後編 岩城正道
父を殺したお前ら。
母と生き別れにさせたお前ら。
姉と俺を攫ったお前ら。
俺らをこき使ってきたお前ら。
生き地獄の日々にさせてきたお前ら。
多くの仲間を殺してきたお前ら。
覚悟しておけ。
これからはお前らの番だ。
同じだけ苦しめ。
同じだけ悲しめ。
同じだけ泣き叫べ。
全部お前らがしてきたことだ。
ザマアミロ。
厨子王丸は国司の息子として、また、武士の家に生まれた男児として、文武両道の教育を受けてはきていた。
ただ、文武の双方とも父が流罪となった瞬間に中断させられていた。
武については、山椒大夫のもとで奴隷としてこき使われている間、山を巡り歩くことで体力を身につけてはいたが、剣も、弓矢も、乗馬もこなせなくなっている。
文となるともっと壊滅的だ。九歳までは読み書きを習っていたが、それ以降は止まってしまっている。簡単な文章であれば読み書きできるものの、少しでも難しくなると全く読み書きできなくなっている。
律令制が機能していた頃は、現在でいう小学校から高校にあたる教育機関である國學が日本全国各地に存在しており、國學の成績優秀者を都に集め、現在の大学に相当する大學寮で教育して、大學寮の成績優秀者を役人として採用するというシステムが存在していた。
そのシステムは律令制の崩壊とともに崩れ、教育は、家庭教育か、あるいは寺院かのどちらかに委ねられることとなった。貴族や役人の家に生まれた者は家庭教育で貴族や役人たるに相応しい教育を受けて育ち、そうでない者は、寺院で学ぶか、あるいは教育と無関係の人生を過ごすかのどちらかとなっていた。
四天王寺は教育の機会を提供する寺院として名を馳せていた。
寺院であっても有髪の若者が数多く住んでおり、彼らは四天王寺で学ぶことで、京都に登って貴族や役人となるか、あるいは出家して四天王寺をはじめとする寺院の僧侶になることを選んだ若者である。特に多かったのが、さほど有力ではない貴族や地位の低い役人の家に生まれた男児である。
有力貴族の家に生まれた者であれば家庭教育で十分であり、中には藤原氏の勧学院のようにその氏族の男児のみを集めた専門の教育機関を用意するところもあったが、そうした教育の機会を得られる見込みの乏しい家に生まれた男児は、しかも、教育の機会はないのに将来は教育を必要とする職に就くことを希望されている男児は、寺院に身を寄せることで将来必要となる学識を身につけることは珍しくなかった。
そうした寺院に身を寄せる男児のことを稚児という。
僧侶ではないために剃髪しておらず、それでいて、寺院の一員として生活をし、僧侶と変わらぬ教育を受けるのである。
四天王寺にはこうした稚児が最低でも一〇〇名はおり、そのほとんどが、親の後を継ぐことを求められながら教育の機会を得られないでいた者である。厨子王丸は元国司の息子という、明らかに庶民ではない生まれの人間であるが、四天王寺では厨子王丸のような生まれの人間は珍しくない。
厨子王丸は四天王寺の稚児の一人となった。
山椒大夫の屋敷に比べれば、四天王寺の暮らしはまさに地獄と極楽であった。
とは言え、順風満帆なわけではなかった。
厨子王丸はトラブルメーカーであり、四天王寺の中で孤立したのだ。
他者とのコミュニケーションがうまく取れず、集団にうまく溶け込めない人間は集団の中でイジメの被害者になりやすい。ただし、一つだけ被害者にならないで済む方法がある。
圧倒的な暴力である。
そうでなくとも父親が犯罪者ということになっている厨子王丸である。多くの稚児は自分が貴族の子弟であることを誇りとし、父や兄の後を継いで有力貴族になる未来や、このまま寺院に残って高名な僧侶になる未来を考えている。そんな中に飛び込んだ厨子王丸は異質な人間であった。何しろ公的には犯罪者の息子なのだ。
厨子王丸がどんなに父の犯罪は冤罪であると主張しようと、厨子王丸を良く思わない者は厨子王丸を犯罪者の息子と呼ぶ。ここで耐えていたならイジメに発展したであろうが、厨子王丸は耐えなかった。制御できなくなるまでに暴れ回ったのだ。
厄介なことに、厨子王丸は他の稚児たちより腕力があった。山椒大夫のもとで奴隷生活をさせられていたこと、特に山林を巡り歩いて柴を持ち帰る日々を過ごしていたことは、厨子王丸の体力を年齢不相応なものとさせた。一対一の殴り合いだけでなく、相手が十人であろうと二十人であろうと厨子王丸が殴り勝ってしまうのだ。親が武士である稚児の中には四天王寺に来る前に武芸鍛錬をしていた者もいるし、現在進行形で僧兵のもとで武芸を学んでいる者もいる。ただ、そうした面々でも厨子王丸の腕力には勝てなかったのである。
また、稚児の多くはまだ声変わりも迎えていない年齢の少年であることが普通であったのに、厨子王丸は声変わりも迎え、ヒゲも生えてきていた。他の稚児たちとの体格差は明らかであった。
おまけに厨子王丸は冗談の類が全く通用しなかった。笑われることに敏感で、自分を多少なりとも貶す者がいるならば容赦なく殴りかかっていった。それが誤解であったとしても、誤解させる方が悪いとして平然としていた。こうなると四天王寺としてはお手上げである。とは言え、厨子王丸の父は流罪宣告を受けたとは言え元国司であり、また、この時代最大の武人である源義家の家臣の一人である。こうなると四天王寺としても厨子王丸を放逐するなどできなくなる。
また、厨子王丸の腕力は他者を恐れさせるものがあったが、少なくとも真面目に接しているのであれば厨子王丸は何もしなかったし、真面目でなければならないシチュエーションでの厨子王丸は他者の手本となる真面目さを示し続けていた。山椒大夫のもとでこき使われていた頃のブランクはどうしても隠しきれなかったが、厨子王丸はそのブランクを努力で埋めていたのである。
四天王寺に来たばかりの頃はまともな読み書きもできなかったのに、努力を重ねたことで読めない漢字が読めるようになり、書けない漢字が書けるようになり、難解な仏典も徐々に読めるようになってきた。稚児の仲間の中には厨子王丸のこうした成長に嫉妬する者もいたが、ほぼ全ての稚児の間で、厨子王丸に対して嫉妬を示したらどうなるか共有されていた。何しろ十人だろうと二十人だろうと殴り合いで勝てないと見せつけられているのだ。
また、先にも記したが厨子王丸が武芸も学んでいた。稚児たちは基本的に文武のうちの文のみの教育を受けるのであるが、中には文武双方の教育を受ける者もいる。厨子王丸のように武士でもある貴族の家に生まれた男児の多くは文武双方の教育を受けることが多い。
武門の教師となるのは四天王寺に身を寄せている僧兵たちであり、武芸鍛錬はかなり厳しいため、文武双方の教育を求めている稚児の中には武芸鍛錬を敬遠する者も出てきていたのであるが、山椒大夫のもとで地獄の日々を体験していた厨子王丸にとっては、武芸鍛錬の厳しさなどまだ耐えられる厳しさであり、また、山椒大夫への復讐を考えたとき必ず役立つと考えたために、むしろ積極的に取り組む対象となった。
厨子王丸が山椒大夫のもとを脱出したのは応徳二(一〇八六)年のことである。
その三年前から四天王寺だけでなく日本全国に響き渡る大ニュースが広まっていた。
永保三(一〇八三)年に始まった後三年の役である。
前九年の役でその名を轟かせた源義家は、その後の延久蝦夷合戦にも加わったのち、白河天皇の周囲を固める武士の一人として京都の治安維持にあたっていた。ちなみに、このときの武士たちは白河天皇の退位後、白河法皇の周囲を固める北面武士として組織化されることとなる。
その源義家が永保三(一〇八三)年に陸奥守となって東北地方に派遣されたのちに始まったのが、のちに後三年の役と呼ばれることとなる戦いである。
東北地方から届く戦果に一喜一憂する者は多く、個々の戦いでの戦勝の知らせは多くの人を熱狂させた。その熱狂は四天王寺も例外ではない。
四天王寺はこのブームを活かすことを考えた。
源義家のもとに書状を届けるのである。かつての家臣で、今は流人ということになっている岩城正氏の息子がいま、稚児として四天王寺にいるという書状である。
この書状が源義家のもとに送られたことは厨子王丸にも伝えられた。厨子王丸は素直に感激し、できることならば源義家のもとに行きたいと考えるようになった。厨子王丸にとって源義家は特別な存在であった。何しろ父の上官である。厨子王丸の父は源義家のもとで手柄を残したことから、所領を得て、さらには国司へと任官されることとなったのだから、無視できる人物ではない。人生の目標を考えたとき、源義家以上に頼れる人物などいない。
その源義家が武人を集めて再び戦場に向かい、戦功を積み重ねているのである。
厨子王丸はまだ元服を迎えていない。武士の子であろうと、また、いかに武芸鍛練を重ねていようと、未だ元服を迎えていない稚児である厨子王丸が武士として呼び出されることはないし、それ以前に武士としてカウントされていないし、ついでに言うと僧兵としてカウントされることもない。四天王寺の稚児の中では武芸に秀でた者という扱いなだけである。
だが、元服を迎えたらどうなるか?
