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厨子王丸  作者: 德薙零己


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前編 安寿と厨子王

 父を殺したお前ら。

 母と生き別れにさせたお前ら。

 姉と俺を攫ったお前ら。

 俺らをこき使ってきたお前ら。

 生き地獄の日々にさせてきたお前ら。

 多くの仲間を殺してきたお前ら。

 覚悟しておけ。

 これからはお前らの番だ。

 同じだけ苦しめ。

 同じだけ悲しめ。

 同じだけ泣き叫べ。

 全部お前らがしてきたことだ。

 ザマアミロ。

挿絵(By みてみん)

 「従五位下平朝臣正道、宜しく、丹後守に任ずべし」

 「御意」

 承徳三(一〇九九)年の一月、岩城(いわしろ)正道(まさみち)こと平正道(たいらのまさみち)が丹後守に就任した。三〇歳の若き国司の誕生である。

 平姓ではあるが後の時代のように源平で対立することはなく、岩城正道の父は源義家の家臣の一人として奥州を舞台に活躍してきた人であり、このときの岩城正道には父と同様に源氏の後ろ盾があった。ただし後ろ盾となってくれた源氏とは、宮中で活躍する村上源氏ではなく、同じ源氏でも三流扱いを受けていた清和源氏である。清和源氏は鎌倉時代以降に将軍として幕府を開く血筋であるものの、この時代では武芸に長けていること以外に名を残さぬ三流貴族である。とはいえ、三流貴族である清和源氏ですら、岩城正道からすればはるか遠くの雲の上の存在であった。

 岩城正道が桓武天皇の子孫であることを示す平姓を名乗っているとはいえ、血筋で言えばさほど高くはない者が、それこそ、清和源氏ですら雲の上の存在と感じるほどの血筋の者が三〇歳という若さで国司となるのは、常ならば周囲の妬みを買うものだ。

 だが、このときの正道は四つの理由から誰からも妬みを買わなかった。

 一つは、岩城正道が貴族としての順当な経験を経ていながら、承徳三(一〇九九)年の時点でまだどこの国司も経験できていなかったこと。若いことを差し引いても、また、関白藤原師通の不興を買ったことを差し引いても、正道のここまでの貴族としてのキャリアを考えたならば、どこの国司も経験しないまま三〇歳になるまで来たことのほうが異常だった。より正確に言えば、正道にはこれまでに何度か国司となるチャンスがあったのである。ただ、自分にチャンスが巡ってきたときも先輩の貴族を優先してくれるように願っていたので、今年の除目で正道が丹後国司となったとき、周囲の貴族たちは正当な順番が回ってきた、あるいは、これまで自分たちのために譲ってくれたことを考えれば文句は言えないと考えた。

 二つ目は、丹後国司が人気の無い国司職であったこと。国司として赴任しても、山椒大夫をはじめとする丹後国の有力者が国衙からの租税命令をのらりくらりと交わしたり、時には武力でもって国司に恫喝したりする始末であった。国司という職務の人気は一にも二にも税収の一部を自分のものとできることにあるのだが、山椒大夫などのように国司ですら手に負えない有力者が多くいる丹後国では、税収の一部を懐にできるどころか、税の不足分を国司の私財で埋め合わさなければならないのが通例であった。これでは積極的に丹後国司になろうとする者などおらず、丹後国司に任命されたと聞いて落胆するのが普通だったのだ。貧乏クジの仕事と見られていた丹後国司に正道が選ばれたことは、同情されこそすれ、羨望は向けられなかった。

 三番目に、正道の父もまた丹後守であったこと。父の後を継ぐのを望むのは珍しくなかった時代であることに加え、正道の父がどのような運命を迎えたかを知っている者にとって、息子が亡き父の後を継ぐこととは感動を呼ぶ話であり、誰もが涙する話でもあった。

 最後に、正道が厨子王丸と呼ばれていた頃からずっと、丹後国に赴任することを望んでいたことがある。幼き厨子王丸に「将来何になりたいか」と質問したときの答えはいつも「丹後国司になりたい」であったし、貴族になったときも、丹後国司になったらどうするかという公約をかなり前から宣言していた。正道個人の丹後での過去を知っているだけに、正道が丹後国司になることを熱望してきた理由も誰もがわかっていた。

 「ついに時が来たな、厨子王丸」

 正道に声をかけてきたのは一人の老人だった。元服して「正道」と名乗るようになっても、この老人にとっては永遠に幼名の「厨子王(ずしおう)丸」だった。それはこの老人だけではなく、この老人と同時代を生きてきた宮中の貴族たちも同じだった。この若き丹後国司の名が平正道であり、岩城を苗字としていることは知識としてならば知っているが、呼びかけの言葉として「厨子王」や「厨子王丸」を使う者もいた。何より、正道本人が自分のことを厨子王や厨子王丸と呼んでくれることを望んでいた。三〇歳にもなった男が幼名のまま呼ばれるのは本来ならばあり得ない話であったが、正道は初心を忘れぬために幼名で呼ばれることを願うことすらあった。

 「ええ、かねてより待ち望んでいた時です」

 正道は決意を浮かべた表情で老人を見た。

 この老人こそ、本朝随一の武人として東北地方を暴れ回った八幡太郎こと源義家の現在である。かつてのように戦場を巡り歩いていた頃のような殺気走った雰囲気はないが、それでもなお、武人としての威圧感を感じずにはいられない迫力がある。


 厨子王丸の父は岩城(いわしろ)正氏(まさうじ)という武士である。

 岩城正氏の本名は平正氏(たいらのまさうじ)といい、祖先を遡ると、平将門の頃に平将門を討伐した側の武士の一人にたどり着く。もっと遡れば桓武天皇にまで行き着くというのは平を姓とする誰もが訴えることであるが、いかに桓武天皇の子孫であることを誇ろうと、同程度の血筋の者は無数にいる。桓武天皇が平安京へと遷都されてから二〇〇年以上を経た現在、桓武天皇の子孫は増えすぎた。あまりにも増えすぎてしまった。桓武天皇の子孫であることを誇りとするのは何ら問題ないことではあるが、桓武天皇の子孫であるだけで生きていけるほど甘い時代ではなくなっていた。

 これは桓武天皇の子孫だけではない。源を姓とする者もまた、同じディレンマに悩まされていった。嵯峨天皇の子孫、村上天皇の子孫、清和天皇の子孫、そうした歴代天皇の子孫である者の多くは源を姓とし、祖先が天皇であることを誇っていた。しかし、天皇の子孫であるというだけでは生きていけない時代にもなっていた。平氏と同様に源氏もあまりにも増えすぎてしまった。

 誇りを胸に抱きながらこの時代に生きていくために、桓武天皇を祖先とする平氏や、清和天皇を祖先とする源氏の多くが選んだのは、武芸であった。馬に乗って弓矢を操る武士となり、荘園や所領を守る、あるいは朝廷や有力貴族を守る。その代わりに幾許(いくばく)かのコメや布といった財貨をもらって生きる。それが誇りを胸に抱きながら武芸に生きることを選んだ者の人生である。

 正氏は、京都で役人となり貴族となる未来など生まれる前から諦めていた。京都の朝廷の中枢は見渡す限り藤原氏が占め、ごく稀に源氏、それも嵯峨天皇や村上天皇の子孫である源氏の中から選りすぐりのごく一部だけが京都で貴族へと昇り詰めることが許され、それ以外の源氏は、京都に暮らしながら貴族になれない役人として生きるか、あるいは地方に降って武士として生きるか、そのどちらかしかないというのがこの時代であった。しかもそれは源氏の話であって平氏の話ではない。源氏と同様に天皇の子孫であることを誇る平氏の境遇は源氏以上に不遇であった。どうにかして貴族の一員となることのできた平氏ならば探せば見つかるが、朝廷の中枢に名を刻む平氏などありえなかった。どんなに努力と実績を積み上げても無名の貧しい貴族となるのが出世の限界である平氏の人間にとって、最も簡単に生きる手段を獲得する方法こそ、武芸を我がものとすることであった。

 平正氏もまた、生まれる前から武士として生きることが宿命づけられた人間であり、宿命をより強い形で実現させるために、当代随一の武将たる源義家に仕える武士となることを選んだ。後の源平合戦は源氏と平家の争いとなるが、この時代はまだ源氏と平氏とではまだそこまで対立してはいない。ついでに言えば、後の源平合戦においても、平清盛とその一族に従う平氏のみが平家と呼ばれ、そうでない平氏は北条や三浦などの苗字を名乗って源氏の源頼朝のもとに仕える身となっている。その意味で、平正氏の選択は後の源平合戦を先取りしていたともいえよう。

 源義家に仕えるという平正氏の選択は間違いではなかった。前九年の役で平正氏は源義家の忠実な家臣として活躍し、数多くの手柄を立ててきた。戦場での活躍が源義家の目に留まり、平正氏は陸奥国岩城、現在でいう福島県福島市のあたりに自らの所領を獲得でき、岩城の地で結婚をし、二人の子をもうけ、岩城を苗字とするようになった。

 それからも平正氏は、いや、岩城正氏は、武芸で功績を残し続け、手柄の集大成として丹後守に就任した。いかに桓武天皇の子孫を称しようと、また、桓武天皇の子孫である証拠を有していようと、岩城正氏は生まれに恵まれなかった者である。そうした生まれの者にとって国司に就任するというのは、人生の全てを捧げてきたことに対する最上級の報奨であり、これまでの人生が間違っていなかったことを指し示す何よりの証明になった。しかも丹後国である。京都と目と鼻の先にある国の国司とあって、国司としての活躍は容易に京都に届き、京都でのさらなる成功を生み出す可能性がある。京都から遠い国であったならば中央での成功を諦めて自らの豊かさのみを求める暮らしを選ぶしかないが、京都に近ければ近いほど、豊かさだけではない成功の可能性が出てくる。

 そう喜び勇んで岩城正氏は妻と二人の子を陸奥国に残し、単身、丹後国へと向かった。

 その頃はまだ、丹後国がどういう国かも、そして、自分や家族の迎える運命をまだ知らない。


 「これは!」

 丹後国衙に入った岩城正氏が目の当たりにしたのは、丹後国の絶望的な現状であった。毎年の納税は予定されている税の半分にも満たず、特に特産品である塩からの税収が無きに等しい有様であった。

 さらに問題であったのが、丹後国の人口が減っていることである。子供が産まれないとか、多くの人が亡くなっているとかではなく、丹後国から多くの人が出ていってしまっているのである。それも、神隠しにあっているかのようにある日突然いなくなっているのだ。

 「わかりませぬ」

 「知らぬわけがなかろう!」

 「わかりませぬ」

 国衙の役人達の誰に訊ねても、どんなに訊ねても、返ってくる答えは一つしかない。

 自分はそのことを知らないという答えだけである。

 国衙(こくが)とは現在の県庁に相当する建物と組織のことであり、丹後国衙とは丹後国の県庁のような存在である。現在の県知事はその県に住んでいる住民の選挙によって選ばれるが、平安時代は京都の朝廷が貴族の誰かを国司として任命し、国司に選ばれた者は、本人が赴任するか、代理の者を赴任させる。ただし、代理の者を赴任させるのはごく一部の限られた有力貴族のみに許された特権であり、岩城正氏のようにそれなりの年齢になってから、それこそ結婚して子供をもうけてからはじめて国司に任命された者は、代理の者を現地に赴任させるという贅沢など許されない。自分が赴任しなければならないのである。

 一方、国衙に勤める役人の多くは地元出身である。丹後国衙に勤める役人はそのほとんどが丹後国の出身であり、国衙の役人達にとっての丹後国司とは、京都からやってきて数年間滞在するだけの、丹後国とは縁もゆかりもない人物であることが普通だった。これはこれまでの丹後国司に限ったことではなく、また、丹後国に限ったことでもないが、国司のほとんどは任期満了まで特に問題なく過ごした後、一生分の稼ぎを得て京都に戻ることしか考えず、赴任先に赴いても真面目に職務に専念するなど考えられなかった。多くの国司は国衙付近にある国司用の邸宅で日々を過ごし、国司の署名捺印が必要な書類があるときだけ国衙に出向いて書類に名を記して印を押すしか仕事をしなかった。

