第6話
凪の失踪から数日が経った。田舎の神隠しとは訳が違い、人の目と防犯カメラで溢れ返る繁華街で子供が忽然と消えるはずがない。そんな慢心が警察にもあったか、凪の捜索は難航していた。あの日以来、同じ話を聞くために警察官が何度もコンビニを訪れていて、店長はその度に機嫌を悪くしていた。
私も睡眠時間を削り、仕事までの時間を全て充てて凪を探し続けた。水難事故に遭ったのではないかと、多摩川を海まで下ってみたりもした。しかし、収穫は何一つなかった。
今日はというとアパートの近所にある公園のベンチに座り、走り回る子供を眺めている。打つ手がなくなったことも理由の一つだが、ここ数日の肉体的疲労と精神的苦痛で体は限界だった。
凪は何らかの事件に巻き込まれた。私はそう確信している。悪意が介在していなければ、こうも簡単に社会の宝が失われるはずがない。そして、社会はそんな悪意の存在を許してはいけなかった。
子供を見守ること数時間。仕事の時間になって重たい腰を持ち上げる。そんな時、公園向かいのマンションにふと目が留まった。駐輪場には一台の自動販売機が設置されている。その前で一人の子供が不審な動きをしていた。
年は中学年くらいだろうか。寝そべって側溝に手を伸ばしたり、木の棒を自販機の下に突っ込んだりしている。こうした光景は私が子供の頃にもよくあった。決して褒められた行為ではない。
「どうしたの」
近づいて声を掛けると、男の子は慌てて立ち上がる。その目は赤く充血していた。
「誰?」
最近の子供は、見知らぬ大人をまず不審者だと認識する。近年の学校教育の賜物であって、現に私は警戒されていた。
「私は馬路愛莉。すぐそこのアパートに住んでるの。君は?」
「西浦拓馬」
「拓馬君ね。それで何してたの?」
「なんでもない」
「そんなことない。服、汚れてるよ」
ハンカチを取り出し、裾の汚れを拭いてあげようとする。すると、拓馬はその手を弾き、涙をぽろぽろと流し始めた。
「怒ってるんじゃない。心配しただけ。どうしたの」
「お金落としちゃった」
「ジュース買おうとしてたの?」
拓馬は首を横に振り、左手に握りしめていたチラシの裏紙を見せてくる。そこには牛乳、食パンと走り書きがされている。どうやらおつかいの途中だったらしい。
「いくら落としちゃったの?」
「五百円玉」
私は少し考える。西の夕焼けは刻一刻と暗闇に追いやられている。繁華街から少し離れているとはいえ、子供が出歩いて良い時間ではない。私はトートバッグから財布を取り出した。
「じゃあこれ」
「いらない。お父さんに怒られる」
差し出した五百円玉が即座に押し戻される。賢い子だ。私はつい感心してしまうが、今はそんなことをしている場合ではない。
「あげるんじゃない。落とした五百円玉と交換しようと言ってるの。もうすぐ暗くなるから、早くおつかいして帰りなさい」
「でも」
「落としたのは私が見つける。そうしたらとりかえっこしただけ。そうでしょ?」
私はもう一度、五百円玉を突き出す。それでも躊躇する拓馬の手を取り、右手に握らせた。
「ありがとう」
「気を付けてね」
深々とお辞儀した拓馬は手の甲で涙を拭い、大通りの方向へ駆けていく。背後の公園はいつの間にか無人になっていた。
私は側溝のそばにしゃがみ込んで、まずは目視で探してみる。ただ、その程度で見つかるなら拓馬も回収できていたはずだ。仕方なく上着を脱いで、冷たいアスファルトに膝をついた。
決して五百円に執着しているのではない。私を信頼してくれた拓馬との約束を果たすため、汚いドブに手を突っ込んだ。相手が子供だろうと関係ない。嘘をついて裏切る行為は、自らの心を荒廃させ、相手を傷つけ、社会を無秩序に導いてしまう。
スマホのライトを頼りに側溝の中を掻きまわす。長い間掃除されていないのかゴミと土砂が堆積し、排水が混じってぬかるんでいた。