厨子王丸は一人の武士として源義家の軍勢に参加できる可能性が出てくるのだ。
四天王寺としては厨子王丸を厄介払いしたかったのである。粗暴で、いかに殴られた側に非があると言っても他の稚児を何度も殴り倒してきた厨子王丸を四天王寺から追い出す絶好のチャンスと考えたのである。
源義家に送った書状は、四天王寺の考えた結果とは異なるが、四天王寺にとっての厄介払いを成就させる結果を生み出した。
厨子王丸を元服させた上で、源義家の家臣の一人として大番役をさせるというのである。大番役とは武士に課されていた役目のうちの一つで、所領を離れて京都の朝廷や院の警護に当たることである。この役目を命じられた本人が赴任することもあるが本人の家族を赴任させることもあり、源義家ほどの武人となると大番役を命じられても本人が出向くのではなく家臣を赴任させることもあった。
代役を命じられるわけであるが、命じられた側にとっては大チャンスであった。戦場からは離れるものの都に身を置くことで朝廷の中枢に顔を出せるようになり、中央政界に身を投じるきっかけにもなるのだ。そのため、源義家のもとには大番役を買って出ようとする家臣が何人も登場していた。
しかし、少し前であるならばともかく、後に後三年の役と呼ばれることとなる戦乱の最中であり、一人でも多くの家臣を戦場に連れて行かなければならず、京都に派遣する余裕は無かった。
というタイミングで四天王寺から書状が届いた。
かつての家臣であった、そして、太宰府への流罪の判決を受け、太宰府に向かっている途中で消息を絶った岩代正氏の息子がいるとの書状が送られてきたのである。この少年を自分の家臣に組み込んだ上で大番役に命じれば、源義家は命じられた大番役の役割を果たすことができ、大番役を命じられた少年は父の無念を晴らすチャンスが手にできる。四天王寺がこの少年を厄介に思っていることなど源義家は知りようがないが、結果として四天王寺は厄介払いに成功する。
このときの厨子王丸は十六歳である。本来ならば元服を迎えていてもおかしくない。いかに厨子王丸自身がまだ学んでいる途中の身であると考えようと、八幡太郎と称され英雄として称えられている源義家からの返信がある以上、元服を迎えず稚児のままでいるというのは許される話ではない。
厨子王丸は四天王寺で元服を迎え、名を平朝臣正道へと改めた。
通称である苗字は父と同じ岩城を継承し、以後、岩城正道と名乗ることとなる。
十六歳の若き大番役がやってきた。
その少年は源義家が送り込んだ若者であるという。
朝廷にはその情報しか送られていない。
朝廷に届け出されるのは、名前は厨子王丸の正式名称である平朝臣正道、十六歳という年齢、そして源義家の家臣であるという情報だけであり、通称としての岩城の苗字も、父が誰なのかも、そして正式には自分も罪人として処罰されている途中の人間であるということも報告されていない。朝廷としては源義家に誰かを送るよう命じただけであり、それが誰なのかを源義家は伝えていたのであるが、伝える情報は必要最小限に留めていた。これは何も厨子王丸を特別扱いしたわけではなく、大番役を務めることとなった武士はそのほぼ全員が、このときの厨子王丸と同程度の情報しか朝廷に報告しないからである。そのため、十六歳という若さで大番役を務めることは奇異に感じられたものの、その少年が岩城正氏の息子であると見破られることは無かった。
ただ、この少年は良い意味で普通ではなかった。
源義家の送り込んできた若者であることは確かなのだが、これまで源義家が大番役として送り込んできた武士は誰もが、武芸については申し分ないのだが教養となると乏しいと評すしかなかった武士である。それなのに、この十六歳の少年は年齢に見合わぬ深い教養を身につけている。まるで寺院で稚児として学んできたかのような教養の深さを隠せないのだ。
四天王寺では粗暴なところがあったものの、大番役としての役目を果たしているときはそのような粗暴さを見せなかった。厨子王丸が暴力に走るのは自分のプライドを傷つけられたときであり、そうでないならば暴力に走ることはない。それに、今ここで不必要な暴力に走ってしまったら、父の名誉回復も、会えずにいる母や姉の身に何か起こるかも知れない。
そのため、厨子王丸は徹底して大番役の職務を真面目に務め、その日の任務を終えた後も武芸の鍛錬に励むか、あるいは仏典を読んで学んでいるかのどちらかという、生真面目で優秀な少年と見られることとなったのである。武芸の鍛錬であれば武士としては珍しくない。任務を終えた後に鍛錬に励む武士は珍しいが、野心に満ちた武士の中にはこのときの厨子王丸のように武芸に励む者はいた。ただ、このときの厨子王丸のように文武両道を実践する武士はいなかった。
そもそもこの時代、書籍は極めて高価であり簡単に手に入るものではない。貴族の邸宅でもない限り、自宅に書物がないというのは日常の光景である。例外は寺院の仏典であり、熱心な信者であれば仏典を持っていてもおかしくはなかったが、それでも極めて珍しいことであり、任務を終えた後で仏典を開いて読み書きを学ぶというのは例外中の例外の所作、しかもそれが源義家の派遣した大番役の武士だというのだから、異例な人物と見られたのである。
源義家の派遣した十六歳の少年が異彩を放っている。
この知らせは関白藤原師実のもとに届き、さらには白河天皇の元に届いた。
白河天皇という人は、良くも悪くも独裁者である。
後に、賽の目、鴨川の水、僧兵の強訴以外は全て自分の思いのままと言い放つことでも有名であるが、その片鱗は在世中にも見られていた。自ら政務に口出しするところまではいい。二一世紀ならばともかくこの時代であれば天皇としてあるべき姿である。
ただ、白河天皇は朝廷暮改の人もであったのだ。かつての自分の下した判断であっても、そのような判断などなかったかのように平気で判断をひっくり返すのだからたまったものではない。
藤原摂関政治が機能していた時代であれば、摂政や関白をはじめとする藤原氏の貴族たちが天皇の暴走を止めたであろう。暴走の度合いがひどければ強引に退位させることもあったろう。だが、今はもう摂関政治の残滓が残るのみとなり、関白藤原師実ですら天皇の掌の上で操られる時代になっている。
この状況を是とする関白藤原師実ではなく、常日頃から藤原師実はどうにかして祖父道長の頃の隆盛を作り上げたいと考えていた。
その方法はいくつかあった。
そのうちの一つが、院政のタイミングを狙うことである。
院政は後世でこそ絶対的権力として確立されたが、この時代はまだ机上の空論である。帝位を退いた後に権力を維持できる保証などどこにもなかった。白河天皇の父である後三条天皇が画策しながら実現できずに亡くなったため、院政は理論上の概念でしかなかったのである。白河天皇は父である後三条天皇の目論んだ院政を実現させようと、そう遠くない未来に退位することを企んでいると目されていた。
白河天皇が退位した場合、後を継ぐのは白河天皇の異母弟である実仁親王と決まっている。ただし、白河天皇の次の天皇を決めたのは亡き後三条天皇であって、白河天皇自身が誰を次の天皇とするかを決めたわけではない。院政というシステムは父の理論の継承に賛成していても、皇位継承までは父に従うとは限らなかった。この時点で既に。弟ではなく息子に帝位を譲る可能性は真剣に議論されていたのである。
白河天皇の息子となると、真っ先に思い浮かぶ人物は善仁親王である。承暦三(一〇七九)年生まれであるからまだ幼い。
藤原師実は、未だ幼き善仁親王を軸とする勢力を考えた。
生涯に亘って善仁親王の側に仕えることとなる人物を用意するのである。
文人官僚ならば用意できる。藤原氏から選ぶこともできるし、藤原氏に仕える貴族の中から選ぶこともできる。中でもベストの人材としては、自分の後継者であり、既に内大臣へと出世している二十二歳の藤原師通がいる。これからの時代を考えたとき、若き内大臣が善仁親王の側に仕えることは極めて大きな意味を持つ。善仁親王が即位したならば、間違いなく摂政や関白に就くこととなる。
だが、ボディーガードとして善仁親王の側に居続ける人物となると、そう簡単には出てこない。祖父の藤原道長が源頼光をスカウトし、父の藤原頼通が源頼義をスカウトしたように、藤原師実も武人をスカウトしようとしたのだが、源頼義の息子であり、今や当代随一の武将として名を馳せている源義家はいま、藤原師実ではなく、白河天皇にダイレクトに仕える武人になっている。源義家が白河天皇に仕えるとなった以上、源義家の家族や関係者もこぞって、藤原氏ではなく白河天皇にダイレクトに仕える身となる。
そこで、源義家と無関係の人物を探そうとしたのであるが、後の源平合戦期と違って、この時代は源氏と平氏が対立しているわけではない。ほぼ全ての武力が源義家のもとに集約されており、源義家のもとに集うことのできなかったあぶれ者が山椒大夫のような富裕者に雇われるという構図になっている。山椒大夫のような富裕者に雇われている武士は、武力についてはそれなりに期待できるが、品と学力が絶望的に欠けている。皇族の方々に会わせようものなら間違いなく無礼者として切り捨てられるし、品についてはどうにか矯正できても欠落している学力となると簡単に身につけさせることはできない。仮に品と学力の双方を身につけさせたら今度は源義家のもとで戦場を駆け巡る武士とカウントされることなるので、こちらもやはり問題だ。
ところが、ここで全ての問題をクリアする人物が現れた。
源義家の家臣であり、十六歳という若さで大番役を務めるだけでなく、文武両道に真面目に励んでいる。まだ五歳の善仁親王にとっては兄のような存在になれるであろう厨子王丸が。
この時代の年齢は、誕生日ではなく新年を迎えたときに年齢が一つ加算される。年が明けた応徳三(一〇八六)年一月、十七歳になった厨子王丸は関白藤原師実に呼び出された。
全ての貴族や全ての役人にとって、一月というのは動揺を隠せなくなる時期である。出世の知らせが飛び交うのだ。
この知らせを公表することを除目という。除目を目にした貴族達は一喜一憂し、混乱が起こることもある。
除目の際に朝廷を警護する武人が呼び出されること自体は珍しい話ではない。詰めかける貴族たちの警護をし、混乱を鎮めなければならないためである。
大番役を務めている厨子王丸が呼び出されることもおかしなことではなかったが、関白からの直々の呼び出しとなると普通のことではないと身構えるようになる。
「平朝臣正道にございます」
