第一話 片方なくした手袋と数年ぶりの雪
冷たい雪の中を、走っていく。手袋を片方なくしてしまい、むき出しになった右手がじんじんと痛む。視界は真っ白で、すぐ近くにあるはずの町の姿すら全く見えない。くるぶしの高さまで積もった雪に脚を取られながら、それでも必死に前へと進んだ。
この町に雪が降るなんて、一体何年ぶりだろう。気候温暖化のせいで、特産物だったキキの実が育たなくなってから、もう十年が経つ。キキの実は冬の寒さのおかげで甘くなる。だから、冬のなくなったこの町ではもう売り物になる実はつかない。私の父も既に廃業し、今は機械工場で働いている。給料は悪くないと言う。けれど、工場ができてから、この町の気温はさらに上がり、川の水は汚れて魚が棲めなくなり、森の木々は立ち枯れた。
ゆっくりと、世界が壊れていく。
走っても走っても町に着かなくて、心が折れそうになったとき、ふっと温かいオレンジ色の光が目の前で灯った。
「おう、ティアちゃん。こんな所でどうしたの?」
ランプをかかげているのは、町外れにある診療所のヴァリタス先生だった。優しい目でにっこりと笑って、手を差し伸べてくれる。私は、大きくて骨張ったその手を掴んだ。
ヴァリタス先生の診療所は、元々は物置だった小さな小屋を改装して作られている。
先生はランプを玄関の軒下につるすと、重いドアを開けて私を招き入れた。部屋に入ったとたん、温かな空気に体を包まれて、思わず大きく息を吐いた。
「ソファーに座り。お茶入れるから」
促されるまま座り、先生がポットでお茶を用意している様子をぼんやりと見ていた。
「こんなに雪が積もるのを見るの、初めてだ」
「先生は異国の方ですもんね」
先生は二年前、突然この町に現れた。この辺りでは見かけない白い薄手のコートをはおった姿で、何も持たずに。ときどき、そういうことがある。異国で神隠しにあった人が、迷い込んで来ることが。
先生は元の国ではお医者さんだったとのことで、無医村であるこの町で歓迎された。そして、町長直々の命令で診療所が整備されたのだ。
甘い香りが漂う。とぽぽ、とマグカップにお茶を入れる優しい音がする。
「どうぞ」
先生からわたされたカップは、ほどよい温かさだった。私はそれを両手で包み込む。
「ありがとうございます」
「どうも」
先生も私の向かいに腰掛け、片手でカップをあおった。そして、テーブルの上にコツンと置く。
「先生」
「ん? 何?」
「先生の本当の名前って、何なんですか」
「急にどうした」
「ちょっと……聞いてみたくて」
「ヴァリタスは、この国の言葉で真実って意味らしいね」
私は首をかしげる。けれど、先生はそれ以上は何も言わなかった。
「また、この町にも雪が降るようになったんでしょうか」
「いや、一時的な異常気象らしいね。明日からはまた常夏になるそうだ」
「異常気象……」
この白い世界の方が、本当なのに。
目頭が熱くなる。先生が、私の肩をぽんぽんと優しく叩いてくれた。
「お茶を飲み終わったら、家まで送っていくから」
「はい……」
顔を上げると、先生の優しそうな目と目が合った。
急に恥ずかしくなって、慌ててカップに口を付ける。
それは、キキの実のお茶だった。
また泣きそうになるのを必死にこらえながら、私はお茶をゆっくりと飲む。
窓の外は、まだ真っ白だ。