苦労の末、五百円玉は無事に見つかった。その代償として肘と手の甲に擦り傷を負う。大人の私でさえこんなにも汚れ、怪我をしたのだ。拓馬にさせなくて良かったと心から思い、約束を果たせたことに満足した。
それから数日後、私は同じ公園のベンチに座って考え事をしていた。凪の件は依然進展がない。私が突破口を見つけ出せないのは下の中だから。もっと賢ければ凪をこんな目に遭わせることもなかったと後悔を募らせていたところ、唐突に後ろから声を掛けられた。
「愛莉お姉さん」
振り返るとそこには拓馬が立っていた。私は腰を上げ、膝を曲げて目線を合わせる。拓馬の表情は前回よりも曇っていた。
「この前はちゃんとおつかいできた?」
「これ返す」
拓馬があの日とは違う五百円玉を私に押しつける。何が起きたのかわからず、私は拓馬の顔を見て硬直してしまう。私たちはあの時、確かに交換した。返される道理はない。
「落とした五百円玉はちゃんと見つけた。だから大丈夫だよ」
「返します」
拓馬の声量が大きくなり、その迫力に息を飲む。ただ、受け取ってしまえば約束が壊れてしまう。
「でも本当に」
「絶対貰って」
心をざわめかすような震える声。その時になってようやく、拓馬が間違った恐怖に支配されていることに気付いた。原因は何か。私は拓馬の足先から頭にかけてゆっくりと視線を這わせていく。そして見つけた。
五百円玉を握る右腕が前に伸ばされ、袖から手首が露わになっている。そこに悪意の塊があった。私は有無を言わさず拓馬の袖を捲りあげる。それはまだ新しい火傷の跡だった。
「これ、どうしたの」
無意識に声が低くなる。怒りが湧いて、その熱が睡魔を殺して全身に血をたぎらせる。
顔を歪ませた拓馬は手を振りほどいて逃げようとする。私はとっさに肩を掴んで制止させた。すると、痛いという声とともに、今度は襟元から生々しいあざが顔を覗かせた。
「待って。受け取るよ」
私が折れると、拓馬の身体から力が抜ける。震える手とくすんだ五百円玉。受け取る前に問いかけた。
「助けはいらない?」
拓馬の目が小刻みに揺れる。五百円玉が私に移ると、拓馬は走っていった。
あの丸い傷跡は煙草の火傷だった。まだかさぶたもできておらず、昨日今日の出来事だと推測できる。そしてまた、状況から察して原因はあの五百円玉で間違いない。
頭痛と眩暈をこらえ、私は静かに拓馬の後を追う。どうやら私は拓馬の苦痛も知らず、独りよがりに喜んでいたらしい。これでは腐った社会と変わらない。病がこれ以上広がる前に手を打つ必要があった。
拓馬は公園にほど近い市営住宅の202号室に帰っていった。社会の癌はここにある。私は周囲を徘徊して観察から始めた。
外から見る限り、特段の異常は見当たらない。家庭環境が劣悪というわけでもなさそうだった。郵便物は回収されており、ベランダには三人分の衣服が整然と並んでいる。
一方、拓馬の体についていた傷は尋常ではなかった。二度同じ経験をさせるわけにはいかない。だからこそ解決に執着する。
観察を終えると、次に井口という表札がかけられた203号室のインターホンを鳴らした。ここは202号室から見て、階段を挟んだ隣室にあたる。出てきたのは痩せた老父だった。
「どちら様?」
井口はずり落ちた眼鏡を直しながら問いかける。私は財布から一枚の紙を取り出し、提示した。
「私、こういう者でして」
「児相の佐藤さん?」
「ええ。話は中で構いませんか?」
私は半ば強引に井口宅の狭い玄関に入る。自作の偽造証票をしまって本題に入った。
「お隣さんのことで少しお話を伺いたくて」
「何が話を伺いたくてだ。今まで散々話してきただろう」
井口は眉間にしわを寄せて怒りを露わにする。私は事情を知るべく説明を促した。
「昨日も口論が響いていたよ。子供の泣きじゃくる声だって」
「虐待ですか」
「そうだと言ってきただろう」
井口が怒鳴る。こめかみに浮かぶ血管が状況の切迫具合を伝えてくれた。