厨子王丸は跪き、頭を上げることなく名を告げた。
関白に呼ばれたと知った厨子王丸は、自分が何をしでかしたのではないかと考え震え上がっていた。もしかしたら、四天王寺で暴れ回ったときに関白の家族や関係者がいたのではないかという後悔も沸き上がっていた。
また、関白の広大な邸宅に招かれたその瞬間から、自分とはあまりにも身分が違いすぎることを否応なく痛感させられた。邸宅に招かれた者の建物の中に入ることは許されず、通されたのは庭である。厨子王丸は庭の土の上に座り、建物の奥から貴族達が続々と出てきて列を作り、関白藤原師実が姿を見せた。
藤原師実が前に進み出て言った。
「岩城正道」
厨子王丸は最初何を言われたかわからなかった。
「岩城正道、面を上げよ」
関白の二度目の呼びかけで厨子王丸は背筋が凍った。
自分が何者か関白に見破られてしまったのだ。これは四天王寺で暴れ回ったことなど比べものにならない大スキャンダルだ。本来ならば自分は罪人であり太宰府へと流刑の身になっていなければならない。それが都でこうして武人として暮らしているのだから、大問題になっていなければならない話なのだ。
「ははっ」
厨子王丸は恐縮するしかなかった。
恐縮して顔を上げると、中央に関白藤原師実が、その隣に左大将内大臣で藤原師実の息子の藤原師通がいた。左大将、正式に言うと左近衛大将とは、この国の全ての武人のトップに立つ役職であり、源義家ですら組織図の上では藤原師通の部下となる。ただし、名目上の役職であり、藤原師通が武芸に秀でているわけではない。摂政、関白、太政大臣、左大臣といったこの国のトップの官職に就く未来が確約されている者が若い頃に体験しておくキャリアパスの一つである。実際、このときの藤原師通は二十三歳という若さである。
「父上、ここは私が」
関白を制して前に歩み出た藤原師通は、庭に降り立って厨子王丸の真正面に座った。
「四天王寺から話は聞いている」
「!」
冷酷な声に厨子王丸は背筋を凍らせた。
「岩城正道、そなたの父のことも調べさせてもらった」
「………」
「落ち着いてよく聞け。そなたの父は、もう亡くなっている」
「!」
「筑紫へと流される途中で命を落としたとの届け出が出された。昨日」
「昨日!」
「そうだ、昨日だ。意味するところはわかるか?」
「………、わかりませぬ」
「咎人(罪人のこと)がどうなろうと、誰も気にも止めていなかった。途中で亡くなっても気にもしなかった。それなのに、藤原の名で調べさせただけで一変して国司が正式な届け出を出してきおった。それが今の国司だ。だがな、正道、そなたの父はそのような愚かな国司ではなかった。横領だの、収賄だの、そのようなもの全く見当たらぬ立派な国司だ。流罪だなどというのは、ただの虚言に惑わされた末の愚行とするしかない」
「おわかりいただけましたか」
「父の無念を晴らしたいのであろう。ならば、正道。麿とともに今日から善仁親王に仕えよ。今すぐは無理だが、無念を晴らす機会、藤原で用意してやろうではないか。よろしいですな、父上」
「ああ」
「正道、そなたは今日から善仁親王の兄になれ、麿は今日からそなたの兄になる」
厨子王丸、いや、岩城正道は自分がこれからとんでもないところにステップアップするのではないかと感じ、光栄よりもむしろ恐ろしくなった。
八歳の善仁親王の近くに侍る十七歳の少年武人、それが厨子王丸こと岩城正道であった。
ただ、若さと背後に控える人物については特別であるものの、それ以外に厨子王丸に特別さはなかった。
皇族男性は元服を迎えるまで、近い年齢や少し歳上の武人がボディーガードとして侍ることが当然となっている。生涯に亘る側近になることを求められた武人である。厨子王丸の評判を考えれば善仁親王の側に侍るようになったことについて例を見ない抜擢と考えた人は少なく、むしろ当然と思う人が多かった。
さらに言えば、厨子王丸は善仁親王の周囲を固める面々のうちの一人である。関白藤原師実や、藤原師実の息子で善仁親王の周囲に侍る若者達のリーダー的存在の藤原師通が関係者であるという点で特別ではあるが、善仁親王のもとに人材を送り込んだのは藤原氏だけではない。また、藤原師実や藤原師通は藤原摂関家の主流中の主流だが、藤原摂関家には傍流もいるし、摂関家ではない藤原氏もいる。つまり、厨子王丸は善仁親王の周囲を固めるボディーガードのうちの一人なのである。
ボディーガード達は武人であるが、貴族の生まれ、もしくは何かしらの形で貴族のつながりがあるのは当然のこととされていた。武人としての能力はもちろん問われるが、血筋も求められていた。厨子王丸は背景に関白藤原師実と内大臣藤原師通がいる。また、公表されてはいないが源義家とのつながりもある。
その少年武人の父親が、かつて丹後国司を勤め、収賄と横領の罪に問われ流罪となった岩城正氏であると知っている人は少なかった。
藤原師通はその数少ない人物の一人であり、善仁親王の周囲に侍る若者達のリーダー的存在であった。藤原師通のもとには多くの若者が集まっていた。その誰もが野心に満ちた者であり、厨子王丸のようにスカウトされてきた者は少なかった。
これは、応徳二(一〇八五)年に実仁親王が薨去したことも大きな理由として存在していた。後三条天皇が白河天皇の次の天皇と定めていた実仁親王が亡くなったことで、にわかに善仁親王の即位が現実味を帯びてきたのである。他ならぬ白河天皇自身が、実子である善仁親王への譲位を画策するようになっていた。ここで善仁親王の首位の一人になれば善仁親王が帝位に就いたあとの立身出世につながるが、現実問題として皇族の方々の側近になるのは困難である。そこで、善仁親王の取り巻きの中心人物である内大臣藤原師通に近寄ることを選ぶ野心家が多かった。
厨子王丸が野心家でなかったとは言わない。
それどころか厨子王丸は善仁親王の周囲の中での最大の野心家であったと言えよう。
ただ、野心の矛先が違っていた。
丹後国司になりたいと言うようになったのだ。
国司になりたいと願う若き武人は珍しくないが、具体的な国を挙げる者は少なかった。その少ない者の中に、丹後国司という願望を示したのは厨子王丸以外にいなかった。
この時点ではまだ、厨子王丸は平正道として活躍している。岩城の苗字を使うことはほとんどなく、他の者が苗字を使う局面でも可能な限り平の姓を用いてきた。
唯一の例外は藤原師通といるときだけで、このときだけは岩城正道と名乗った。名乗るように強制された。
厨子王丸はたしかに善仁親王のボディーガードの一人として合格点を付けられる活躍をしている。また、京都の治安維持にかり出されたときも結果を見せ、十三歳にして検非違使の一人に加わるという栄誉を得た。
ただ、物足りなかった。
若くて真面目で源義家と接点があることが関白藤原師実の目にとまり、その息子の藤原師通からのスカウトのきっかけとなったのであるが、だんだんと厨子王丸以外の武人も目立つようになってきたのだ。
厨子王丸が悪いのではない。厨子王丸以外にも若くして名を残す武人が次々と登場するようになったのである。他ならぬ厨子王丸自身がこれから立身出世を遂げようとしている若者達に一つの可能性を見せる存在となったのだ。先にも挙げたとおり、厨子王丸は平正道として検非違使の一人になっている。平氏と言えば祖先を辿れば桓武天皇につながるものの、貴族としては凡百の血筋であり、血筋だけで出世するのは困難である。しかし、平将門の乱を思い出せば平姓の者が武門に身を投じることで勢力を作り上げることが不可能でないことはすぐに思い至った。それは平氏だけではない。藤原氏以外の貴族だけでなく、藤原氏の中からも、文人官僚としてではなく武門での立身出世のチャンスを考える者が出てきたのだ。
時代はまさに武士の時代へと徐々に向かってきている頃であり、少し前であれば厨子王丸のように幼くして鍛練を積んできた武人は希少であったのに、今やそのような武人など珍しくもなくなった。もっとも、中には本当に武芸を鍛錬しているとは思えず、ただ立身出世の口実として武門を称している者がいたから、本当に珍しくないとは言い切れないが。
藤原師通はこの状況下でも厨子王丸に期待した。何と言っても時代最高の武人である源義家をつながっているのである。この一点だけは他の武人に太刀打ちできぬ話であった。
検非違使としての厨子王丸は悪人を容赦しない厳しさを見せていた。
特に人攫いについては容赦ない処罰を加えた。
律令では死刑が定められているものの、大同五(八一〇)年に藤原仲成が死刑となってから二七六年に亘って死刑のない時代を迎えている。
ただし、犯罪に手を染めて逮捕された者が死刑にならないのであり、逮捕に至るまでの間に犯人が命を落とすことはあった。
人を誘拐して売り飛ばそうという人攫いを厨子王丸が見つけたとき、人攫いが迎える運命は逮捕ではなかった。命乞いをしようが何をしようが厨子王丸の前では無駄であった。攫われた人、そのほとんどは幼い子や女性であったが、攫われた被害者は無事であった。しかし、攫った者とその関係者のなかで命が無事な者などいなかった。
犯罪捜査の途中で何があったのかはわからないが、検非違使である厨子王丸が到着したときにはもう、犯罪者たちが一人残らず無残な方法で殺されていた、ということになっていた。
また、厨子王丸は平安京で売られている塩についても口出しした。
その値段で売られていることはおかしいとし、人攫いによる奴隷労働で作らせた塩である可能性があるとして、市場で塩を売るのを禁止しただけでなく、塩を売っている場を見つけたなら容赦なく塩を没収し塩の売人を連行していった。
人攫いに対する厳しい処罰は理解されたが、塩の販売に対する処罰は常軌を逸していた。杓子定規で厳しい検非違使だという悪評が立ったが、厨子王丸は自分に対する不平不満など全く気にすることないままでいた。ただし、抵抗する者がいれば容赦はしなかった。
厳しい取り締まりをする検非違使に対する苦情は届いていたが、誰もどうにもできなかった。厨子王丸は違法なことをしていないのだ。人攫いを逮捕しようとして犯人が命を落としてもそれはこの時代であれば合法であり、奴隷労働をさせている可能性がある商品を取り締まるのもまたこの時代であれば合法であった。
この段階では藤原師通も特に何も言わなかった。藤原師通も杓子定規なところのある人物であり、厨子王丸の行動を止めるところか、法に基づく行動をしている厨子王丸については今までのやり方を続けるように言うほどであった。
