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第40話 最善手

 屋上を離れると決めた瞬間、イオはもう走り出していた。


 重い狙撃銃を身体に引きつけ、階段を一気に駆け下りる。


 最上階のフロアへ滑り込む。


 廊下。


 左右に並ぶ小部屋。


 遮蔽物は多いが、どれも距離が階段から近すぎる。


 ここではない。


 目に入ったものだけでそう判断し、すぐに階段へ戻った。


 次の階も同じだった。


 曲がり角が少なく、廊下も狭い。


 相手がアサルトライフルを持つ太郎なら、撃ち合いになった時点で押し切られる。


 イオの武器は、一発の威力と精度にすべてを寄せた長銃身の狙撃銃。


 先に構え、先に照準を置き、最初の一発を当てる。


 それができなければ、勝ち目は薄い。


 だから、追いつかれる前に場所を決めなければならなかった。


 さらに一つ、階を下りる。


 そのときだった。


 階段の下から、硬い足音が響いてきた。


 まだ遠い。


 けれども速い。


 迷いがない。


 下層階から、太郎が一気に駆け上がってくる。


 イオは四階の踊り場へ降り立った。


 直後。


 下から響いていた足音が、ぴたりと止まった。


 気づかれた。


 正確な位置までは分からなくても、互いの音が届く距離に入ったことだけは、向こうも理解したはずだ。


 イオは靴底を床へそっと下ろした。


 音を殺したはずの一歩が、妙に大きく耳へ残る。


 呼吸を抑える。


 静けさの中では、自分の服が擦れる音すら居場所を告げているように思えた。


 けれど、立ち止まってはいられない。


 時間がかかればかかるほど、こちらが不利になる。


 イオは腰のポーチから、小さな金属箱を取り出した。


 掌に収まる、傷だらけの鉄製ケース。


 上面には二本の短いアンテナが折り畳まれている。


 それを起こし、側面のスイッチを押す。


 赤いランプが灯り、低い駆動音が微かに震えた。


 EMPジャマー。


 少なくとも、索敵機器で一方的に位置を割られることはない。


 イオはジャマーを壁際へ置き、四階を見渡した。


 廊下は途中で右へ折れ、その手前に向かい合う扉が二つ。


 近くの扉を開ける。


 中は広い会議室だった。


 中央には大きな円卓。


 その周囲に椅子が並び、奥には一段高くなった教壇がある。


 入口から奥まで充分な距離があり、円卓は身体を隠す遮蔽物にもなる。


 ここなら、一発を作れる。


 室内へ入り、扉を細く残してわずかに閉じる。


 円卓の陰を通り、教壇の脇で狙撃銃を構えた。


 照準の先にあるのは、会議室の入口。


 ここから先は、太郎の動きしだい。


 階段の方から、かすかな音がした。


 一段。


 間。


 また一段。


 先ほどまで駆け上がっていた太郎が、今は足音を一つずつ切り離すように登っている。


 イオは頬をストックへ寄せた。


 入口からは、目を離さない。


 やがて、足音が同じ階へ上がった。


 それきり、何も聞こえなくなる。


 太郎も止まっている。


 廊下を挟み、互いに相手の次の一手を待っていた。


 数秒。


 あるいは、もっと長く。


 不意に、乾いた金属音が廊下を転がった。


 直後、角の向こうで爆発が弾ける。


 壁を叩く衝撃。


 床を伝う振動。


 細かな破片が廊下へ散る音。


 正面の死角を、手榴弾で潰した。


 続けて、太郎の足音が走る。


 爆発の余韻が消えるより早く、角へ詰める足音。


 銃身を握る手に力が入った。


 まだ出るべきではない。


 今の太郎の銃口は進行方向を向いている。


 会議室から出れば横を取れるように見えて、その実、振り向かれるまでにこちらが長い銃身を扉の先へ通さなければならない。


 イオは動かなかった。


 足音が会議室の前を通り過ぎる。


 そして角の先で止まった。


 誰もいないと分かったはずだ。


 ならば、残るのは通り過ぎた部屋。


 会議室か、その向かいにある小部屋。


 二択。


 太郎はそこまで絞った。


 静寂が戻る。


 イオの指が、引き金へ浅く触れた。


 先に会議室へ来るなら、撃つ。


 向かいの部屋を選ぶなら、その瞬間に出る。


 太郎の足音は聞こえない。


 静けさの中で、自分の鼓動だけが耳に残る。


 やがて、金具の弾ける音がした。


 今度は近い。


 会議室の外。


 向かいの小部屋。


 次の瞬間、扉の向こうで爆発が起きた。


 轟音が廊下を満たし、会議室の扉が震える。


 ──今だ。


 イオは立ち上がった。


 太郎は向かいの部屋を潰しに来た。


 爆発に合わせて詰めるなら、意識も銃口もそちらへ向く。


 索敵機器でこちらの位置を抜かれている可能性は、EMPで消してある。


 この瞬間を逃せば、次は会議室へ来る。


 狙撃銃を抱え、爆音に足音を重ねて扉へ走る。


 隙間へ肩を差し込み、一気に廊下へ出た。


 そこで、黒い銃口と目が合った。


 太郎は向かいの部屋を見ていなかった。


 壁際に身体を寄せ、会議室の出口へ照準を置いていた。


 待たれていた。


 イオが、身を低くする。


 銃声。


 弾丸が髪の上を裂いた。


 低く沈んだ姿勢のまま、イオは狙撃銃を太郎へ向けようとする。


 だが、それより早く、太郎が踏み込みざまに狙撃銃を下から蹴り上げた。


 銃身が跳ね、イオの手から離れた。


 すぐに右手を腰へ走らせる。


 サブウェポンのハンドガン。


 指がグリップへ触れる。


 けれど、抜くより先に、冷たい銃口が額へ触れた。


 イオは太郎を見上げた。


「イオさんなら、必ず出てきてくれるって信じてましたよ」


 太郎が薄く微笑んだ。


 イオは何も答えなかった。


 ほんの短い間、二人の視線だけが交わった。


 読みを外したわけではない。


 爆発音に合わせて出る判断も、間違ってはいなかった。


 太郎は、その正しい判断をする瞬間を待っていた。


 イオはグリップから手を離した。


 ゆっくりと、両手を上げる。


「……私の、負けだ」


 その言葉を聞いて、ようやく太郎は銃口を下ろした。


 口元には、薄い笑みが残っていた。

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