第7話
今日の集合場所は雀荘マスティマだった。僕の仕事が長引いたせいでひまりは先に入っている。一人での入店は億劫だった。
「お、来た来た」
「だいぶ出来上がってるね」
「直樹が遅いから」
ひまりが空になったジョッキを僕に振りかざす。喋り方からして三杯目だろう。店員が一人離れて、僕はひまりの横に座った。
「今日は骨折り損のくたびれ儲けだったよ」
「何の話」
「頼まれた人探し。他も色々合わせて探してみたけど、収穫なし」
ひまりの足元には鞄が無造作に置かれていて、その半開きの口からは散らかった中身が顔を覗かせている。その中には少し前までワイドショーを賑わせていた園田凪のビラもあった。近所で起きた失踪事件であるため印象に残っている。
「どこにいたの」
「駅前。失踪人の一人くらい見つけられると思ったんだけど」
「一体ひまりちゃんの頭には何人分の顔が入っているの?」
「さあ。覚えてない」
「もう遠くに引っ越したのかもですね」
半荘戦が始まって各々が手を動かす。悔しがっているのはひまりだけで、依頼者の倉本は目の前の手牌に集中している。このギャップがまさにひまりらしい。
「直樹、この前教えたことちゃんと覚えてる?」
「悪いけど社会人は忙しいんだ」
「言い訳だね。それじゃ私に敵わないよ」
そんなことは言われずとも分かっている。知識も記憶力も正義感も、僕はひまりの後塵を拝している。ただ、それが劣等感を生んでいるということはない。僕はひまりが成し遂げる何かを隣で見ていたいだけなのだ。
ただ、大口を叩いた割には今日のひまりは調子が悪かった。この一戦は最終的に、ひまりが若干のマイナスで三着、僕がぶっ飛びスレスレの四着で幕を閉じる。勝った倉本は、ひまりから手に入れた最後の上がり牌を指で器用に回す。
「やっとひまりちゃんに仕返しできた」
「ふん」
不貞腐れるひまりは可愛らしい。酒のせいもあって我儘な子供に見えた。斎藤もその様子を珍しく感じたのか、勝利に酔いしれる倉本を遮って別の話題を提供した。
「そういえば最近、面白い話を聞いた」
「面白い話?」
「幽霊ホテルって知ってる?」
顔を真っ赤にした斎藤が典型的な幽霊のポーズをする。ひまりはため息をついてビールを飲み干した。
「今日はこれで終わり。お会計お願い」
「ちょっと、話くらい聞いてよ」
「私も直樹も非論理的な話に興味はないよ」
負けた腹いせか、ひまりは冷たい態度を取る。それでも斎藤は意に介さず、話を続けた。
「ハーメルンってラブホでさ、夜な夜な赤子の泣く声がするんだと。望まず産み落とされ、命を落とした赤子の霊が」
「斎藤さんの分を抜いて、五千円です」
「はい、これで」
「ひまり、僕も払うから」
「ちょっと俺の話聞いてよ」
三者三様に騒がしい。僕が財布を取り出すと、ひまりの温かい手がそれを押し戻した。
「今日は二軒目に付き合ってほしい。せっかくの花金だから」
「本当に何人も聞いた人がいて」
「それじゃ、また来ます」
「ありがとうございました」
ひまりに背中を押されながら退店し、エレベーターに乗り込む。建物を出るまでの間、ひまりは無言を決め込んでいた。
上手くいかない日は誰にでもある。ただ、ひまりには滅多に訪れないのだろう。二軒目の居酒屋では、先程と打って変わってひまりの口が止まらなかった。
ひまりの話は面白く、酒のつまみに丁度いい。そんな話術にまんまと嵌まって、気が付くと三軒目にいた。そして三時過ぎに閉店だからと二人して外に放り出される。
陽気な気分は寒さで萎み、今すぐ布団に潜り込みたいという欲に駆られる。しかし、ひまりの泥酔具合は深刻で、植え込みに顔を突っ込むなり動かなくなってしまった。
「気持ち悪い」
「早く吐いて」
こういう時は出すものを出すに限る。僕が背中をさすってやると、ひまりは蟹のようにあぶくを吐いた。しかし、最後の最後で抗って何かを飲み込む。
「水取って」
「ちょっと散らかさないで」
ひまりが鞄の中身を歩道にひっくり返す。一番最後に水のペットボトルが転がり出てきた。
「どうかされたんですか」
抵抗も虚しく、ひまりは飲んだ水以上の吐瀉物を植え込みにばら撒く。僕がそれを諦観していたところ、背後から声を掛けられる。振り返ると、細身の女性が後ろ手を組んでこちらを見ていた。
「連れが飲み過ぎてしまって」
「彼氏さんですか」
「あ、いや」
返事が曖昧になってしまう。すると女性の目はすっと細くなった。誤解されていると分かったが、なぜか身が竦んで声が出ない。
「ではどういったご関係ですか?」
「知り合いです。さっきまでその店で飲んでて」
「職場の同僚とかですか」
「えっと、それは」
酔っているせいで上手い返事が思い浮かばない。正直に説明することも考えたが、出会いが複雑なため何から話せばいいか分からなくなる。言葉を選んでいる内にひまりの状況はさらに悪化した。
「ひまり、帰れそう?」