庶民からの不平不満と藤原師通の心情とが対立しているとき、立身出世を目指す若者が選ぶのは藤原師通の心情であった。藤原師通に付き従い、次期天皇となる善仁親王の側近であり続けることこそ彼らの生存戦略であった。
彼らの思いは成就した。
一一月二六日、白河天皇退位。同日、善仁親王が新たな天皇となる。
堀河天皇の治世の開始である。それまで白河天皇の関白であった藤原師実はそのまま堀河天皇の摂政へとスライドした。
新帝即位時、新たな天皇の誕生を祝して恩赦が行われることがよくあった。犯罪者の刑罰を軽くするのである。流刑にされた者の中には都に戻ることが許された者がおり、牢に閉じ込められている者の中には釈放された者がいた。
その中には、流罪という扱いになっていた厨子王丸の父がいた。
そして、厨子王丸自身も父の連座のために本来なら流刑中のみでなければならなかったのが、この恩赦で正式に流罪解除となった。
この知らせを受けて厨子王丸は複雑な思いになった。
その瞬間、自分が流人の息子だと判明してしまったのである。いや、厨子王丸にしてみれば、そもそも父の冤罪を晴らしたいという思いがあり、流罪という判決のほうを白紙撤回し、父は無罪であるとしてほしかったのだ。その上で、離ればなれになっている母や姉との再会を望んでいたのだ。
藤原師通にしてみれば、自分がスカウトした若き武人への報償のつもりであったのだろう。亡き父の罪を無くすことはできないが、恩赦という形で無罪と同等の結果を与えることができ、公的な職位に就いていてもおかしくない環境を作り上げたのだから。
ところがこれに厨子王丸は不満を抱いた。
藤原師通に意見をしたのである。
「恩赦ではなく無罪としていただきたいのです。裁きのやり直しを願います」
藤原師通は厨子王丸のこの意見に苛立ちを見せた。
藤原師通とて厨子王丸の言いたいことは理解できる。
ただ、岩城正氏を流罪とすると決めたのは当時の白河天皇なのだ。たしかに白河天皇は退位して上皇となった。だが、その権勢はなおも強大なものがあり、後に院政として成立する新たな政治体制の構築に向けて動き出していた。厨子王丸の言うように恩赦ではなく判決のやり直しとなると、白河上皇に伺いを立てなければならなくなる。これは藤原摂関家でも無理な話であった。
おまけに今の厨子王丸は厳しい取り締まりのせいで不平不満を集めている存在になっている。その厨子王丸のために何かをするというのは世論を敵に回すことになるのだ。
ここに輪を掛けて問題となったのが、厨子王丸の正体が世間一般に知れ渡ったことである。父である岩城正氏が流罪判決を受けた身であり、本来ならば厨子王丸こと岩城正道も流罪中でなければならなかったのに、しれっと都に姿を見せただけでなく、公職である検非違使を務めていたというのであるから、これは本来ならば大スキャンダルになる話だ。
それだけでも大スキャンダルなのに、厨子王丸は恩赦ではなく判決そのもののやり直しを求めたのである。
年が明けた応徳四(一〇八七)年、東北地方から送られてくる戦況報告は戦勝報告続きであったが、どこか不穏なものを感じさせるものでもあった。
戦いが始まった頃は、東北地方の動乱が源義家によって軽々と片付けてくれるものだと多くの人が考えた。実際、源義家から届けられる戦勝報告は京都内外の人を熱狂させたが、知らせがどんなに届いても都の人達の考えていた結果、すなわち、戦争そのものが勝利に終わったという知らせは届かないでいた。
この戦いはのちに後三年の役と呼ばれることとなる戦いであるが、戦いが始まったばかりの頃は誰もが一年もかからずに終わると考えていたのである。それが年を明けても続き、一年後も、二年後も続いている。源義家はいったい何をやっているのだという不平不満すら沸き起こるようになった。
これは厨子王丸の立場を悪くする動きでもあった。
厨子王丸こと岩城正道は、父が源義家の家臣であったというところからときの関白藤原師実に目を付けられ、その息子の藤原師通にスカウトされたという経緯を持っている。
その厨子王丸が、ただでさえ藤原師通の推し進めた恩赦に反発しただけでなく、背後に控えている源義家の存在価値が希薄になってくるとなると、藤原師通も厨子王丸を利用する価値は減ってくる。おまけに厨子王丸は厳しい取り締まりを繰り返すために都の人達の怒りを買っている。
藤原師通は厨子王丸こと岩城正道を、東北地方で戦っている源義家のもとに援軍として派遣させることを考えた。
ただ、この計画は失敗した。
厨子王丸には致命的な欠点があったのである。
厨子王丸には心酔している家臣がいないのだ。検非違使としての部下ならばいるが、それは検非違使である岩城正道の部下であることを職業としている人であって、岩城正道個人に仕えているわけではない。厨子王丸が源義家のもとに行くことが決まった場合、彼らは京都に留まって厨子王丸の光景の検非違使に仕え検非違使の部下であることを続ける。厨子王丸に従って東北地方に出向くなどありえない。後には家臣を率いることなく単身で戦場に赴く武士も現れるが、この時代、家臣を率いること無しに単身で戦場に出向くことはありえないし許されないことであった。
その一方で、ごく一部であるが厨子王丸に熱狂する人もいた。人身売買に憎しみを見せる人たち、特に、人身売買の被害に遭った人とその家族たちである。ただ、彼らは武人ではない。ごく普通の生活を過ごしている一般人である。
その間も厨子王丸は自分に向けての不平不満の声を気にすることなく、不正な塩を取り締まり、人身売買に関しては容赦ない態度で接し続けた。特に人身売買については人を攫った人だけでなく、攫った人を買った側も容赦なく取り締まり、運が良ければ生きて牢の仲に放り込まれることができたが、そうでなければ容赦なく命を奪われた。人攫いに捕らえられ、売り飛ばされようとしていた人たち、そして実際に売り飛ばされてきた人たちは厨子王丸を感謝した。
忘れてはならないのは、このときの厨子王丸がまだ二〇歳にもなっていない若者であるということである。藤原師実も、藤原師通も、厨子王丸のことを若さゆえに懐柔できる年少者と見ていたのに、いざ身近に呼び寄せてみたらそこまで容易に懐柔できない頑迷な人間であったと気づかされた。
応徳四(一〇八七)年四月に寛治へと改元された頃には藤原師通が徐々に厨子王丸を突き放すようになっていた。
寛治元(一〇八七)年一二月、厨子王丸が検非違使の第一線から外された。
きっかけは後三年の役の終結の知らせが東北地方から届いたことである。
念願だった戦争終結、それも戦勝での戦争終結であることから京都内外で多くの人が熱狂したが、朝廷内は冷徹であった。
戦争中、東北地方から本来ならば納められるべき税が納められなかったとし、その理由を陸奥守である源義家が私的に流用したからであるとして、源義家に対して未納分の税を納めるように命じたのである。その上、後三年の役そのものについても源義家が勝手に起こした私的な戦闘であったとし、朝廷としては関与しないとしたのであるため、戦後に当然あるべき報償など全く無かったのだ。
これに厨子王丸は楯突いた。より厳密に言えば、厨子王丸のように武門で朝廷に仕えている多くの者が怒った。命懸けで戦ったのに報償を用意しないどころか未納の税を納めろと言われたのでは、これではいったい何のために戦ったのか。
こうした武人達の反発に対して朝廷は冷酷であった。特に藤原師通が冷酷であった。藤原師通は内大臣であると同時に、名誉職であるとは言え武人のトップでもある左近衛大将を兼任している。藤原師通は武人としての武芸鍛錬を積んではいないが、左近衛大将としての権限は有している。
その権限の発露は巧妙だった。
左遷したのではない。
一人を除いて、出世させることで第一線から排除したのだ。
近衛府や衛門府の武官であったならば、位階を与えて文官にする。地方に本拠地があるならば適当な国の国司にし、あるいはその国司の補佐役として地方に赴任させた。いずれも武門の第一線からは離れるが、一人の人間としては出世することとなる。
こうした出世を名目として排除された武人の中には厨子王丸こと岩城正道も含まれていた。
このあたりはさすがに百戦錬磨の藤原氏と言ったところか、厨子王丸は相変わらず検非違使の一人ではあるものの、その地位を高めさせることで実質的な閑職に回すことにしたのである。
検非違使のトップは検非違使別当、その次が検非違使佐である。ともに貴族の出世街道の一つとなっており。検非違使としての職務の実績ではなく、貴族としてのキャリア構築の一貫である。
ここから下が検非違使の実働部隊であり、検非違使大尉と検非違使少尉が存在する。読みはともに「けびいしのじょう」である。二つあるうち検非違使大尉のほうが格上であり、検非違使大尉として経験を積むと貴族社会の入り口に入る可能性が生まれる。犯罪捜査や犯人逮捕といった、現在では警察が対応している案件を執り行うのは検非違使少尉であり、検非違使大尉は外出することすら殆ど無く書類整理に追われる日々を過ごすことが求められる。
基本的に、将来的に役人になって貴族になる未来が期待されている者は最初から検非違使大尉となり、武人であり続けることが求められる者は検非違使少尉のままであり続ける。この二つの役職は上下関係にあるものの人材の行き来は滅多にないことであったが、ごく稀に検非違使少尉から検非違使大尉になる者がいた。ただしそれは、評価されて貴族への道が開かれた者というわけではない。検非違使を罷免することは困難であるが検非違使少尉のまますると実務に支障が出る者である。
そして、厨子王丸こと岩城正道は検非違使少尉、すなわち検非違使の実働部隊の一員であった。
その厨子王丸が検非違使大尉に出世したのである。厨子王丸の職務が評価されたのではない。出世させることで第一線から外されたのである。
ちなみに、出世させることで第一線から外すという流れのただ一人の例外とは、陸奥守であった源義家である。源義家は陸奥守を罷免されただけでなく、未納分の税を納めるまで何ら役職には就けないという仕打ちを受けることとなったのである。
検非違使の第一線から外されたことは、厨子王丸にとって本来であれば大きなダメージとなるはずのことであった。
ところが、まさにそのタイミングで厨子王丸が第一線から外れていることが大きな意味を持つ出来事が起こったのである。
年が明けた寛治二(一〇八八)年の一月、源義家が京都に戻ってきたのだ。陸奥守を罷免されたために陸奥国に滞在する法的根拠を失ったため、出陣時は大勢の人に見送られたのに、戻ってきた源義家を歓迎する人は少なかった。特に貴族の中から源義家を歓迎する人は、一部の例外を除いていなかった。
