[時効の完成猶予]現場編 内容証明は魔法の杖じゃない
人は、「書留」という言葉に弱いです。
普通郵便より強そう。
簡易書留なら、さらに強そう。
内容証明郵便までいくと、もはや封筒の中から弁護士が飛び出してきそうな迫力があります。
でも。
内容証明郵便には、相手を洗脳する力もなければ、借金を永久保存する冷凍機能もありません。
ましてや、
「これを送ったから、時効は止まった!」
などと言いながら半年以上放置するのは――。
かなり危ないです。
「止めてくれえええええ!」
朝九時十二分。
大槻不動産のガラス戸が、割れそうな勢いで開きました。
「うわっ!」
私は思わず湯飲みを落としかけました。
飛び込んできたのは、禿げ上がった頭に汗を浮かべた五十代くらいの男性です。
胸元から茶封筒を三つ、新聞の切り抜きを二枚、なぜか数珠まで覗いています。
情報量が多い。
「大槻さん! いるか! 助けてくれ!」
「朝から元気ですね」
私が言うと、男の人は机に両手をつきました。
「元気じゃない! 二百四十万円が消える!」
「それは元気なくなりますね」
「栞」
奥から真壁さんが顔を出しました。
「お前、客の金が消えかけてるのに感想が軽いぞ」
「まだ状況が分からないので、重量を合わせられません」
「そういう問題じゃねえ」
その後ろから、大槻所長がゆっくり現れました。
いつものように紺の背広。
いつものように無表情。
そして、なぜかこの人が出てくると、さっきまで台風だった客が急に低気圧くらいになります。
「座ってください、野村さん」
「あ、ああ……」
どうやら顔見知りらしい。
野村さんは、この町でアパートを二棟持っている大家さんでした。
その一室を借りていた男が、長年にわたって賃料を滞納しているらしい。
「いくらです?」
真壁さんが聞く。
「二百四十万」
「よくそこまで溜めましたね」
「俺だって好きで溜めたんじゃない!」
でしょうね。
借金は梅酒ではありません。
寝かせても美味しくならない。
「相手は?」
「佐伯だよ。五年前まで駅裏の俺のアパートにいた」
「五年前?」
所長の眉が、ほんの少し動きました。
私はその数字に引っかかりました。
五年前。
賃料。
請求。
嫌な単語が、頭の中で勝手につながる。
「それで、今まで何を?」
所長が聞きます。
「請求してたよ!」
野村さんが勢いよく茶封筒を出しました。
「ほら! 内容証明!」
机に置かれた封筒。
差出日は――。
半年前。
正確には、五か月と二十七日前。
「……」
私は無言でカレンダーを見ました。
あと三日。
「野村さん」
「なんだ?」
「これを送ったあと、何かしました?」
「何かって?」
「佐伯さんから返事は?」
「ない」
「裁判は?」
「してない」
「差押え?」
「してない」
「支払督促?」
「してない」
「もう一回請求は?」
「電話はした」
「佐伯さん、何て?」
「出ない」
私は両手で顔を覆いたくなりました。
真壁さんが私の顔を横から覗き込みます。
「なんだ、その顔」
「崖から落ちてる人が、まだ空中だから大丈夫って言ってるのを見てる顔です」
「そんなにか」
「かなりです」
野村さんが青ざめました。
「おい。どういう意味だ」
私は内容証明を指差しました。
「野村さん。これを送ったことで、少しだけ時間は稼げています」
「ほら!」
野村さんが真壁さんを見ました。
「俺の言った通りだ! 時効は止まってる!」
「でも」
私は続けました。
「永久には止まりません」
「……え?」
「この内容証明による請求だけなら、基本的には六か月です」
野村さんの口が開いたまま止まりました。
「ろく……?」
「六か月」
「半年?」
「はい」
「……もう半年じゃないか!」
「あと三日あります」
「三日!?」
声が裏返りました。
朝から喉に悪そうです。
前世の私は、宅建の問題集で何度もここを間違えました。
催告。
内容証明郵便などで、
『払ってください』
と請求する。
すると時効の完成は、一定期間、待ってもらえる。
でも。
時計そのものが新品になるわけじゃない。
時間稼ぎ。
これが完成猶予。
一方。
裁判で権利が確定したり、債務者本人が借金を認めたりする。
すると、それまで積み上がっていた時効期間がリセットされ、新しく走り出す。