「あの暴力親父もそうだが、あんたらも大概だ。本気で解決する気あるのか?通報してもちょっと子供預かってすぐ帰しちまう。何回同じことを繰り返すつもりなんだ」
「すみません」
「母親も母親だ。子供のためにならないのにあんな男にしがみついて。生活を心配しているのか知らないが、それを何とかするのが行政の仕事だろう」
「おっしゃる通りです」
井口のおかげで段々と事情がわかってくる。どうやら解決方法は一つしかないらしい。私は時間を確認して井口にお願いした。
「父親の帰宅時間はわかりますか。虐待の瞬間を現認したい」
「さあね。でも叫び声があるのは夕飯時が多い。大体はまたすぐに外出しているみたいだがな」
「わかりました。ここから録音したいと思うのですが、協力していただけますか」
私からの要望に井口は頭を掻く。断られるかと思ったが、案外すぐに頷いてくれた。
「本当に助けてやってほしい。今回はよろしくお願いしますよ」
「はい。少し準備があります。また一時間後にお伺いします」
私は深くお辞儀をして玄関を出る。階段を下りながらオーナーに電話を掛けた。
「すみません。急ですけど今日、お休みをいただけませんか。はい、そうです。よろしくお願いします」
了承が取れて大きく深呼吸をする。久しぶりの本業だった。
子供を傷つける。そんな横暴が正当化される事情は社会に存在しない。親が子の権利を部分的に握ることはあるが、それも子供の生存と幸福の追求のためであって、悪用は明確な約束違反である。現状維持はさらに多くの子供を危険に晒す。今後も平和を享受したいのなら、誰かが恐怖による支配を思い出させる必要があった。
家に帰った私は、着替えと荷支度を済ませてすぐに引き返す。その道中、コンビニで煙草とライターを買っておいた。再び203号室に赴いた時、井口は私の変わりように驚いていた。
トレンチコートを羽織ってはいるが、今の私はミニスカートにハイヒールという格好。化粧も濃く直していて、香水までつけてきた。井口は私の嘘に気付いたかもしれない。ただ、何も言ってはこなかった。
外階段から足音が聞こえたのは、午後六時半過ぎだった。注意深く聞き耳を立てていると、202号室の玄関が開く。騒音は直後から始まった。
「まただ」
そう呟いた井口をよそ目に、建前上ボイスレコーダーを回す。ただ、ここからでは会話の内容までは聞き取れない。私は外廊下に出て癌細胞に近づいた。
最初に聞こえてきたのは、やめてという女性の声だった。続いて拓馬の泣き声が鼓膜を揺さぶる。切れば血の出るような現場を前に、私は手で口を覆う。
「飯は用意しておけといつも言ってるだろ」
「すぐに準備するから」
「言われたことくらい覚えてろ。まったくお前らの馬鹿さ加減には呆れる。だからまとめて捨てられたんじゃないのか」
私は外階段の陰に隠れて息を潜める。徐々に家庭環境が明らかになってきて、私は頭の中で様々な想像を巡らせた。
「おい、それとこれから三万必要だから」
「またですか。今月はもう厳しくて」
「知るか。お前が嫌がるから悪いんだろ。金がないならまたこいつに泥棒してもらえ。五百円を交換したとか下手な嘘つきやがって。また俺に嘘をついてみろ。ただじゃおかないからな」
五百円というワードに私は唇を噛む。これが拓馬を苦しめた恐怖の正体だった。話を信じてもらえず、一方的に罰を与えられた痛みは察して余りある。
井口の言っていた通り、男はまた外出するらしい。それを待ち構えるべく、私は隣接する児童公園に移動した。日はとうに落ちた。ここの街灯は弱々しく、辺りは暗闇に包まれている。
待っている間、煙草を一本手に取ってライターの着火レバーを回す。風ですぐに消えてしまうため、コートで火を覆って煙草を近づけた。