その数少ない歓迎の人達とは、ついこの間まで武人として朝廷に仕えており、源義家に対する朝廷からの処分に反対したために第一線から外された人たちである。
その人たちにとって源義家とは憧れの人であり、見捨てられた源義家を放っておくなど許されないことであった。
それは厨子王丸とて例外ではなかった。
厨子王丸は人生で何度か源義家に会ったことがある。もっともその頃の厨子王丸はまだ物心もついていない頃であり、源義家に会ったことがあるという話を亡き父から聞かされたというレベルの話だ。この時代、ビデオはおろか写真もない。誰かに会ったという過去は記録ではなく記憶しかない。
このときの厨子王丸は、検非違使大尉という公職を持つという点で、源義家を迎え入れる人の中では少し特別な状況にあった。ただ、厨子王丸と同様に武人や元武人である者も、決して多いとは言えない群衆の中にそれなりにいたのである。そう、本来ならば目立つはずはなかったのだ。
ところが、源義家は群衆を見つけたとき、最初に聞いたのは「岩城正氏の子はいるか」という問いであった。
厨子王丸は自分が岩城正氏の子であると名乗り出て、人混みをかき分けて源義家の前に進み出た。
「そなたが正氏の子か」
「はい。平朝臣岩城正氏の長子、岩城正道にございます!」
「正氏に似ておる」
そう言うと源義家は厨子王丸を抱きしめ、涙を流した。
「すまぬことをした。謝っても謝りきれぬことだ」
「義家様」
「正氏を国司に推薦したのはワシだ。それがかのような結末になるとは。その償いは死をもってしても償いきれるものではない………」
かの勇将名だたる源義家が、未だ二十歳にならぬ少年に赦しを請うという異様な光景に、どよめきすら浮かんだ。
京都に戻ってきた源義家は、朝廷が自分にした仕打ちを知っている。
だからこそ、朝廷の下した判断を覆そうとしている。
とは言え、実際問題、朝廷の判断を覆すなどどうすればできるのか。藤原氏の生まれで摂政や関白に上り詰めた人間であったとしても、朝廷の判断を覆すなどできない。朝廷の判断を覆すことのできる人物の登場は、承久の乱のあとの鎌倉幕府の登場まで待たねばならない。
源義家ができるのは、判断を覆そうとしたというパフォーマンスを示すこと、そして、そのパフォーマンスの舞台を、あえて朝廷ではない場所で繰り広げることであった。
源義家が選んだのは、退位して間もない白河上皇である。源義家は帝位にあった頃の白河天皇にダイレクトに仕えていた身であり、退位して上皇となった後も会うことの許された人間であった。
もっとも、事前告知無しでいきなり押しかけて会うことのできる立場なわけではない。白河上皇のもとに書状を送り、白河上皇の周囲を固める側近たち、後に院司と呼ばれることとなる院政を支える官僚たちの審査を経た上で、白河上皇自身が源義家と会っていいと返答してはじめて、源義家は白河上皇と会えることとなる。
源義家は厨子王丸を連れて白河上皇に会うことにした。
いや、この場合は検非違使大尉である厨子王丸こと岩城正道のほうが公的な形で白河上皇に会うことが許されている身であり、立場としては源義家より上であるとすべきであろうか。先に述べたように、源義家は陸奥守を罷免されている。こうなると、何ら役職に就いていない源義家よりも、地位は低いものの役職には就いている厨子王丸のほうが立場は上になる。
また、今でこそ検非違使大尉として治安維持の第一線から離れてはいるが、厨子王丸はついこの間までかなり荒っぽい捜査や逮捕を繰り広げ、人身売買は買った側も売った側も容赦なく死に追いやり、奴隷を使っている可能性があるとして安く売っている塩の販売現場をぶちこわしてきた人間である。白河上皇としては、一度ぐらいは会ってやってもいいと考えられるぐらいの存在であった。
厨子王丸は今の自分の状況が信じられなかった。
隣に源義家がいるというだけでもあり得ない話であったのに、いま自分がいるのは白河上皇のもとなのである。いまはまだ気配を感じ取ることすらできないが、同じ敷地に白河上皇がいると考えただけで厨子王丸は心臓が飛び出そうであった。
厨子王丸だけでなく源義家も、敷地内にいる者の建物内にいるわけではない。邸宅内の庭の土の上に跪いている。これがこの時代の皇族と庶民との関係性である。
しばらくして白河上皇がやってくるとの声が聞こえ、白河上皇の気配が感じられた。上を向くことはできない。目を合わせることはおろか、顔を見ることすら許されない。それが、この時代の庶民が皇族と会うときの礼節である。
「前陸奥守源朝臣義家、ただいま奥州より戻りました。そしてこちらが」
厨子王丸は、隣で跪いている源義家が顔を上げた雰囲気を感じ、自分を次に指名している様子を感じ取った。
「検非違使大尉平朝臣正道にございます」
厨子王丸は顔を上げぬまま名を名乗った。
「正道、面を上げよ」
はじめて聞いた声が聞こえた。おそらくこの声を発したのは白河上皇なのであろう。
顔を見ることすら無礼となるのがこの時代であるが、皇族の方々のほうから顔を上げるように命じられたならば顔を上げなければならないのもこの時代である。
顔を上げた瞬間、厨子王丸は圧倒された。
ついこの間まで帝位にあった方の存在を間近に感じ、自分などがここにいて良いのだろうかとさえ感じるようになったのだ。
「師実から話は聞いている。正道の検非違使としての活躍もな。その正道が義家を連れてきたということは、正道もまた、義家を正当に評価しろと言ってきたということだろう。表向きは。違うか?」
「………。違いませぬ。」
「して、本心はどうだ?」
「………、父の、父の流罪を解いていただきとうございます! 恩赦ではなく、無罪であると示していただきたいのです!」
「良かろう」
「!」
それはあまりにもあっさりとした答えだった。
一〇年もの長きに亘って苦しめられてきた父の冤罪が、この瞬間、あまりにもあっさりと晴らされたのだ。
「師実はともかく、師通は堅苦しいところがある。それは正道も知っているところであろう?」
「………」
「まあ、答えに詰まるのも道理だ。ならば、こうすれば良かろう。義家はかつての自分の部下が濡れ衣を着せられて流人となったことに苦しみ、その苦しみを解くことを求めた。引き替えに、義家はこのたびの戦いに対する定に従う。定を書き記したのは師通であろうと、天子の名で天下に示された定を覆す道理はない。だが、天子の定に従う代わりに、かつての部下を慮ったというならば話は成り立とう。それと正道」
そう言うと、白河上皇は厨子王丸の前に立ちはだかって見下ろした。そのプレッシャーは藤原師実や藤原師通の比でなかった。
「父の無念を晴らすはこれで終わりか? それとも途上か?」
「………、途上にございます」
「丹後国司になりたいと語ったという話も聞いた。それは復讐か?」
「………、復讐にございます」
「ならば己の力で地位を掴んでみせよ。差別はしない。特別扱いはしない。既に検非違使大尉までなっているならば不可能ではないはずだ」
後に圧倒的権勢を掴むこととなる白河上皇も、この時点ではまだ退位した天皇という扱いでしかなかった。本来であれば、自分の下した判決であろうと朝廷の下した判決を覆す権利などなかった。すなわち、流罪となっている岩城正氏を恩赦とするのではなく、そもそも流罪判決が間違っていたとすること自体、本来であれば許されない話であった。
白河上皇は何も温情だけでかつての自分が下した判決を白紙撤回しようとしたのではない。藤原師実と藤原師通の親子が政権の中枢を担っている状況に楔を打ち、亡き後三条天皇が計画しながら成就できないでいた院政を実現させるきっかけにしようとしたのである。
白河上皇の企みは藤原師実には通用した。摂政藤原師実の名で、岩城正氏こと平正氏に対する流罪は、恩赦ではなく、そもそも無罪であり、流罪そのものが白紙撤回となったことが公表された。
ただ内大臣藤原師通には通用しなかった。藤原師通の与り知らぬところで白河上皇が出した判決の白紙撤回が有効になったことの意味を理解したのである。
白河上皇は朝廷の意向を上回る権勢を手に入れようとしている。
恩赦も、白紙撤回も、どちらも流罪でなくなるのだから問題ないではないか、家族への連座も終了するのだからそれでいいではないかというのは第三者の無責任な感想でしかない。当事者にとっては恩赦であるか白紙撤回であるかは人生を左右する大問題なのである。
この頃から徐々に藤原氏内部で、摂政藤原師実から、内大臣藤原師通へと中軸がシフトしていくようになった。
藤原師実はまだ融通が利く。
しかし、藤原師通は全く融通が利かない。
時代がだんだんと藤原師通へと移っていくのを実感した源義家は、朝廷の命令に従って、何ら恩賞を受け取らず、ともに戦ってくれた仲間たちには自分の持っていた所領を分け与え、未納とされた税を、少しずつではあるが納めていくことを選んだ。
そして、厨子王丸は検非違使大尉のままであった。それも、将来の貴族入りを前提とした検非違使大尉ではなく、第一線から外す目的で出世させられた検非違使大尉であった。
藤原師通は融通が利かない人物であるが、評価は平等に下す人物でもあった。一度はスカウトした厨子王丸が、いざ引き入れてみたらかなりの暴れ馬であり、突き放さざるを得なくなり、検非違使大尉へと出世させることでどうにかせざるを得なくなっていたが、検非違使大尉としての厨子王丸こと岩城正道の働きぶりについては正当に評価していた。いや、ここは評価せざるを得なかった。
検非違使大尉は検非違使ではあっても犯人逮捕や犯罪捜査ではなく事務作業がメインであり、武官の一員ではあっても文官の役割を果たしているとも言えた。
文官は本来であれば、大学寮に入るための試験である省試に合格し、大学寮で学問を修め、大学寮を卒業するとほぼ自動的に役人になれる。本来であれば卒業時に試験、役人登用時にも試験があり、その双方に合格してはじめて役人になれるという仕組みになっていたが、時代とともに、一つの例外を除いて大学卒業がイコール役人就任となっていた。
そのたった一つの例外が紀伝道である。現在の日本は北海道から沖縄まで全国各地に大学があり、それぞれの大学に様々な学部が存在するが、この時代は京都にただ一つの大学である大学寮があり、現在の法学部にあたる明法道、哲学を学ぶ明経道、歴史と文学を学ぶ紀伝道、数学を学ぶ算道の四つの道、いわゆる学部が存在した。そのうちの紀伝道だけが別格であり、入学するのも困難ならば、卒業するのも困難、卒業と同時に低位の役人となることは可能だが、そこで妥協するのではなくより高い地位に就くことのできる試験に挑み続ける人生を過ごす者も当たり前のように存在していた。