時計のリスタート。
これが更新。
前世では、
『猶予は休憩、更新はリセット』
と覚えていました。
ところが現実の人間は、試験問題みたいに親切ではありません。
選択肢に、
ア 完成猶予
イ 更新
なんて書いてくれない。
二百四十万円だけ置いて、泣きながら事務所に飛び込んでくるのです。
「じゃあ、もう一回内容証明を送ればいいだろ!」
野村さんが立ち上がりました。
「六か月追加だ!」
「それは駄目です」
「なんでだ!」
「催告を重ねて、六か月ずつ永久延長することはできません」
「じゃあ内容証明って何なんだ!」
「時間を買うものです」
私は言いました。
「問題を解決するものじゃありません」
事務所が静かになりました。
所長が、私をちらりと見た。
「その通りだ」
低い声でした。
「催告は、本番の手続までの猶予を作るものだ。送って安心して寝るための紙じゃない」
野村さんが椅子に沈みました。
「そんな……」
「相手の住所は分かりますか?」
真壁さんが聞きました。
「分かる。隣町だ」
「勤務先は?」
「……たしか、石川建材」
「まだ勤めてるか?」
「知らん」
真壁さんは電話帳を引き寄せました。
昭和六十三年。
インターネットなし。
検索エンジンなし。
SNSなし。
人探し一つとっても、現代なら検索窓に名前を入れるところから始まるのに、この時代は電話帳と人脈と足です。
不便。
でも、こういう時の真壁さんは妙に強い。
「石川建材……あった」
指で番号を追い、黒電話を持ち上げます。
「もしもし、大槻不動産ですが――」
三分後。
「いる」
真壁さんが受話器を置きました。
「佐伯、今日も出勤してる」
野村さんが立ち上がります。
「行く!」
「待ってください」
私は止めました。
「行って何をするんです?」
「金を払えって言う!」
「それ、半年前にもやりましたよね」
「……」
「また『払え』だけで帰ってきたら、今日が昨日になるだけです」
「じゃあどうする!」
私は考えました。
裁判上の請求に進む。
それが一番確実な筋。
ただ、残り三日。
しかも、これは不動産屋の通常業務ではありません。
弁護士でもない私たちが、訴訟代理なんてできるはずもない。
所長が静かに言いました。
「野村さん。今日は佐伯本人と話をする」
「話してどうする?」
「まず事実を確認する」
そして所長は、私を見ました。
「栞」
「はい」
「もし佐伯が借金を認めたら?」
来た。
試験問題なら、ここでチャイムが鳴ります。
「承認です」
「それで?」
「時効が更新します」
野村さんが私を見る。
「……更新?」
「今まで進んでいた時効の時計が、そこでゼロに戻ります」
「ゼロ?」
「はい」
私は指で机に丸を書きました。
「今まで何年進んでいても、債務があることを本人が認めれば、その承認を基準に新しく時効期間が走り始めます」
「じゃあ、佐伯に『借金あります』って言わせればいいのか!」
「言わせる、じゃありません」
所長が低く言いました。
野村さんが黙る。
「脅して言わせたら意味が違う。本人が事実として認めることだ」
「……」
「払えないなら払えないでいい。まず話を聞く」
野村さんは、しばらく黙っていました。
さっきまで二百四十万円しか見えていなかった顔が、少しだけ人間の顔に戻っていきます。
「……分かった」
「真壁」
「車出します」
「栞も行け」
「私も?」
「お前が一番、この六か月の怖さを分かってる顔をしてる」
「褒められてます?」
「たぶんな」
たぶんか。
石川建材は、町外れの資材置場にありました。
コンクリート管。
砂利。
鉄板。
灰色のものばかり並んでいて、空まで少し灰色に見えます。
事務所から出てきた佐伯さんは、五十歳くらい。
日に焼けて、作業服の袖が白く粉っぽくなっていました。
野村さんを見るなり、顔が固まります。
「……なんだよ」
「佐伯」
「会社まで来るなよ」
「お前が電話に出ないからだろ!」
「野村さん」
所長の一声で止まります。
すごい。
人間用のサイドブレーキです。
所長が一歩前へ出ました。
「大槻不動産です。少しだけ時間をください」
「不動産屋まで連れてきたのか」
「代理人ではありません。事情を整理しに来ただけです」