 国衙に勤める役人にとってはそうしたやる気のない国司の方がありがたかった。最小限の仕事をしていれば給料がもらえるし、長く働けば働くほど貰える給料が増えていく。それに、国衙に勤める役人となるとさまざまな方面からプレゼントがもらえる。そのプレゼントは世間一般では賄賂と言われるが、そのようなことなどどうでもいい。何しろ国衙のトップである国司が誰よりも率先してプレゼントを貰うことに執着していたのであり、役人達は上司に従ってきただけなのだ。

 岩城正氏のように真面目に国司としての職務を務め上げようという国司もいなかったわけではなかったが、数ヶ月もすれば国衙の雰囲気に飲み込まれ、プレゼントと任期満了のことしか考えない国司になる。

 それに彼らには、何ヶ月も真面目に職務を遂行しようとしている国司を排除する奥の手があった。

 国司が根負けするまで今まで通りを続け、根負けしないなら奥の手を出す。

 勝敗はすでに決まっていたのである。


 岩城正氏は丹後国司に任命されたことについては快く受け入れていた。国司になるなど夢世界の話であったのが、今や現実世界の話だ。

 ある程度の年齢になっての初の国司就任は家族を連れて任国へ向かうことが多いが、正氏は妻と子供たちを陸奥国に残したまま丹後国へと赴任した。仮に正氏が京都に住んでいたならば家族を連れて赴任するなど造作もないことであったろう。だが、正氏は陸奥国岩城に住まいを構え、妻と二人の子との暮らしを過ごしていた身である。何かあれば岩城に家族を残して単身で、あるいは自分の部下を率いて乗りこむ日々を過ごしており、このときの丹後国司就任も故郷に家族を残しての単身赴任を選んでいた。京都から遠い場所に自らの住まいを構えている場合、家族を故郷に残して任国に赴任する国司は珍しくなく、正氏が家族を故郷に残して国司として赴任していったことは誰もが当たり前のことと考えていた。

 ただし、正氏はそう遠くない未来に家族を京都に呼び寄せることを考えていた。丹後国は京都に近い。丹後国で国司として評判を残せば、目と鼻の先にある平安京にまで評判が届いて、岩城正氏のこれからの人生も希望に満ちたものとなる。それまでは夢の世界でしかなかった上級貴族の世界に自分も入り込めるようになるし、そのときは京都で過ごす貴族となる。正氏はそうした貴族としての暮らしを家族にさせたいという願いを持っていたし、これまでに何人もそうした成功を成就させてきた人たちを見てきた。正氏は自分も成功例に加わりたかった。

 そうした成功例に加わるためには何よりもまず、丹後国司として実績を残すことだった。

 丹後国を豊かにし、平和にし、丹後国に住む全ての人の暮らしぶりが目に見えて良くなれば、自身の栄達にもつながる。どんなに自分のことしか考えない人でも丹後国の全ての人を今までより豊かにしたという実績が残れば文句など出るはずはなかろう。

 そうした思いは赴任初日に吹き飛んだ。

 丹後国は国司となることの魅力が乏しく、任官希望者が少ない国だとは聞いていたが、その理由は赴任初日に判明した。

 腐っている。

 あまりにも腐りきっている。

 これではいったいどこから手をつけなければならないのかわからない。

 かといってこのまま放置することはできない。

 税が納められていないとか、役人の勤労意欲がないとかならまだいい。良くはないが、まだ後回しにできる。問題は人が次々といなくなってしまっていることだ。丹後国の外に脱出してしまっているなら丹後国の暮らしがあまりにも酷く、丹後国の外に脱出しなければならないことを意味する。文字通りの行方不明となっているなら丹後国に何かしらの問題がある。どちらにしてもそのまま放置することは許されない。これは人の命にかかわる話なのだ。

 岩城正氏は国司として丹後国の現状を把握しようとした。

 しかし、ここで大問題が起こった。岩城正氏に従って行動してくれる部下がいないのだ。

 源義家に従って戦場を駆け巡っていた頃の部下を呼び寄せようかとも考えたが、彼らの多くは奥州岩城に留まり、在地の武士となっている。奥州岩城に留まらなかった者もいたが、彼らは岩城正氏の丹後国司就任に合わせて、岩城正氏の配下から、源義家の配下へと移っている。岩城正氏が配下の武士たちを見捨てたのではない。国司として職務を遂行するにあたって、配下の武士たちも丹後国に連れてくるには朝廷の許可が必要だったのだ。

 これまでにも何名か武人でありながら国司に就任した者がいたが、彼らはたった一つの例外を除いて、配下の武士たちを他の武人に、そのほとんどのケースにおいては国司に任命された武人の上官にあたる武人に預けてから任国へ赴任していった。

 その、たった一つの例外であったのが源義家である。陸奥国司に任命された源義家は、朝廷の許可を得ることなく配下の武士たちを陸奥国衙のある多賀城に連れて行き、そのまま前九年の役において自分の手勢とさせ、手柄を挙げさせた。これはあくまでも前九年の役という特殊事情があったからこそ黙認された話であり、戦場ではない丹後国に武士である配下を連れていくことなど岩城正氏に許される話ではなかったのだ。

 岩城正氏にできたのは、ごく一部、それこそ文字通りごく一部の、国司の命令に従う国衙の役人に現地調査を命じることだけであった。

 現地調査の結果判明したのは、丹後国の腐敗はもはや国司としての権限でどうにかなるレベルを超えていたこと、しかも、腐敗が平安京にまで届いていたことであった。

 さらに厄介なのが、丹後国の腐敗が存在することで平安京の庶民の暮らしぶりがよくなっていることであった。

 平安京は海から遠い。塩は貴重品であるし、海産物など滅多に手に入らない。ついこの間までは、貴族や富裕層はともかく庶民とると、ほんの少しの塩を大切に使い、正月などの特別な祝い事のときだけ海産物を食べられるという暮らしだったのだ。それが、丹後国の腐敗が進めば進むほど、丹後国から安い塩と安い海産物が平安京に遠くようになったのだ。

 特に丹後国の山椒大夫と名乗る人物が平安京に送り届ける塩は、庶民でも気軽に手に入る安さだった。それまでは塩を大量に使った料理など夢物語であったのが、今や誰もが気軽に口にできる食べ物になっている。山椒大夫の塩は平安京の中で、これまでは夢でしかなかった生活の豊かさを支える一大ブランドになっていた。

 その一方で、山椒大夫が丹後国でどのようにして塩を作り、どのように京都に送り届けているかを知る者は少なかった。ただただ安い塩をありがたがり、山椒大夫の塩を追い求めた。

 知らないついでに言えば、山椒大夫がどのような者であるかを知る者も少なかった。一般には「山椒大夫」と表記されるが、この漢字表記は当て字である。「さんせう」という読みだけが平安京に伝わっており、「山椒」と記す者もいれば「山荘」と記す者もいるし、「山枡」や「三升」と記す者もいる。こうした表記の不正確さは山椒大夫に対する神秘性を生み出すに役立ち、中には山椒大夫を信奉する者すら現れる始末であった。

 岩城正氏は丹後国と山椒大夫の関係、平安京と山椒大夫の関係、そして山椒大夫のビジネスの仕組みを知ることとなった。

 そう、知ってしまったのだ。

 知ったときにはもう遅かった。

 朝廷から正式な書状が届き、読み上げられた。それもただの書状伝達ではない。多くの武士を伴った、罪人処罰を前提とした一行が丹後国衙にやってきたのだ。


 集団の先頭にいた役人が岩城正氏の前に出て、書状を広げて読み上げた。

 「従五位上平朝臣正氏、横領ならびに収賄につき、丹後守を解職。太宰府への流罪とする」

 「な! いったい何が!」

 岩城正氏は周囲を見渡したが、ついさっきまで自分のことを国司として見ていた全ての役人が、今はもう罪人として見ていることに気づいた。

 「なあ、お前はわかるだろう。俺はそんなことはしていない。なぁ、なぁ!」

 正氏は周囲の役人達に声を掛けるが、誰も反応しない。

 「嘘だ! 何で俺が!」

 正氏は抵抗を見せるが、多勢に無勢でどうにもならず、武士たちに捕縛されて国衙の外へと連行されていった。

 国衙の建物の外で正氏が抵抗している声は建物の中にも聞こえていたが、その声はだんだんと小さくなり、ついに聞こえなくなった。

 丹後国住民から朝廷に対し、岩城正氏こと丹後国司平正氏に対する税の横領、不正蓄財、そして収賄の訴えが届き、横領も、不正蓄財も、そして収賄も全て事実とされ、正氏は国司罷免。併せて太宰府への流罪とすることが発表されたのである。

 丹後国司平正氏の犯罪が公表され、正氏は罪人として家族ともども太宰府への流罪となることが決まり、連行されていった。また、新たな丹後国司が任命され、既に平安京から丹後国へと派遣されたことも公表された。

 岩城正氏こと平正氏に対する記録はここで終わる。

 護送された正氏がこの後でどのような運命を迎えたかを伝える記録は一つしかない。太宰府に向かう途中で何者かによって殺害されたこと、この一つである。この時点では誰が犯人なのか判明していない。


 陸奥国の岩代地域の東端、すぐとなりが磐城地域であるというエリアに岩城正氏の屋敷がある。先にも記したように、現在でいう福島市のあたりだ。

 正氏の屋敷には、正氏の妻の玉木(たまき)、長女の安寿(あんじゅ)、長男の厨子王丸、そして女中の姥竹(うばたけ)の四人が住んでいた。所領を持つ有力武士であるといっても直属の家臣がいるわけではなく、戦場において部下的立場になる武士もいるが、そうした武士は近隣に別の住まいを構えている。源義家の家臣である部下の何名かは正氏と同様に国司に任命されるほどの貴族となったが、それほどの出世をしても家族以外に住んでいるのは一人の女中だけというのは珍しいことではなかった。

 彼らの成功は二種類ある。

 一つは所領に留まって勢力を拡大し、地方の有力武士となること。

 もう一つは所領から家族を呼び寄せて京都に住まわせ、京都の貴族社会の一員となることである。

 男児が複数いるなら息子達のうち武芸に優れた者を所領に残し、そうでない者を京都に招き入れて貴族社会にデビューさせるという選択肢をとれたが、正氏の息子は厨子王丸ただ一人である。

 男児が一人しかいない場合は所領を選ぶか、京都での貴族生活のどちらか一方のみを選ばねばならず、多くの者は京都での貴族生活を選んだ。

 京都は武士である貴族を必要としていた。それだけ治安が悪かったのだ。武士である者が国司となって貴族となり、国士としての任期を終えたとき、貴族である武士というのは京都で貴重な人材とみなされ、朝廷や院、藤原氏といった有力貴族にスカウトされることがあった。こうしたスカウトを受けることができれば所領に留まって勢力を拡大するよりもはるかに裕福な暮らしを送ることができ、また、京都での出世も望めた。

 正氏の家族の誰もがそのことを知っていた。そして、遠く丹後国にまで国司として出向いた父が、自分たちを丹後国に、そして京都に招いてくれる日が来ることを待ち侘びていた。

 その知らせがついに来た!

