第32話 離さない
最初に戻ったのは、音だった。
金属が床を擦っている。
途切れ途切れだった音が、少しずつ繋がっていく。
刹那は浅く息を吸った。
右脇腹の奥で、痛みが脈打つ。
もう一度吸おうとして、喉が引き攣った。
視界の明滅は止まらない。
その向こうで、大きな影が動いた。
ボリスが、スレッジハンマーを引きずりながら近づいてくる。
左の掌から落ちる血が、床に点々と続いていた。
刹那は右手に力を込めた。
指先の感覚は、まだ戻らない。
それでも、ナイフは握れている。
ボリスが足を止めた。
両手で柄を握り、スレッジハンマーを持ち上げる。
傷ついた左手の指が、柄へ食い込んだ。
刹那の身体に、再び影が落ちる。
後ろへ逃げても、次は避けられない。
逃げ続けるだけの力も残っていなかった。
刹那は身体を横へ返した。
左膝を身体の下へ引き入れ、右足を床につける。
脇腹を抉る痛みに、身体から力が抜けかけた。
それでも、右足は床から離さない。
ボリスの両腕が動く。
槌頭が、刹那へ振り下ろされた。
刹那は床を蹴った。
後ろではない。
落ちてくる槌頭へ向かって、前へ。
ナイフの腹を、傷ついた左手のすぐ下へ斜めに当てた。
止められない。
肩一つ分、横へ流せばいい。
刃と柄が擦れ、甲高い音が弾けた。
衝撃が、感覚のない右手を抜けて肘まで届く。
柄が、ボリスの左手の中で滑った。
傷口が開き、指がほどける。
残った右手だけでは、流れた槌頭を戻せない。
槌頭が刹那の右肩を外れ、その脇の床へ落ちた。
床が砕ける。
破片が頬を打った。
刹那は足を止めなかった。
斜めに傾いた柄とボリスの間を抜け、懐へ潜り込む。
ここなら、槌頭は届かない。
刹那は右肘を持ち上げた。
逆手の刃先を、ボリスの喉へ走らせる。
柄から外れた左手が、喉元へ跳ね上がった。
ボリスの指が、空中の刃を握り込む。
刃が、傷の残る掌と指の内側を裂いた。
切っ先が、喉へ届く寸前で止まる。
指の間から血が溢れた。
それでも、一撃目は止められた。
ボリスが、刃をさらに強く握ろうとする。
だが、指は最後まで閉じなかった。
止まっていた切っ先が、わずかに喉へ近づく。
刹那は肘を引いた。
右肩を後ろへ回し、腕ごと引く。
刃が掌をさらに裂き、開いた指の間を抜けた。
ボリスの左手が、喉の前から落ちる。
切っ先は、喉からわずかしか離れていなかった。
ボリスの右手が、ハンマーの柄を放す。
遅い。
刹那は右肩を前へ戻した。
刃先が喉へ突き刺さった。
肉を裂き、その奥へ沈む。
ボリスの顎が跳ね上がる。
斜めに立っていた柄が、床へ倒れた。
膝が折れる。
巨体が、後ろへ傾いていく。
刹那はナイフを抜かなかった。
倒れるボリスへ一歩踏み込み、その身体を追う。
ボリスの背中が床を打った。
刹那は倒れたボリスの腹部を跨ぎ、そのまま馬乗りになった。
腰を落とした衝撃に、右脇腹の奥で痛みが弾ける。
視界が白く染まった。
勝利判定は、まだ表示されていない。
ボリスの右腕が、わずかに持ち上がった。
刹那は喉からナイフを引き抜いた。
血が、迷彩服の胸元へ流れ落ちる。
逆手に握った刃を持ち上げる。
そのまま、もう一度喉へ振り下ろした。
刃が深く沈む。
持ち上がりかけた右腕が、床へ落ちた。
刹那は喉へ刃を突き立てたまま、動かなくなったボリスを見下ろした。
《WINNER:刹那》




