第1章 1
パタパタと誰かが走る音。ぼそぼそと誰かが話す声。それらがだんだんはっきりと聞えてくるようになる。ここはどこだろうか。ゆっくりと目を開ける。どうやら、自分は死なずに済んだらしい。そして今、どこかに運ばれて、ついさっきまで気を失っていて、ここに寝かされていたらしい。まだ頭がぼーっとする。上半身を起こして、自分が寝かされていた場所をぐるりと見渡した。
落ち着いた色合いの壁紙に、高級そうな家具たち。透が寝かされていたベッドもふかふかで、とても良いものであることが分かる。ふと、自分の着ている服が変わっていることに気が付いた。パジャマのようなものを着せられている。とても着心地が良い。
色々と、気になることが多すぎる。働かない頭で必死に状況を理解しようとする透の耳に、ガチャ、とドアが開く音が聞こえた。
「あ、よかった。目を覚ましたのね」
聞き覚えのある、鈴の鳴るような声。透がドアの方を向くと、そこにはあのコンセプトカフェの店員である、るながいた。前のような大きなツインテールはしておらず、おろしたままになっている。
「え?えっと、るなさん?」
「あら、覚えていてくれたのね、嬉しいわ。いろいろ気になることがあると思うけど、それは後。今は、貴方の体調について聞かせて頂戴」
るなは手に持っていたトレーをサイドテーブルに置くと、そこに乗っていたピッチャーからカップに水を入れ、透に渡してくれた。飲め、と言われているのだろうか。ありがたく頂戴する。冷たい水がすっとのどを通る感覚が心地よくて、あっという間に飲み終えてしまった。透は自分が思っているよりもずっと、のどが渇いていたらしい。それを見届けたるなは、ベッドの傍においてあった椅子に腰かけ、透に向き合う。
「痛むところはあるかしら。まだ頭がくらくらするとか、気持ち悪いとかもない?遠慮なく言ってちょうだいね」
そう聞かれて、気を失う直前のことを思い出す。確か自分は、ふくらはぎのあたりに怪我をしていたはず。あの時の焦燥感が頭の隅にちらついて顔をしかめるが、今はあの時のような痛みを感じない。大丈夫です、と小さく言葉を返した。そして、ずっと気になっていることを口にした。
「えっと、あの、ここはどこですか?私、さっきまで外にいたはずじゃ……」
困惑しつつも、しっかりと喋れていることを確認したるなは、うんうん、と大きくうなずいた。
「良かった、今は問題なさそうね。気になることにはちゃんと答えるから、落ち着いて聞いてちょうだいね。と、その前に、もう少しだけ私から質問してもいいかしら。まず貴方、襲われて、逃げている最中にふくらはぎに傷を負ったことは思えているかしら?」
忘れるわけがない。透は大きくうなずいた。それと同時に、傷がどうなっているのかを確認したくなって、布団をめくろうとする。だがそれは、るなの手によって阻止された。
「ああ、確認しなくても大丈夫よ。というか、見ない方がいいわ。あれ、縫うくらいひどい傷だったのよ。安心して、ちゃんと治療は済ませたわ」
布団から手をそっと放して、胸の前に持ってくる。そのまま、ぎゅっと手を握りこんだ。少し、震えている。
そんなに大きな傷だとは思わなかった。見ないで正解だったかもしれない。自分の脚に縫った跡があるのは、あまり見たくないかもしれない。るなは話を続ける。
「それで、少し残念なお知らせになるのだけれど。貴方は今、麻酔が効いているから大丈夫なだけで、あと数時間もすると麻酔が切れてしまうの。そうなれば、とても痛みだすと思うわ。それに、そもそも傷が深いからしっかり歩けるかどうかも危ういの。熱だって上がってくるかもしれない。だから今日は、このままここに泊まってもらいます」
思わず、え、と驚きの声を口にしてしまう。家に帰ることができない。しかも、素性がまるっきりわからない、コンセプトカフェの店員の家に。
「……そうよね、カフェで接客しただけのただの他人の家に泊まるのは、嫌よね。でも、私もここであなたを帰すわけにはいかないのよ」
るなの顔は、真剣なものであった。その様子から本気で言っているのだという事がひしひしと伝わり、これは何を言っても帰してくれないのだ、と素直にそう思った透は、うなずくことしかできなかった。
今、自分の身に降りかかっている出来事が他人事のように思えて、うまく感情にのせることができない。麻酔のおかげで痛みが全くないというのも、この他人事のようにとらえている原因の一つになっているのかもな、とか、そういった考察ができているから、自分は案外今の状況を冷静に判断できているのかもしれない、といった考えや言葉が頭の中に浮かぶ。
__あれ、でも、そもそもなぜ襲われたことをこの人は知っているのだろうか。なぜ自分はこんな大怪我を負っているのに、病院ではなく個人宅にいるのだろうか。そうだ、自分の家は大丈夫なのだろうか。自分が襲われたことによって、父に何かあれば、どうしよう。
自分が置かれている状況を、冷静に考えることができているのではと思った矢先にこれだ。様々な懸念が透の頭の中でぐるぐる回り始める。さっきまでの冷静さは姿を隠して、どこかへ消えてしまった。聞きたいことは沢山あるのに、何も口から出てこない。どうしよう、どうしよう。
ふと、顔を真っ青にしてうつむく透の手がそっと握られて、思わずるなの顔を見る。大きな瞳が、透のことを見つめている。
「気になること、沢山あるわよね。でも、大丈夫。今は何も気にしなくていいわ。今は休むことに集中して。何度も言っているけど、貴方はひどい傷を負っているの。無理やりになってしまってごめんなさいね、でも傷が癒えたら、すべて話すから」
だから、ここにいて。
るなは透を落ち着かせるような、優しい顔をしていた。だが、その声色には優しさと共に、反論を許さぬ強い圧の様なものも感じられて、透はまた、うなずくことしかできなかった。
「あとね」
るなは透の手を握ったまま、徐に席を立つと、片手を透に頭の上にぽん、と置いた。そして、ゆっくりと撫で始める。
「突然追いかけられて、襲われて、怖かったわよね。ここでは、貴方の安全は約束されているわ。安心して。……よく頑張ったわね」
怖かった。
真っ暗な夜道で、何もわからなくなって、痛くて、つらい思いをして。
そう、自分は今の今までずっと、怖かったのだ。無意識に押し込めていた感情があふれてきて、透の目から涙が零れ落ちた。今も全く知らない環境に置かれて、困惑と恐怖が一緒くたになってしまっているが、この暖かくて優しい手を持っていて、頑張ったね、と言ってくれた少女が、透に危害を加えるようには思わなかった。涙は洪水のように溢れて止まらない。透が泣いている間、るなはずっと透の傍にいて、頭をなでてくれていた。そうしていつのまにか透は、また夢の中へと落ちていった。