 ただ、望んでいた知らせではなかった。

 知らせを最初は理解できず、理解した玉木は座って泣き崩れた。

 丹後国司平正氏、横領、不正蓄財、そして収賄の罪により太宰府へ流刑。

 家族についても連座が適用され、太宰府へと流罪。

 京都に行くどころか犯罪者として太宰府へ流されることが決まったのである。

 安寿、このとき十一歳。

 厨子王丸、このとき九歳。


 父が犯罪者になったという知らせを厨子王丸は信じられなかったが、母も、姉も、女中の姥竹もこれ以上なく狼狽しており、ただ一人の男として彼女達を守らなければならないことは理解した。

 何かの間違いであり、すぐに罪は許され、父も太宰府から戻ることができると考え、父が戻るまでの間、厨子王丸は母と姉、そして姥竹を守る決意を抱いた。家に残された父の太刀を手にして抵抗しようとしたのである。

 しかし、その決意の前に現実が立ちはだかった。

 母は言った。抵抗するなら本当に犯罪者になってしまうと。

 それよりも今はおとなしく罪を受け入れ、父のいる太宰府へと連行されていくべきだと。

 実際、罪人逮捕にきた武士たちが最初にしたのは、身柄の確保ではなく武器の押収であった。父の太刀は真っ先に奪われ、四人は犯罪者として太宰府へと連行されることが決まったのだ。

 今であれば福島県から福岡県に行くとすれば、新幹線に乗るか、あるいは飛行機に乗るところであるが、この時代はそうではない。いったん越後国、現在の新潟県に出向いてから船に乗って日本海沿岸を航行して、筑前国、現在の福岡県に向かうのが一般的である。

 それに、そもそも女性三名に男児一名である。姉の安寿も十一歳だからまだ子供である。いかに犯罪者扱いされていようと陸路を延々と歩かせるわけにはいかない面々だ。護送する際の陸路は福島から新潟を超える山地だけが困難となるが、その一点さえどうにかすれば護送は完了すると言える。

 護送ではあるものの厨子王丸達は縛られることもなく、自分の足で歩いてくことができたのは、犯罪者本人ではなくその家族であるという点もあるが、山地を越えるのには縛り付けること自体が余計なこととなるのだ。

 同じ人物が正氏の屋敷から太宰府まで四人を連行するのではなく、途中で何度も交代しながら連行する。これはこの時代の犯罪者に対する護送の通例である。犯罪者の引き渡しの際には休息できたし、同情的な人がいたら食事を恵んでくれることもある。一方、犯罪者に対して厳しい態度を崩さない人もいて、そうした人が関わってきたときは四人とも言葉の暴力や言葉ではない暴力に晒されたし、性的な暴力に晒されることもあった。厨子王丸は母や姥竹が酷い目に遭っているのを目の当たりにしたが、犯罪者として連行されている四人に抵抗という選択肢は許されなかった。


 福島県から新潟県へと陸路で歩くとき、途中に越後山脈が立ちはだかる。現在では磐越道や磐越西線、自動車なら高速道路や一般道で行けるが、この時代にそのような整備された交通インフラなどない。しかし、人の行き来する道は存在しており、この道を八十里越という。八十里越の道路付近からは縄文時代以前の遺跡も発掘されていることから、八十里越はかなり古くから使用されてきた道であることはわかる。

 八十里越は狭く険しい山道であり、熊が出没する可能性のある道でもあるが、女性や子供の足でも越えることのできる道でもあった。というより、八十里越のほかに陸奥国岩城から越後国に行く方法はなかった。そのため四人は八十里越を歩いて越後国へと向かった。

 八十里越といっても、一里を現在のメートル法に直して四キロメートルとし、八十里を三二〇キロメートルの道としてはいけない。実際に地図で測るとせいぜいその一割程度である。これは何も当時の人はわずか八里の距離であるが険しい山道のために一〇倍の山道を越えねばならないということから八十里越と呼ぶようになったと言うわけではない。一里をおよそ四キロメートルとするのは江戸時代の話であり、平安時代の一里はその一〇分の一の四〇〇メートルほどである。つまり、八十里越は三十二キロメートルほどとなる。

 三十二キロメートルほどと気軽に書き記しても、そこは山道。当然ながら一日で山道を越えられるわけなどなく、途中で一度ないしは複数回の野宿をすることとなる。現在のようにホテルが数多く建設されている時代ではない。

 こうした野宿も危険ではあったが、野宿の危険さを嘆いていられる余裕などなかった。山賊が襲いかかってくる危険もあるし、野生動物が襲いかかってくる可能性もある。たまに民家を目にすることがあったものの、一晩の宿を貸してくれるところなどなく、せめてもの救いであったのは、季節だけであった。館を出発したのは三月一七日のことであり、雪がまだ残っているものの、雪が降ることはもうなくなっていた。それしか救いと扱えるものがなかった。

 日本海を航行する船に乗るために越後山脈を越えて越後平野に出たとき、現在ならば新潟市に出向くのが一般的であろうが、この時代は直江津が第一選択肢になる。この時代の越後国の、いや、北陸の最大の港町であり、直江津からは敦賀や出雲、さらには九州の筑前まで向かう船が出ていた。無論、現在のようなフェリーでの移動というわけではない。そもそも船が小さい。その小さい船に荷物を積み、空いたスペースに人間も乗せてもらうのである。

 厨子王丸達は直江津で自分達を乗せてくれる船が見つかるまで、直江津の橋の下に身を置くこととした。先にも記したがホテルのある時代では無い。どうにかして夜を過ごせる宿を探したものの誰一人として宿を貸してくれないでいる。地元の人に話をしてもむげもなく断られるだけである。

 直江津がいかに北陸最大の港町であったとしても、また、直江津がいかに発展した街であったとしても、遠く太宰府にまで流されている途中の人間を受け入れる施設などはない。それは何も直江津の人が薄情なのではなく、厨子王丸達が犯罪者の家族として一括りに扱われていたからである。厨子王丸達のように家族が犯罪者となったために流罪に遭っている途中の人物を直江津の人は何度も目にしており、多少の同情心を見せるところまでは許されても、助けるのは許されなかった。ちょうど四人で分けるのに都合が良い食料になりそうな何かを橋の下にたまたま落としてしまい、拾ってくれた逗子王丸達に、落として汚れてしまったのでもういらないという体裁で差し入れをするのが精一杯であった。

 直江津の人達は、差し入れのときに一つのアドバイスをしてくれた。

 どうやら直江津に人攫(ひとさら)いがいるらしいというのだ。

 言葉巧みに近寄って人を船に乗せて遠くへと連れ去っていってしまうというのだ。

 しかも、連れ去られた人は誰も戻ってこないでいるというのだ。

 だから気をつけるようにというのが直江津の人達からのアドバイスであった。

 ただ、どこをどう気をつければいいのかアドバイスからでは皆目見当つかなかった。後から振り返ってはじめて、人攫いの正体を直江津の人達が知っているからこそ、微妙な表現でのアドバイスが直江津の人たちに許されたギリギリの抵抗であったことがわかったが、船を待っている厨子王丸達にとってはそうではない。何かを伝えたいようだか何かを隠していて、それが自分を騙している言葉なのではないかと疑心暗鬼にすらなっていた。

 船に乗れる日を今か今かと待ち続けている厨子王丸達にとって、船に空席ができたという知らせは、人攫いのことを一瞬でも忘れるに十分な知らせになった、なってしまった。

 直江津の人達のうち何名かが、橋の下にいる幼い子を連れた一行が船に乗り込むところを目にした。

 直江津の人達はわかってしまった。これから彼らがどのような運命を迎えるかを。

 それでも彼らが助けに来ることはなかった、助けに行くことができなかった。ここで船に乗り込ませることを邪魔したらどうなるか。公的には一つの罪を負い、私的には容赦ない反撃を喰らうのだ。自分一人だけでは済まない、命を失うだけでは済まない未来が待っているのだ。家族も、周囲の人たちも、巻き込まれる惨劇が待っているのだ。それこそ、死のほうがまだマシという惨劇が。

 船の持ち主は山岡太夫という直江津の怪しげな人物である。表向きは商人であり、このときの厨子王丸達のように犯罪者の護送も請け負っている、ということになっている。

 これは噂でしかないが、山岡太夫の豊かさの理由の中に、人攫いもあるのではないかというのがある。人を奴隷として売り飛ばすのだ。犯罪者に人権などないという扱いのこの時代、流罪となっている途中の人物が流刑地に向かう途中で水難事故に遭って行方不明になったとしても、一応は捜査が入るが、最終的にはやむを得ぬこととして放置されるのが通例である。

 このときの厨子王丸達の構成は、未だ幼い厨子王丸、その姉の安寿、母の玉木、そして女中の姥竹(うばたけ)の四名である。人道を完全に無視して商品価値として考えたとき、価値を持つのは安寿と厨子王の姉弟、母の玉木は価値があるかもしれない、女中の姥竹は価値を持たない。奴隷主が求めているのは労働力であり、次いで性の相手である。厨子王は幼いためにこれから長期に亘って奴隷として使えるし、安寿は少女であるため奴隷としてそれなりに使えるしもう少し成長すれば性の相手も可能であろう。母の玉木は奴隷としてあまり役に立たないが一人寂しく暮らす高齢男性に対して性の相手を兼ねた奴隷として売り飛ばせる可能性があり、女中の姥竹は奴隷としても性の相手としても売り飛ばせる可能性は乏しい。

 この時点ではまだ四人ともこれから迎える運命を知らずにいる。


 四人の乗った船は沖で大きな二艘の船に出会った。直江津がいかに大きな港町であるといっても全ての船が立ち寄るわけではなく、東北地方や、この時代は蝦夷ヶ島と呼ばれていた北海道からの貨物船が直江津を通り過ぎて沖合を航行することは多く、直江津から沖合を航行する船に向けて小さな船を差し向けることもよくあった。

 こうした船は貨物船に近づいたのち、貨物船に荷を乗せたり、貨物船から荷を積み込んだりする。ここまでであればごく普通の商売である。

 しかし、荷物ではなく人間となると話は変わってくる。

 沖合を航行する船の船長に向けて小舟に乗せた人間を売り飛ばした瞬間に人身売買が成立するのである。記録によると、このときの二艘の船のうちの一艘は江戸二郎が船長である船、もう一艘は宮崎三郎が船長である船と名乗ったとある。この二艘の船は当初、互いに二人分しか乗せることができない、特に宮崎三郎の船は子供二人が乗るのが精一杯であるというので、安寿と厨子王丸の二人は何も持たずに宮崎三郎の船に、残る二人は手荷物を手に江戸次郎の船に乗ったという。

 なお、この段階ではまだ山岡太夫が四人を正式に奴隷として売り飛ばしたわけではない。山岡太夫はあくまでも流人を流刑地に護送する仲介をしているのであり、直江津まで歩いてきた四人の流人を船に乗せ沖合に向かって航行し、流刑地に向かう船への乗り換えをさせただけというのが公的な立場である。対価を受け取るのも必要経費の精算である。

 だが、このとき山岡太夫は宮崎三郎の船から五貫という大金を受け取った。と言っても実際に五貫もの貨幣を受け取ったのではない。そもそも皇朝十二銭の時代を終えた後、貨幣という概念そのものはごく限られた一部の人たちにしか通用しない概念になっている。だが、貨幣価値という概念はある。

 船の上での商品のやり取りの単位として、貨幣という概念が存在していたのだ。

 山岡太夫は宮崎三郎に安寿と厨子王丸の姉弟を渡す代わりに、宮崎三郎からは山岡太夫に対して、宮崎三郎の船の積荷の中から五貫相当の商品を手にする権利を手にする。山岡太夫が港町に戻ったとき、山岡太夫の乗った船には、宮崎三郎から受け取った五貫相当の品が積まれている。

 名目としては、流刑地に向かう罪人を護送したことに対する褒賞である。犯罪とされたことそのものが冤罪であるという点以外は問題ない。だが、五貫というのは職務遂行による報奨としてはあまりにも多額であり、人身売買によるものと考える以外に話が成立しない金額であった。しかも、この授受の様子を厨子王丸は目の当たりにしたのである。

 これが山岡太夫、宮崎三郎、そして江戸次郎の三人の命運を決めることとなる。江戸次郎は母と女中を船に乗せただけで何もしていないではないかと思うかもしれないが、この後で江戸次郎の船がとった行動は十分に許されざることであり、命運を決めるに十分な行動であった。途中まで二艘の船は並行して航行していたのに、江戸次郎の船が行き先を西から北へと変更していったのだ。

