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第30話 一撃の重み

 左腕が、痺れていた。


 ボリスから視線を逸らさず、刹那は指を開き、握った。


 動く。


 感覚もある。


 だが、先ほどの回転蹴りを受けた箇所には、熱を持ったような鈍い痛みが残っていた。


「……冗談だろ」


 刹那は小さく息を吐いた。


 腕で受けた。


 直撃は避けた。


 それでも、これだ。


 正面では、ボリスがスレッジハンマーを構え直していた。


 追ってこない。


 焦りも、苛立ちもない。


 ただ、刹那が間合いへ戻ってくるのを待っていた。


 速さだけなら、負けていない。


 捕まらずに逃げ続けることもできる。


 けれども、それでは勝てない。


 倒すためには、こちらから触れにいくしかなかった。


 刹那が床を蹴る。


 ボリスの肩が動いた。


 横薙ぎ。


 振り抜かれるより早く姿勢を落とし、ハンマーの柄の下へ潜り込む。


 懐へ入った。


 逆手の刃を、ボリスの右上腕へ走らせた。


 手応えは浅い。


 ボリスは退かない。


 顔色も変えず、刹那を正面に捉え直そうとする。


 刹那は離れなかった。


 上腕を裂いた刃を止め、そのまま手首を返す。


 狙いは、その付け根。


 ボディアーマーの隙間──腋へ、刃先を突き上げた。


 ボリスの右腕が下がる。


 脇を締め、刃を持つ腕を挟み込んだ。


「っ……!」


 刃が止まった。


 同時に巨体が半歩踏み込んでくる。


 ボリスの右肩が、刹那の胸元へ食い込んだ。


 上体を起こされる。


 肩で押し上げられる勢いに合わせ、刹那は身体を捻った。


 挟まれた腕を引き抜き、姿勢を沈める。


 そのまま巨体の横をすり抜けた。


 背後へ抜ける。


 追撃はしない。


 一歩、二歩と距離を取り、振り返る。


 ボリスの上腕から赤い雫が落ちていた。


 対して腋には、傷ひとつない。


「……なるほどな」


 上腕への刃は、防ごうともしなかった。


 だが、腋を狙った瞬間だけは違った。


 深く入れば、右腕は使えない。


 スレッジハンマーも振れなくなる。


 だから、防いだ。


 確かめる。


 刹那は再び踏み込んだ。


 今度は正面。


 振り下ろされたハンマーを右へかわし、床を打った槌頭の横を抜ける。


 ボリスの左側。


 すれ違いざまに、左の肩口を切り裂いた。


 浅い。


 ボリスは構わず、床からハンマーを引き上げようとしていた。


 刹那は刃を引かなかった。


 切りつけた位置から軌道を変え、刃先を眼へ向ける。


 ボリスの左腕が上がった。


 前腕が刹那の手首へ触れる。


 ほんのわずかに角度を変え、刃の軌道だけを顔の外へ逸らす。


 速いわけではない。


 刹那の腕が通る場所へ、先に置かれているだけだった。


 刃を流すのと同時に、ボリスが半歩踏み込んだ。


 刃先がボリスの横を通り過ぎた。


 その時にはもう、ボリスの顔が目の前にあった。


「──っ」


 空間を潰されている。


 退くための一歩が踏めない。


 ボリスの額が迫る。


 刹那は咄嗟に顔を背けた。


 避けきれない。


 硬い前額部が眉の端を打ち抜き、視界が白く弾けた。


 耳の奥で音が遠ざかる。


 それでも倒れず、ボリスの胸を蹴って強引に身体を離した。


 着地と同時に、膝がわずかに沈む。


 片目が熱い。


 頬を伝ったものを指で拭うと、指先に赤い線が残った。


 ボリスは追ってこなかった。


 また、待っている。


 腕。


 肩。


 どちらを切った時も、防がなかった。


 腋と眼。


 そこへ刃を向けた時だけ、動いた。


 防げないんじゃない。


