[被補助人]現場編 守られる人から、決める権利まで奪うな
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人を守る制度というものは、ときどき、使い方を間違えると檻になります。
危ないから外へ出るな。
失敗するかもしれないから自分で決めるな。
あなたのためだから、こちらで決めておいた。
言っている本人には、たぶん悪気がありません。
だから余計に厄介です。
親切という名札をつけたお節介は、断る側が悪者になりやすい。
そして土地が絡むと、そのお節介にゼロが何個か増えます。
「この人は被補助人なんですから、本人に聞いたって仕方ないでしょう」
その言葉を聞いた瞬間、私は持っていたお茶を危うくこぼしかけました。
午後二時。
大槻不動産の応接机。
私の目の前に座っているのは、紺色の背広を着た五十代くらいの男性です。
名前は三浦昭夫。
その隣には、灰色の髪をきれいにまとめた女性が座っていました。
星野芙美子さん、六十二歳。
今回売却予定になっている、駅から徒歩十二分の土地建物の所有者です。
木造二階建て。
一階が小さな貸店舗。
二階が住居。
築年数はそれなりですが、商店街から一本入った場所で、土地の形も悪くない。
売値は3,200万円。
そして三浦さんは、芙美子さんの甥でした。
「叔母はね、こういう難しい話はよく分からないんですよ」
三浦さんが困った人を扱うような笑顔で言います。
「ですから売却の話は、私と補助人の先生で進めています」
「……私、売りたくないって言ったでしょう」
芙美子さんが小さく言いました。
三浦さんは聞かなかったことにしました。
「最近は物忘れもありますしね。病院にもかかってる。家庭裁判所で補助まで付いてるんです。本人の言うことをいちいち真に受けてたら話が進みませんよ」
うわあ。
私は心の中で両手を頭に当てました。
その言い方は、まずい。
ものすごくまずい。
そして何より――。
「三浦さん」
「はい?」
「被補助人だからって、何も一人で決められないわけじゃありませんよ」
事務所が静かになりました。
三浦さんが、明らかに「お茶くみが何かしゃべった」という顔をしました。
慣れてます。
この顔。
最近だいぶ慣れました。
「栞」
隣にいた真壁さんが低い声を出します。
「お前、また首突っ込む気か」
「もう肩まで入ってます」
「早いな」
「三浦さんの一言目で入りました」
「出てこい」
「無理です」
所長の大槻さんは何も言いません。
ただ応接机の向こうで腕を組み、私を見ています。
あの顔はたぶん、
――続けてみろ。
です。
圧がある。
許可の出し方に圧がある。
三浦さんが鼻で笑いました。
「いやいや、お嬢さん。家庭裁判所が補助人を付けてるんでしょう? つまり叔母一人じゃ契約できないってことじゃないですか」
「違います」
「違わないでしょう」
「違います」
二回言いました。
大事なので。
「被補助人は、原則として自分で法律行為ができます」
「……は?」
「買い物もできます。賃貸借契約だってできます。何でもかんでも補助人の同意が必要になるわけじゃありません」
「じゃあ何のために補助人がいるんですか」
「必要なところだけ助けるためです」
私は芙美子さんを見ました。
「全部を取り上げるためじゃありません」
芙美子さんが、ゆっくり顔を上げました。
三浦さんの眉間に皺が寄ります。
「ですがね、叔母は現に補助開始の審判を受けてるんですよ」
「はい」
「だったら判断能力が足りないって裁判所も認めてるわけでしょう」
「不十分だから補助するんです」
「同じじゃないですか」
「全然違います」
私は思わず前のめりになりました。
「できない人扱いする制度じゃないんです。できることは本人に任せる。危ないところだけ手を添える。そのための制度です」
真壁さんが横で小さく呟きました。
「お前、今日は妙に熱いな」
「嫌いなんです」
「何が」
「『あなたのためだから黙ってて』ってやつ」
「……なるほど」
「便利すぎるんですよ、あの言葉」
言った本人がだいたい決定権を持っているあたりも含めて。
大槻所長が、机の上の書類を一枚持ち上げました。
「三浦さん」
「はい」
「肝心なのはここでしょう。この売買について、星野さんの補助人に同意権が付与されているのかどうか」
三浦さんが一瞬黙りました。