 それまで姉弟は別の船に乗る母の姿が見えていたのに、徐々に母の姿が離れていき、母の乗る船の姿も見えなくなり、水平線の彼方へと消えて行ってしまったのだ。

 遭難ではない。

 自分たちは母と離れ離れにさせられ、どこかへと売られることとなったのだ。

 母と一緒の船に乗った姥竹は、どうにかして親子離ればなれにしないよう懇願したが、姉弟の見ている前で船から突き落とされ、その姿を見た安寿は悲鳴をあげた。

 安寿も厨子王も離れゆく母を思って叫び、また、二人のもとにも母の声が届いていた。母は泳いで姉弟の乗る船に行こうとしたのか船から飛び降りようとしたが、それは強引に止められた。

 母からの声はもう届かず、母の姿ももう見えず、日も暮れた後、着の身着のままの姉と弟は、船底で互いに身を寄せ合って時間が経つのを待つしかできなかった。


 船の中はお世辞にも快適とは言えなかったが、少し後から考えると、船の中の方がまだマシな扱いであったと悟らざるを得なかった。

 自分たちは商品なのだ。

 二人は泣くことならば許されていた。

 反抗は許されなかったが泣くことは許されていた。

 船の誰もが二人の子が船底で泣いていることだけは許していた。

 どんなに残虐な船員、いやここは正確に記すと海賊とすべきか、とにかくそうした(たぐい)の人間であろうと、売り物に手を出すことは許されないことであるとは知っている。商品価格を下げることは断じて許されないため、それなりに丁重に扱われる。下手に何かしでかそうものなら海に突き落とされる。

 だからこそ、安寿も厨子王も船の中ではまだ安全でいられた。食べ物も一応は恵んでもらえた。後から振り返ると安全でかつ食事のある暮らしということになるのだが、この頃の姉と弟との間にあった感情は、恐怖と憎しみ、離れ離れにされてしまった母、海へと突き落とされた姥竹への思いだけであった。

 いったいどれだけの日々が過ぎたであろうかわからぬまま、船は丹後国の由良湊に到着した。

 それまでのことを姉も弟も何も明確には覚えていない。それだけの時間が経過したのかもわからない。昼も夜もわからぬ真っ暗な船底で互いに身を寄せ合い、互いの無事を祈り、女中の姥竹の無事を祈り、母との再会を誓うしかできなかった。

 船底から追い立てられて、沖合に停泊した船から港へ向かう小舟へと移されたとき、自分たちは二人合わせて十三貫で買われたのだと知った。宮崎三郎は五貫を支払って安寿と厨子王の姉弟を買った。それが売るときには十三貫に増えている。この瞬間、人攫いが消えて無くならない理由を理解した。奴隷を欲しがる人間がいて、人を捕まえて奴隷として売り飛ばす人間がいる。自分たちはそうした人間に引っかかったのだ。

 もっとも、自分たちにつけられた十三貫という金額は特別な事情が存在する金額でもあった。

 ここは丹後国。

 ついこの間まで父が国司として赴任していた国。

 自分たちは追放された国司の子。

 自分たちを買ったのは丹後国の有力者の山椒大夫。

 これで理解した。自分たちは復讐されたのだと。

 父が丹後国の国司として職務を遂行しようとして邪魔をしてきたのは山椒太夫をはじめとする現地の有力者である。彼らがどのような形で儲けているのかはわからないが、大金持ちであることは間違いない。そして、税を払っていないことも、丹後国から多くの人が失踪している理由も、父は突き止めようとしていた。突き止めようとして失敗し、あらぬ疑いをかけられて罷免され、流罪となった。

 その事情を知る数少ない人物なのが自分たちだ。特に母は事情を熟知している。大人しく流罪地に向かうようなことがあったならば岩城正氏の冤罪を何らかの方法で晴らすであろう。また、自分たち姉弟はまだ幼いが、成長したならば末席とはいえ中央政界に名を連ねる人物となることが決まっている。それが国司の家族というものだ。

 山椒大夫にとって不都合な存在を排除しようと画策し、その延長線上で自分たち姉弟は山椒大夫のもとに買われた奴隷となった。

 さらには念を入れてのことであろう、沖合に停泊させた船から港まで自分たちを運んできた船は、もとの船に戻す途中で水没させられた。


 一連の流れを山椒大夫の立場から考えると、岩城正氏の妻を行方不明にさせ、子供たちを奴隷として自分のもとで抱えておくというのが最上の選択肢であった。

 山椒大夫にとってもっとも不都合なのは、罷免された岩城正氏がその無念を晴らそうとすることである。身の破滅につながることは全て防がねばならない。自分がどんなビジネスをしているのかを知られてはならないし、自分がこれまでやってきたことも徹底的に隠さねばならない。

 山椒大夫に逆らおうとをした岩城正氏はどうにかなったが、岩城正氏には複数の子がいるのは既に知られており、岩城正氏の子供たちが自分へと復讐の牙を向けることはどのような理由があろうと避けなければならない。

 この時代、流罪となった者の家族も流罪地に向かうことは珍しくなかった。今回の岩城正氏はまさにその例であり、岩城正氏の家族が父の流刑地である筑前国太宰府に向かっていることはすでに公表されている。何しろ流罪となった者の家族がどこにいるかは全て把握されねばならない対象なのだ。

 ただし、例外がある。

 護送中に行方不明となることである。特に、船での移動中に消息を断つことである。

 これだけはどうにもならない。

 海の藻屑と消え去ったか、あるいは船そのものが沈没したか、あるいは何度か船を乗り換える途中で行方をくらましたか、とにかく護送中のどこかで行方不明となったならば、どこで行方不明になったのかの調査まではするが、海に潜っての捜索まではしない、いや、搜索できないのがこの時代だ。この時代には潜水艦もなければ、スキューバダイビング用の機器も、潜水用の酸素ボンベもない。海の中を探すのは素潜りしかないという時代に、海の潜っての捜索は余程のことがない限り行われない。その余程のことというのも源平合戦のラスト、壇ノ浦の戦いにおいて海に沈んだ人たち、そして三種の神器の捜索であり、そうでなければ海の上で消息を絶ったという知らせだけで終わる。

 こうした状況下の時代である。安寿にしても厨子王にしても海の藻屑となったらそこで終わるのが普通だ。

 ただし、懸念点が一つある。

 海の上で消息を絶ったという連絡が届いてしまうことそのものだ。

 忘れてはならないのは、岩城正氏が仕えていたのが源義家だということである。かつての部下の、そして部下の家族の消息が途絶えたとなったならば、前九年の役の頃のように軍勢を集め、軍勢を率いて捜索に出てくる可能性がゼロではないのだ。港町を探し回り、最後の目撃情報をたどり、船を出航させた者を取り調べにくることも考えられる。だからこそ源義家の人望は厚いのだが、だからこそ源義家を敵に回したときは恐ろしい。「岩城正氏の家族を引き渡しました。引き渡した後のことは知りません」という回答と「私のところにはまだ岩城正氏の家族が到着しておりません」という回答が出て来たとき、その途中で岩城正氏の家族の消息が途絶えたことを意味するが、源義家は「それで仕方ない」と諦める人間ではない。この両者を徹底的に問い詰め、追い詰め、どうにかして消息を掴み取ろうとする。

 そこで、山椒大夫のもとで監禁し、山椒大夫のもとで働く奴隷とさせるという回答が出てくる。しかも、偶然かもしれないが、岩城正氏の家族を乗せた船が航行してきたであろう頃に船の沈没があったという事故連絡も届けさせればより完璧に近づく。

 山椒大夫は過去に何度も船の沈没の情報を届け出している。山椒大夫は自前で港を構えているほどの有力者であり、自分の目の届く港に、いつ、どの船が、どのように停泊してどのように出航したかを調べようと思えば調べられる身である。そうした情報の中には船の沈没の様子も存在している。

 山椒大夫は、船の沈没事故があったならば、誰が無事であったのか、海に消えた人がいるのか、どのような被害が生じたかを頻繁に報告してきた。

 こうすることで怪しさは減る。

 数多く報告されてきた水難事故の中に、岩城正氏の家族の被害があった、かもしれないという言い繕いができるのだ。

 その上で、岩城正氏の子を自分の元で抱え込み、数多くの奴隷たちに紛れ込ませるのである。これならば常に岩城正氏の子らに対して目を光らせることができるし、山椒大夫への復讐の芽を潰すことも可能となる。すでに人身売買に手を染めている山椒大夫にとっては、今さら奴隷が一人二人増えたところでどうということはない。知られたらそれまでだ。知られないままであれば奴隷を増やしたということになるし、奴隷売買を咎められたら、奴隷として買ったのではなく、人攫いに囚われていた幼い姉弟を保護するために出費したのだと言い繕うこともできなくはない。それがたまたま岩城正氏の娘と息子だったと言い訳するだけだ。

 もっと言えば、奴隷として野垂れ死んだらそれで何もかも全て終わる。名もなき奴隷のうちの一人の男と一人の女が亡くなったということにしてしまえば、山椒大夫の目に向けられる復讐の目を完全に摘み取ることができる。そのためにはこの姉弟を死ぬまでこき使えばいい。実際にこれまで何人もの奴隷が働かされ続けて死んできた。そうした奴隷たちの中に安寿と厨子王の二人が混ざったならば山椒大夫にとって最良の結果になる。

 山椒大夫は数多く抱えている奴隷たちに幼き姉弟を混ぜることとした。山椒大夫はこれまで未だ年齢二桁にならぬ数多くの少年少女も奴隷として買っており、岩城正氏の二人の子が奴隷として混ざっても他の奴隷からは何とも思われない。安寿はここで「シノブ」、厨子王丸は「ワスレグサ」という名を名乗るよう命令された。

 他の奴隷も本名ではなく山椒大夫の名付けた名を名乗るよう命令されている。奴隷は自らの素性を語ってはならない。語ろうものなら何が起こるかを知っている………


 山椒大夫の奴隷屋敷に連れてこられた姉弟は、他の奴隷と同じ暮らしをすることとなった。姉は海で塩を作り、弟は山で燃料となる柴を刈るのである。

 山椒大夫のもとでの塩の作り方であるが、一言でいうと原始的である。

 まずは海水を海藻に撒く。撒くことで海水中の塩分が晶出する。撒けば撒くほど大量の塩が得られるが、撒きすぎると蒸発しきれなくなるので加減が必要である。

 晶出した塩分は確かに塩として利用できるが、そのままでは苦くて食用にならない。俗に「にがり」と呼ばれる塩化マグネシウムが大量に混入している。にがりは豆腐を作るには役に立つが、塩を調味料とするには邪魔になる。そこで、晶出した塩分を器に入れて焼く。完全に蒸発した後も加熱すると塩化マグネシウムが不溶性酸化マグネシウムとなり、苦味が消えて上質な塩となる。縄文時代の土器からはこうした製塩に用いた土器が発掘されていることから、かなりの歴史があることがわかる。

 ただ、この方法には難点がある。

 天候の問題と生産量の問題である。

 砂浜を利用すると大量生産可能だが、現在はともかくこの時代だと、かなりの好天が続かなければ上質な塩を生産できないという難点があった。

 一方、海藻を用いる方法だと天候にはさほど左右されないが、生産できる塩の量は少なくなる。

 そこで、山椒大夫は人海戦術での塩の大量生産を実現させていた。奴隷を死ぬまで酷使するのだ。

 海水を組み上げて海藻に撒き、自然蒸発させて水分を減らしたら海藻の上に残った塩分を含む濃度の濃い海水を集める。これを鹹水(かんすい)という。鹹水を容器に入れて煮立てて水分を飛ばし、容器に残った塩を回収する。

 この一連の流れを人海戦術で繰り広げるのだ。

 丹後国は京都に近い。

 京都に住む多くの人は、海から距離があることもあって塩が貴重である。

 そのため、丹後国で塩を作って平安京に持っていけば高値で売れる。大量に塩を持っていけばそれだけ売り上げも伸びる。おまけに大量生産によって塩の単価も下がるから、平安京内外の人々はそれまで簡単には買えなかった塩を気軽に買えるようになった。