佐伯さんは露骨に嫌な顔をしたものの、帰りはしませんでした。
工場の脇にある古いベンチで話すことになりました。
「二百四十万円」
野村さんが言いました。
「お前、忘れてないよな」
「……」
「佐伯!」
「忘れてねえよ!」
声が響きました。
資材置場の奥で、誰かが振り返る。
佐伯さんは顔を伏せました。
「忘れられるわけねえだろ」
その声は、怒鳴り声というより、潰れた声でした。
「じゃあ払えよ!」
「払えるなら払ってる!」
「五年だぞ!」
「分かってる!」
また声がぶつかります。
私は黙って二人を見ました。
借金の話になると、人は数字になります。
二百四十万円。
五年。
六か月。
三日。
でも。
数字の向こうには、たいてい事情があります。
佐伯さんの奥さんは、数年前に病気で亡くなったそうです。
治療費。
仕事を休んだ期間。
その後、勤めていた会社も倒産。
家賃を溜めたまま夜逃げ同然で部屋を出た。
今の会社に拾われて、ようやく生活が安定してきた。
「逃げたのは悪かった」
佐伯さんが言いました。
「それは認める」
野村さんは黙っています。
「家賃を払ってないのも分かってる」
私は息を止めました。
真壁さんが、ちらりと私を見る。
そこです。
でも、まだ黙る。
「二百四十万だったか?」
「……そうだ」
「全部一気には無理だ」
佐伯さんは膝の上で拳を握りました。
「でも、借りた部屋の家賃を払ってないのは俺だ。なくなったことにするつもりはない」
野村さんの顔が変わります。
さっきまで、
『払え』
しかなかった目に、別の色が混じった。
「じゃあ……」
「月三万なら」
「三万?」
「今なら払える」
「……」
「少ねえのは分かってる。でも、逃げない」
風が、資材置場の砂埃を少し舞い上げました。
野村さんは長く黙っていました。
そして。
「五万」
「無理だ」
「四万」
「……」
「四万なら、俺も待つ」
佐伯さんが顔を上げました。
「四万……」
「その代わり、遅れる時は連絡しろ」
「……分かった」
「電話から逃げるな」
「ああ」
「俺だって鬼じゃねえ」
いや。
朝九時十二分には、だいぶ鬼でしたけど。
そこは言わないでおきます。
所長が口を開きました。
「では、話した内容は書面にしておきましょう」
二人が頷く。
私は胸の奥で、ようやく息を吐きました。
佐伯さんは、賃料債務が存在することを明確に認めた。
しかも支払いの話までしている。
承認。
時効の更新。
たった数分前まで、野村さんは、
『内容証明を出したから大丈夫』
と思っていました。
でも本当に必要だったのは、紙を送って時計を一時停止させることだけではなかった。
その時間の中で、次の一手を打つことだったのです。
帰りの車。
真壁さんが運転しながら言いました。
「なあ栞」
「はい」
「今日のあれ、つまりどういうことだ?」
「何がです?」
「内容証明と、佐伯の『払う』は何が違う」
私は窓の外を見ました。
田んぼの向こうを、赤い軽トラックが走っています。
「内容証明は、時計の前に手を置いて『ちょっと待って』って言う感じです」
「ほう」
「でも、手をどけたらまた進む」
「じゃあ承認は?」
「時計を新品に交換です」
真壁さんが笑いました。
「ずいぶん景気いいな」
「時効の時計屋です」
「そんな店は嫌だな」
「私も入りたくありません」
後部座席で、野村さんがぼそっと言いました。
「俺はずっと、内容証明ってのは相手をびびらせるもんだと思ってた」
「それも多少はありますけど」
「違うのか」
「本当の価値は、自分のために時間を作ることだと思います」
「自分のため?」
「はい」
私は振り返りました。
「その六か月で、裁判するのか、話し合うのか、相手が認めるのか。次へ進まないと意味がない」
野村さんは窓の外を見ました。
「……俺も半年、何もしてなかったな」
「してませんね」
「栞」
真壁さんが咳払いしました。
「そこはもう少し柔らかく言え」
「半年ほど熟成させましたね」
「悪化したぞ」
野村さんが、初めて笑いました。
事務所に戻ったのは昼過ぎでした。
私は机に座るなり、ノートを開きました。
まだ法律の詳しい整理は後でいい。
でも、今日のことだけは忘れないうちに書いておきたかった。
完成猶予。
