ろしていた。
太郎は動かない。
喉元には、刹那が手放したナイフが残っている。
刹那は右手を伸ばした。
その指先が太郎へ届くより先に、腹の奥で何かが弾けた。
「──っ」
息が止まる。
腹部の銃創。
左腕。
これまで鎮痛剤の下へ押し込められていた痛みが、一斉に全身を駆け抜けた。
膝が折れる。
刹那は右手を路面へつき、倒れる身体を支えた。
戦闘の終了を検知したシステムが、遅れて痛覚情報に補正をかけた。
焼けつくような痛みは、急速に遠ざかっていった。
それでも、止まった呼吸はすぐには戻らない。
フィールドへ駆け込んできた医療スタッフが、刹那の横を通り過ぎる。
二人が太郎の身体を担架へ乗せた。
待ってくれ。
刹那は顔を上げる。
こんな終わり方で、終わらせるな。
唇が動いた。
けれど、声は出なかった。
担架が持ち上げられる。
太郎の身体が、刹那の横を通り過ぎていく。
刹那はもう一度、手を伸ばそうとした。
別の二人の医療スタッフが、刹那の身体を両側から支える。
「刹那さん、こちらへ」
力の入らない足が、路面を擦った。
遠ざかっていく担架を追うこともできない。
刹那は医療スタッフに支えられたまま、フィールドを後にした。
最後まで、一度も観客席を見なかった。
その背中へ、勝者の名を呼ぶ声だけが降り続いていた。
────────
巨大スクリーンに、最後の攻防が映し出された。
太郎へ向かって、一直線に駆ける刹那。
迎え撃つナイフが動く。
刃と刃が触れ合う寸前、刹那の身体が止まった。
太郎のナイフだけが、刹那の切っ先の前を通り過ぎる。
次の瞬間には二人の身体が重なり、刹那のナイフが太郎の喉元へ届いていた。
映像が止まる。
『しろさん! 今のは……刹那選手が止まったんですか!?』
『ええ。刃が触れる、その寸前です』
しろの声も、普段よりわずかに弾んでいた。
『ですが、太郎選手のパリィが少し早かったようにも見えます!』
『違います』
即座に否定する。
『太郎選手は、外していません。あのまま刹那選手が踏み込んでいれば、確実に弾いていました』
スクリーンの映像が、さらに遅く再生される。
太郎のナイフが動き始める。
その切っ先は、刹那の刃が届くはずだった場所へ正確に向かっていた。
『速度、間合い、刃が接触する瞬間。そのすべてを正確に捉えています。完璧なタイミングです』
『では、どうして……?』
『刹那選手が、接触するはずだった一瞬を消したんです』
映像の中で、最高速に達していた刹那が、右足を路面へ踏み込んだ瞬間に止まる。
『あの速度から急停止し、攻撃に一拍だけディレイをかけた。それで、太郎選手の刃だけを先に通した』
『太郎選手が外したのではなく──』
『刹那選手が、外させました』
観客席から、再び大きなどよめきが上がった。
リリアもスクリーンへ身を乗り出す。
『でも、あれだけの速度を完全に止めたら、刹那選手も攻撃を続けられないんじゃないですか!?』
『普通なら、そうです』
止まっていた映像が動き始める。
姿勢を崩した刹那が、右腕を伸ばしたまま太郎の胸元へ倒れ込んでいく。
『ですが、すでに右腕は伸びきっていた。刹那選手はもう一度加速しようとせず、太郎選手の懐へ身体を預けました』
『最高速から急停止。そして、最後はあまりにも静かな一撃……!』
『動から静への切り替えで、太郎選手の完璧な迎撃を崩した。見事としか言いようがありません』
リプレイが繰り返される。
そのたびに、歓声は大きくなった。
刹那の名が、会場のあちこちから上がった。
一人のスタッフが、実況席へ駆け寄ってきた。
リリアが差し出された端末へ目を落とす。
スタッフがその耳元へ顔を寄せ、何かを短く告げた。
リリアの表情から、わずかに熱が引く。
すぐに顔を上げ、観客席へ向き直った。
『なお、両選手は現在、医療スタッフによる治療を受けています』
一度、言葉を区切る。
『表彰式は、両選手の治療が終了次第、執り行います。皆様、今しばらくお待ちください!』
巨大スクリーンから試合映像が消えた。
代わりに、大会のエンブレムが映し出される。
会場を満たしていた歓声は、少しずつざわめきへ変わっていった。
────────
「もういい。行かないと」
刹那は上体を起こした。
腹部へ向けられていた治療器具が、その動きに合わせて警告音を鳴らす。
「刹那さん、動かないでください。まだ治療は終わっていません」
医療スタッフが肩を押さえる。
「腹部の治療は、まだ半分ほどしか──」
「半分終わってるなら、もう動ける」
刹那はその手を外し、ベッドから足を下ろした。
「刹那ちゃん。スタッフさんの言うことを聞きなさい」
隣に立っていたマリアも、刹那の前へ腕を出す。
刹那は止まらなかった。
二人の腕を無理やり押しのけ、床へ足をつける。
身体がわずかに傾いた。