 問題は人海戦術に動員される人々だ。

 山椒大夫はそうした人々を奴隷として買い集め、酷使して使い潰してきた。

 いきなり誘拐されて連れてこられた人たちを買うこともあったし、重い年貢に耐えかねて脱走した人たちを匿うという体裁で招いて、奴隷としてこき使うこともあった。

 さらにタチの悪いことに、奴隷労働で塩を作る業者は山椒大夫一人ではなかった。山椒大夫は最有力者ではあったが、丹後国の数多い製塩業者のうちの一人であり、山椒大夫のもとでの奴隷労働が過酷だと逃げ出したとしても、逃げのびる先などどこにもなかった。脱走しても、山椒大夫の手下に捕まって連れ戻されるか、山椒大夫以外の業者に捕まって別のところの奴隷にされるかのどちらかしかなかった。


 ワスレグサと名付けられた厨子王丸は、まだ朝日の昇る前から山に入って柴を刈ることを命じられた。柴とは、枯れ木や、朽ちて落ちた木の枝など、燃料となるような木材のことである。

 すでに大量生産が始まってからかなりの歳月が経っている。山に足を踏み入れても、そう簡単に燃料となる木材が山に残っているわけはなく、他の者との争いだ。

 おまけに山椒大夫の三男の三郎は、よく言えば巧妙な、まともな感性で言えば意地の悪い仕組みを作り上げていた。七名で一組のチームとするのである。七名全員がノルマを達成すればお咎めなし、一人でもノルマ未達成があれば七名全員に刑罰を課すというのだからたまったものではない。しかも厨子王丸はまだ九歳の児童だ。その児童に対しても大人と同じ分量の柴を刈ってくるようノルマを課すのだから、厨子王丸と同じチームにさせられてしまった人たちは迷惑な話だ。かといって厨子王丸を放っておくこともできない。人道的観点からも放っておけないが、自分たちが刑罰を受けないようにするためにも放っておけないのだ。未だ年齢二桁にならぬ児童を押し付けられた仲間は厄介なお荷物を押しつけられたとしか考えられなかった。

 姉の安寿も朝日の昇る前から働かされた。海水を汲んでくるのである。こちらもチーム制だ。安寿は厨子王丸より年上であり、また、海水を汲んでくるのは女性の奴隷の役割とされていたことから、安寿は厨子王丸以上に、チームに入れられた初日から他の奴隷と同じノルマをこなすことが求められた。

 厨子王丸は幼いとは言え武士の子として武芸の鍛錬も積んできた身である。一方、安寿はそこまで鍛錬を積んできたわけではない。いかに山を越えて直江津まで歩いてきた身でもあるといっても、重労働に耐えられる体力はなかった。

 山での初日のノルマをギリギリでどうにかこなし、奴隷小屋に戻ってきた厨子王丸が見たのは、絶望に打ちひしがれた安寿と、安寿のそばで安寿を介抱する見知らぬ女性の姿であった。

 彼女は小萩(こはぎ)という名の女性で、元々は大和国出身であるが、継母から捨てられ伊勢国で売られたという。本来ならば他の奴隷に素性を明かすことは許されないのであるが、彼女はどういうわけか安寿と厨子王丸の姉弟に自分の素性を明かした。

 彼女の父も岩城正氏と同様に源義家に仕えて奥州で戦った武士であり、彼女自身が岩城正氏の子である安寿と厨子王丸の二人の顔を知っていたのだ。本来であれば国司の息子である厨子王丸と、名もなき一人の武士の娘である自分とが顔を合わせることなどないのであるが、状況がそれを許した。

 小萩は山椒大夫のもとに来て三年になるという。それまでに何度か売り飛ばされてきており、それまでの苦労が身体に刻まれてしまっている。実年齢に合わぬ老い方とするしかなく、山椒大夫のもとで生きていられるのはノルマを達成しているからではなく、公にできない別のノルマをこなしているからであった。


 小萩たち女の奴隷にはもう一つの役割が課せられていた。山椒太夫と子供たち、警護の武士たち、そして、他の奴隷たちの性の相手をすることである。

 山椒大夫の子と言っても末っ子の三郎でも三〇歳を超えている。山椒太夫の子供たちは誰一人として結婚はしておらず子供もいないが、それで困っている様子はない。性欲は奴隷たちで満たせるから。山椒大夫と、山椒大夫の子たちの性欲は主に幼い少女で満たされており、奴隷の中でも子供を買い集めているのもそれが理由の一つであった。

 夜の相手を拒んだ少女には額に焼き印が押された。焼き印を押される苦痛を知った女性は、自ら死を選ぶか、性の相手を受け入れるかの選択肢しか残されていなかった。

 山椒大夫らの子を宿したとしても、それが愛情を得ることとはつながらなかった。山椒大夫らにとっては、自分の子ができたという感覚では無く、新しい奴隷ができたという感覚でしかなかった。

 性の相手も永遠ではなかった。ある程度の年齢になったら用済みとなる。そうなったら警護の武士たちに下賜されて、運が良ければ武士の妻になれるが、そうでなければ武士や他の奴隷の性の相手をして生涯を終える身になる。山椒太夫が安寿ぐらいの年齢の子を宮崎三郎から買う理由は、塩でも木材でもなく、性の相手をさせることが最大の目的であった。

 安寿はこの日、処女を失っていた。小萩と同じことをされたために。それも、抵抗した末に。

 安寿の額には焼き印の跡が残っていた。

 厨子王丸はまだ幼いとは言え、安寿の身に何か許されざることが起こったことは理解した。姉の身に起こった苦痛にどうしようもない悔しさを感じ、何もできないでいる自分にもまたどうしようもない悔しさを抱いた。


 安寿も厨子王丸も自ら命を絶つことすら考えたが、ここで命を絶っては本懐を遂げることができない。自分達は父の名誉を回復し、海に落とされた姥竹の無事を信じ、離ればなれになった母と再会する。どんなにつらい思いをしようと、どんなに悔しい思いをしようと、本懐を捨てることはできなかった。

 厨子王丸が山をめぐり歩いている間、安寿は海水を組み上げつつ、別のノルマをこなしている。そのことを厨子王丸は知っているが、厨子王丸にはどうにもできなかった。

 厨子王丸にできることはただ一つ、ノルマを達成することだけであった。そうすれば少なくとも食べ物を恵んでもらえる。十分ではないが餓死することはない。

 屈辱に耐えるぐらいなら反抗してみせようかと考えたこともあるが、その考えはすぐに否定しなければならなくなっていた。

 山椒大夫の屋敷に連れてこられてきた者のうち、ノルマを達成できなかった者がどうなったか、反抗した者がどうなったか、逃げ出そうとした者がどうなったか、安寿も、厨子王も、早々に知ることとなったのだから。

 一度目ならば命は助かる。ただし、激しく鞭うちされるか、あるいは、額に焼印を押される。前者は激しい悲鳴が何度も続き、後者は悲鳴と共に人の肉の焼ける匂いがする。それでもまだこの段階ならば生きていられる。

 二度目は命が助からない。自分で穴を掘るよう命じられ、抵抗するならば他の奴隷が穴を掘る。そして首だけ出して埋められる。あとはノコギリで首を切り落とす。切れ味の悪い竹製のノコギリであり、絶命するまで悲鳴が響き渡る。

 こうした拷問を山椒大夫の三男の三郎は好んでいた。

 規律を守るために仕方なく拷問を加えるのではない。まず拷問趣味があって、その理由としてノルマ未達成という口実が存在するのである。

 無事でいられるために必要なのは、どんな些細な内容であろうと口実を作らせないこと、そして、ノルマを達成し続けることである。


 厨子王丸は自分がいない間、姉が何をされているのかを知っている。自分たちの面倒を見てくれている小萩がどうなっているのかも知っている。それでも厨子王丸はノルマを達成し続けていた。

 山椒大夫にしてみれば、女児である安寿はともかく、男児である厨子王丸は厄介な存在であった。武士である父に鍛えられたこともあって、未だ九歳の男児であるにもかかわらず、日に日にノルマ達成を難なくこなすようになっている。今はまだ何もしないでいるが、下手をすれば自分に逆らう存在になりかねない。かといって、ワスレグサと呼ばれている幼い男児が、かつての丹後国司である岩城正氏の息子だと知られてはならないのだ。

 山椒大夫は自分がどのように奴隷を酷使しているかを理解している。恨まれることも理解している。だからこそ自分に逆らう存在であった丹後国司岩城正氏を排除させたし、その息子であるワスレグサこと厨子王丸を手元に置いて監視している。それもこれも、自分のビジネスを成功させ続けるためである。

 ここで仮にワスレグサが岩城正氏の息子だとバレたらどうなるか?

 奴隷たちにとって絶好のシンボルとなる。

 岩城正氏の息子を担ぎ上げての奴隷反乱となろうものなら全てが終わるのだ。

 山椒大夫にとっての最上の選択肢は、厨子王丸ことワスレグサがノルマ未達成となり、三郎の手によって二度の処罰を受けることである。無能な奴隷の一人が死んだという体裁でこの世から葬り去ることに成功すれば安泰なのだ。

 それなのに、厨子王丸はノルマを達成し続けている。

 しかも、反抗の意思の片鱗すら見せていない。

 姉がどのような目に遭っているのかを知っているにもかかわらず、黙々とノルマをこなし続けているである。

 この児童はあまりにも不気味だった。


 山椒大夫には五人の息子がいたという。しかし、末っ子は三男の三郎である。

 これはどういうことか?

 山椒大夫に抱かれた女性が産んだ男児のうち、山椒大夫の息子として正式に認められたのが三人、非公式な扱いを受けている男児が二人いたのだ。

 山椒大夫は自分の息子として認めている三人のうち、長男である太郎に事業を相続させるつもりであった。ただし、山椒大夫がゼロから作り上げたビジネスモデルであり、一人に相続させた場合にビジネスモデルが維持できないとも考えていた。

 そこで山椒大夫が考えたのが息子達に役割分担をさせることである。長男である太郎を山椒大夫の後継者とする一方、末っ子である三郎に武士たちを率いさせる武闘派とさせ奴隷の監視を続ける。その武士たちの中に被認知の二人の息子も混ぜる。活躍次第では正式な息子に相当する待遇を用意するとしたのである。

 そして、なかなかに狡猾な手段も用意していた。

 飴とムチの使い分けで、ムチ役を三男の三郎に命じると同時に、飴役を次男の二郎に任せることとしたのである。

 三郎は厳しい人、そして二郎は慈悲深い人という構図を用意し、ノルマ未達成のために苦しんでいる子がいたら二郎は自分のための食事を減らして奴隷たちの食事に回すように命じるだけでなく、自分自身で奴隷たちの小屋に出向いて食事を分け与えていた。この食事を受け取った者の中には安寿もいたし厨子王もいた、そして何より小萩がいた。

 二郎がどうして小萩のもとに何度も足を運んでくるのか厨子王丸は訝しんだが、二郎と小萩の男女の関係を理解して納得した。

 たしかに二郎が小萩に言い寄っていたことはその通りである。しかし、二郎の主目的は小萩ではなかった。

 小萩の父は岩城正氏に仕えていた武士である。岩城正氏の娘と息子が山椒大夫のもとで奴隷としていることを考えたとき、彼らの見張り役として小萩を採用するのは合理的なことであった。また、未成年者の奴隷がある程度の年齢の奴隷と一緒に暮らすことは珍しくなく、厨子王丸がノルマ未達成であったとしても、性の相手をしているためにそれなりの小屋で暮らせている小萩と一緒にいるならば、小屋の質もそれなりに上がってもおかしくない。

 他の奴隷たちには安寿はともかく厨子王丸がそれなりの小屋で暮らせている理由が理解できた。

 安寿や厨子王丸はどうして二郎が自分たちに食事を分け与えてくれているのかを小萩を通して理解できた。

 それが監視であるとは考えなかったのか?