私は所長を見る。
そう。
そこです。
被補助人について、補助人の同意が必要になるのは――。
家庭裁判所が、
この種類の法律行為については補助人の同意が必要ですよ、
と決めたものだけ。
「書類、ありますか?」
私が尋ねると、三浦さんは渋々鞄を開きました。
「ありますよ。ほら」
家庭裁判所の審判書の写し。
私は所長の許可をもらって確認します。
文字を追う。
預貯金の一定額以上の払い戻し。
金銭の借入れ。
保証契約。
そして――。
「ありました」
「何がだ?」
真壁さんが覗き込みます。
「不動産の売却」
私は指で示しました。
「この行為については、補助人の同意が必要です」
三浦さんが得意そうに椅子へもたれました。
「ほら! だから言ったでしょう。叔母には決められないんです」
「違います」
「またですか」
「またです」
今日これ何回目でしょう。
「『補助人の同意が必要』と、『本人に決定権がない』は同じじゃありません」
「……」
「本人が売りたいと思って、補助人も同意する。それなら契約できます」
「だから?」
「本人が売りたくないのに、周囲だけで勝手に売る制度じゃないってことです」
三浦さんの顔から笑みが消えました。
芙美子さんは膝の上で両手を握っています。
私は少し声を柔らかくしました。
「星野さん」
「はい」
「本当に売りたくないんですか?」
「……はい」
今度は迷いませんでした。
「一階の店ね、昔、主人が時計屋をやってたんです」
「時計屋さん?」
「ええ。今は貸してますけど……主人が死んでからも、あそこだけは手放さないでおこうと思って」
三浦さんが苛立ったように割り込みました。
「叔母さん、またその話? 建物だって古いし、今売れば3,000万以上になるんだよ。持ってたって修繕費がかかるだけでしょう」
「でも……」
「そのお金を施設代にした方がいい。みんな叔母さんのためを思って言ってるんだよ」
「……」
あ。
また出た。
「あなたのため」。
言葉そのものに罪はないのに、今日は完全に悪役の決め台詞になっています。
真壁さんが書類をめくりながら聞きました。
「で、契約はもうしたのか?」
「昨日しました」
「誰が?」
「叔母がですよ」
「え?」
私は芙美子さんを見ました。
「契約書に署名したんですか?」
「……はい」
「補助人の同意は?」
「まだです」
三浦さんが口を挟みます。
「あとからもらえばいいでしょう。買主さんも急いでましてね。とりあえず契約を先に――」
「駄目です」
所長の声でした。
大きな声ではありません。
けれど、室温が二度くらい下がりました。
さすがです。
大槻所長。
怒鳴らないのに怒鳴った人より怖い。
「この売買は、補助人の同意が必要とされた行為なんでしょう」
「ええ、まあ」
「なのに同意を取る前に本人に署名させた」
「でも後でもらえますよね?」
「本人が売りたくないと言っているのに?」
三浦さんが黙りました。
私は契約書を見ます。
売主、星野芙美子。
買主、東栄開発株式会社。
売買代金3,200万円。
手付金100万円。
そして特約欄。
引渡し一か月後。
「手付は?」
「買主が今日振り込む予定です」
「まだなんですね」
「だから何ですか」
私は息を吸いました。
「星野さん。この契約、取り消せる可能性があります」
「……え?」
三浦さんが椅子を鳴らして立ち上がりました。
「ちょっと待て! さっき本人が契約できるって言ったじゃないか!」
「原則はできます」
「だったら!」
「でもこれは例外です」
私は審判書を指しました。
「不動産の売却について、補助人の同意が必要と指定されている」
「……」
「その同意を得ずに契約したなら、取り消すことができます」
静かになりました。
今度の静けさは、さっきまでとは違いました。
三浦さんの中で、
「被補助人だから全部できない」
という都合のいい理解と、
「だからこの売買は進められる」
という結論が、音を立てて崩れています。
被補助人だから全部できない。
違う。
普段はできる。
でも、家庭裁判所が特に同意を必要と定めた行為だけは違う。
そして今回、その「特に」が、
まさに不動産売却だった。
法律というものは、たまに意地が悪いくらい正確です。
雑に使う人の足元だけを、ものすごくきれいに抜いてきます。
「叔母さん」
三浦さんが芙美子さんへ向き直ります。
