第33話 心配
刹那は、目の前に浮かんだ表示を見上げた。
《WINNER:刹那》
勝利判定を確かめてから、ボリスの喉に突き立てたナイフを引き抜く。
迷彩服の胸元へ、赤い雫が落ちた。
刹那はボリスの身体から降り、床へ片膝をついた。
右脇腹に力が入る。
身体の奥を抉るような痛みに、息が止まった。
それでも、床へ手はつかなかった。
左脚を立てる。
右足で床を踏む。
ゆっくりと膝を伸ばし、立ち上がった。
歓声は、聞こえなかった。
実況もない。
低い駆動音とともに、フィールドを囲っていた隔壁が床へ沈んでいく。
その向こうに現れた観客席は、静まり返っていた。
誰も立ち上がっていない。
いくつもの視線が、倒れたボリスと、その傍らに立つ刹那との間を行き来していた。
勝敗が決まる前、ボリスの右腕は動いた。
だから、もう一度刺した。
刹那にとっては、それだけのことだった。
だが、観客から見れば違う。
一度喉へ刃を突き立て、倒れた相手に馬乗りになり、さらにもう一度。
まあ、そうなるわな。
刹那はナイフを腰へ戻し、出口へ向かって歩きだした。
痛みを悟られないよう、歩幅を変えない。
背筋も曲げなかった。
その途中だった。
乾いた音が、一つ鳴った。
少し間を置いて、もう一度。
実況席のマイクが、小さな拍手を拾っている。
大型モニターへ目を向けると、しろが静かに両手を打ち合わせていた。
大げさに称えるでもない。
笑ってもいない。
ただ、終わった試合へ拍手を送っている。
リリアが隣のしろを見た。
それから、手元のマイクを握り直す。
『……2回戦第1試合、勝者──刹那選手です!』
遅れて届いた勝者宣言に、観客席の一角から拍手が上がった。
それにつられるように、別の場所からも音が続く。
まばらな歓声が混じった。
だが、会場全体を揺らすほどには広がらない。
拍手を送らない者もいる。
戸惑いを含んだざわめきも消えなかった。
フィールドの外から、複数の足音が近づいてくる。
開いた扉から医療スタッフたちが駆け込み、刹那の横を通り過ぎていった。
全員が、倒れたボリスへ向かう。
そのうちの一人が、刹那とすれ違った直後に足を止めた。
振り返り、刹那の様子を窺う。
刹那は片手を上げた。
言葉にしなくても、意図は伝わったらしい。
医療スタッフは一瞬迷ったあと、ほかの者たちを追っていった。
刹那も再び出口へ向かう。
途切れ途切れの拍手と、その隙間を埋めるざわめきが、妙に耳についた。
刹那は振り返らず、フィールドを出た。
扉が閉まる。
拍手も、歓声も、ざわめきも、一枚の壁を隔てた向こうへ遠ざかった。
選手用通路には、次の試合を待つ太郎が立っていた。
装備はすでに整えられている。
壁際のモニターには、先ほどの試合結果が表示されていた。
「お疲れさまでした」
「ああ」
刹那は足を止めず、その横を通り過ぎる。
数歩進んだところで、右脚がわずかに沈んだ。
すぐに踏み直し、そのまま歩き続ける。
だが、背後から見ていた太郎には十分だったらしい。
「……肩を貸しましょうか?」
太郎が一歩前へ踏み出した。
「必要ない」
刹那は振り返らなかった。
「自分で歩ける」
「そうですか」
太郎は、それ以上近づいてこなかった。
「ただ──」
刹那は足を止めた。
「僕でも、同じようにします」
何を指しているのか、聞き返す必要はなかった。
「……そうか」
刹那はそれだけ返し、再び歩きだした。
通路の角を曲がる。
前方から、複数の足音が聞こえた。
それも、かなり速い。
「刹那さんっ!」
「せ、刹那さん!」
二つの声が、ほとんど同時に重なった。
息を切らしたナナと美咲が駆け寄ってくる。
その後ろには、れんとマリアもいた。
「腕、大丈夫ですか? あばら、折れてませんか? バイタルデバイス見せてください!」
