さよならのキス
リュカに案内されて、ジェニーはカミーユと再会した。
「ジェニー、良かった。無事で」
「…………」
声には出さなかったが、ヴィルシェーズ家の立派すぎる邸宅に、ジェニーは内心で圧倒されていた。カミーユの自室であるというこの部屋にも、どこを見てもセンスの良い美しい調度品が置かれている。この家で長年暮らしていて、よくジェニーの家で寝泊まりできたなとカミーユの適応力の高さに感心してしまった。ジェニーにとっては快適な我が家も、ここに比べればあまりに小さい。
「どこにも怪我してない?」
「…………」
シンプルだが、上質の生地を使った仕立てのいい衣服は、カミーユにとても良く似合っていた。思わず一瞬見惚れてしまう。
「ジェニー?」
うっかり返事をしないでいたら、カミーユは心配そうな顔でジェニーの顔を覗き込んでくる。はっとしてジェニーは、慌てて答えた。
「私は大丈夫。あなたは?」
ジェニーの様子を確かめて、カミーユはほっとしたように言った。
「大丈夫だよ。お陰で魔力も戻ったし。分かる?」
これほど近くに寄らずとも、すぐに感知できるだろう。それくらいカミーユの魔力は高い。ジェニーは頷いてから答えた。
「これなら部屋に忍び込まれても、絶対に分かるわ」
「え、それは面白くないかも」
ジェニーが思わず表情を緩めると、カミーユも柔らかな笑顔になった。
それからジェニーは、心配だったことを尋ねた。
「……あなたが戻って、どうだった?」
ジェニーが聞きたいことを理解したのか、カミーユは僅かに目を伏せる。
「伯父夫婦は、心から無事を喜んでくれたよ。それから、こんなことになるならユメル家との話を進めるべきじゃなかったって、何度も何度も謝られた。俺がいない間、そんな風に思わせてたのかと思うと、申し訳なかった」
「そう……」
カミーユが目を上げたので、視線がぶつかった。心を決めたジェニーは、じっとカミーユの瞳を見つめる。
何かを察したのか、カミーユは小さく眉を寄せた。
「カミーユ、私の任務は終わりよ。夜が明けたらパラディーを出るわ」
「……それは、分かってる」
カミーユは、急いた様子で言葉を続けた。
「俺はしばらく王宮に行かなくちゃいけない。でもそれが終わったら――」
言いかけて、しかしカミーユは言葉を飲み込んだ。ジェニーは一瞬も目を逸らさなかった。本当の気持ちを言って欲しいという思いは、伝わっただろうか。
「終わったら、どうしたいの?」
落ち着いた声で聞けば、カミーユは少しの間沈黙して、それから言った。
「……リュカとアリアーヌのことがある。できれば力になってあげたい。今回のことで、伯父夫婦のユメル家への心証は最悪だ」
「そうね」
「今回のことでユメル卿も痛手を受けてる。リュカたちのことをユメル卿が認めれば、国にとってもきっと転機になる。だからそのためにできることがあるのなら、俺も手伝うべきだと思う」
ジェニーは頷いて、カミーユの気持ちを理解しているということを伝える。
「あなたはここに残ったほうがいいと思う。やるべきことがあるなら、やらずに後悔しないで。それに、あなたを慕ってくれるリュカに、寂しい思いをさせるのは可哀想だわ」
もしもジェニーが望めば、カミーユはきっと全てを捨てて今すぐにでもここを出てくれるだろう。でもジェニーは、カミーユに何かを捨てて欲しいわけではないのだ。
「ジェニー……」
「私にだって国や仕事がある。あなたの気持ちは分かるわ」
「…………」
言葉を失ったかのように沈黙したカミーユは、やがてそっとジェニーの手を取った。
「すべてが終わったら、君の気持ちを聞かせてって言ったのを覚えてる?」
ジェニーは足元が揺れるような感覚に陥っていた。こみ上げるものを堪えるので必死だった。
「もちろん、覚えてるわ」
「……君は、寂しくない?」
その眼差しだけで、どれだけ心配されているのかが伝わってくる。
気を張り続けていたのに、思わずジェニーの目頭が熱くなった。
寂しい。そうやってなりふり構わず感情をぶつけられたら、どんなにいいだろう。でもそうすれば、きっとジェニーは後悔する。それが分かっているから自分を律した。
「私は、待てるわ」
カミーユは小さく目を見開いた。
「私は獣人じゃないから、つがいかどうかなんて正直分からない。でもカミーユ、私はあなたを信じてる」
するとカミーユは、我を忘れたように一瞬でジェニーを抱きしめていた。
温かいカミーユの腕の中。つがいかどうかは分からないけれど、この場所はこんなにも心地いい。
カミーユの切ない声がジェニーの耳に届く。
「俺にできることをやって、ちゃんと話をして、納得してもらって。それから会いにいく。だから待ってて欲しい」
心からの願いが胸に響いて、ジェニーは慌ててカミーユの体にまぶたを押し付けた。このまま瞳を開けていたら、涙が溢れてしまうと思ったからだ。
「あなたを信じて待つわ。だからあなたも私を信じて」
「ジェニー」
強く強く抱きしめてから、カミーユはゆっくりと体を離す。瞳の中に宿った彼の想いが、星みたいに瞬いてジェニーを優しく包み込んだ。
「お願いだ。俺のつがいになって」
その切なる気持ちが泣きたいくらいに嬉しくて、ジェニーは懸命に涙を堪えて微笑みをつくった。
「いいわ」
「……本当に?」
信じられないように呟いてから、カミーユは攫うようにジェニーを横抱きにした。
この体勢は、お姫様抱っこというやつだ。あの時のやりとりを思い出してジェニーは少しいたずらっぽく笑う。
「私の王子様、なんでしょ?」
「夢みたいだ」
子供のように邪気のない笑顔になって、カミーユはそのまま部屋のベッドにジェニーを運ぶ。
糊の良く効いたなめらかな感触のベッドに降ろされて、ジェニーの上からカミーユが額に額を押し当ててくる。
「好きだよ、ジェニー。一生君だけだ」
吐息混じりの甘い声で告げて、カミーユは額や目や頬にキスをして、最後に唇を重ねて舌を絡めた。
夜が明けるまでは、まだ時間がある。離れてしまう日々に押しつぶされてしまわないように、ジェニーは必死の思いで腕をカミーユの首に回した。
明かりを落として数えきれないくらいのキスをする。首筋を舌で舐められ、耳を甘く噛まれれば、背筋をぞくりと震えが走る。二人の肌の間で汗と汗が溶けあって、痛みを堪えればやがてしっとりと重なった。
ひとつひとつの動作から伝わる狂おしいほどのカミーユの愛情が、ジェニーにこの上もない満足感を与えてくれた。何ひとつ漏らすことなく覚えていたい。心の底からそう祈った。
夜が明ける前に、ジェニーはカミーユの側を離れる。
衣擦れの音に目を開けたカミーユに、ジェニーはそっと唇を寄せた。
「……さよならのキス?」
カミーユの囁くような声には、悲しみが滲んでいた。
「そうね。でも、また会いましょうのキスよ」
ジェニーはその時はじめて、自分が笑いながら涙を流すことができるということを知った。