大学寮入学の資格は、律令に従えば一〇歳から可能であるが、一般的には一七歳頃から入学し、二〇歳頃から特別な試験にチャレンジする。その試験に合格すると役人経験無しでいきなり従五位下の位階を獲得して貴族になれるという試験である。その試験の名を方略試という。なお、日本国の歴史における方略試の実施は室町時代まで確認でき、後に合格率はかなり上がることとなるが、この時代の方略試とは、合格者が三年に一人出るか出ないかという極めて難しい試験であった。
方略試は単になかなか合格できないというだけの試験ではない。受験資格を得ることそのものが困難なのだ。
受験資格を有する者、わずか二名である。
その二名もただの二名ではない。選び抜かれた二十名の中からさらに選抜された二名なのだ。
方略試は合格時に得られるメリットが極めて大きいために、方略試につながる紀伝道に入学するための試験の段階で既に困難になっている。もともと紀伝道の総定員は十名であり、後に十名の追加があったのだが、この合計二十名というのは入学試験の募集定員ではない。紀伝道の学生でいられる人間がわずか二十名なのである。この二十名からわずか二名のみが選抜されて方略試にチャレンジする資格を有し、合格者が出るのは三年に一人いるかいないかという狭き門なのだ。
この二十名のことを文章生、方略試にチャレンジできる二名のことを文章得業生という。
この文章生の二十名の席は、方略試で合格するか、方略試を断念して他の方法で役人になるか、あるいは不慮の事故や死などの理由で二十名から離れる者が現れてはじめて空席ができる。一般的には一七歳頃から入学する大学寮も、紀伝道だけは二十歳を過ぎてようやく、さらには三十代になってようやく入学できるというケースが頻繁に見られた。
その空席が寛治二(一〇八八)年の一月にできた。
ただし、一席のみ。
この一席に厨子王丸はチャレンジしたのである。ついこの間までの厨子王丸はそもそもチャレンジする資格を有していなかった。しかし、父の流罪判決が白紙撤回されたことにより厨子王丸にチャレンジ資格が復活し、四天王寺での学習に加え、検非違使大尉としての職務を積むことで学力を身につけたことが厨子王丸にプラスに作用した。
寛治二(一〇八八)年三月、厨子王丸こと岩城正道、検非違使大尉を辞職し大学寮に入る。一つだけ空いた席を手に入れるのに成功したのである。このとき厨子王丸一九歳。大学寮そのものだけを見れば歳上の部類に入るが、文章生としては若輩者である。しかもこの若輩者は、堀河天皇の即位前からボディーガードを務め、検非違使としての実績を積んできたという希有な存在である。
厨子王丸こと岩城正道が文章生となったという知らせが四天王寺に届いたときはどよめきが起こった。あの暴れ回っていた稚児が検非違使になったというところまではまだ理解できる話であったが、検非違使を辞して文官の道を選んだだけでなく、難関として名を馳せていた文章生になったというのであるから、最初は何かの誤報なのではないかと思われたほどだ。
しかし、どんなに確認しても新たな文章生は厨子王丸であった。
これまで四天王寺で学んだ者が大学寮に行くことそのものは珍しくなかった。だが、大学寮のうち明法道や明経道といった毎年十数名から百名単位の若者を受け入れている道へ行くことが通例であり、総定員二十名しかなく、入学試験そのものが文章生に空席のできたときしか開催されない紀伝道に入学し、文章生の地位を獲得したというのは、四天王寺創建からはじめてのことであった。
厨子王丸が文章生になったという知らせは源義家のもとにも届いていた。清和源氏は武門で名を馳せてはいても文人官僚としての評価を手にしてきた者は少ない。ゼロではないが数えるほどしかない。それがここに来て、単なる文人官僚ではなく文章生になったというのであるから、厨子王丸の残した記録は個人の問題ではなく清和源氏全体に関わる偉業となったのである。
一族の関係者の誰かが文章生になるというのは清和源氏にとっては初例であっても、その他の貴族にとっては珍しくないことであり、たかが一人の文章生を輩出した程度で何をはしゃいでいるのかと扱う氏族にもいた。藤原氏は無論、菅原氏や大江氏といった氏族、さらには、村上源氏などのように同じ源氏ではあるが清和源氏ではない氏族からも、清和源氏のはしゃぎようはむしろ嘲笑の対象にすらなっていた。
ただし、その嘲笑はわずか二年で終わった。
厨子王丸は二十名の文章生の中から選りすぐりの二名だけが得られる栄誉である文章得業生に選出されたのである。この瞬間、厨子王丸は方略試にチャレンジするチャンスを獲得したこととなる。方略試とは、合格したら文句なしに名誉なことであるが、そもそも受験資格を得たことだけでも十分に名誉なことであり、その名誉を清和源氏の関係者が手にしたのである。
それでもまだ文章得業生までであれば毎年二名は選ばれる。方略試の制度が始まってから間もなく四〇〇年になろうかしているのであるから、単純計算で述べ八〇〇名の文章得業生が誕生してきたこととなる。文章生は何度か輩出してきた氏族であっても文章得業生は一人も輩出したことのない氏族というのは中には存在するが、たいていの氏族は歴史を遡れば一人や二人は文章得業生がいる。つまり、清和源氏はここで他の氏族に並んだこととなる。
さらに二年後、清和源氏は他の氏族を追い抜く栄誉を獲得する。
厨子王丸こと岩城正道、二三歳にして方略試に合格。およそ四百年に亘る方略試の歴史における六十六人目の合格者であり、大江正房が天喜六(一〇五八)年に記録した一八歳での合格という記録に次ぐ史上二番目の若さでの合格であった。藤原氏にも、また、数多くの学者を輩出してきた菅原氏にも達成できなかった栄誉を、ついこの間まで誰一人として文章生を輩出してこなかった清和源氏が獲得したのである。もっとも、厨子王丸こと岩城正道の本名は平正道であり、厳密に言えば桓武平氏の栄誉であるのだが、この時点では清和源氏の栄誉となっていた。
方略試に合格したことで厨子王丸は従五位下の位階を獲得し、正式に貴族の一員となった。本来であれば、恩赦になった流人の息子ということで位階を得るにはまだまだ時間を要するはずであったが、白河上皇による判決の白紙撤回により名誉は全て回復されただけなく、ついこの間まで検非違使であった厨子王丸が、さらにその前は大番役を務めているだけの無名の若者だった厨子王丸が、方略試合格という誰からも文句の言われようのない成果を手にしたことから貴族社会に顔を出すようになったのである。
貴族の一員となり従五位下の位階を獲得した、位階に応じた役職の話も出てきた。
国司就任の打診である。
ただし、このときの打診は九州の日向国であり、厨子王丸が望んでいた丹後国ではなかった。
厨子王丸はこの打診を拒否し、あくまでも丹後国の国司を求めるとした。
さて、山椒大夫はその間何をしていたのか?
結論から記すと、いままでのままで有り続けていた。
一つだけ違いがあるすれば、自分のもとを抜け出した厨子王丸が岩城正道と名乗るようになり、中央で名を轟かせつつあるという知らせを聞いたことである。
ところが、その真意を山椒太夫は理解していなかった。それどころか、かつて自分のところの使用人であった厨子王丸が出世したことを喜びもしたのだ。脱走したときは怒り心頭に達したし、捕らえられずにいることもまた怒りであったのだが、このときはその怒りを忘れることとし、厨子王丸が中央とのパイプを作ってくれたと考えたのである。
富も権力も手に入れた山椒太夫であるが、権威だけは無かった。あの手この手を尽くして権威を手に入れようとしていたが、権威だけは財力でどうにかなるものではなかったのだ。しかし、かつて自分の使用人であった厨子王丸が中央で出世するとなると話は別である。厨子王丸を経由することになるが、これで自分のところに朝廷の権威が入ってくると考えたのである。
山椒太夫は様々な手段で、岩城正道は自分の家臣であると主張した。
その主張は厨子王丸の耳にも届き、厨子王丸は激怒した。
厨子王丸の怒りの対象である山椒太夫は、丹後国で絶大な権力を持つアンタッチャブルな存在となっており、多くの人がどうにかしなければならない問題であると考えていたが、この時点ではまだ、山椒大夫をどうにかできるだけの法的根拠がなかった。
山椒大夫が脱税をしているのは間違いのだが、歴代国司の残した記録のどこにも山椒太夫の脱税の記録はない。それどころか多額の税を納めているという記録さえ存在する。
山椒太夫が奴隷売買に手を出しているという話もあるが、こちらもまた証拠がない。目の前に厨子王丸という証人がいるが、山椒太夫に言わせれば行き先をなくした姉弟を助け、食事まで与えていたとなる。奴隷を使って莫大な収益をあげていることは間違いないのに、奴隷を使っているという証拠がないのだ。
また、証拠があったとしても、山椒太夫の持つ武力は普通の国司にどうこうできるものではなかった。税を納めさせようと役人を派遣した国司に届くのは、派遣した役人の謎の死の知らせである。この話が広まっている以上、どんなにやる気のある国司であろうと、国司の命令を聞き入れて山椒太夫の元に向かう役人などいない。
一人を除いて。
厨子王丸こと岩城正道は、丹後国司になった暁には山椒太夫とその子たちを逮捕し、全財産を没収すると明言した。
山椒太夫と言えば丹後の大富豪にして武力を率いて国司以上の勢力を持つ者として名を馳せており、その名は京都でも知られている。そして、山椒大夫がいるために丹後国は国司が国司としての活動ができずにいることも、そのために丹後国司になりたがらない者が多いことも知られている。
厨子王丸を丹後国司にするのはあまりにも危険であった。何が起こるのか容易に想像つくのだ。
しかも、源義家が早々に厨子王丸の支援を表明している。こうなると新たな丹後国司に厨子王丸が就任した場合、かなりの確率で軍勢を率いて丹後国に進軍することとなる。赴任するのではない。進軍するのである。
一方で、丹後国司になりたいと考える貴族がいないという問題はどうにもならなかった。これまではどうにかして丹後国司を据えてきた。その丹後国司は明らかにやる気などなく、ただ任期満了だけを考える国司であるが、それでも国司は国司である。