唸り声だけが返ってくる。どうやらここで眠るつもりなのだとわかって、僕は急いで配車アプリでタクシーを呼んだ。その横で見知らぬ女性はなかなか動こうとしない。
「心配しなくても大丈夫ですので」
「そうは見えませんけど」
女性がひまりを指差す。なおも誤解を解く妙案は思い浮かばない。そうこうしていると先にタクシーが到着した。
「ひまり、起きて」
腕を引いてひまりを立ち上がらせ、落ちていた一枚のチラシで汚れた口元を拭ってからタクシーの後部座席に押し込む。その間に女性はひまりの荷物を集めて両手に抱えていた。
「私もいいですか」
「え、それじゃあ僕が助手席に」
断ることができない。僕は小さく頷いた。
家までは十分ほどの道のりである。ひまりはそのわずかな時間で爆睡し、隣に座る女性は氷のような目でバックミラー越しに僕を見ていた。
マンションに着くと、ひまりを起こしてエントランスに連れていく。エレベーターを待っている間、女性は振り子のように揺れるひまりの体を支えてくれた。
とても追い返せる雰囲気になく、一緒に八階まで上がる。玄関を開錠すると、ひまりは我先に部屋の中に飛び込んだ。
「先に手を洗って」
ひまりは僕の言葉を無視して、納戸から勝手に取り出した常備水をラッパ飲みする。そして、マットレスに直行するなり仰向けに寝転がった。また噴水のように出てこないか。僕はハラハラしながらビニール袋を手渡す。
「あれ、その人誰?」
苦しそうな深呼吸が四回ほど。直後、ひまりがこちらを見る。召使のように直立不動で並んでいた僕らはお互いに目を合わせた。
「ひまりを心配して来てくれたの。店前で吐いたこと覚えてない?」
「覚えてる。わざわざありがとう。でもこの通り、直樹は悪い人じゃないから」
「そうみたいで良かったです」
愛莉がマットレスのそばに座る。肩にかけたトートバッグを握り締めたまま、ひまりに微笑みかけていた。
「名前は?」
「馬路愛莉といいます。あの、あなたは」
「常盤ひまりよ」
「大和直樹です」
今さらになってお互いに自己紹介をする。愛莉はだらしない格好のひまりに恭しく頭を下げていた。実際、尊敬に値する人間ではあるが、この体たらくからそれを見出せたのだとすれば素晴らしい観察眼だった。
「愛莉さん、顔と手に怪我してるよ」
ひまりが起き上がってそんなことを言う。確認してみると、確かに愛莉の耳の下と右の頬にひっかき傷が走っていた。愛莉はその場所に指先で触れて傷を隠すように俯いた。
「野良猫にやられたんです。可愛いからって不必要に近づくべきじゃないですね」
「コンビニに来たの?」
「え?」
ひまりが愛莉の襟元を指差す。愛莉が着ていた服の襟には虹色の独特なデザインが施されていた。
「そんな変な柄の服はそうそうない」
「そうですね。寒くて着替えをさぼっちゃいました」
ひまりの洞察力は健在だ。僕だけでなく、愛莉も目を丸くして驚いている。そして嬉しそうに笑った。
「ひまりさんはお優しいだけじゃなく、聡明な方なんですね」
「それは愛莉さんも同じでしょう。赤の他人のためにここまで来てくれた」
僕もそれに同意して頷く。しかし、愛莉は静かに首を横に振る。何か暗い影が顔に落ちたような気がしたが、それを質問させる前に愛莉は立ち上がった。
「お邪魔して申し訳ありませんでした。ひまりさん、どうかお大事に」
「タクシー呼ぶよ。お金払うから」
「大丈夫です」
「私が巻き込んじゃったから」
「本当にいいんです。歩いて帰れる距離なので」
愛莉は逃げるように玄関に引き下がり、靴を履いて扉を開ける。見送りに出てきたひまりが手を振ると、愛莉はおやすみなさいと会釈して去っていった。
「不思議な人」
「多分、僕がひまりにちょっかいをかけてると勘違いしたんだと思う」
「実際、そういう介抱してたんじゃないの」
「まさか」
粗相の処理をさせておいてその言い草は不本意である。ただ、ひまりも本気で言ったわけではない。特に追及することなく、再びマットレスに戻っていく。
「直樹は気付いた?」
「何に」
「愛莉さんの右腕。手首の内側に火傷の跡があった」
「え、痛そう。労災になるのかな」
愛莉がコンビニ勤めだと見破ったのはひまりだった。揚げ物を作っていたときに油はねでもあったのだろうと僕は想像したが、ひまりはやけに深刻な顔をしていた。
「煙草の跡だった」
「煙草?自傷行為だってこと?」
「でも愛莉から煙草の臭いはしなかった」
「というと?」
「普通、自傷行為は手元にある物でする。そのためにわざわざ道具を準備したりしない。ましてや煙草なんて」
ひまりは胡坐をかいて頬肘をつく。お返しだと言わんばかりに愛莉を心配していた。
「誰かから暴力を受けてる?」
「分からない。顔と手の怪我も猫だなんて多分嘘だ。顔のひっかき傷はまだしも、手の擦過傷は広い範囲だった。でもそんな虐待あるかな」
ひまりは愛莉を優しいと評した。そんな人が苦しんでいるのなら、寄り添うのは当然のことと言える。そんな相互扶助によってこの社会は成立しているのだ。




