132.アイリの決断
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自分を包んで飲みこもうとする赤い糸を、ユーリはルエンを振って斬り捨てる。同時に魔法陣を展開して、床に落ちた糸を焼き払う。
けれど細い糸は一本、また一本と彼の体に絡みついてくる。部屋は呪いの結界により外部から遮断され、内側からは助けも呼べない。
閉鎖された場で激しく動き、息苦しさの増したユーリは苦しげに顔をゆがめた。それでも彼はさらに魔法陣を放ち、身体強化の呪文をかける。
動きを止めたら、待っているのは死だ。ぱっくり開けた奈落の底、黒曜石の瞳を持つ友人の顔が浮かんだ。
「させるかぁっ!」
けれど、ついに赤い糸はルエンを握る彼の右腕に絡みつき、全身を覆ってその動きを完全に封じる。
「ぐっ……」
膝をつくユーリの心臓めがけ、呪いの糸は勢いよく走ると、バキバキと嫌な音を立てて胸を破った。床に散った赤は鮮血、同じ色の糸はどくどくと脈打つ心臓に絡みつき、その動きを止めようとうごめいた。
けれど絡みついた赤い糸がいくら締めつけても、心臓は規則正しく拍動を続ける。それもそのはずで、痛みに悲鳴をあげてのたうち回る彼の首には、鈍色のチョーカーはまっていない。
「偽物とはいえ痛めつけられる自分を見るのは、ゾッとするな……」
王族に伝わる身代わりの幻術に、呪いの糸が惑わされているのを横目に、ユーリは指を動かして魔法陣を構築していた。錬金術師団の特徴的な白いローブに目くらましの術式をほどこし、彼自身は呪いから身を隠している。
遠隔操作の呪いだったからできたことだ。じきに呪術師も気づくだろう。
「時間かせぎにはじゅうぶん。あと少し……」
魔法陣の最後のピースを埋めさえすれば……もう少しだ……そう思ったとき突然、喉に灼けるような痛みが走り、術式を紡ぐユーリの手が止まる。
(呪いの糸に気づかれた⁉)
けれど糸はまだ、ビクビクと全身をけいれんさせるユーリの幻をなぶり続けている。
グレンとの契約の証、鈍色のチョーカーの魔石から術式が全身に広がり、魔素が骨にまで浸透していく。背骨を貫くような強烈な痛みに、ユーリは愕然とした。
(この痛み……チョーカーからか!だが今でなくとも……もう少しあとにしてくれ!)
確かに赤い魔石は熱を持ち、いつ外れてもおかしくない状態だと、ネリアにも言われていた。
「かはっ!」
喉の痛みのせいで、うまく呼吸できなくなった。ユーリが必死に口を開けても、ひゅうひゅうと音はするだけで空気が吸えない。また奈落の底から、友人の顔が浮かぶ。
(リーエン……きみとの約束を果たさせてくれ!)
ぼやけてにじむ視界で必死に術式をとらえ、ユーリは震える指で魔法陣の最後のピースを描きあげる。
そのとたん、契約を司る要石……チョーカーのヘッドに埋められていた魔石が砕け散り、グレンのチョーカーが外れて床に落ちる。
「うああああっ!」
全身が引きちぎられるような激痛に襲われ、意識を失ったユーリが倒れると、術者が意識を失ったことで幻術が解け、目標を失った呪いの糸はとまどうように室内をさまよう。
だがすぐに糸は、倒れこんだ錬金術師の青年を見つけ、こんどこそまっすぐに心臓めがけて伸びていった。
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『刺繍はね、想いをこめるから、見る人の心を温めるのです』
母を幼くして亡くしたアイリに、刺繍を教えてくれたのは、行儀作法のマーサ先生だった。
『お母様がひと針ひと針、アイリ様のために心をこめて刺された、この刺繍をごらんになって。亡くなられたお母様の愛に、アイリ様は今も包まれておいでです』
先生はそう言って、母の刺繍したブランケットを広げて彼女に見せてくれた。そう……刺繍は想いをこめて刺すもの。
ヒルシュタッフ邸の書斎では、静かになったアイリを放って、呪術師が術の完成を急いでいる。禍々しい赤い光を発する魔法陣の上を、彼の手から垂れた糸が生きもののようにうごめいている。
(どうすればいいの。このまま何もできず、見守るしかないなんて……)
マグナスは事が成就したら、彼女の記憶を抜くという。彼女は何もかも忘れて、悲しみにくれるカディアンのもとへ行き……そうして平然と彼になぐさめの言葉を口にするのだろう。
悔しさと悲しさで、アイリの紅の瞳から涙があふれてほほを伝った。床に落ちたしずくが、じゅうたんの色を変える。
(体を動かすことはできないけれど、涙は流せる……私の心までは支配されていない。まだよ、まだ呪いは成就していない……今の私にできること……)
あの刺繡にはアイリの想いがこめられている。ユーリの命を今にも消し去ろうとしている糸は、決して呪いなんかじゃない。
(そうよ、呪いなんかじゃない。あの刺繍には、彼への感謝の気持ちがこめられているもの!)