 後から考えるとそれは監視であったのだろう。

 しかし、表向きは、山椒大夫の子供たちの中でただ一人の人格者が二郎であるということになっていたし、それは他の奴隷たちにも共通認識として広まっていた。


 分割して統治せよとは統治者に向けての典型的な心得である。

 山椒大夫のように数多くの奴隷を抱えている者にとって恐怖となるのは、奴隷が集団で反抗して立ち向かうことである。いかに山椒大夫とその家族が武芸に長けている者であろうと、殴り合いとなったときに多勢に無勢で勝てるわけはない。

 そこで山椒大夫が考えたのが四つ。

 一つは奴隷たちに序列を設けること。奴隷同士で反抗しあうようにさせ、奴隷たちを一致団結させないようにした。厳しいノルマを課して、ノルマを達成できなければ容赦ない刑罰を与えたが、ノルマを達成したならば一切文句を言わないばかりか、住まいについても、食事についても、ノルマを達成できなかった奴隷たちより上のランクの環境を用意した。しかも、奴隷たちに対する評価は公平かつ公正であった。公平で公正であるために、自分より恵まれた小屋を住まいとし、自分たちより恵まれた食事にありつける奴隷がいることに対して、不満の感情を抱かせつつ、不満の感情を発露させないようにできた。おまけに、ノルマ達成ということは山椒大夫のもとで産出した塩の量が増えることを意味する。こうなるとビジネスにおいて山椒大夫は有利に働く。

 二つ目は奴隷たちを七名で一組のチーム制にしたこと。上記の序列は、ノルマを達成した個人ではなく、ノルマを達成したチームに対して適用した。七名のうち一名でもノルマが達成できなければ評価にならない。七名全員がノルマを達成してはじめて評価が得られるとなると、同じチームの奴隷たちは協力し合うようになると同時に、同じチームの奴隷たちの中で反発心が生まれる。六人がノルマを達成しても一人がノルマ未達成となると、その日の苦労は全て泡となって消える。苦労が水の泡になったことへの怒りは、ノルマを課した山椒大夫ではなく、ノルマを達成できなかったチーム内のメンバーに向けられることとなる。こうなったら奴隷たちが手を組むこと自体が困難だ。

 三つ目は少なくとも生きていけるだけの最低限の食事を示したこと。奴隷として辛く苦しい日々を過ごしている者の中には、拉致される前と後とでは、拉致されて奴隷にされたあとの方がまだマシな暮らしになっているという者もいる。安寿と厨子王の二人とともに暮らすこととなった小萩もその一人だ。彼女は家から追い出され、何度も売り飛ばされ続けた末に山椒大夫のもとに辿り着いたという経歴である。奴隷生活は辛く苦しい日々であるが、他のところの奴隷に比べれば山椒大夫のところはまだマシだという。少なくともノルマさえ果たせば食事が途切れることはないし、性の相手をした結果ではあるが、最小限の着るものも最小限の住むところもある。また、他の奴隷の中には、生活苦から実の親に売り飛ばされた者もいるという。それが誰であるか小萩は語らなかったし、自分自身で親に売られたと自嘲気味に話す者もいなかったが、そうした奴隷は雰囲気からわかった。子沢山の家に生まれ、その家で養いきれなくなったと判断されて、我が子を奴隷として売り飛ばすのである。親にしてみれば一時金が、いや、厳密に言えば金銭がわりのコメや布地が手に入るし、このままでは餓死してしまうかもしれない我が子を生きながらえさせることもできる。残酷な判断かもしれないが、その残酷を放置した際に待っている未来が一家心中だというのであれば、残酷を選ぶ方がまだマシなのだろう。

 最後に、奴隷たちに楽しみを持たせること。辛く厳しい日々を一年中休むことなく続けさせるのは非現実的である。明日も明後日も今日と同じ苦しみが待っているというのでは毎日の生き地獄を耐えていられなくなる。そこで山椒大夫は祭りや年中行事といったイベントを提供した。イベントがあれば、明日も苦しみが続くという感情から、あと何日耐えればイベントの日がやってくる、その日は働かされないで済むという感情に変わる。こうなると日々の苦しみの中にあって希望が生まれる。

 最後に記したイベントの中でも最大のイベントなのが正月である。前日である大晦日の夜から正月三日まで、山椒大夫の邸宅内は全てが休みになる。奴隷にはノルマが課されず働かなくていい。山椒大夫ら家族の食べる食事とは絶望的な格差があるものの、いつもの食事よりはまだマシな食事が提供される。山椒大夫の邸宅内の奴隷たちは正月を何より楽しみにしていた。もういくつ寝るとお正月という歌が聞こえてきてもおかしくない浮き足だった雰囲気に満ちる、それが山椒大夫の邸宅における正月の位置付けであった。

 厨子王はこの正月こそ最高のタイミングであると考えた。

 何のタイミングか?

 脱走のタイミングである。

 ただし、自分たちは小萩と暮らしている。小屋の中で脱走計画を立てると小萩を通じて二郎にも伝わる可能性が高い。小萩と二郎の二人が男女の関係にあることは周知の事実であり、小萩がここで脱走タイミングを知るということは二郎を通じて脱走計画が漏れることも意味する。


 山椒大夫の邸宅から脱走しようと考えた奴隷がいなかったわけではない。しかし、脱走に成功したという話は聞かない。

 何より警護が厳重である。人の目も光っているし、塀を乗り越えるのも容易ではない。山で焚き木となる柴を刈っているのだから、海で海水を汲み上げているのだから、逃げようと思えば山を越えるにしろ海に飛び込むにしろどうにかできるのではないかと思う人もいるかも知れないが、世の中そこまで甘くはない。山を越えようと、海に飛び込もうと、警護の目が光っている。警護の目を逃れようものなら容赦ない追跡が待っている。山だろうと海だろうと彼らの手から逃れることはできない。数日単位ならどうにかなることはあっても、永遠に逃れ続けられた者はいない。丹後国全域に山椒大夫の名と顔は届いている。山椒大夫のもとから逃れるためには丹後国から抜け出さなければならないが、海にしても、山にしても、あるいは街道にしても、脱走した奴隷がうろつくのを許す環境にはなっていない。自然は厳しすぎ、街道は不審者を許さないようになっている。

 奴隷が逃げ出さないように警護するのは山椒大夫の子らの仕事であり、また、彼らのスカウトした武士たちの仕事である。武士と言っても源義家に仕えるような正式な武士ではなく、荒くれ者として迷惑がられて村から追い出され、流浪先でも迷惑がられて安住できる場所がなかったところを山椒大夫にスカウトされたことで定職にありつけ、武士として雇われ、日々の暮らしを享受でき、女性の奴隷の中から妻を選んで結婚することも、結婚とまではいかなくとも女性奴隷を好き勝手にすることもできた。女性の人権を何だと思う人もいるであろうが、そのような感情など彼らには届かない。奴隷たちがいかに山椒大夫への反感を示そうと、彼らにとっての山椒大夫は恩人であり、彼ら警護役たる武士をまとめる山椒大夫の三男である三郎は彼らの頼れるリーダーであった。

 彼らは一度として脱走を許したことがなかった。

 その代わり、脱走に失敗した者を生き埋めにし、首をノコギリで切り落としたことは何度かあった。小萩は実際に何度も見てきたし、安寿も厨子王丸も一度ではあるが目にした。

 脱走は警護が食い止めただけで終わるものではない。

 チームの中で脱走した者がいると他の者は連帯責任となり、額に焼印を押され、それまで積み上げてきた評価は一瞬で最下層となり、住まいは風雨も凌げない粗末な小屋へ格下げとなり、食事が減らされる代わりにノルマが増やされる。運が良ければノルマをこなし続けて以前の評価に戻れることもあるが、増えたノルマが減ることはない。ただただ苦しみが続くだけである。

 先に分割して統治せよと記したが、脱走対策という一点に限れば分割を選んでいない。相互監視である。

 厨子王丸の考えた脱走計画はかなり難しいと実感していた。正月を狙うというのは脱走に成功する可能性があるものの、自分達は監視されていることは忘れていない。どうにかして監視の目が緩む隙を狙うしかないのだ。それが数年単位に及ぼうと。


 厨子王丸が山椒大夫の住まいに売られてきたのは九歳の春である。

 一年、二年と過ぎたことで、姉と小萩と三人で暮らす日々に慣れてきた。

 厨子王丸が山を自由自在に動き回れるようになるのにさほど時間を要さなかった。

 ノルマをこなしたために満足いく食事を得られる日にも、ノルマをこなせなかったために空腹に悩まされる日にも慣れてきた。

 山椒大夫が提供するイベントを楽しみにする日々にも慣れてきた。

 自分より幼い子が新たな奴隷として連れてこられる光景は、慣れてきたということにした。

 自分より幼い子が厳しいノルマを課せられ、どうにもならずに苦しむ様子にも、慣れてきたということにした。

 自分より幼い子や、年齢を隠せなくなった人、病気やケガを負った人がノルマ未達成を理由に、生きていくのに満足いく食事が得られず、栄養失調で倒れる人が出てくるのも、慣れてきたということにした。

 そうして倒れた人が命を落とすのも、慣れてきたということにした。

 自分と同い年ぐらいの少女が純血を散らす瞬間を迎えたという知らせも、慣れてきたということにした。

 姉や小萩が、山椒大夫や、山椒大夫の子らや、警護の武士たちや他の奴隷たちから惨いことをされていることも、慣れてきたということにした。

 苦しみの末に自ら命を絶った者がいるという知らせも、苦しんだ末に亡くなった者がいるという知らせも、脱走を企てて捕まってしまい、ノコギリ引きされる光景も、慣れてきたということにした。

 誰もが心痛める光景であっても、山椒大夫らは手を合わせることもなく、終始無関心で、消耗品が一つ壊れたぐらいの感覚しか抱かないでいることにも、慣れてきたということにした。

 厨子王丸は感情を失った人形であるかのように、ただ黙々とノルマをこなすだけの存在になっていた。

 奴隷小屋は、風雨を凌げると言っても、夏は暑さで熱中症に苦しむ者が続出し、冬は寒さで多くの者が凍え苦しんだ。それでも山椒大夫はまともな服や十分な暖を与えなかった。服はあっても寒さをしのげるほどではない。寒さをしのげるだけの服を着て、寒さをしのげるだけの暖を得るという贅沢はごく一部の奴隷だけに与えられた栄誉であり、ほとんどの奴隷はこの小屋に売られて来たときの服と、死んだ誰かの服を着て、粗末な小屋に住むしかなかった。

 自分の背が大きくなっていることを厨子王丸は理解していた。服は日に日に小さくなっていき、亡くなった先輩奴隷の服を着て寒さを何とかごまかした。その代わり、自分の着ていた服は後から入ってきた奴隷に譲った。

 厨子王丸の顔にはニキビができ、ヒゲも生えてきた。姉の安寿よりも、また、大人の女性として仰ぎ見る存在であった小萩も、気がついたら身長を上回っていた。

 山椒太夫は常から「君たちの協力のおかげで君たち自身も豊かな暮らしができている」と言っていたが、誰もそれを信じていなかった。ただし、それに逆らうことはなかった。逆らったら食事が減らされるか無くなる。それに、ムチ打ちや焼印といった拷問も待っている。それで死ぬことも珍しくない。山椒太夫個人も恐ろしい人間であったが、その周囲の武士たちもまた恐ろしい存在だった。

 武士たちは、表向きは外から攻め込んでくる者に対して守るのが任務であり、そのために山椒太夫の屋敷にいることになっていたが、実際には、奴隷が反抗を起こさないよう、また、山椒太夫の屋敷から奴隷たちが逃げ出さないように監視することが任務であった。

 そうした武士たちにとって若い女性は報償であった。安寿はその若さから報償として扱われ、小萩は性の相手としての序列が下がっていた。安寿が男達の相手をさせられている間、厨子王丸は山で柴を集めてきている。厨子王丸が小屋に戻ってきた後、安寿は一人で、あるいは小萩と二人で小屋を出ていき、何かをして戻ってくる。何をされているのかはっきりとはわからないでいる。しかし、何かはされている。厨子王丸はもう、それが何であるかも、それが許されないことだとも理解できる年齢になっていた。


