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第13話

 凪の助けてという声を聞いた時、力が無尽蔵に溢れ出し、再会を果たした時は人生で一番の喜びを感じた。あの日より少し伸びた髪と痩せた体。疲れ切った顔がほころぶのを見て、これが救済なのだと悟った。

 強く抱き締めると、凪が同じだけの力で求めてくる。しかし、幸せな時間は続かない。

 犯人と思しき男が非常階段から姿を現し、私たちは天国から一転、絶体絶命に陥った。にじり寄る男の目は殺意に染まっている。私は凪を背中に隠して守り通す決意を見せた。

 武器になるようなものは持っていない。それでも、怯える凪の息遣いを感じて覚悟を決める。目玉を抉り出し、二度と凪を見つけられないようにしよう。そう考えた。

 そんな時、背後でガチャンと音がする。凪を鼓舞していた私は、不意に名前を呼ばれて振り返った。

 この階でエレベーターは使えない。そのはずが真っ暗闇からひまりが現れる。その瞬間、ひまりはこの社会を理想に導く尊い存在なのだと確信し、これもまた救済なのだと理解した。新しい逃げ道が与えられたため、私は凪を引いて走る。背後で男が唸り声を上げた。

 「直樹、お願い」

 ひまりの声に合わせて直樹が出てくる。その顔は恐怖に支配されていたが、私と同じ覚悟も内包していた。すれ違いざまに感謝する。

 「先に下りて」

 ひまりに言われるがままエレベーターシャフトに飛び込む。かごの中に着地した私は、体勢を崩して頭を壁にぶつけた。その間にも凪の足が天井から下りてくる。

 「受け取って」

 ひまりから凪を受け取り、しっかりと抱き締める。今やエレベーターは機能しておらず、扉の前では中年の男女が茫然と立ち尽くしていた。私は彼らを押しのけ、凪と非常階段に走る。この瞬間、追跡者がひまりへと変わった。

 飛ぶように階段を下りて地上に出ると、人混みに紛れるべく駅に向かう。しかし、振り返った時にはもう、ひまりの手が眼前に迫っていた。

 「止まれ」

 「凪ちゃんをお願い」

 私は凪の手を離す。長期間監禁された上、急に走らされて疲れただろう。その場に立ち止まった凪はひまりに保護される。これで時間を稼げると思ったが、顔を血で汚した直樹がひまりと合流した。

 凪が直樹に託され、再びひまりが全力疾走で追ってくる。逃げきれないと悟った私は多摩川に向かうことにした。滑稽な逃走劇は人気のない土手の上で終わりを迎える。

 「愛莉」

 温かい手が肩に触れる。凪も同じ気持ちだっただろうか。ひまりと向かい合った私は自然と笑顔になった。

 「疲れました。あのベンチに座りませんか」

 ひまりの肩は全く上下していない。鋭い三白眼が私の心を貫き、掴んで放さない。二人でベンチに座ると、まずは冷たい夜風で熱を冷ました。

 「ひまりさんも来てくれたのですね」

 「一歩遅れたけど」

 「助かりました」

 ひまりの雰囲気は怖い。私を反逆者だと非難しているようで、その気高く美しい哲学に思わず見惚れてしまう。

 「西浦賢人を殺したのはあなたね」

 「拓馬君の父親ですよね。はい、そうです」

 嘘は約束の反故に繋がる。正直に認めると、ひまりは唇を噛んだ。私一人で抱えるはずだった罪がひまりにまで伝播している。

 「あいつは拓馬君を傷つけた。ひまりさんはあの火傷を見ましたか。どうして社会の宝に傷をつけられるのでしょう。おぞましい悪です」

 「殺人は違うというの」

 私は首を横に振る。ひまりに私の哲学を話すことは憚られる。それでも知ってほしい気持ちが勝った。

 「本当は社会が解決すべきでした。私たちに約束を強要しているのですから。でも、出来ないというのなら誰かが代わりを務めないといけない」

 「独裁者にでもなったつもり?」

 「不完全を補っただけです。子供が傷つく未来を虐待者の死と交換しました」

 それを聞いた瞬間、ひまりは嫌悪感を示す。心臓を鷲掴みされたような苦しさに思わず喘ぐ。

 「あなたの言う約束は殺人も禁止している。そうした権利は全て預けてしまったのよ」

 「同時に社会も責務を負いました」

 「ええ。確かに今の社会は完璧じゃない。けれど、愛莉は空いた穴をいたずらに広げただけ。児童虐待者と変わりない」

 「価値観の違いだと思います。私は子供の未来を守りたかった。それが社会を理想に戻す唯一の方法ですから」

 「間違ってるわ。愛莉が頼る哲学も私人の権力濫用を許していない。自らを正当化するためだけの言い訳だって気付かない?」

 分かり合えるとは思っていなかった。私の拠り所は簡単に切り裂かれ、反論の余地も与えられない。ただ、こんな結末さえ私が望んだ未来だったのかもしれない。

 「私はこの社会が好き。だから愛莉を許せないし、罰は受けてもらう。でもそうすれば、救われるはずだった子供は傷つけられるでしょうね。分かっていてそうするの。私は悪者?」