「昨日、自分で署名したじゃないか」
「あなたが……」
「俺が何?」
「早くしないと買主が逃げるって」
「それは事実だろ」
「施設のお金が足りなくなるって」
「叔母さんのためだよ!」
「三浦さん」
私は遮りました。
「その言葉、今日はもう使わない方がいいと思います」
「何だと?」
「本当に星野さんのためなら、星野さんの話を聞きましょうよ」
彼は私を睨みます。
「十八の小娘に家族の事情が分かるか」
「分かりません」
「だったら黙ってろ!」
「家族の事情は分かりません」
私はもう一度言いました。
「でも、契約の事情は分かります」
真壁さんが横で、ほんの少し口元を上げました。
「星野さんは、売りたくないと言っている」
私は続けます。
「この売買には補助人の同意が必要。でも、まだ同意はない」
「……」
「だったら今やることは、売却を急ぐことじゃありません」
契約書を閉じました。
「止めることです」
三浦さんが何か言おうとした、その時。
事務所の電話が鳴りました。
黒電話というのは、どうしてこう、重大事件の時に音がでかいのでしょう。
真壁さんが受話器を取りました。
「大槻不動産……はい。……はい、おります」
ちらりとこちらを見る。
「東栄開発だ」
買主。
タイミングが良いのか悪いのか。
たぶん最悪です。
所長が受話器を受け取りました。
「大槻です。……ええ。星野さんの件ですね」
短いやり取り。
そして所長が私たちを見ました。
「先方、今日中に手付を入れたいそうだ」
「所長」
「分かってる」
所長の声が低くなります。
「東栄さん。申し訳ないが、その手続きはいったん止めてください」
三浦さんが目を見開きました。
「所長!」
「売主本人から売却の意思について異議が出ています。また、本件売却には補助人の同意が必要ですが、現時点で確認できていません」
『――』
受話器の向こうで何か言っています。
「ええ。契約書に署名があることは承知しています」
所長は淡々と続けました。
「だからこそ確認が必要です」
その言葉が、妙に響きました。
契約書に署名がある。
だから終わり。
普通なら、そう思いたくなる。
でも違う。
署名があるからこそ、
その人に契約する力があったか。
必要な同意があったか。
本当に意思があったか。
そこを見る。
「……はい。それでは、こちらから改めて連絡します」
所長が受話器を置きました。
三浦さんは不満そうです。
「買主さん、怒ってたでしょう」
「当然だ」
「だったら――」
「だから何だ?」
所長の一言で止まりました。
「買主が怒るから、売主の意思を無視するのか」
「……」
「不動産屋は契約を成立させるのが仕事だ。だが、成立させちゃいけない契約を止めるのも仕事だ」
真壁さんが小声で私に言いました。
「所長、今日かっこいいな」
「今日“は”って言いました?」
「言ってない」
「顔に書いてあります」
「お前もな」
聞こえていたらしく、所長がこちらを見ました。
私たちは同時に黙りました。
数日後。
星野さんの補助人を交えて話し合いが行われました。
結論から言えば、補助人は売却に同意しませんでした。
というより、芙美子さん本人が売却を望んでいないことを聞き、最初から話をやり直すことになったのです。
東栄開発にも事情を説明し、契約は取り消す方向で整理されました。
三浦さんは最後まで、
「このまま持っていても得にならない」
と言っていました。
たぶん、それ自体は間違っていません。
古い建物です。
修繕費もかかる。
将来、芙美子さんの生活費が必要になるかもしれない。
売るという選択肢は、十分合理的です。
でも。
合理的だから、本人の気持ちを飛ばしていいわけじゃない。
法律が守ろうとしているのは、財産だけではないのだと思います。
失敗する自由。
迷う自由。
相談する自由。
そして最後に、
自分で選ぶ余地。
補助とは、
その余地をなくすための仕組みじゃない。
夕方。
芙美子さんが事務所に小さな紙袋を持ってきました。
「栞ちゃん」
「はい」
「これ」
「なんですか?」
「時計」
袋から出てきたのは、小さな置時計でした。
木の枠に入った、古いゼンマイ式。
「主人の店に残ってたもの」
「えっ、そんな大事なもの、もらえませんよ!」
「売り物じゃないの」
「なおさらです!」
「壊れてるから」
「急に価値が下がりましたね」
芙美子さんが笑いました。
