第31話 危険域
床を擦る重い音がした。
刹那は顔を上げた。
ボリスが、足元に落ちたスレッジハンマーの柄を右手で掴んだ。
ゆっくりと引き起こし、負傷した左手を重ねる。
左の掌から溢れた血が、柄を伝って床へ落ちた。
両腕で、スレッジハンマーを頭上へ持ち上げる。
刹那の身体へ、大きな影が落ちた。
逃げろ。
右手で床を押す。
脇腹の奥が、軋むように痛んだ。
身体が動かない。
もう一度、床を押した。
立つことは諦め、そのまま横へ倒れ込む。
直後。
スレッジハンマーが、刹那のいた場所へ振り下ろされた。
槌頭が床を打ち砕く。
衝撃が広場を揺らし、刹那の身体をさらに転がした。
「っ……!」
脇腹へ振動が響く。
戻りかけていた呼吸が、もう一度止まった。
砕けた床の破片が頬を掠める。
直撃はしていない。
まだ、生きている。
霞む視界の端で、刃が鈍く光った。
ボリスが投げ捨てたアーミーナイフ。
刹那は右手を伸ばした。
指先が柄に触れる。
一度、滑った。
もう一度伸ばし、今度は掴んだ。
背後で、金属が軋む。
ボリスが床へ食い込んだ槌頭を引き抜いていた。
刹那はナイフを握った右拳を床につけ、左膝を身体の下へ引き入れた。
息は浅い。
左腕の痺れも残っている。
右脇腹に力を入れるたび、身体の内側を抉られるような痛みが走った。
それでも、右脚を前へ出す。
靴底で床を踏み、膝を伸ばした。
立てた。
ただ、それだけだった。
構えを取る余裕はない。
ナイフを下げたまま、辛うじて両脚で身体を支えているにすぎなかった。
ボリスがハンマーを構え直した。
刹那は呼吸を整えようとする。
だが、その時間は与えられなかった。
ボリスが一歩を踏み出した。
待っていない。
二歩目。
巨体が一気に距離を潰してくる。
刹那は右へ半歩ずれた。
スレッジハンマーが横薙ぎに振るわれる。
身体を沈め、槌頭の下へ潜った。
頭上すれすれを、槌頭が唸りを上げて通過する。
そのまま間合いを切ろうとした。
だが、頭を上げるより先に、ボリスがさらに踏み込んできた。
振り抜かれた柄が、横から刹那の肩へ迫る。
ナイフの腹を柄へ当て、肩の外へ滑らせた。
軌道をわずかに逸らしただけで、右手首に痺れが走る。
刹那は一歩下がった。
ボリスは二歩進んだ。
距離が、開かない。
槌頭が持ち上がる。
刹那は横へ跳んだ。
直後、槌頭が床へ落ちる。
着地と同時に踏み込み、床へ食い込んだ槌頭の脇を抜けた。
今度は、刹那の間合い。
逆手の刃を、ボリスの右脇腹へ走らせる。
迷彩服が裂け、その下に赤い線が走った。
浅い。
刃を引くより先に、ボリスが右肩からぶつかってきた。
胸元を押し込まれ、身体が横へ流れる。
脇腹に痛みが走り、足が止まった。
床へ落ちた槌頭が、下から胸元へ振り上げられる。
刹那は上体を反らした。
槌頭が胸元の装備を削って通り過ぎる。
直撃ではない。
だが、掠めた衝撃に姿勢を崩された。
刹那は倒れ込むより先に、後ろへ跳んだ。
ボリスが追う。
槌頭が斜めに振り下ろされる。
刹那は横へかわし、その軌道から外れた。
逃れた先へ、柄が突き出される。
上体を捻った。
柄が左肩を掠め、身体が傾く。
足を止めず、ボリスの左側へ回り込もうとする。
ボリスが半歩ずれ、巨体で行く手を塞いだ。
刹那は後ろへ下がる。
次の槌頭を避ける。
返された柄を、ナイフで逸らす。
横へ抜け、また下がった。
一度防ぐたびに、右手が痺れた。
一度避けるたびに、脇腹の痛みが増した。
体勢を整える暇はない。
逃げ場も、少しずつ奪われていく。
ボリスがスレッジハンマーを横へ引いた。
横薙ぎ。
そう判断した瞬間、刹那は前へ踏み出した。
振り抜かれる前に懐へ入れば、槌頭は届かない。
ボリスの右腕の下。
装甲の切れ目へ、ナイフを突き込む。
刃先が触れる直前、ボリスの重心が沈んだ。
ハンマーは、振られなかった。
「──っ!」
ボリスが右肩から突っ込んできた。
刹那は咄嗟に左腕を胸の前へ挟んだ。
受け止められない。
巨体に押し潰され、両足が床から離れた。
肺から空気が押し出される。
突き出した刃先がボディアーマーの表面を滑り、何も捉えないまま外れた。
刹那の身体が後ろへ弾かれる。
着地した足が、一歩、二歩と後ろへ流れた。
右脚で踏みとどまろうとして、脇腹の痛みに膝が折れた。
姿勢が戻らない。
ボリスは止まっていなかった。
タックルの勢いのまま踏み込み、腰を回す。
横薙ぎの槌頭が、右脇腹へ迫った。
避けられない。
刹那は逆手に握ったナイフを、脇腹の前へ立てた。
痺れの残る左前腕を、右腕の内側へ重ねる。
受け止められるなどとは、思っていなかった。
それでも、そこへ腕を差し込むしかなかった。
槌頭が、ナイフの腹を打った。
衝撃が右手を突き抜ける。
右腕が、重ねた左腕へ押し込まれた。
ナイフもろとも、両腕が右脇腹へ叩きつけられる。
なおも、槌頭の勢いは止まらない。
両腕の上から、右脇腹へ深く食い込んだ。
身体の内側で、何かが弾けた。
床が遠ざかる。
次の瞬間、背中から床へ叩きつけられた。
音が消え、視界が明滅する。
息を吸おうとしても、身体が動かない。
指先の感覚もなかった。
それでも、右手はナイフを離していなかった。
腕のデバイスが、赤く明滅していた。
総合状態──〈危険〉