だが、承徳二(一〇九八)年の年末にそうした小手先の対処は消えてしまった。ついに丹後国は国司が空席となってしまったのだ。
京都には丹後国司になりたがっている厨子王丸こと岩城正道がいる。
そして、丹後国司になりたがっている岩城正道は国司に就任するに十分な位階を持っている。
ならば正道を国司にすれば良いではないかとなるが、そう簡単にはいかない。
正道を国司にすべきかどうかの意見は分かれていた。人身売買に対するあまりにも厳しすぎる態度、そして、山椒大夫に対する言動をはじめとする過激な言葉は、国司として相応しくないのではないかとする意見が強かったのである。確かにそれは「正義」なのだろうが、「正義」を貫きすぎると悲劇を増すこととなるのは人間社会の宿命。今の正道を丹後国司にしたら、正義の名の下に悲劇が展開されるであろう。
しかし、山椒大夫をこのまま放置するわけにはいかないのもまた事実であり、山椒大夫をどうにかできる人材としての正道ならば期待できるのもまた事実であった。
源義家をはじめとする貴族たちの推薦もあり、年が明けた承徳三(一〇九九)年一月一六日、岩城正道は三〇歳で念願の丹後国司に就任した。
拉致されてから二一年、脱走してから一三年が経過していた。
山椒大夫が「裏切り者」と呼んだ厨子王丸が国司として丹後にやってくる。
しかも、自分を捕らえ、全財産を没収すると宣言しての国司就任である。
これまでの国司であれば、賄賂や暴力によって山椒大夫のコントロール下に置くことができたが、厨子王丸にこれらは効かないことは容易に想像できた。
「裏切り者で恩知らずの厨子王丸よ。我が屋敷で食を与えてやった恩を忘れ主君に逆らうとは何事か!」
山椒大夫は公式にはこのように述べて厨子王丸を非難したが、それで問題が解決するとは到底思えなかった。身の危険を感じた山椒太夫は、できる限りの財を集め、武士を集めた。実力による抵抗を明言したのである。
山椒大夫が武士を集めて軍勢を率いようとしているというニュースは京都にも届いていたが、それで厨子王丸の初心が覆されることはなかった。それどころか、源義家の協力を得て一千名の軍勢を集めることに成功したのである。その中には、拉致された経験のある者や、家族、恋人、友人が行方不明になったと訴え出た者もいた。彼らは厨子王丸と怒りを共有していたし、拉致された者が山椒太夫の元にいるのではないかという希望も持っていた。
「山椒大夫ならびにその家族、および宮崎三郎に出頭を命じる。犯罪者山椒大夫とその子らの全ての財産を没収する。出頭を命じられた者を捕らえて差し出した者には、没収した山椒大夫の財産の一割を報償として与える。生死は問わない」
厨子王丸は軍勢に向かって宣言すると同時に、丹後国の人たちにも同じ内容を公表した。
山椒大夫はこれでさらに狼狽した。
一月一六日に国司に任命された厨子王丸が丹後に向かったのは二月。源義家率いる一千名の軍勢とともにしての移動であり、移動の光景は事前に予期されていたとおり、国司の任地赴任ではなく反乱の鎮圧に向かう軍勢であった。
京都から軍勢が丹後に向かっていることを知った山椒大夫は、武力と法律の両方で抵抗を試みた。武力は金を集めての軍勢結集であり、法律は自分を逮捕する根拠の証拠隠滅であった。
「逮捕する理由として、税の不払いと人の売り買いを挙げているが、どちらも事実無根の言いがかりである。税は正しく納めているし、人を売り買いしたこともない。住まいをなくした者を屋敷で保護し、仕事と食事を与えたことは事実であるが、それは国司の言うような人身売買ではない」
山椒大夫はこう宣言した。
これまでの国司であればこの言い訳も通用したであろうが、厨子王丸は実際に奴隷としてこき使われていた過去がある。厨子王丸は、山椒大夫が人を買って奴隷として酷使しているのは隠しようのない事実であり、この不正義は正さねばならないと改めて主張した。
これに対し、山椒大夫は、岩城正道が奴隷として山椒大夫の屋敷にいたことなどないとした。厨子王丸が屋敷にいたことも、厨子王丸が貴族の一員になったときに得意げに自分の家臣が貴族になったと主張したことも無かったことになった。
その上で、山椒大夫は屋敷の警備を固めただけでなく、使用人を人質とする立て籠もりも始めた。使用人を小屋に閉じ込めて武士に監視させただけでなく、血のつながりのある者を別々の小屋に閉じ込め、個人で脱走しようとしたら残された家族の身にも危険が及ぶようにさせたのである。
この情報は厨子王丸のもとにも届いていた。
ただし、それが厨子王丸の行動を狭めるものにはならなかった。
厨子王丸は山椒大夫の屋敷の武士と使用人に対し、ただちに武器を捨てて投降するように命じた。山椒大夫を差し出せば無罪とするだけでなく褒賞も与えるが、山椒大夫とともに闘うならば山椒大夫と同様に犯罪者として処罰するとしたのである。
山椒大夫の屋敷にいる、山椒大夫が言うところの使用人、その他の人が言うところの奴隷の中には、厨子王丸が自分たちをここから救い出してくれると考えた者が多かった。
奴隷たちの中には一三年前に姉とともに厨子王丸がこの屋敷を脱走したときのことを覚えている者もおり、彼らは自分たちが常に夢見続けながらできずにいることを成し遂げた若者を羨ましく思い、機会を見て同じように脱走しようと考えていたのである。
ついこの間まで、厨子王丸とは羨望と希望の混ざった感情で眺める相手であったが、今や、羨望は失われ、厨子王丸に対する思いは希望だけに変わったのだ。
少なくない数の奴隷が山椒大夫の屋敷から脱走しようとし、少なくない数の奴隷が脱走に成功した。
山椒大夫に雇われた武士も、山椒大夫の元で戦うことは無意味だと考えるようになっていた。国司と戦ったらかなりの可能性で負ける。仮に勝ったとしても、今までのような暮らしが続くのみであり、国司が述べるようなこれまで以上の暮らしを過ごせるわけではない。抵抗したら良くても現状維持なのに、投降すれば現状よりも上の暮らしが待っている。これでは、山椒太夫の側に立つのが無意味だと考えざるをえない。
脱走を監視し、脱走者を捕らえなければならないはずの武士が脱走するようになり、朝起きたら武士が丸ごといなくなっていて、出入りが自由自在になっている奴隷小屋まで現れた。
櫛の歯が一本ずつ欠けるように手勢が減っていくのを目の当たりにしただけでなく、もはやどのような手段を用いても厨子王丸は意思を変えないと判断した山椒大夫は、このまま戦ったら間違いなく負けると考え、人質を含む少数の者とともに屋敷を脱出した。
厨子王丸が山椒大夫の屋敷に着いたとき、屋敷の門は開けられたままで出入りの支障すら無かった。
持ち運べる財産は全て持ち出したのだろうと思われたが、それでも山椒大夫の豊かさを連想させるだけの財産が倉に残されており、厨子王丸は、コメをはじめとする財産を、山椒大夫の奴隷であった者たちや、義家の率いている軍勢に分け与えた。ただし、厨子王丸自身はコメ一粒として自分の懐にしまわなかったことを誰もが見ていた。
屋敷には山椒太夫の次男である二郎と、厨子王丸がこの屋敷で奴隷生活をさせられていた頃に親代わりになってくれていた小萩の遺体が残されていた。屋敷に残されていた者の話によると、厨子王丸が脱走してからこのあたりを疫病が襲い、山椒太夫の長男は一〇年以上前に亡くなって、山椒太夫の跡継ぎは二郎となり、二郎は小萩を事実上の妻と遇するようになったという。
二郎はこのまま父と運命をともにするのは身の破滅であると考え、厨子王丸へ投降すべく、小萩とともに屋敷から逃げだそうとしたので、山椒太夫と三男の三郎の手で殺されたのだという。
その殺し方も、まずは小萩に穴を掘らせたのち、小萩を穴に入れて首だけを出して埋め、二郎にノコギリを持たせて小萩の首を切り落とさせたのち、二郎に穴を掘らせて二郎を穴に埋めて二郎の首だけを出し、三郎が手にしたノコギリで首を切り落とすという残酷な方法であったという。それも、切れ味の悪い竹製のノコギリであり、絶命するまで悲鳴が響き渡り続けたという。山椒太夫は奴隷たちに「逃げようとしたらこうなるぞ」と脅したとのことであるが、それで一層怖くなって逃げ出す者が続出したという。
そしてここで、厨子王丸は一つの希望を聞いた。
山椒大夫が連れて行った奴隷たちの中に安寿がいるというのだ。
証言によると、安寿は弟が脱走したことで責め苦を受け続ける日々を迎えたと言うが、厨子王丸が検非違使になったという知らせが来たのを契機に待遇は一変し、二郎が山椒大夫の跡継ぎになった頃には、三郎の事実上の妻と扱われるようになったという。
山椒大夫らの集団が屋敷を脱走したとき、その集団の中に、強引に連行されていく安寿の姿があったというのが証言であった。
屋敷を脱出した山椒大夫と、山椒太夫の三男の三郎、そして、少数の使用人と少数の人質は日本海に向かって移動していた。海から脱出して、東か西かはわからないが、丹後国を離れることを考えたのだろう。
だが、山椒大夫のその思惑は失敗に終わった。厨子王丸率いる軍勢が山椒大夫に追いついたのである。
「この恩知らずが!」
厨子王丸の軍勢と向かい合った山椒大夫は、全身を怒りに震わせながらも厨子王丸を罵倒した。
「貴様の屋敷で過ごした日々のどこに恩があるか」
「身寄りのない貴様らを食べさせてやったのはどこの誰だと思っているんだ!」
「少なくとも山椒大夫、貴様ではない」
山椒大夫は馬上の厨子王丸を見上げ、厨子王丸は馬上から山椒大夫を見下ろしている。
構図だけを見れば山椒大夫の負けであろう。
だが、山椒大夫には奥の手があった。
「三郎、連れてこい!」
山椒大夫は三郎に人質の一人を連れてくるように命じた。
三郎が連れてきた人質は女性であり、女性は後ろ手に縛られて、三郎の右手に握られた刃物を喉元に突きつけられている。
「姉上………」
その女性は、一三年前に都で会おうと約束して分かれた安寿だった。分かれたときは二〇歳だった安寿も、一三年を経て三三歳の大人の女性になっているだろうとは厨子王丸も考えていた。
しかし、厨子王丸の目の前に連れてこられたのは三三歳とは思えない老いた女性であった。額の焼き印はシワに隠れ、脱走してからどれだけの拷問が加えられたのであろうか右足が不自由になり、そして、全身傷だらけである。これで待遇が改善された姿なのであるというのだから、そうでなければ姉はいったいどうなってしまっていたのであろうか、そう考えると背筋が凍る思いがした。
「姉がどうなってもいいのか!」
山椒大夫のその脅しに厨子王丸はひるんだ。