 防ぐ必要のある攻撃だけを、防いでいる。


 それ以外は、受けても問題ないと判断している。


 刹那が刻んだ傷は、すでに一つや二つではない。


 迷彩服は所々が裂け、その下から血が滲んでいる。


 それでも、呼吸は乱れていない。


 ハンマーを握る腕も、脚も、まだ死んでいない。


 攻撃は届いている。


 それでも、戦況はボリスへ傾いていた。


「硬いにも限度があるだろ」


 刹那は口元を歪めた。


 愚痴を言っても、装甲が薄くなるわけではない。


 浅い傷をいくら増やしても止まらない。


 なら、狙う場所は変わらない。


 変えるべきは、そこへ至るまでの軌道だ。


 刹那はナイフを握り直す。


 左腕の痺れは、まだ抜けきっていない。


 片目も霞んでいる。


 けれど、見えた。


 ボリスが刃を受け流す方向。


 踏み込んでくる足。


 頭突きへ移る直前、わずかに沈む重心。


 一度見れば、十分。


 刹那がもう一度駆ける。


 正面から。


 先ほどと同じ角度。


 ボリスのハンマーが持ち上がる。


 刹那は速度を落とさなかった。


 振り下ろされる直前に進行方向をずらし、ボリスの左側へ踏み込む。


 左の肩口を浅く切る。


 ボリスは反応しない。


 刹那はそのまま刃を返した。


 狙いは、左眼。


 先ほどと同じ攻撃。


 ボリスの左腕が上がる。


 前腕が手首に触れ、刃を外へ流そうとする。


 刹那は逆らわなかった。


 押された方向へ、自分から腕を走らせる。


 同時に軸足を踏み替え、身体を回す。


 その勢いを殺さず、ボリスの左腕の外側へ抜ける。


 頭突きが空を切った。


 ボリスの側面。


 ハンマーは届かない。


 肘も、膝も間に合わない。


 刹那は回転した身体を止めず、手首を返す。


 流された刃が弧を描き、顎の下へ戻る。


 届く。


 今度こそ、逸らせない。


 刃先が、ボリスの喉へ迫る。


 ボリスの右手が、スレッジハンマーを放した。


 左手が、喉と刃の間へ割り込む。


 止めるには遅い。


 刃先が掌へ突き刺さった。


 肉を裂き、そのまま深く沈む。


 それでも、ボリスは手を引かなかった。


「なっ──」


 指が閉じる。


 刃を突き立てられた左手で、刹那の拳ごと握り込む。


 抜けない。


 手首を返しても、刃を引いても、ボリスの指は開かなかった。


 喉へ届くはずだった一撃が、その掌に縫い止められている。


 遅れて、重い音が足元で響いた。


 空いた右手が、刹那の肘を押さえる。


 腕を捻られる。


 肩が浮く。


 足が床から離れたわけではないのに、重心だけが完全に奪われた。


 刹那の身体が、ボリスへ引き寄せられる。


 逃げなければ。


 そう思った時には、もうボリスの膝が見えていた。


 大きく振りかぶることもない。


 わずかに腰を落とし、身体を引き寄せるのと同時に、短く突き上げる。


 刹那の右脇腹に、膝がめり込んだ。


 身体の内側で、乾いた音がした。


 息が止まる。


 声は出なかった。


 肺に残っていた空気だけが、喉の奥から零れた。


 ナイフを握る指から、力が抜けた。


 ボリスの両手が離れる。


 刹那の身体が、その場に崩れ落ちた。


 ボリスは左の掌に残ったナイフを引き抜き、床へ投げ捨てた。


「どうした。これで終わりか」


 立ち上がろうとして、右腕に力を込めた。


 動かない。


 違う。


 腕ではない。


 息を吸おうとする。


 けれども、横隔膜が引き攣ったまま、動かなかった。


 脇腹の奥で、鈍い痛みが脈打っている。


 腕のデバイスが、黄色く明滅していた。


 総合状態──〈注意〉

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