第二話 音叉と怪物退治
大雪の日の翌朝、部屋の窓を開けると外はすっかり夏模様で、濡れた草木はきらきらと輝き、遠くの空には入道雲が浮かんでいた。まるで昨日のことが全部、夢だったような気がしてくる。ただ、机の上に出しっぱなしにしていた手袋だけが、夢の名残だった。
私はパジャマのまま、朝食のために階下へと下りる。
「お母さん、おっはよー!」
いつも通りリビングのドアを開ける。次の瞬間、ぶっ壊れそうな勢いでドアを閉めて、思わずうずくまった。心臓がドキドキしている。見間違いだよね? そんなわけないよね? もしかして、まだ夢を見ている?
おそるおそる、もう一度ドアを開ける。
ソファに座っているヴァリタス先生が、にっこり微笑んで
「おう!」
と、片手を上げた。
「あヴぁぁぁ!?」
私は部屋を飛び出し、階段を駆け上った。パジャマからお気に入りの花柄のワンピースに着替え、階段を駆け下りてパジャマを洗濯機に突っ込み、洗面台で顔をバシャバシャと洗い、すました顔でリビングに戻る。
「おはようございます、先生。こんな朝早くから来られるなんて、何かあったのですか?」
私がいかにも落ち着いた淑女のふりをしてたずねると、先生はわはははと声を上げて笑った。
「朝早くって……もう十時だけどね」
「うぐぁ!」
そうです、私はお寝坊さんです。恥ずかしすぎて、穴かあったら入りたいぐらい。
もじもじする私の後ろから、お父さんが部屋に入ってきた。
「ティア、おはよう。ヴァリタス先生が、診療に使う音叉を探しておられるそうで、うちにあるものをお貸ししようと思っているんだよ」
そう言うお父さんの手の中には、U字型の金属の塊らしいものがあった。はい、と先生に手渡す。
「何に使うんですか?」
ヴァリタス先生がにっこりと笑って、私に手招きした。先生は自分の腕に音叉を思いっきりぶつけると、今度はそれを私の手に当てる。ぶーんと振動が伝わってくる。それは次第に弱くなって、ついには何も感じられなくなった。
「振動、分かったやろ? 振動を感じる時間が正常より短くなると、それは手の神経がダメージを受けているってことなんだ」
「へぇ!」
「本当は、足の骨が出っ張ってるところでやるんだけどね」
ヴァリタス先生は、お茶うけのジャム付きクッキーをぱくりと口に放り込むと、立ち上がった。
「ありがとうございました。そろそろ、おいとまします」
「先生っ! 私も出かける用事があるので、途中まで一緒に行きましょ!」
一瞬、困ったように口をつぐんだ先生。けれど、すぐに
「いいよ」
と、微笑んだ。
カンカン照りの太陽の下を、先生と並んで歩いて行く。楽しくて、思わず鼻歌が漏れる。
「それ、何の歌?」
「最近、若者の間で流行ってる歌で、アイドルのリリ――」
ひゅん、と何かが頬をかすめた。次の瞬間、先生に地面に押し倒される。
「ちょっ! え……?」
先生はすぐに立ち上がり、右手に持った音叉をかまえた。その視線の先にいるのは、するどい爪を持った成人男性と同じくらいの大きさのある怪物、グーナ。怪物は爪を振り上げ、牙をむき出しにして威嚇してくる。
すぐに逃げ出したいのに、立てない。歯がかたかたと鳴る。
森に住む怪物たちはめったに人里に下りてこないはずなのに。
怪物が飛びかかってこようとしたそのとき、先生が音叉を自分の腕に思いっきりぶつけた。
ぶーんという低い音が、広がっていく。
怪物の動きが止まる。急に弱々しく耳を垂れて、怯えたように背を向けて森へと走って行ってしまった。
「大丈夫?」
先生が、私に向かって手を差し伸べる。手を取ると、じっとりと冷や汗をかいているのが分かった。先生も、かなり緊張していたらしい。
「ふうっ。間一髪だったな」
「何が起こったんですか?」
「あの森に住む怪物は、この音叉の出す125Hzの音が苦手なんだ。元々は、医療用じゃなくて怪物除けに使われていたらしいな」
先生に引っ張り上げられるようにして立ち上がる。緊張が解けたせいか、じわりと痛みを感じた。頬の、怪物の爪が当たったところに小さな傷ができていた。
「動物のひっかき傷は、適切に処置しないと細菌感染を起こす可能性が高い。手当てするから、うちの診療所においで」
うなずく。
まだ昨日の雪の名残で湿った道を並んで歩きながら、私は先生を上目遣いで見る。
「先生は命の恩人ですね。お礼は何が良いですか?」
「いや、別に。そんなの要らないから」
「クッキーとかどうですか。さっきのお茶うけ、私が作ったんです」
「おお、それはすごい」
先生は微笑んでくれているけれど、正直、私にはあまりこちらに関心がないように見えた。それが寂しくて切なくて、ちょっと涙が出る。
「大丈夫? 痛い?」
「こんな傷、大丈夫ですっ!」
「だから、動物のひっかき傷は……」
先生はおじさんだから、まさか私に憧れられているなんて思いもしないのだろう。
親と同世代の五十歳のおじさんになんて、十六の私が釣り合うわけがないのだから。




