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第9話

 今日は雪のちらつく寒い日だった。凪のために全てを捧げるつもりでいるが、成果に繋がらない。気付けば世間の興味も、都内で起きた無差別ひき逃げ事件に移っていた。大阪でも数日前に小学生の失踪事件が起きていたが、翌日には解決していた。

 凪は今どこで何をしているのか。そんな考えの最中、常盤ひまりのことを思い出す。歩道でうずくまる彼女に男の手が伸びていた時、私は自業自得だと思った。下の行いをする者には相応の結末が訪れるからだ。

 しかし、散らばる荷物に凪のビラを見つけた時、疑問が湧いた。腐った社会ではちり紙の代わりにさえならないと言っていい。それをどうして手に取ったのか気になったのだ。

 興味を押し込めることができずに話しかけてみた結果、ひまりが聡明で優しい人間だと分かった。吸い込まれそうなほど純粋な瞳の前で、私の嘘はどれだけ通用しただろうか。頬に触れると痛みが走った。

 もしひまりも凪を探しているなら、近いうちに見つけ出してくれるかもしれない。他力本願ではあるが、そんな期待まで抱いてしまった。ひまりからは私とは違う、上の上の匂いがした。

 ただ、どんなに他人を羨んだところで自分を取り巻く環境は変わらない。下の中の人間に出来ることは泥臭いことだけだ。そう分かっていた私は、久しぶりに一張羅に袖を通して深夜のホストクラブに赴いた。

 「楓ちゃん久しぶり。急な連絡でびっくりしたよ」

 「まあね」

 「相変わらず素っ気ないなあ」

 私がルールを知らなかったばかりに、いつの間にかこの涼太という男が担当になっていた。ロン毛を東京タワーのように盛り上げて、様々な装飾品を貧相な身体に飾り付けている。そばにいるだけで疲れる男だが、口が軽い点では気に入っていた。

 席について適当にドリンクを注文する。その後、無価値な雑談を済ませると本題に入った。

 「最近、変な客来てない?」

 「またその話っすか。駄目なんすよ、他の子のこと話すのは。前に教えた子は急に来なくなっちゃったし」

 こうした下手な口上は無視する。案の定、涼太は困った顔で私の様子を窺ってきた。

 「また酒入れてくれます?」

 「話したら持ってきていいよ」

 最近になって涼太は交渉を身につけた。もとより、私もその代金含めて情報代だと承知している。交渉が成立すると、涼太は身を寄せて声を落とした。

 「あの向かいの子、他の店では結構有名で、出禁になったところもあるらしいっす」

 「それで?」

 「聞いた話だとシンママだとか。今頃子供は何してるんでしょうね。ちょっと、ガン見はまずいっすよ」

 私の席からだと後ろ姿しか見えない。それでも第一印象は普通だった。白のブラウスに黒のワイドパンツ、ハンガーにはジャケットがかかっていて、風貌はキャリアウーマンそのものである。

 ただ、観察していると、声が大きくホストへの接触も多いことが分かってくる。接客している男は明らかに迷惑していた。

 約束通り、値段だけ張る不味い酒を入れて、すぐに会計する。私が稼いだ金は、最低限の生活費以外こうした活動と死体処理に充てられる。こんな安月給でも子供の未来を守れるのだから有難い。

 退店した私は少し離れた駐車場で待機する。明らかに下な男に声を掛けられ、それを適当にあしらっていると例の女が現れた。かなり酔っているようでホストに肩を抱えられて店から出てくる。そんな優しさにも罵声を浴びせていた。

 燃えるゴミのように道の端に捨てられた女は、一人になった後もしばらく夜風に当たっていた。数分後、ジャケットを羽織っておもむろに帰路につく。途中でタクシーに乗り込んだため、私も慌ててタクシーを拾ってその後を追った。

 住まいは何の変哲もないアパートだった。部屋の場所を確認した後、私は乗ってきたタクシーで一度帰宅する。運転手には酒癖の悪い友人の帰宅を見届けていたと嘘をついた。

 数時間の仮眠を取り、早朝再びアパートに戻る。涼太が話したことの信憑性はまだ判然としない。まずは子供の確認からだった。

 外見から女の年齢を推測すると、子供はまだ幼いと予想できた。未就学児ならば女が連れ出すだろう。小学生なら一人で登校するかもしれないが、最寄りの小学校までの距離からその時刻に目星はついていた。