「でもね、主人がよく言ってたの。時計は止まっても、また直せば動くって」
私はその時計を見ました。
針は三時十四分で止まっています。
「私ね」
芙美子さんが言いました。
「病院で、少し判断する力が落ちてるって言われてから、みんな急に私に聞かなくなったの」
「……」
「何食べる、も。どこへ行く、も。家をどうする、も」
笑っているけれど、少しだけ寂しそうでした。
「仕方ないと思ってたのよ。私がおかしくなったからって」
「おかしくなんて――」
そこまで言って、私は止まりました。
違う。
軽々しく否定することでもない。
困ることはあるのだ。
助けが必要なこともある。
だから補助人がいる。
でも。
「聞いてもらえなくなることとは、別です」
私は言いました。
「助けてもらうことと、自分の希望を言えなくなることは別ですよ」
芙美子さんは一度だけ目を伏せ、それから笑いました。
「そうね」
時計を私の手に乗せます。
「じゃあ、これは預けるだけ」
「預ける?」
「いつか直して」
「私、時計屋じゃないですよ」
「不動産屋でしょう?」
「もっと違います」
そこへ真壁さんが口を挟みました。
「栞なら何でも首突っ込むから、そのうち時計も直すだろ」
「どういう評価ですか、それ」
「高評価だ」
「絶対違う」
奥から所長が出てきました。
「星野さん。建物については、今すぐ売らなくても、修繕や賃貸条件の見直しという手もあります」
「あら」
「売るにしても、また本人が納得してから考えればいい」
「はい」
三浦さんとは違う。
売るなとも言わない。
持っていろとも言わない。
選択肢を並べて、
本人に返す。
たぶん、それがいちばん大事なのだ。
芙美子さんが帰ったあと、私は止まった時計を机に置きました。
「真壁さん」
「なんだ」
「今日の件、最初は私も一瞬勘違いしそうになりました」
「何を?」
「被補助人って聞いた瞬間、つい『契約できない人』ってまとめたくなるんです」
「まあ、名前からしてそんな感じだな」
「でも違う」
私は指を一本立てました。
「原則、自分でできる」
「ほう」
「ただし、家庭裁判所が特に決めた行為だけは、補助人の同意が必要」
「今日なら不動産売却」
「そうです」
指を二本目。
「で、本人の意思を全部なくす制度じゃない」
「今日なら?」
「芙美子さんが売りたくないなら、そこから話を始める」
「なるほどな」
真壁さんが机の上の時計をつつきました。
「じゃあ三つ目は?」
「三つ目?」
「そういう顔してる」
「どんな顔ですか」
少し考えてから、私は三本目の指を立てました。
「『守る』って言葉を、便利に使わない」
「法律じゃねえな」
「実務です」
「十八で言うか」
「前世込みなら結構いい歳です」
「また意味分からんこと言ってるぞ」
所長が書類を片付けながら言いました。
「栞」
「はい」
「覚えておけ」
私は振り向きます。
「人を守る法律ほど、本人を消しちゃいかん」
短い言葉でした。
私は少しだけ黙ってから、頷きました。
窓の外では、夕方の商店街に明かりがつき始めています。
机の上には、
三時十四分で止まった時計。
土地の売買は止まった。
けれど、それで何もかも止まったわけではない。
芙美子さんは明日もあの家で暮らす。
貸店舗からは誰かが出入りする。
修繕するかもしれない。
いつか、自分で売ると決める日が来るかもしれない。
その時は、その時でいい。
助けてもらいながら決めればいい。
私は置時計の裏を眺めました。
「これ、本当に直さなきゃ駄目ですかね」
「約束したんだろ」
「してません。押し付けられました」
「取り消せ」
「何でも法律につなげないでください」
「お前が言うな」
事務所に笑い声が落ちました。
人は、少しずつできなくなることがあります。
以前なら迷わなかったことに迷う。
数字を間違える。
大きな契約が怖くなる。
だから、誰かの手を借りる。
でも。
手を借りることと、
手を縛られることは、
同じじゃない。
私は止まった時計を、そっと机の端へ置きました。
いつか直るかもしれない。
直らなくても、置いておけばいい。
少なくとも今日、
一人の人の時間を、
周りが勝手に進めることだけは止められた。
それで十分だと思いました。
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