第2話 歩幅
自動ドアを抜けると、夕方の肌寒さと人の流れが刹那を迎えた。
帽子を深く被り、マスクの位置を指先で直す。
駅まで続く歩道は、隙間なく人で埋め尽くされていた。
疲れたような顔で歩く、スーツ姿の男。楽しそうに会話をしながら、ショーケースを眺めるカップル。スマートフォンを片手に、怒鳴り声を上げる女。
見慣れた光景。
誰もが波のように、同じ方向へ歩みを進めている。
刹那は小さく息を吐き、その中へ足を踏み入れた。
帰り道は、ただ歩いているだけで疲れていく。
急に足を止める者。横から進路へ入り込む者。
避けるたび、歩幅が削られる。
刹那は苛立ちを飲み込み、そのまま歩みを進めた。
しばらく歩くと駅に着いた。
ここも同じ。
雑踏が網のように足に絡みつく。
駅のホームで電車を待っていると、刹那のスマートフォンが短く振動した。
刹那はジャケットのポケットからスマートフォンを取り出し、画面を見た。
【メッセージ:1件】
画面を開くと、アリスからのメッセージ。
【Alice:貴女に頼まれた後始末、終わらせておいたわ。次は無いと思いなさい。】
後始末。
不穏な言葉に、刹那は画面を見つめながら眉をひそめた。
ホームに電車の到着を知らせる音楽が鳴った。
身に覚えが、多すぎる。
アリスがどれのことを指しているのか、見当もつかなかった。
刹那は、メッセージから目をそらすようにスマートフォンをポケットにしまった。
それにしても、アリスには言葉が足りない。
自分がわかっているなら、相手もわかるだろう。そう思っている節が昔からある。
頭がいいからそう思ってしまうのか。
いや、頭がいいやつはそれも見越して話をするはず。
だから、アリスはわかってやっている。
相手がどこまで理解しているか、わざと試すように話す。
つまり、あいつは性格が悪い。
今回のメッセージも、深い意味はない、はず。
刹那は心の中でそう結論づけて、到着した電車に乗り込んだ。
電車を乗り継ぎ、自宅の最寄り駅へ着いた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
改札を抜ける。
都心とは違い、行き交う人の姿はまばらだった。
刹那はそこでようやく帽子のつばを少し上げ、大きく息を吐いた。
誰かに合わせる必要のない歩幅へ戻す。
最寄り駅を出てしばらく歩くと、香ばしい匂いが鼻先を掠めた。
足が止まる。
通りの向こうでは、赤い暖簾を下げたラーメン屋から、白い湯気が漏れていた。
腹が微かに鳴る。
刹那はしばらく店先を見つめ、それからスマートフォンの時刻を確認した。
「……無理だな」
明日も仕事がある。
この時間から食べれば、朝まで身体に残る。塩分も、脂も、今は余計。
Code:VIRに入れば、味だけならいくらでも楽しめる。
現実の空腹まで満たされるわけではない。
それでも、食べたい気持ちくらいは誤魔化せる。
刹那は、もう一度だけ匂いを吸い込み、店に背を向けた。
それから数分歩くと、自宅のマンションが見えてきた。
入り口脇の解錠端末にカードをかざし、自動ドアをくぐり抜ける。
エレベーターに乗り、六階のボタンを押す。
そこでようやく帽子とマスクを外し、乱雑に前髪をかき上げた。
六階に到着すると、廊下を足早に進み、自宅の扉を開けた。
「あー疲れた……」
刹那は、ため息のような声を漏らしながら、靴を脱ぎ捨てた。
そして、そのまま真っすぐリビングへと向かった。
電気をつけると、リビングは普段通り整っていた。
整っているというよりも、散らかるほどものがなかった。
中央には、グレーのローテーブルと大きめのソファー。壁面には、大型モニターが掛けられている。
どれもが邪魔にならない位置に置かれていた。
「先にシャワーだけ浴びてくるか」
刹那は帽子とマスクをソファーに投げ出し、浴室へ向かった。
しばらくして、湯気をまとった刹那が、長い黒髪を後ろにまとめて戻ってきた。
そのままキッチンの冷蔵庫を開けて、晩御飯の準備に取り掛かった。
冷蔵庫から保存用のタッパーを取り出し、シンクとコンロの間の調理スペースに置いた。
中には、茹でて切り分けた鶏胸肉と葉物サラダ。
いつもなら、何も考えずに食べられる。
けれど今夜は、先ほど嗅いだ香ばしい匂いが頭から離れなかった。
刹那は背後の戸棚へ顔を向けた。
その奥に、非常食として買っておいたカップラーメンがある。
非常食。
それが今なんじゃないか。
そんな誘惑が、耳元で囁いてくる。
「いかん、いかん」
刹那は首を横に振り、その誘惑を振り払った。
余計なことを考えないよう、目の前の夕食を黙々と口へ運んだ。
晩御飯を食べ終えると、軽くストレッチをしてから寝室へ向かった。
寝室にはベッドとサイドテーブル。
サイドテーブルの上には小型モニターと、専用スタンドに収められたシナプスヘルム。
刹那はシナプスヘルムを手に取ると、ベッドに倒れ込んだ。
その時、マネージャーの言葉が脳裏によみがえった。
楽しそうで何より。
「楽しそうねぇ……」
刹那はシナプスヘルムを掲げ、小さく呟いた。
Code:VIRを始めた頃は、全てが新鮮で楽しかった。
リアルすぎて、少し引くレベルの体感。
危険だから好きなわけではない。痛みが欲しいわけでもない。
ただ、走るのが気持ちいい。思い切り身体を動かせるのが楽しい。
続けた理由なんて、その程度だった。
似たような体験ができるゲームなら、他にもあった。
けれども、気づいたときには知り合いができて、ログインするのが日常になっていた。
そして今は──
刹那は口元を緩め、シナプスヘルムを頭にかぶせた。
「楓さんにラーメンでも作ってもらうかな」