想い人の兄である彼への感謝とわびと……そして遠慮がちな親愛の情をこめて、彼女がひと針ひと針さしたものだ。
魔法陣の中央に立って赤い糸をあやつりながら、爛々と目を輝かせて呪詛を唱えていた男は、やがて獲物をとらえたのかニヤリと笑った。
「ククク……遠隔で術を完成させれば証拠も残らん。めんどうな罠を張り、王城に送りこめたのは小娘の刺した刺繍だけだったが、それで十分だ!」
呪術師とユーリを結びつけているものは、アイリがほどこした刺繍だ。それを媒体にして、呪術師は呪いを成就させようとしている。けれど彼女が刺繍にこめた想いに、ふたりの王子を呪う気持ちなど入っていない。
(彼が自分で想いをこめたのなら呪いだけど……ハンカチに刺繍を刺したのは私だもの。どうにかして、あの糸を切る方法は……)
幼いアイリとカディアンを結びつけていた……だいじな刺繍を呪いの道具として使われるなんて許せない。
「フッ、ハハハハ!エクグラシアの獅子狩りがこんなに簡単だとはな!」
手にたぐり寄せた糸をひき絞るようにして、勝利を確信した呪術師が高笑いする。耳障りな声が、さっき彼が放った言葉をよみがえらせる。
『お嬢様のまっすぐで純粋な想いが、二人の王子にわが呪いを届けてくださった』
(呪いを届けたのは……私の想い。ああ、そうか……)
糸を切るには、想いを断ち切ればいい。
男たちに押さえつけられたまま、アイリは必死に目を凝らした。呪術師は彼の手にある糸をあやつり、魔法陣を通してユーリの手元にあるハンカチの刺繍に干渉している。
(あの魔法陣にふれることができれば……けれどここから、部屋の中央までは距離がある)
アイリが抗う力を抜いてすっと身を沈めれば、肩を押さえつけていた男たちの手が離れる。彼らも呪術師のほうに気をとられ、彼女をつかまえようとはしなかった。
とはいえ動けば、たやすく阻止されるだろう。彼女がうつむくと長いラベンダー色の髪が床に落ちる。そのまま誰からも表情が見えないようにして、口のなかで術式を紡ぐ。
アイリの世話をしながら、マーサ先生はよく彼女の髪をほめてくれた。
『糸にも髪にも想いがこめられます。アイリ様の髪はお母様ゆずりですし、きれいに長く伸ばしましょうね』
よく手入れされた長く美しい髪は、貴族女性の証でもある。手間はかかったけれど、父やカディアンにも彼女の髪はほめられた。
『アイリの髪って、どんな刺繍糸よりもきれいだな!』
そう言って笑った彼の無邪気な笑顔を、彼女は心の中で消し去った。
「さようなら……カディアン」
小さな声でつぶやき顔をあげたアイリは、キッとマグナスをにらみつける。
「あなたに主導権は渡さない。あれは私の刺繍よ!」
彼女の叫びと同時に、ラベンダー色の髪が宙に舞った。
ザシュッ!ザシュッ!ザシュッ!
「なんだと⁉」
彼女の呼び起こしたかまいたちが書斎を吹き荒れ、長く美しいラベンダー色の髪を切り散らす。
散り散りになった彼女の髪が、魔法陣に降り注ぐと同時に、マグナスの手から魔法陣に繋がり、ピンと張っていた糸が断ち切られてゆく。
驚いた呪術師は信じられないという顔つきで、手に握った糸を見下ろした。魔法陣の上を生きもののようにうごめいていた糸は力を失い、赤黒くいとぐろを巻いて動かなくなる。
「きさまっ、よくも私の呪をっ!」
術の完成間近で邪魔をされた彼の怒りはすさまじかった。吠えるような怒号とともに、まっ黒な魔法陣を展開すると、床に座りこんだままのアイリへと呪を放った。
『魔術師の猫~魔術師レオポルドと、使い魔の猫~』という新連載を始めました。そっちはのんびりと不定期更新です。登場人物や舞台設定は重なっていますが、ネリアは出てきません。