何度か吸って煙草火を安定させる。今やこの世で最も穢れた火だ。しばらく見つめていると灰が形を崩しながら地面に落ちる。私は心の中で拓馬に謝罪した後、その火を自らの右手首に押しつけた。
肉の焼ける臭いは煙草の不快な臭いでかき消される。直後に鋭い痛みが全身を突き抜けた。歯を食いしばって声を我慢する。
これは罰だった。私がもっと賢ければ、拓馬はこの不条理な痛みを知らずに済んだ。ただ、後悔しても過去は変えられない。唯一出来ることといえば、未来を守ってあげることだけだった。
小一時間後、202号室から反逆者が姿を現す。煙草を咥えながら大股で歩くその背後から近づき、そっと声を掛けた。
「お兄さん、今からどこ行くの?」
「ん、どちら様」
「そんなの別にいいじゃん。それよりどこ行くの?」
精一杯媚びた声を出すが、さすがに怪しまれる。私は身体を押し付け、上目遣いで笑顔を振りまいた。値踏みするような下劣な視線。軌道に乗ったことを確信する。
「飲みに行くだけ」
「嘘だよ。違うでしょ」
さらに上半身を腕に寄せる。拒絶の意思はない。これまでの中でも、この男は扱いが簡単な部類だった。
「お店に行くつもりだったでしょ。私の方が安いしサービスするよ」
「こんなところに立ちんぼなんて聞いたことないけど」
「私が相手を選ぶの。ねえ、いいでしょ」
もともと金稼ぎが目的ではない。交渉は男の要望を全て受け入れる形で成立させる。ホテルは高いだけだからと、そのまま児童公園の多目的トイレに誘導した。
最初は寒くないかなどと気遣う素振りを見せていた男だが、私がコートを脱ぐと本性を露わにした。それからあっという間に一度目が終わり、持参した水筒のお茶を飲ませて休憩する。雑談と煙草が終われば二度目が始まった。
この苦痛もまた罰だった。死にゆく様子を傍観していたのは私も同じで、その責任を拓馬に支払わせたのは社会全体の罪と言える。そんな歪んだ現実を正すべく、ひたすらに耐えた。
二度目が終わると男を便器に座らせる。荒い呼吸が落ち着いていくと、男は次第に船を漕ぎ始めた。ズボンを履かせて冷たい床に誘導しても嫌がらない。横にするといびきが聞こえてきた。
飲ませたお茶には睡眠薬を溶かしてあった。速効性の高い薬を選んでいるため、効果の持続時間はそれほど長くはない。私は早速煙草を取り出した。
基本的に罰とは復讐ではない。しかし、今回ばかりは我慢できなかった。男の頭を踏みつけて右腕の袖を捲り上げる。先程より早く煙草に火をつけると、それを躊躇なく男の手首に押し付けた。その瞬間、寝ていた男が暴れ始める。
この痛みでは起きてしまうか。私は慌てて鞄から紐を取り出した。幸い、薬の効果で男の動きは鈍い。慣れた手つきで男の首に紐を回すと、背後から力一杯それを引いた。
抵抗する男に髪を引っ張られ、顔に爪を立てられる。両足は扉を壊さんばかりに蹴りつけていた。大きな音がしているが、社会が治療を望むなら誰の耳にも届かないだろう。
長い時間が経った気がする。男が脱力して数分、腕が限界を迎えて紐を放した。手袋をする余裕がなかったため、両手の皮がむけてしまった。ただし、興奮で痛みは感じない。
男を仰向けにして死亡確認を行う。その後はいつも通りの作業だった。多目的トイレは床が広く、簡単に簀巻きが出来上がる。
死体はトイレ横の掃除道具置き場に仮置きする。ビニールシートでくるまれているため、目に留まっても即座に不審がられることはないだろう。個室内は私の血で汚れてしまったため、ホースで水を撒く。男の所持品は回収し、スマホだけ側溝に捨てた。
最後に、いつもの番号に電話を掛ける。
「まったく精が出るね」
「よろしくお願いします」
「了解。だけど後処理は自分でしてくれるかな。こっちも忙しい」
「はい。それでは」
電話を切った私は手首をさする。不思議なことに火傷の痛みは心地よさに変わっていた。帰る前に拓馬を照らす部屋の光を目に焼き付ける。その後、暗い夜道を一人で歩いた。




