第34話 条件
「開口一番、それかよ」
刹那は顔をしかめたまま、掠れた声で返した。
「ほかに適切な言葉が思いつかなかったの」
アリスは悪びれもせず、ベッドの傍らに置かれた椅子へ腰を下ろす。
「へいへい。悪かったよ」
「まだ何も言っていないわ」
「顔に書いてあるだろ」
刹那が右脇腹を押さえながら息を吐くと、治療器具を並べ終えた医療スタッフがこちらを振り返った。
「すみません。バイタルデバイスを確認させてください」
「はい」
刹那は左腕を持ち上げた。
表示されている状態は、いまだ〈危険〉のまま。
医療スタッフは眉をひそめ、刹那の右脇腹へ視線を移した。
「右胴部の損傷が大きいですね。両腕にも相当な負荷が残っています。少し時間がかかりますので、しばらく動かないでください」
「お願いします」
医療スタッフが刹那の脇腹へ治療器具を当てる。
内側から熱が広がった。
折れた肋骨を一本ずつ元の形へ戻されているような、鈍い痛みが走る。
刹那は奥歯を噛みしめた。
試合中に耐えた痛みだ。
今さら声を上げるほどでもない。
『それでは、2回戦第2試合を開始します!』
天井のスピーカーから、リリアの声が響いた。
どうやら次の試合が始まったらしい。
刹那は目だけを動かし、傍らに座るアリスを見た。
アリスは何も言わない。
試合を見に戻ろうともせず、膝の上で指を組んだまま、治療を受ける刹那を見つめていた。
「見てこなくていいのか?」
「何を?」
「試合」
「ここでも聞こえるわ」
「そうかよ」
そこで会話は途切れた。
治療器具の低い駆動音と、遠くから届く歓声だけが医務室を満たす。
刹那は天井を見上げた。
静かになると、考えなくてもいいことまで頭に浮かぶ。
倒れたボリス。
その喉へ突き立てたナイフ。
試合が終わったあと、自分へ向けられた戸惑い混じりの視線と、まばらな拍手。
あの反応は当然だ。
刹那自身も、そう思っている。
戦闘不能に見える相手へ、さらに一撃を加えたのだから。
だが、ボリスなら、あの状態からでも立ち上がりかねなかった。
あの一撃は必要だと判断した。
それだけの話だ。
『勝者、太郎選手!』
リリアの声に続いて、歓声が響く。
医療スタッフが脇腹から器具を離し、次に刹那の左腕へ取り付けた。
「胴部の治療は終わりました。次は左腕です。指先に違和感はありますか?」
「いえ。問題ないです」
指を動かそうとすると、医療スタッフに手首を押さえられた。
「今は動かさないでください」
刹那は素直に力を抜いた。
傍らから、呆れたような視線を感じる。
「なんだよ」
「別に」
「言いたいことがあるなら言えよ」
「治療の邪魔になるでしょう」
「さっき馬鹿って言った奴がよく言うな」
アリスは答えず、わずかに視線を逸らした。
その仕草に、刹那の口元が緩む。
『続きまして、2回戦第3試合を開始します!』
再び、天井からリリアの声が響く。
左腕を包んでいた熱が少しずつ引いていく。
バイタルデバイスの表示が〈危険〉から〈注意〉へ変わった。
それでも治療は終わらない。
医療スタッフは器具を右腕へ移し、黙々と作業を続けている。
アリスもまた、何も言わずにそこにいた。
刹那は目を閉じた。
話しておきたいことはある。
だが、今ここで口にする気にはなれなかった。
医療スタッフがいるから、というだけではない。
言葉にしてしまえば、自分があの試合を気にしていると認めることになる。
勝つために必要なことをした。
何も間違っていない。
そう思っているはずなのに、最後の一撃だけが何度も頭の中で繰り返されていた。
『勝者、なこ選手!』
歓声が遠くで膨らみ、やがて薄れていく。
医療スタッフは右腕の状態を確認すると、再び刹那の脇腹へ器具を当てた。
「仕上げに入ります。もう少しだけ、そのままでいてください」
「分かりました」
『それでは、2回戦最終試合を開始します!』
刹那の試合が終わってから、これで3試合目だ。
ずいぶんと長い時間、治療を受けている。
それだけの傷を負っていたということだ。
刹那は椅子に座り続けるアリスへ視線を向ける。
目が合った。
アリスは何も尋ねない。
大丈夫かとも、痛くないのかとも言わない。
ただ、刹那が口を開くのを待っている。
その距離が、今はありがたかった。
治療器具の画面が徐々に暗くなり、やがて完全に消えた。
医療スタッフが器具を外し、バイタルデバイスへ目を落とす。
表示は〈安定〉に変わっていた。
『勝者、イオ選手! これですべての2回戦が終了しました!』
会場から大きな歓声が上がる。
医療スタッフは最後の確認を済ませると、刹那へ向き直った。
「完治しました。まだ痛みはありますか?」
刹那はゆっくり上体を起こした。
左腕を曲げ、指を握る。
次に肩を回し、上体を軽く捻った。
右脇腹に痛みはない。呼吸を深くしても、胸の奥に引っかかるものはなかった。
「大丈夫です。痛みもありません」
「ご存じだとは思いますが、ログアウト後に痛みが出るかもしれません。今日はあまり無理をしないでください」
「ありがとうございます」
医療スタッフは治療器具をケースへ戻す。
それから刹那とアリスを一度だけ見比べると、ケースを手にした。
「それでは、何かあれば呼んでください」
医療スタッフが部屋を出ていく。
扉が閉まり、足音が遠ざかっていった。
刹那は扉を眺めてから、呟いた。
「優秀だな、あの人」
「そうね」
静寂が落ちる。
刹那はベッドの縁に腰掛けたまま、両手を見下ろした。
震えてはいない。
痛みも残っていない。
それでも、口にしようとしていた言葉は、すぐには出てこなかった。
アリスは急かさない。
ただ椅子に座り、刹那を見つめている。
刹那は小さく息を吐いた。
「……正直、危なかった」
「そうね」
否定も慰めもない。
ただ事実を受け止めるような返事だった。
「最後の一撃さ」
「ええ」
「あれ、本当に必要だったと思うか?」
アリスはすぐには答えなかった。
刹那の顔をまっすぐに見つめ、静かに口を開いた。
「貴女の最善だったのでしょう? なら、今さら後悔など必要ないわ」
「……そっか。そうだな」
刹那は肩の力を抜いた。
胸の奥に残っていたものが、すべて消えたわけではない。
それでも、少しだけ息がしやすくなった。
刹那は顔を上げ、アリスへ向き直る。
「ここまで来たんだ。止めるなよ」
アリスはしばらく刹那を見つめた。
「止めても続けるのでしょう? 私は、無駄なことはしない主義なの」
「はいはい」
アリスは考えるように視線を横へ流した。
「……いえ。続けるのなら、条件があるわ」
「ん?」
「負けないこと。それが条件よ」
刹那は眉を上げ、口元を緩めた。
「誰に言ってんだよ」
刹那は手を伸ばし、アリスの頭を撫でようとした。
その手が届く前に、アリスが軽く払いのける。
「触らないで」
「ったく。相変わらず可愛げのない奴だな」
刹那は払われた手を引っ込め、笑った。
「……まあ、任せとけって。負けないよ」
アリスは目を伏せた。
「そう」