厨子王丸はどうして良いかわからなかった。母に会いたい、姉に会いたい、そう思わなかった日はない。しかし、このような最悪のタイミングでの再会は全く想像していなかった。姉がこの一三年、いや、拉致されてからの二一年間をどのような苦労で過ごしていたのかは姉の姿を見ればすぐに理解できた。その苦労を晴らすために自分は人生の全てを費やしてきたのではないかとは頭では理解しているが、それが姉の命に関わるとの思いが決心を揺るがせた。
その決心の揺らぎを元に戻したのは安寿の決心だった。
「厨子王丸、何をためらうか」
そう言うと、安寿は自ら喉を三郎の小刀に突き刺した。
鮮血がほとばしった。
最後の手段と考えていた人質が失われた瞬間、山椒大夫の一行は軍勢に取り押さえられた。
山椒大夫も三郎も生きて捕らえられ、縄で縛られた。
しかし、その瞬間を厨子王丸は見ていない。
厨子王丸は真っ先に姉の元に駆け寄っていたから。
「姉上! お気を確かに!」
厨子王丸は姉の喉に布をあて、何とかして血を止めようとした。
「よく来てくれた。誇りに思う………」
安寿の言葉は弱々しいものだった。
「今すぐ都に参りましょう! 都なら姉上を治せます!」
「この姿で生きろと言うのか……」
「姉上……」
「母上は佐渡島だ……、迎えに行ってくれ……」
「姉上!」
「ありがとう、厨子王……」
「姉上ーーーっ!」
安寿は弟の腕の中で三三年の命を終えた。
安寿の最期の地は今も残っている。京都府舞鶴市にある「安寿姫塚」がそれで、この塚には今も、弟の手で葬られた安寿が眠っている。
山椒大夫と三郎は、かつて主人として君臨していた自分の屋敷に罪人として連行されてきた。
屋敷にはかつて自分たちが奴隷として酷使してきた人たちが集まっていた。
山椒大夫は彼らに主人として振る舞おうとしたが誰一人として山椒大夫をそのように見る者はいなかった。
「どうするつもりだ!」
山椒大夫はそれでも強気を隠さなかったが、それは現実と大きく離れていた。今の山椒大夫は国司に捕らえられた罪人である。
「三郎、穴を掘れ」
「誰に向かってそのような口を……」
「穴を掘れ!」
かつて自分がしていたのと同じことをされ、三郎は厨子王丸の命令に従った。
屋敷の庭の中央に人が一人入れるだけの穴が掘られた後、厨子王丸は山椒大夫を穴の前に連れてきた。
「入れ」
「何を……」
「入れ!」
厨子王丸に突き飛ばされた山椒大夫は恐る恐る穴の前にまで歩み寄ったが、そこから先の一歩を踏み出せなかった。
「突き落とせ」
厨子王丸の命令には逆らえないと悟った三郎は、父を自分の掘った穴に突き落とした。
「首だけ残して埋めろ」
三郎はこの命令にも従った。穴を掘った後にできあがった盛り土を埋め戻し、父の首から下を埋めた。
「これで切り落とせ」
厨子王丸が三郎に渡したのは竹でできたノコギリであった。
三郎の愛用のノコギリである。奴隷に与えた拷問のうち最も重い拷問で、最後まで抵抗する奴隷を処刑するのにこのノコギリを使っていた。切れ味は極めて悪く、このノコギリを使われた奴隷の激しい悲鳴は、この屋敷にいる者なら誰もが聞いたことがある。
三郎はついこの前、実の兄に対してもこのノコギリを使用したばかりであった。
今回も同じことであった。ただ、刃先を向ける相手が山椒大夫であるということだけが違っていた。
「やめろ! やめろ、三郎! やめ……」
それから山椒大夫の最期の悲鳴が響いた。
三郎の最期は屋敷の者たちに委ねられ、父と同じ結末を迎えた。
ただし、首の扱われ方は違った。
三郎の遺体は埋められたが、山椒太夫の遺体はそのままにされ、首は厨子王丸の手に渡った。
厨子王丸は槍の先に山椒大夫の首をぶら下げ海まで向かった。国司の命令として、宮崎三郎に出頭するよう命じていたのを見届けるためである。
山椒大夫の最期は丹後の民衆に印象づけるに充分だった。
この国司には逆らえない。逆らったらどうなるかわからない。それは、国司が槍先にぶら下げている袋の中身を考えればわかる。
だけど、人の売り買いに荷担しなければ何もしない。それどころか、前より良い暮らしを約束してくれる。税が減っただけじゃなく、誘拐される心配も、奴隷としてこき使われる心配もしなくて良い。
これは、間違いなく希望だった。人の売り買いを仕事としている者以外にとっては。
宮崎三郎は、これから先、人を売るのも買うのも不可能になったと悟っただけではなかった。これまでの自分のしてきたことの全てが犯罪だと考える国司が権力を握り、自分を捕らえようとしている。そして、財力で武士を集めることのできた山椒太夫と違い、自分の周囲には誰も味方がいないことを悟った宮崎三郎は、自分から厨子王丸の前に身を差し出した。
ただし、嫌みは言った。
「このようなことになるなら、越後で貴様を買うのでは無かった」
これに対する厨子王丸の答えは単純明快だった。
「人の売り買いをすることそのものが犯罪だ」
厨子王丸はそう言うと、宮崎三郎を後ろ手に縛ったまま、二一年前に自分たちが乗せられた船に乗せた。
「何をするつもりか!」
「貴様に売り飛ばされた者もそう言った。貴様はそれにどう答えた。今度は貴様が同じ目に遭う番だ」
本来であれば、国司というものは任国を勝手に出てはならない。
だが、厨子王丸は、船に乗って任国を離れた。
出航した厨子王丸を見届けた義家の手元には一通の書状が残っていた。
受け取ったときには封をしてあったため何と書いてあったかわからなかったが、出航した後ならば封を解ける。
手紙の封を開けた義家は、厨子王丸の国司辞任の決意を読んだ。
「復讐だけが全てなのか! 厨子王丸!」
厨子王丸は復讐だけを人生の全てにした。
復讐を終えたあとの厨子王丸はいったい何をするつもりなのか。
義家は取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと後悔した。
丹後の大富豪であった山椒大夫が人身売買の罪で残酷きわまりない方法で殺された。
山椒大夫に人を売った宮崎三郎も復讐された。
順番で行けば山岡太夫と江戸二郎の順番であることは、当の本人が最も理解していた。
この理解は、見慣れた宮崎三郎の船が直江津に着いたことで確信に変わった。宮崎三郎の船に乗っているのは、後ろ手に縛られた宮崎三郎と、どこで捕らえられたかわからぬが厨子王丸が途中で捕らえた江戸二郎、そして槍先に山椒大夫の首をぶら下げた岩城正道、かつて厨子王丸と呼ばれた山岡太夫の商品の一人の今の姿である。
厨子王丸の乗った船は、日本海沿岸を進んで直江津の港に着いたが、そこに山岡太夫の姿は無かった。どこかへと逃げたのだという。
どこへ逃げたのだという厨子王丸の問いに、直江津の人の答えはいくつにも分かれた。佐渡に渡ったと言う者もいれば、内陸へと逃げていったと言う者もいた。どこかの家に潜んでいると言う者もいたし、自殺したと証言する者もいた。
その証言の全てが間違っていることを悟ったのは、山岡太夫が船に乗って港を出港したのを見たときである。行方を隠していた山岡太夫は、夜闇に乗じて船に乗って逃れようとしたのだ。
厨子王丸は迷わず船に乗って追いかけた。
直江津の人たちには何があったのかわからず、わかったのは昼になってから。昼、直江津の港に漂着した船には、山岡太夫、江戸二郎、宮崎三郎の二人の死体が残されており、槍にくくりつけられた山椒大夫の首もそのまま船に放置されていた。
そして厨子王丸の姿はどこにも無かった。
「これが人買いの最期か……」
人身売買を快く思っていなかった直江津の人たちも、死体となって港に漂着したことには哀れを感じ、三人の遺体と山椒大夫の首を埋葬した。
それより不可解に感じたのは、厨子王丸が見当たらないこと。厨子王丸の乗った船が帰ってこないのである。
「あの方はどうしようというのかね」
その答えは誰にもわからなかった。
丹後の国司が人身売買を禁止しただけでなく、関係者を容赦なく処罰していることは佐渡島にもニュースとして届いていた。
そして、その丹後国司は、かつて人さらいにあい奴隷として売り飛ばされた者だという話も広まっていた。
その丹後国司が佐渡島にやってきた。
「岩城判官正氏の子、厨子王丸です。母はいますか」
佐渡に着いた厨子王丸は、貴族としてではなく、一人の人間として港の役人に接した。
役人の一人は困った顔をしていた。
岩城正氏の妻が佐渡に流れ着いて二一年になることは役人も知っている。それから二一年、毎日のように子供たちに会いたいと嘆く女性が海辺でたたずんでいることも知っている。
しかし、それを教えて良いものかという思いがあった。
「こちらにございます」
覚悟を決めた役人の一人に案内され厨子王丸は海岸に来た。
そこでは老女が海辺を眺めて歌を歌っていた。
「あんじゅこいしや、ほうやれほ♪
ずしおうこいしや、ほうやれほ♪」
この単調なリズムを延々と繰り返す老女が母だと気づくのに時間はかからなかった。
「母上!」
厨子王丸は駆け寄って母の手を抱きしめた。
母は誰かが自分の手を掴んでいることを理解せぬまま歌を歌い続けていた。
「母上、厨子王丸です」
「あんじゅこいしや、ほうやれほ♪
ずしおうこいしや、ほうやれほ♪」
単調の歌が繰り返され、視線はどこか虚空を向いている。
「もう二〇年以上、毎日こうして歌っているのです」
海岸に連れてきた役人はこう説明した。
どうやら母は視力を失っているようだった。
母の目には自分が映らない。
いや、目の前にいるのが息子であると認識していない。
おそらく一生このままだろう。
厨子王丸は母を抱き上げた。
「何をなさるのですか」
役人の一人が厨子王丸に話しかけた。
「人買いとはいえ人は人。人を殺した者は報いを受けなければならない」
「おやめください!」
母を抱きかかえたまま海に入っていこうとする厨子王丸を役人は二人がかりで止めようとした。
「姉と会えた。母と会えた。仇を討った。後に残されたのは大勢の血。私には責任がある」
厨子王丸はそう言うと役人たちを振り切って海の中へと入っていった。
「お戻りください!」
「私が殺した者にも家族がいる。その家族にとって私は人殺しであり仇討ちの対象だ。私が生かされていることを悲しむ者がいる。人に伝えよ! 仇討ちは全て終わったと!」
「おやめください!」
食い止めようとする役人も最後は諦めるしか無かった。
「母上、行きましょう。父上と姉上がお待ちです」
厨子王丸は日本海の中へ母とともに進んでいった。
承徳三(一〇九九)年二月、岩城正道こと厨子王丸、享年三〇。
厨子王丸 ― 完 ―