 山椒大夫の邸宅の奴隷たちがどれだけ正月を楽しみにしているのか、安寿も厨子王丸も身を以て理解した。ただし、安寿はむしろ正月が苦しみであった。

 正月が楽しみであるというのは、警護の武士たちや他の奴隷たち、そして山椒大夫や山椒大夫の子らにとっても楽しみである。

 その楽しみの中には女体への楽しみもある。

 他の人の楽しみのために安寿も小萩も苦しんでいる。また、多くの女性奴隷も苦しんでいる。小萩や他の女性奴隷たちは強がって苦しんでいないという様子を見せているが、安寿はそこまでの強がりを見せることはできないでいる。それでも弟のために何とかガマンしている。

 正月だというのに厨子王丸は山に入り柴を刈っていた。

 厨子王丸は休みでも働く真面目な少年なのだと考えた人はいた。

 姉が何をされているのかを知っている厨子王丸にとって、山にいることしか現実逃避する手段が無いのだと考えた人もいた。

 そのどちらも正解ではなかった。厨子王丸が何を考えているのかを誰にも悟られていないのは、厨子王丸の正体が見破られないでいることの何よりの証拠であり、また、これから自分達がやろうとしていることがまだ見破られていないことの何よりの証拠となった。

 暖めて続けてきたアイデアを実行する機会がやってきたのだ。それも、姉にすら相談することなく考えてきたアイデアである。

 たしかに山を選んでも、海を選んでも、街道を進んでも無事に脱出できる可能性は低い。しかし、山の上から観察すると一つだけどうにかなる場所が見つかった。

 国分寺だ。

 国分寺にもたしかに山椒大夫の圧力のもとにあるが、それでも国衙をはじめとする他の公的施設に比べればまだマシだった。仏門の慈悲にすがればかくまってもらえる可能性も、丹後国から脱出できる可能性もあるのだ。

 ただし、厨子王丸にとって一つだけ想定外なことがあった。

 厨子王丸は小萩も捨てる決意であった。二郎を通じて山椒大夫につながっているという思いは捨てられなかった。ただ、山椒大夫の屋敷に売られてきた自分たち姉弟の親の役割を受け持ってくれたのは小萩なのだ。その小萩を裏切ることに逡巡した。

 その逡巡を断ち切ったのは、今の小萩の姿である。

 これから先は走っていかなければならない。全力疾走を続けなければならない。

 今の小萩に走り続ける体力はもう残されていない以上、小萩を連れて行くことはできない。

 自分たちが脱走することで小萩は何かしらの責め苦を受けるであろう。

 姉を性的に扱ったことを理由に、厨子王丸は他の奴隷たちにも憎しみの感情を持つことに成功した。自分たちに食べ物を恵んでくれたことのある二郎であっても、山椒大夫につながっていることを考えると憎しみの感情を抱けた。

 ただ、小萩だけはどうしても憎しみを抱けなかった。自分たちを見張っているのではないかと考えても、憎しみだけは抱けなかった。

 憎しみを抱けない代わりに、申し訳なさを抱くことにした。

 裏切ってしまって申し訳ない。その感情を抱くしかなかった。

 応徳二(一〇八六)年一月三日の夜、安寿と厨子王丸の姉弟、山椒大夫の邸宅から脱走。


 「脱走です! 脱走者が出ました!」

 酒盛りの場に武士が慌てて駆け込んで報告した。

 この報告に山椒太夫の屋敷に突然の動揺が走った。ついさっきまで愉快な酒盛りであったその場は、慌てふためく修羅場へと変貌してした。

 「逃げたのは女が一人、男が一人です! 安寿とその弟と思われます!」

 武士は自分の知りうることを全て話した。

 「何としても捕まえろ!」

 山椒太夫の三男の三郎は直ちに命令した。

 厨子王丸はその日が雪の降りしきる寒い日の夜であったことは覚えている。

 その日は、小萩も、安寿も、小屋から離れて武士達の相手をさせられていた。このようなとき、先に安寿が戻ってくるのはいつものことであった。その安寿を厨子王丸は小屋の外で待ち構え、武士たちが酒盛りをあげて監視の目をゆるめた隙を狙い、厨子王丸は小屋へと戻る途中の姉の手を引いて山椒太夫の屋敷を脱出して山に向かった。

 「厨子王丸、何を……」

 何の前触れもなく自分の手を引いて逃げ出す弟に、安寿は何が起こったのか一瞬理解できなかった。

 「いいから逃げます」

 厨子王丸のその一言で安寿は弟の決意を悟った。

 自分がこの屋敷に来てから何度となく山椒太夫やその子ら、武士たち、そして他の奴隷たちに何をされてきたか。

 人としてのプライドに関わる問題であり、それでも耐えていたのは弟がいたから。抵抗したら自分がさらに惨い目に遭うだけでなく弟の命にも関わると知っているから安寿はなすがままにされ続けた。だが、安寿はもう二〇歳になってしまった。普通の女性ならばこれからが女盛りなのだろうが、山椒太夫やその子らにとっては性欲の対象とするのに年老いてしまっている。それに、安寿自身も何度も拷問を受けていて、その数多い傷痕が性欲をかえって萎えさせてしまう身体になってしまっている。こうなると、待っているのは武士たちへの下賜しかない。

 いや、自分一人の下賜ならばまだいい。問題は厨子王丸だ。

 今はいい。ノルマをこなしている。それでも、これまで何度はノルマ未達成を理由にムチを打たれ、殴られ、食事を抜かれてきたことがある。それでもここまで生かされていたのは、小萩とともに暮らす身であり、また、安寿の弟だから。性の相手をしている二人と一緒に暮らしているから厨子王丸も生かされているのであるが、小萩はもう性の相手となるほどの年齢を過ぎている。ここで小萩だけでなく安寿まで年齢を過ぎたらどうなってしまうのかは容易に想像ができる。

 想像できてしまう未来から逃れるためには、山椒大夫の屋敷から脱出するしか方法がなかった。

 山椒大夫の屋敷からの脱走自体は珍しくない。しかし、成功したという話は聞かない。全身ボロボロになって戻ってくるか、死体となって戻ってくるかのどちらかしか知らない。

 それを知らない安寿と厨子王丸ではなかったが、それでもこのまま捕まらずに逃げ続けるより他に姉弟の命を取り留める方法がないと考えた。


 厨子王丸は姉と手を握りしめて雪の降りしきる山道を逃げ続けていたが、松明を持った追っ手が迫っていることに気づいた安寿は、弟の手をふりほどいて二手に分かれて逃げるように言った。

 「姉上、まずは国分寺に………」

 そういった厨子王丸の声を姉は遮った。

 「都に行きなさい。私も都に行きます」

 「……、わかりました」

 少しだけためらった後、厨子王丸は夜の山道を賭けていった。

 姉と離れどれだけ進んだかわからなかった。

 手も、足も、凍傷のせいで痛々しい姿になってしまっていた。

 空腹も耐えがたいものがあり、姉との約束を果たすために都に向かうという気力だけが厨子王丸を支えていた。

 このまま雪に埋もれて死ぬのではないかと考えた厨子王丸の前に見えたのは、丹後国の国分寺であった。

 本当は姉と一緒に国分寺に行くはずであったのに、今は自分一人だけである。それも、当初のイメージでは姉とともに多少の余裕を持って国分寺に逃げ込むはずであったのに、今の厨子王丸は雪の山道を懸命に逃げてきたためにボロボロになった姿での逃走になっていた。

 ワラをもすがる思いで国分寺に駆け込んだ厨子王丸は、僧侶たちにしてみれば闇夜に忍び込もうとした盗賊に見えたであろう。

 当初は怪しまれた厨子王丸は、何一つ隠すことなく僧侶たちに名乗りを上げた。

 「岩城判官正氏の子、厨子王丸にございます」

 そう名乗りを上げた若者を国分寺の僧侶たちは驚いた様子で迎え入れた。

 岩城正氏といえば、かつて国司でありながら謀反人として追放された者のはず。また、その妻や子供たちも行方不明となりどこにいるのかわからないというのが数年前に広まったニュースだった。その謀反人としての裁きは冤罪ではないか、その家族が行方不明となったのも冤罪が生んだ悲劇ではないかというのがそのニュースの中身だった。

 そのときの行方不明になった子の一人が今こうして目の前にいる。これは喜ばしいニュースであるはずだった。

 しかし、山椒太夫の屋敷から逃れてきたというのは厄介な問題であった。山椒太夫の権勢は国分寺にも充分すぎるほど届いている。今ここでこの少年をかくまうことは、山椒太夫の手勢に攻め込まれてもおかしくないということであった。

 かといって、ニュースになっている少年をみすみす山椒太夫に渡してしまうというのはもっと問題である。比叡山や興福寺の僧侶たちが都で暴れ回っているおかげで、その他の寺院勢力に対する民衆の風当たりも強くなっており、ここで悲劇の少年をかくまわないで突き出したら世間の風当たりも冗談では済まないこととなる。

 国分寺の中では、厨子王丸を受け入れるべきとする意見と、厨子王丸を山椒太夫に突き出すべしとする意見とが対立したが、目の前で困っている人に手をさしのべるのが僧侶たる者の使命であるとの主張が通り、厨子王丸は国分寺にかくまわれることとなった。

 国分寺の僧侶達は寝室から古い皮籠を持ってきて、厨子王丸を皮籠の中に入れて屋根の垂木に吊るした。皮籠(かわご)とは、竹で編んだ籠の表面に皮革を貼った、現在で言うところのカバンである。この時代、皮籠はかなりの高級品であったために持っている人は少なく、丹後国で皮籠を持っているとなると、山椒大夫のような裕福な人か、もしくは国衙や国分寺といった公共施設に限られる。

 このときに国分寺の僧侶達が持ってきたのが古い皮籠であったのも、現在であればボロボロになっていてもう修理不可能として捨てられるようなカバンでも、この時代では高級品であったために捨てるに捨てられなかったからである。

 また、現在のバッグの大きさが様々であるように、皮籠の大きさも様々である。このときの国分寺にあった皮籠は、大人が入るのは困難でも、厨子王丸をかくまうにはどうにかなる大きさであった。厨子王丸を皮籠に入れて皮籠を紐で縛り、屋根の垂木に吊るしたのち、僧侶達は何食わぬ顔で日中の勤行を続けた。

 厨子王丸は雪の中を逃げてきた。つまり、足跡を残しての逃走劇であり、足跡が国分寺にたどり着いたところまで山椒大夫の追っ手によって突き止められた。その追っ手の中には山椒大夫の息子の太郎と三郎の二人がいた。

 三郎が先陣を切り、太郎は後ろで控えているという図式である。

 最初に口を開いたのは三郎であった。

 「おい坊主、たった今ここにガキが一人入ったはずだ。さっさと出せ」と三郎は住職に迫ったが、住職は耳が遠いフリをして話題をそらし、「何とおっしゃいましたか。春の夜は退屈なので、食事のご馳走を出せとでもおっしゃったのですか」とはぐらかした。これに三郎は怒って「往生際が悪いクソ坊主が」と罵った後、「メシの前にガキを出せ」と怒鳴った。

 ここようやく住職は三郎の言っていることがわかったかのように振る舞い、その上でとぼけて答えた。

 「ガキとは幼き少年ことですかな?」

 「それ以外に何がある!」

 「こちらの寺には子供などおりません。拙僧に幼き少年を出せと言われても、拙僧はいま百日行(百日間連続で行う特別な修行)の最終日の修行に打ち込んでいる最中でして、見知らぬ子供など見ておりません。まあ、泥棒は今しがた『メシの前にガキを出せ』と怒鳴ったばかりですから、泥棒だったら見ているとは言えますな」

 三郎はこの回等にさらに怒りを見せ、「だったら寺の中をくまなく探させてもらうぞ」と伝えた後、寺院の中だけでなく、建物の下や、台所、寝室、仏壇、さらには天井裏まで探し回ったが見つからなかった。

 その間、太郎が住職の動きをじっと見つめていた。住職はあくまでも僧侶としてのつとめを果たしているのみであり、太郎に見られていても何ら変わらないでいる。怪しさは感じられない。