 「いいえ、決して。ひまりさんの愛する社会では私が悪者です」

 「愛莉もその一員だってことを忘れないで。あなたが救った子供も、殺した誰かも、みんな」

 「素晴らしい考え方です。いつかの夢で私も見た気がします」

 手を伸ばしてもひまりに届かない。それでも、子供に対する庇護欲とひまりに対する尊敬が同一だと気付いて嬉しくなった。いずれは社会の罪を肩代わりするつもりだった。ひまりに捕まってその時が訪れたのだと思ったが、やっておくべきことが一つ増える。

 「ひまりさんのような人がいれば、理想が現実になる日も近い。全ての子供が苦しみを強いられない当たり前の社会が」

 金属の擦れる音が響く。私がベンチから立ち上がると、ひまりも腰を浮かせる。しかし、その腕は手錠でベンチと繋がれていた。

 「愛莉」

 「私はひまりさんが好きです。本当はもっと一緒に居たかった」

 「これ外して。私を頼ってほしい」

 ひまりの声が悲痛に満ちていく。優しい人だ。これ以上私に罪を重ねてほしくないのだろう。しかし、その慈愛もまた危険だった。社会の宝を食らうけだものの好物である。

 「ひまりさんは私が守ります。今、危険な男に狙われていますから」

 「それって、あのコンビニのオーナー?」

 「ああ賢い。そうです。保身のためにひまりさんを殺すつもりでいます。その前に私が殺さないと」

 「待って」

 手錠の鍵を投げると、ぎりぎりひまりの手が届かない場所に落ちる。私は藻掻きながら叫ぶひまりにさよならを告げた。

 今度は一人で夜道を走る。ただ、すぐに胸が苦しくなって、立ち止まっては歩くを繰り返した。私はもはや社会にとって用済みの存在だ。身を捧げた過程は関係ない。腕の悪い医者はいずれ首を切られる。

 私はスマホを取り出して電話をかける。忙しくて出てくれないかもしれない。そんな罰さえ受け入れる覚悟でいた。しかし、一年ぶりの優しい声が鼓膜を揺さぶった。

 「なんや、急に電話なんかしてきて」

 「久しぶり」

 独特の関西弁がなんとも懐かしい。女手一つで私を育ててくれた母。私はとんだ親不孝者になってしまったが、何も知らない声は喜んでいた。そんな母の未来を想像すると息が詰まる。

 「愛莉?どないしたん」

 「ごめんなさい。ごめんなさい」

 考えていた言葉は全て吹き飛び、ただ謝ることしかできない。母は静かに受け止めた後、提案した。

 「何があったか聞かへん。だから、一回帰ってきたらどうや。あんたの好きな肉じゃが、また作らせてや。一人やと作りがいないねん」

 母はそれから身の回りのことを色々と話し始めた。悪い予感がしたのだろう。私は口を手で押さえる。静かに聞いているだけで精一杯だった。

 「もう会えないかもしれない」

 母の話が終わると、私は本題に入った。母の吐息が耳にかかる。馬鹿言うなと叱責してほしかったが、短い沈黙の後、母はそうかと呟いた。

 「あんたは昔から手のかからん子やった。夜泣きもせんから楽させてもらったなあ。それでいて、生活は我慢させてばかり。親らしいこと何もしてあげられんかった。鳶が鷹を生むのも良いことばかりやないな」

 「そんなことない」

 「でもな、ほんま自慢の娘やで」

 母のすすり泣く声が聞こえる。親を泣かせたことなんて今までにあっただろうか。気持ちが変わってしまう前に私は頭を下げる。

 「私のこと忘れてほしい」

 「忘れるかいな。あんたのこと一番よう知ってんのはおかあや。いつでもあんたの味方なんやで」

 「さようなら」

 半ば強引に電話を切る。そして、スマホの電源を落とすなりポケットの奥にねじ込んだ。脳裏によぎる昔の記憶。今の私には触れることさえ許されない気がした。

 これまでの献身に意味はあったのか。機械人形の手術を請け負ったのは、決して大切な人を悲しませるためではなかったはずだ。ただ、もう後には戻れない。気が付けば、私は列の先頭に立っていた。

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