 七時頃、まずは女が一人で出てきた。昨日とは違うオフィスカジュアルな格好をしていて、やつれた顔で駅の方角に消えていく。職場を押さえるか迷ったが、子供の確認を優先することにした。

 子供の有無にかかわらず、良識的な範疇でのホスト通いは個人の自由である。大抵そんな母親はろくでもないと偏見を持っているのは私で、それは単なる経験則でしかない。

 問題となるのは子供が痛みを押し付けられる状況であり、その時は私の出番となる。ただし、ストレスを抱えた親を支援する役割は、本来社会が果たさなければならない。最近はその辺りの境界が曖昧になっていて、判断に困る事案が増えていた。

 女の外出後、なかなか動きが見られない。予想していた登校時間も過ぎて、不正確な情報だったかと思い始めていたところ、注視していた扉が開く。出てきたのは黒のランドセルを背負った男の子だった。

 玄関を施錠し、とぼとぼ歩く姿に元気はない。同年代の子と比べて体が細いように見え、どうしても悪い予想が先行した。子供を想うあまり、私の思考は時折望まぬ方向に歪んでしまう。今は具体的な証拠が必要だった。

 小学校まで男の子を見届ける。流石に校内には入れないため、下校は午後三時頃だろうと考えて、空き時間は凪の捜索に充てた。時間通りに戻ってくると、近くのマンションに侵入して屋上に腰を据える。以前、小学校の周辺を徘徊していたところ不審者扱いされたため、最近はこうした対応を取っている。

 低学年から下校が始まり、緑のベストをつけたボランティアが旗を持ってその列を見守る。目を凝らすこと三十分、ようやく男の子が現れて私は階段を駆け下りた。

 最初は友達と下校していたが、途中で別れて一人になる。歩く方角がアパートと違っていることを不思議に思っていると、最寄りのスーパーマーケットに入っていった。

 親が多忙な場合、子供が自分で食事を賄うことも多い。実際、男の子はまっすぐ総菜エリアに向かう。そして当たり前のように、おにぎりをポケットにねじ込んだ。

 その慣れた手つきに驚いた私だったが、事情は何となく想像がついた。この場にいない誰かに怒りを覚えるが、目下の問題はこの状況をどうするべきかである。退店を許せばこの子にまた一つ、社会の罪を押し付けることになってしまう。

 「ちょっと」

 男の子がお菓子コーナーに入った時、私は声を掛けた。目が合った瞬間に逃げようとしたため、腕を掴んで諦めさせる。蛍光灯のように青白い腕は、今にも砕けてしまいそうだった。

 「盗ったもの返そう。今なら間に合う」

 男の子は真っ青な顔で硬直している。私は店員に気付かれる前におにぎりを回収し、元の陳列場所に戻す。そして一緒に退店した。

 「どうしてあんなことしたの?」

 男の子を近くの公園まで連れていき、事情を聞く。本人の口から確認を取るための儀式だった。

 「お金は?悪いことの区別はつくでしょ」

 男の子が唇を噛む。そんなこと分かっているとでも言いたげな表情をしていたが、力なく私を睨みつけるだけにとどまる。私は口調を和らげて視線を合わせた。

 「おなか空いてるの?」

 首が縦に動く。その後、無一文であることも白状した。

 「少し歩いた先にこども食堂がある。そこに行ってみよう」

 「嫌だ」

 前にも似た境遇の子供と会ったことがある。その時と同じ提案をしたところ、明確な意思が返ってきた。元気そうな声に安堵する。

 「怖いところじゃない。優しい人が美味しい料理を作ってくれるの」

 同意を得るまでに一分ほどかかった。結局、人間は空腹には抗えない。

 「まだ名前聞いてなかったね。私は馬路愛莉。あなたは?」

 「妻鹿幸太郎」

 「幸太郎君、よろしくね」

 道中、他愛のない雑談をする。最初は嫌がる様子も見せていたが、学校での出来事に話題が移ると楽しそうに話してくれた。聞くべき人間が義務を放棄しているのかもしれず、私はその分まで真剣に耳を傾けた。そうこうしていると目的地に到着する。

 ここは定食屋を営む店主が厚意で運営しているこども食堂だった。方法論は私と異なっているが、同じ理想を目指す稀有な存在と言えるだろう。暖簾をくぐると、割烹着を着た中年女性が厨房から顔を出す。胸には安藤と書かれた手製の名札がぶら下がっていた。