時計はまだゼロに戻っていない。
ただ、一定期間、ゴールするのを待ってもらえる。
更新。
それまでの時間をリセットして、また最初から始まる。
私はその二つの間に、大きく一本線を引きました。
「何してる?」
真壁さんが缶コーヒーを片手にやってきます。
「今日の復習です」
「また始まった」
「大事なんです」
「試験でも出るのか?」
「めちゃくちゃ出ます」
「未来の試験事情を断言するな」
しまった。
「勘です」
「お前の勘は法律用語を使うのか」
鋭い。
前世バレの危機は、いつも些細なところから始まります。
そこへ所長が電話を置きました。
「野村さんからだ」
「何かありました?」
「佐伯から、もう四万円振り込まれたそうだ」
「えっ、今日?」
「ああ」
真壁さんが口笛を吹きました。
「早いな」
私は少し笑いました。
たぶん。
佐伯さんにとっても、ずっと重かったのだ。
払えない借金。
出られない電話。
見たくない封筒。
そういうものは、逃げれば逃げるほど大きくなります。
今日、金額はまだほとんど減っていない。
二百四十万円が、二百三十六万円になっただけ。
数学的には、ほぼ同じです。
でも。
人間にとっては、全然違う。
「栞」
「はい?」
所長が言いました。
「今日の件、覚えておけ」
「完成猶予と更新ですか?」
「それもだ」
所長は少しだけ笑いました。
「期限がある話ほど、人は期限ばかり見る」
「……?」
「三日しかない。六か月しかない。五年経った。そういう数字に追われる」
私は黙って聞きました。
「だが、法律がくれた猶予ってのは、ただ日数が増えたって話じゃない」
所長は机の上のカレンダーを指しました。
「その間に、人間が何かするための時間だ」
私はノートを見ました。
完成猶予。
さっきまでは、
『時効完成が一定期間延びること』
としか思っていなかった言葉。
でも今日、それは少し違って見えました。
話すための時間。
訴えるための時間。
整理するための時間。
逃げるのをやめるための時間。
「所長」
「なんだ」
「たまに、いいこと言いますね」
「たまに?」
「栞、お前は所長に対する命知らずの更新を繰り返してるな」
真壁さんが言います。
「何ですか、それ」
「怒られるまでの時間を毎日ゼロに戻してる」
「そんな時効ありません」
「今、完成したぞ」
所長が言いました。
「すみませんでした」
即時援用しました。
夕方。
私は事務所の窓から、赤く染まった駅前を眺めました。
昭和六十三年。
まだ携帯電話も、インターネットもない時代。
連絡が取れない。
居場所が分からない。
書類一枚送るにも時間がかかる。
そんな時代だからこそ、六か月という時間は、今よりずっと長くて、今よりずっと短いのかもしれません。
私はノートの端に、一行だけ書きました。
――猶予は、安心するためにもらう時間じゃない。
――次の一手を打つためにもらう時間だ。
そして、その下にもう一つ。
内容証明は、魔法の杖じゃない。
「栞」
「はい?」
「野村さんから」
真壁さんが紙袋を机に置きました。
中を見る。
みかん。
大量のみかん。
「またですか」
「礼だってよ」
「昭和の人、感謝を重量で表す文化ありません?」
「嫌なら俺がもらうぞ」
「嫌とは言ってません」
私は紙袋を抱え込みました。
「完成猶予します」
「何を?」
「真壁さんにあげるかどうか」
「じゃあ半年待つ」
「その間に全部食べます」
「猶予になってねえ!」
事務所に笑い声が響きました。
今日、救えたのは二百四十万円だったのか。
野村さんの権利だったのか。
佐伯さんが逃げ続ける人生だったのか。
たぶん、その全部です。
時効という言葉は、何となく冷たい。
時間が来れば切る。
期間が過ぎれば終わる。
そんな機械的な制度に見える。
でも。
その途中には、ちゃんと「待つ」という仕組みがある。
そして、もう一度「始める」という仕組みもある。
私はみかんを一つ剥きました。
甘かった。
法律も、たまにはこういう味がする。
……ただし。
内容証明を送って半年放置した大家さんには、かなり酸っぱかったでしょうけど。
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