それでも、ベッドへ戻ろうとはしない。
「刹那さん」
美咲が、その正面まで歩み寄った。
「表彰式まで、まだ時間はあります。ですから、今は安静に──」
「そうじゃない」
刹那は美咲の言葉を遮った。
「あれは、私の勝ちじゃない」
「え……?」
言葉の意味を掴めず、美咲が眉を寄せた。
「同期誤差。再同期」
静かな声が、医務室の端から落ちた。
全員の視線がアリスへ向く。
アリスは壁際の椅子に座ったまま、刹那を見つめていた。
「最後の急停止。貴女の意図ではないのね」
「……そうだよ」
刹那は吐き捨てるように答えた。
「踏み込む直前に、また出やがった」
美咲が目を見開いた。
「あの時の……」
白い訓練室。
床へ縫いつけられたように止まった刹那の右足。
その直後に響いた銃声。
あの時と同じものが、最後の一撃で起きた。
「それで?」
アリスは表情を変えない。
「ちょっと待ってください」
れんが、二人の会話を遮った。
「二人だけで話を進めないでくださいよ。俺たちには、何が何だか分からないんですけど」
アリスがれんへ視線を向け、すぐに刹那へ戻した。
刹那は短く息を吐いた。
「簡単に言えば、システム側の補正だ。ラグみたいなもんだよ」
刹那の右手が、わずかに震えた。
「最後、私が踏み込む直前に、システムに身体を止められた。あの急停止は、私がやったんじゃない」
誰も口を挟まない。
「あのまま突っ込んでいたら……」
刹那の言葉が止まる。
太郎のナイフは、こちらの切っ先へ正確に向かっていた。
あれがなければ、二つの刃は触れ合っていた。
右腕を弾かれた自分の懐へ、太郎が入ってくる。
その先まで、考える必要はなかった。
刹那は視線を落とした。
「太郎さんが、勝ってた」
沈黙が落ちた。
治療器具の警告音だけが、一定の間隔で繰り返される。
「で、でも……!」
最初に口を開いたのは、ナナだった。
「刹那さんのせいじゃないんだからいいじゃないですか。今回はたまたま刹那さんに有利だっただけで、逆だった可能性だって──」
「いいわけないだろ!」
鋭い声が、医務室を叩いた。
ナナと美咲の肩が跳ねる。
刹那の口から、荒い息が漏れた。
「あんなの、私が望んだ勝ちじゃない」
右手を強く握り込んだ。
「事故だ。まだ、終わってない」
再び伸びてきたマリアと医療スタッフの腕を、刹那は押しのけた。
よろめきながらも立ち上がり、医務室の扉へ向かう。
「せ、刹那さん!」
美咲が慌てて追いかける。
刹那は振り返らなかった。
扉の前まで歩き、ドアノブへ手をかける。
「どこへ行くのかしら?」
アリスが尋ねた。
アリスは何もない空間へ視線を向けたまま、刹那を見ようとしない。
「……太郎さんのところだよ」
刹那はドアノブを握り締めた。
「正直に話して、再戦をお願いしてくる」
「それを、運営が認めると思っているのかしら?」
アリスが一度だけ、横目で刹那を見た。
「システムエラーで勝敗が決まったから再戦する。そんな前例を、運営が作るわけがないわ」
「じゃあ、どうするんだよ!」
刹那の声が、鋭く跳ねた。
その瞬間。
医務室の扉が、外側から静かに開いた。
「彼女の言う通りです。再試合は認められません」
扉の向こうに、リリアが立っていた。
実況席で見せていた熱も、笑みもない。
刹那を見つめる顔には、公式の場に立つ者としての表情だけが残っていた。
「あんた……何を……」
「ゲーム運営側でも、刹那選手の位置情報に再同期が発生したことを確認しています」
リリアは一切視線を逸らさない。
「戦闘ログには残っていませんが、システム側の診断記録から確認が取れました」
「だったら──」
「ですが、再同期の処理後も試合は継続され、勝敗判定は正常に完了しています」
刹那の言葉を遮り、リリアは続ける。
「本大会の優勝者は、刹那選手──貴女です。その事実は変わりません」
「ふざけんな……!」
刹那が一歩踏み出した。
リリアの胸元を掴み、衣服を引き寄せる。
「それで、納得しろってのか!」
「納得していただけるとは、思っていません」
リリアの声は揺れなかった。
「それでも、結果は変わりません。これは大会運営ではなく、ゲーム運営の決定です」
刹那はリリアを睨みつけた。
リリアの唇がわずかに震えていた。
刹那は、ゆっくりと指を開く。
乱れた衣服の皺を、リリアが静かに直した。
刹那の舌打ちが、短く響く。
「ゲーム運営からは、今回の同期誤差について原因を調査し、再発防止に努めるとの回答を受けています」
リリアは両手を身体の前で重ねた。
深く、頭を下げる。
「大会運営を代表して、今回の件をお詫び申し上げます」
頭を下げたまま、動かない。
刹那は顔を背けた。
それ以上、何も言わなかった。
医務室には、治療の再開を促す電子音だけが鳴り続けていた。