 皮籠の中の厨子王丸はじっと黙って一部始終を聞いていた。そして、ここで一つのことに気がついた。

 三郎は「ガキがいるはずだ」と言った。つまり、自分を探している。だが、三郎が迷うことなく自分を探すということは、脱走した二人のうち自分をターゲットとしていること、すなわち、国分寺まで逃げたのは自分であって姉ではないことが見破られていることを意味する。姉がどのような運命を迎えたのかを想像してしまい、厨子王丸は冷静でいることが難しくなっていた。ただ、ここで少しでも動いてしまったら全てが無駄になってしまう。厨子王丸は自分の姿が悟られぬよう皮籠の中でじっと黙り続けていた。

 「おかしい。裏口からも門からも逃げる道はないのに、ガキがいないなんてありえない。おい坊主、さっさとガキを出せ」

 「出せと言われてもいない者は出せません」

 住職に殴りかかろうとした三郎を征したのは、山椒大夫の後継者となることが決まっている太郎である。このようなときはリーダーが先頭に立つほうが交渉しやすい。

 「誓文を立てろ。誓文を立てたら帰ってやる」

 「兄者、それは!」

 「いいから誓文を立てろ!」

 この時代、誓文を立てるということは、自分の主張した内容に嘘偽りがあったならば、無条件での死をも受け入れると宣言するのと同じである。

 「あなたのいう子供のことなどは知りませんが、誓文を立てろというなら立てましょう。そもそも私はこの丹後国の生まれではなく、大和国宇陀郡の生まれ。七歳のときに播磨国の書写山へ上がり、十歳で出家し、二十歳で高座に上がった身です、幼い頃から学んできたお経を、今こそ誓文として唱えましょう。そもそもお経の数々は、華厳、阿含、方等、般若、法華、涅槃、そして五部の大蔵経、薬師経、地蔵経、阿弥陀経など、小さな経典まで合わせれば七千余巻に及びます。あらゆる罪を滅ぼす血盆経、浄土三部経、倶舎論三十巻、天台六十巻、大般若経六百巻、法華経一部八巻二十八品、その文字数は六万九千三百八十四文字。もし私が嘘をついているなら、これらの神罰を厚く深く受けることになります。その上でもう一度言います。拙僧はそのような子供のことなど知りません」

 「おいクソ坊主、誓文ってのはなぁ、日本国の名だたる神々を呼び出して驚かせて書くもんだ。今の長ったらしいのはお前がガキんときから習ったお経じゃねえか。正真正銘の誓文を立てろ」

 「三郎、言葉を慎め。だが、三郎の言うことはもっともだ。誓文を立てれば我らは帰る。それでいいな」

 文字通りの恫喝を繰り広げる三郎よりも、太郎の言葉のほうが迫力ある言葉であり、住職は太郎にひるんでいた。

 さすがに住職も誓文を書くことに躊躇はしていた。

 誓文を立てると嘘を禁じる戒律に背くことになる。

 しかし、誓文を立てないと厨子王丸の命にかかわる。人命を捨ててまで戒律を守るべきなのか。もっと言えば殺生を禁じる戒律を破るのか。

 住職は決心して誓文を立てることにした。

 湯、水、塩でそれぞれ七度ずつ計二十一度の清めの儀式をとり、護摩壇を飾り、剣を飲み込む姿の不動明王を真っ逆さまに掲げ、寝室から紙を取り出し、十二本の御幣を作って護摩壇に立てた。それはあたかも、誓文ではなく、山椒大夫らを呪い殺す儀式のようでもあった。

 「敬って申し上げます。天の梵天、帝釈天、地の四天王、閻魔大王、冥界の役人たち、そして泰山府君、日本の伊勢天照大神をはじめとする百二十社の神々をただいま呼び出します。熊野の三山、吉野の蔵王権現、大和の神々、奈良の春日大明神、牛頭天王、若宮八幡、石清水八幡、京都の山崎、宇治、伏見の神々、稲荷、祇園、北野天満宮、貴船、賀茂、比叡山の山王二十一社、竹生島の弁才天、お多賀様、美濃、尾張の熱田明神。東国の鹿島、香取、出羽三山、立山、白山、信濃の戸隠、若狭の八幡、丹後の文殊、丹波の大原、摂津の住吉、天王寺の聖徳太子、高野山の弘法大師、淡路島の権現、備中・備前・備後の守護神を、今ここに呼び出し驚かせます。に筑紫の宇佐、霧島、四国の一宮、出雲大社、佐陀の宮、山の神々、梵天、鬼、精霊、屋敷の地神、荒神、竈の神、屋敷を守る神々に至るまで、すべてを誓文に立てます。畏れ多くも九万八千七百社の神々、一万三千の仏々よ、もし私が嘘をついているなら、その罰を厚く深く受けましょう。私一人のことではありません。私の一族、親族に至るまで、罪人を運ぶ車にかけられ、修羅道や三悪道へ引き落とされ、二度とこの世に浮かび上がれないようにして構いません。こちらのかたがたの言うような子供のことなど私は全く知りません」

 およそ思いつくであろう全ての神秘的な存在に対して誓文を立てたことで、国分寺の住職の誓文は成立した。

 ただ、誓文を立てている間、三郎は一つ気になっていた。

 「あそこに吊るしてある皮籠は古いのに、掛けてある紐は新品だ。おまけに、風も吹いていないのに何度か揺れた。あれを調べさせろ」

 三郎の動きを制したのは太郎であった。

 「もうやめろ。誓文は成立した」

 「しかし、兄者………」

 「たいたい、このような古い寺ってのは、古いお経だとか仏像だとか、破れた反古紙だとかの不要なものを入れて吊るしておくもんだ。昨日今日から吊るしてあっても当たり前だし、だいいち、さっきから建物の中にすきま風が吹いてる。それに、たとえあの皮籠の中にいるのが小僧だったとしても、今しがた聖の誓文を聞いた以上、俺たちはもうここから立ち去らねばならん」

 「兄者がそう言うなら………、だがな、そこのクソ坊主、あの中身が何なのか言え.それぐらいはできるだろう!」

 「百日行が終わりましたら修理に出す仏像です」

 「な………」

 仏像の修理そのものは珍しいことではない。地震や火災、あるいは経年劣化で破損してしまい、あるいは塗装が剥げてしまい、修理に出さなければならなくなることは欲あることで、そうした仏像を皮籠にしまい、紐で縛っておくのはあるべき姿であっただけでなく、紐をほどくことが許されるのは、修行を積んだ僧侶と、仏像を修理する仏師に限られていた。そうでない者が仏像をしまっている皮籠の紐をほどくのは仏罰必定で思い祟りにあうという言い伝えがあった。

 「そんな物騒なものだっていうなら最初からそう言え!」

 それが三郎の捨て台詞であった。

 山椒大夫の派遣した追っ手が一人残らず国分寺から出て行き、姿が見えなくなってようやく厨子王丸の入った皮籠が降ろされ、厨子王丸が解放された。

 しかし、厨子王丸の足は凍傷になっている。命は無事であったが、ここから歩いて逃げるとなると難しい。

 住職は考えた。これも修行として、厨子王丸を再び皮籠に入れ、紐に縛って背負って運ぶことで、厨子王丸を都に届けることとしたのである。この時代、僧侶が自分の寺院で祀っている仏像の修理のために、僧侶自身が、それも僧侶のうちの高職位者自身が仏像を都や奈良に運ぶことは珍しくなく、国分寺の住職が皮籠を背負って都に向かう姿は珍しいものではあったものの、修行をしている僧侶のあるべき姿とも認識されていた。

 皮籠の中にあるのは何かと聞かれたら仏像だと答えればいい。修理のために仏像を運んでいると言えば、誰も皮籠の中を見ることはない。既に述べたように、仏像を運んでいる皮籠の紐をほどくことができるのは一部の者に限られる。修理のために運んでいるとなったら、ますます皮籠の紐をほどくことなどできなくなる。

 丹後国を出発した住職は、丹波国を経て亀山に至り、沓掛峠を過ぎて桂川を渡り、川勝寺を過ぎて都の西にある朱雀権現堂に到着した。

 しかし、ここで問題が起こった。

 厨子王丸を都の近くまで連れてくるのはいい。

 問題は、厨子王丸の公的地位である。

 父である岩城正氏はまだ罪人として公職追放中の身であり、その刑罰は息子である厨子王丸にも及んでいる。事実上はともかく名目上は太宰府に流罪になっていなければならない身であり、太宰府へと流されている途中で行方不明になっているという知らせは届いているために太宰府にいないところまでは問題ないのであるが、都に姿を見せるとなると、流罪にあった罪人が勝手に流刑地を抜け出した、言うなれば脱獄犯と同じ扱いになってしまうのだ。

 ならば太宰府まで連れて行くべきか?

 それは認められない。そもそも厨子王丸は姉と都で会おうと約束している。それに、父が有罪判決を受けたことは知っているが冤罪であるとも確信しており、父の冤罪を晴らすためには罪に服して流刑地である太宰府に赴くのではなく、都に、あるいは都に近い場所に留まって無罪を勝ち取ることが重要である。


 朝廷には秘密にした上で、朝廷に厨子王丸が都に、あるいは都の近くにいることを伝えて許可をとるにはどうすべきか。

 そのためには、岩城正氏への赦免が必要となる。朝廷に働きかけて岩城正氏は無罪であるという回答を獲得した上で、岩城正氏の息子である厨子王丸も無罪であるとし、その延長線上として厨子王丸の都への滞在を許可するという図式でなければならない。

 さらに、厨子王丸の証言から、別の船に乗ったために消息不明となっている母、一緒に脱走した際に離れてしまった姉、海へと突き飛ばされた女中の姥竹についても無罪とすると同時に、正式な捜索を働きかけなければならない。

 そして、厨子王丸と姉の安寿が、丹後国で奴隷労働を強要されていたこと、この姉弟だけでなく多くの奴隷が山椒大夫をはじめとする丹後国のもとにいること、その環境は極めて劣悪であることを訴え出て、待遇を改善する。

 ただ、そうした働きかけの窓口になってくれる人はいるのか?

 残念ながらいないとするしかなかった。

 朝廷に秘密にした上で朝廷に働きかけるのであるから、朝廷の有力者でありながら朝廷に逆らえる人物を探すこととなる。そのような都合のよい人物などいなかった。

 特に問題となったのが山椒大夫をはじめとする丹後国の有力者たちに対しての処罰に関わるという点である。何しろ彼らは、海から遠く離れた平安京に大量の塩を運んできてくれる人でもあるのだ。都の庶民にとっては、従来であれば貴重品であったはずの塩を安く供給してくれている恩人であり、彼らへの処罰を求めるとなると、平安京の内外で暴動が起きかねない。

 できるとすれば、都に近く、都との情報のやり取りも可能であるが、少し距離があるために都からの圧力を受けずに済む場所に身を置くことである。この矛盾した条件を、果たして、問題なく満たせるような場所などあるのか?

 あった。

 四天王寺だ。

 四天王寺は現在でも大阪市天王寺区に存在する寺院である。聖徳太子の創建した日本最古の寺院であることからも分かるとおり、官設の寺院である。比叡山延暦寺をはじめとする寺院は有力な僧侶や時代の有力者の創建であるのに対し、国策として創建された寺院であるために、創建者やその子孫といった特定個人の影響を受けるというわけではない。この、国策による寺院であるというのが、国分寺の住職にとって大きな強みとなった。日本全国に点在する国分寺は、四天王寺や東大寺といった国策によって建立された寺院と接点を有している。

 さらに重要なのが、都から程よい近さにあると同時に、程よい距離を保っていることである。特に、地域全体が経済圏としては京都から独立していることは大きなメリットである。塩の販売という点で平安京にも大きな影響を及ぼす山椒大夫も、京都よりは海に近い四天王寺の周辺となると、塩を用いたビジネスを展開することはできない。

 住職は厨子王丸を四天王寺に預けることとし、四天王寺は厨子王丸を受け入れることとした。

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