 「あら、妻鹿君久しぶり」

 安藤の顔が一瞬曇ったのは、幸太郎が痩せこけていたからか。ただ、すぐに温かい笑顔を作って歓迎してくれる。店内には他にも数人の子供がいた。

 「あなたは?」

 「幸太郎君が困っているのを見て、連れてきました」

 「そうでしたか。ありがとうございます。すぐに準備するからね」

 幸太郎は分かったと言って、教育番組が流れるテレビの前に移動する。直後、私は小声で安藤に呼ばれた。

 「幸太郎君とはどこで」

 「スーパーで万引きするところを見かけまして。空腹だったんだと思います」

 出会った経緯を説明すると、安藤は深刻そうな顔で溜息をつく。そして私に頭を下げた。

 「ありがとうございます。幸太郎君は以前もここに来ていました。母親と二人暮らしなのですが、あまり食事を準備してもらえないようでして。最近は顔を見ていなくて心配していました」

 「どうしてそんなことに?」

 「噂では母親が夜遊びにお金を費やしているとか。世間体を気にする人でもあって、幸太郎君がここに通っていることを知ると、みすぼらしいからとやめさせたこともあります」

 理不尽な話だった。親の義務を果たさないばかりか、苦痛を強いるなど度し難い。体の奥底から怒りが沸々と湧き上がってくる。約束に従わない人間は排除されなければならない。それがこの社会の原則である。

 提供されたのは、麦ご飯に味噌汁、千切りキャベツと唐揚げの定食だった。幸太郎は律儀にいただきますと手を合わせ、真っ先に唐揚げを頬張る。

 「食事は毎日取るものですから、私たちは解決を先延ばしているだけです。最近はお米の値段も上がって、活動の継続も難しくなっています。けれど、あの顔を見るとやめられませんね」

 「幸太郎君、どうにかならないんですか」

 「前に学校から掛け合ってもらったのですが、その時は家庭に干渉するのは難しいと。でも今度ばかりは私たちからも動いてみたいと思います」

 それであの母親が改心すれば良いが、現実はそんなに甘くない。私は食事を取る幸太郎を眺めつつ、その時のことを考えた。家族とはかけがえのない存在だが、苦痛を我慢してまで守るべき代物ではない。

 そろそろ仕事の時間だ。そう思って立ち上がると、食事を終えた幸太郎がやってくる。直前に安藤から何か耳打ちされていたのは見ていた。

 「今日はありがとう」

 「お腹いっぱいになった?」

 幸太郎が力強く頷く。そして、ポケットから何かを取り出した。

 「あげる」

 「いいの?ありがとう」

 それは折り紙で作られたクローバーだった。普通の折り紙ではない。半透明で艶のあるプラスチック製のもので、淡い緑色が光を反射して美しい。

 「綺麗だね」

 「前にお母さんが買ってくれたやつ。作り方も教えてくれた」

 「大切なんじゃないの?」

 「うん。だからあげる」

 幸太郎はそう言って笑う。安藤も嬉しそうに幸太郎の頭を撫でていた。気持ちとは裏腹に、私だけが心からの笑顔を作れない。

 「ありがとう。大切にするね」

 頷いた幸太郎はその場を離れ、他の子供たちに混ざって再びテレビに釘付けとなる。私はクローバーを手のひらに乗せる。心を奪われるまでに時間はかからなかった。

 「幸太郎君、お母さんのことが大好きなんです。だから不満をなかなか言い出せない。たった一人の家族だから当たり前ですよね」

 「どうか助けてやってください」

 私はなんとか言葉をひねり出す。そして、安藤に会釈すると逃げるように店を後にした。

 私では幸太郎を幸せにできない。そう気付いた時、これまでの行いが本当に子供のためになっていたのか不安になった。

 反逆者を社会から排除する。これは不可逆的な行為である。後になって子供がその存在を求めたとしても、決して叶えてあげることができない。もし私の行動で涙を流した子供がいたとしたら。背筋が凍り付く想像だった。

 それではこの重篤な患者をどのように治療すべきか。私は自らの役目を見つめ直す。これは犯罪者の矯正でもなければ、幼稚な復讐劇でもない。全ては輝かしい未来を再び取り戻すためであり、社会がそれを要請する以上、多少の約束違反には目を瞑ってもらう必要があった。

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