第8話
私の毎日は基本的に単純で規則正しいが、手術の予定が入ったときだけは違う。この日、凪の捜索を早めに切り上げた私は、億劫な気持ちで一人電車に揺られていた。
東京湾に面する海沿いには工場が多く建ち並ぶ地区がある。大企業の製造所から町工場まで様々な業種が軒を連ねていて、金属や溶剤の匂いが混じり合った空気が漂っている。目的地は、そんな地区を駅から十五分ほど歩いた先にある、多摩川沿いの廃工場だった。
貸し出されている鍵で南京錠をあけて、扉に巻きつけられたチェーンを外す。錆びついた扉を押し開けると、埃にまみれた事務机や椅子がいつものように迎えてくれた。ここはかつて金属加工会社の事務所だったらしい。ただ、会社は何年も前に倒産して今は荒れ放題となっている。電気も通っておらず、持ってきた懐中電灯を頼りに前に進む。
休憩室を通り過ぎ、さらに奥の扉を開けると作業場に出る。廃業の際、資産の多くは売却されたというが、今でも数台の工作機械が残されている。いずれも役目を終えた死体ばかりだが、作業場の中央に置かれている発電機だけが低い唸り声を上げていた。
発電機からはコードが二本伸びている。一本は壁沿いの業務用冷凍庫に、もう一本はそのすぐ隣の破砕機に繋がっていて電力を供給していた。
冷凍庫を開けると、白い冷気が滝のように流れ出てくる。今日は二人、その中に入っていた。左が私のもので、右は金髪の若い女だった。頬を触ってみるとまだ柔らかく、入れられたばかりだと分かる。人間の冷凍には最低でも二日はかかる。昨日殺されたのだろうと推測して、私は静かに扉を閉めた。
作業にとりかかる前にまずは発電機に給油する。作業場には軽油の入ったタンクが常備されているため、それを持ってきて溢さないよう給油口に注いでいく。強烈な匂いが立ち込めるが、今のうちに深呼吸して肺の中を汚す。キャップをきつく締めると、破砕機の電源を入れた。
この破砕機は合金製の歯車が二軸で噛み合う構造となっていて、投入口から送られてきた物体を細かく粉砕して吐き出してくれる。売却されなかった機械の一つだそうで、印字されている製造日は今から半世紀以上も前となっていた。そのためこの老体は様々な不具合を抱えている。その内の一つはこのけたたましい駆動音だった。
以前は耳栓をしていたが、作業中に周囲の音が聞こえない方が問題だと考えて今はしていない。レインコートを羽織ってビニールの手袋をはめると、口頬を軽く噛んで覚悟を決めた。
私の腕力では百キロ近い物体を持ち上げることは難しいため、冷凍庫と破砕機の間に手製の台車を設置する。そして、市場での冷凍マグロのように、死体を台車の上で滑らせて破砕機の投入口に移動させた。
頭から突っ込むと、体が斜めになって破砕機に突き刺さったような状態となる。その瞬間、さらに大きな音が作業場に響き渡った。血の臭いが立ち込めて無意識に顔が歪む。私は蛇口に繋がるホースを手に持ち、放水を始めた。
破砕機の出口はコンクリートの床だが、ここには溝が掘られていて、それが工場の壁まで続いている。私は排出されたシャーベット状の物体に水をかけて溝の中に流れを作る。暗がりでの作業のため、鈍色の液体が流れているようにしか見えない。そのおかげで私の精神は破滅を免れていた。
排水は最後、壁に埋め込まれたパイプを通って多摩川に流れ込む。従って、この作業は日没後に制限されていた。夜ならば誰にも気づかれることなく、この悪意を一晩かけて海に拡散させられる。もし欠片の一つが見つかったとしても、ここまで粉砕されていれば悪意の原型までは辿り着けないだろう。そして、最後のピースをあてがえば社会はまたひとつ理想に近づくのだ。
作業は単純な割に重労働である。粉砕が甘かった骨はハンマーで砕かなければならず、それも溝の中に堆積してしまうため人力で除去しなければならない。また、破砕機は定期的に詰まるため、その都度投入角度を変える必要があった。加えて、回転刃は摩擦で次第に熱を帯びてくる。最初は凍って排出されていたものが液状になってくると、臭いはさらに強まった。
これらの作業に没頭していると時間は瞬く間にとけていく。しばらくしてふと時計を見たところ、もう仕事に行かなければならない時間だった。投入口を見るとまだ半分ほどしか終わっていないが、片付けを考えると今日はここまでだ。そう考えていると事務所に繋がる扉が開いた。
「順調かな」
「いえ、てこずっています」
「だろうね。そいつはやけに大きい」
目の前まで近づいてきてようやく顔が見える。オーナーとは、出会ってもう一年以上が経つ。以来、上司と部下の関係であり、死体処理の仲間でもあった。
「燃料が足りないと思ってね」
オーナーは両手にポリタンクを持っていた。私は一つ相槌を打って手袋を脱ぐ。
「私そろそろ時間で」
「そうだね。上野さんが待ってる。後はやっておくよ」
「ありがとうございます」
頭を下げて作業をオーナーに引き継ぐ。レインコートを脱いで、服の臭いを嗅ぐ。この服はもう着ることができそうになかった。
「ちょっと」
「はい」
作業場から出ようとした矢先、不意に声を掛けられる。オーナーはハンマーを片手に笑みを浮かべていた。その目は社会の一員として振舞っている時とはまるで違う。人は誰しも心に複数の人格を宿しているものだが、オーナーの場合、それらが頻繁に入れ替わる。そして考えられないことに、いずれも自らが反逆者だとは思っていない。
「前回の仕事、ちょっと雑過ぎない?あんな人目のつく場所に置いちゃってさ」
「すみません」
「あれじゃいつかばれるよ。一心同体だってこと、分かってくれないと困るんだけど」
「今後は気をつけます」
「俺もやっと見つけた仲間を殺したくなんてないからさ。気を付けてね」
「はい。それでは」
私は再度お辞儀をして作業場を出る。出勤までにどこかの漫画喫茶で身なりを整えなければならない。小走りで駅に向かう中、汚い空を見上げると小さな星が輝いていた。
殺人の動機は殺人者の数だけ存在する。興味はないが、オーナーにも何かしら哲学はあるだろう。そして、それがどんなものだったとしても社会への反逆である。
一方、私の動機は社会の健全化であり、その本質は自己犠牲だった。犯罪という性質に変わりはないが、利己的な思考が入り込む余地はない。
そもそも全ての犯罪者が反逆者に該当する訳ではない。なぜならば、犯罪とは全員で交わした約束を破る行為に過ぎず、戦争の十分条件ではないからだ。一方、義務の不履行から生じる社会の腐敗は、必然的に私たちを悲惨な戦争状態へと導いていく。だからこそ、私は社会の反逆者ではなく手術人として振舞うことにしていた。