ナナは返事を待たず、刹那の腕へ顔を近づけた。
表示を覗き込まれる前に、刹那は腕を高く持ち上げた。
脇腹の奥が軋む。
呼吸が一拍止まった。
「……心配しすぎだっての」
「しすぎじゃないですよ! 鈍器でぶん殴られて、あんな吹き飛ばされ方してたじゃないですか!」
「すぐに医務室へ向かいましょう。どこが痛みますか?」
美咲の視線が、刹那の顔から右脇腹へ落ちる。
「別に。大したことないって」
刹那は腕を下ろした。
「見ての通り、歩けてる」
「でも──」
「次の試合までには戻る。放っておいても治るよ」
口にしてから、一歩踏み出す。
身体が前へ傾いた。
すぐに右脚へ力を入れ、何事もなかったように姿勢を戻す。
れんが黙ってその様子を見ていた。
やがて、隣に立つマリアへ視線を向ける。
マリアは小さく頷いた。
「はいは~い。それじゃあ、医務室へ行きましょうね~」
「話、聞いてました?」
「もちろん聞いてたわよ~」
マリアは刹那の左側へ回ると、その腕を自分の肩へ乗せた。
右脇腹には触れない。
「だから、必要ないですって」
「自分で歩くのは止めてないわよ~。行き先が医務室になっただけ」
マリアは刹那の歩調に合わせ、さりげなく体重を引き受けた。
「無茶苦茶な……」
腕を振りほどこうとしたが、脇腹へ痛みが走っただけだった。
刹那は小さく息を吐き、抵抗を諦めた。
少し遅れて、アリスが通路の奥から歩いてくる。
息は乱れていない。
何も尋ねず、何も言わず、刹那の姿を一度だけ見た。
そのまま全員の後ろへ続いた。
医務室の扉が開いた。
中にいた医療スタッフが顔を上げる。
「あっ、先ほどの……」
競技場で処置を断った選手について、連絡が回っていたのだろう。
医療スタッフはすぐに立ち上がり、空いているベッドを示した。
「こちらへどうぞ。まず状態を確認します」
マリアに支えられたまま、刹那はベッドまで歩く。
マリアが、肩へ回していた刹那の左腕を下ろした。
刹那はベッドの端へ腰を下ろす。
両脚を床につけ、背筋を伸ばしたまま呼吸を整えた。
「……悪い。喉が渇いたんだが、誰か水を頼めるか?」
「はい、すぐに」
医療スタッフが、壁際の給水棚へ向かった。
それを見たマリアが、明るく片手を上げる。
「それなら、私たちに任せなさ~い」
「えっ?」
ナナが目を瞬いた。
「ほら、美咲ちゃん。行くわよ~」
マリアが美咲の肩を抱き、そのまま出口へ向かう。
「あっ、ちょっと、マリアさん──」
美咲は顔だけを刹那へ向けたまま、マリアに連れていかれた。
「待ってください! せめてバイタルデバイスだけでも確認を──」
「れんちゃん、ナナちゃんをお願いね~」
「分かりました」
「えっ、私も!?」
れんがナナの背中を押す。
「ちょ、れん! まだ何も見てないんだけど!」
「医療班が見てくれるから」
「そういう問題じゃ──」
抗議する声とともに、四人が医務室から出ていく。
扉が閉じた。
扉越しに、四人の足音が遠ざかっていく。
アリスはその場に残った。
刹那は何も言わなかった。
やがて、足音が聞こえなくなる。
アリスは閉じた扉へ近づくと、わずかに開けて廊下を確かめた。
扉を閉じ、刹那へ振り返る。
「行ったわよ」
その声を聞いて、刹那はようやく身体を支えていた力を抜いた。
そのまま、背中からベッドへ倒れ込む。
コップを手に戻ってきた医療スタッフが、慌ててそれを脇の台へ置いた。
刹那は右脇腹を押さえた。
堪えていた呼吸が一気に乱れ、喉から掠れた息が漏れる。
医療スタッフが治療器具を取り出し、ベッドの横へ並べ始めた。
アリスは、ベッドに倒れ込んだ刹那を見下ろす。
呆れたように、小さく息を吐いた。
「貴女、馬鹿なの?」




