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宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜  作者: 条文小説
〈権利関係 配点14点/50点〉 意思表示

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[心裡留保]法理編 栞とお勉強

挿絵(By みてみん)

 夕方の事務所で、私はノートをまとめました。


 今日の事件を、もう一度、最初から思い返してみる。


 柏木さんは、冗談で「土地を売る」と言った。


 諸星さんは、それを本気ではないと知っていた。


 だから、柏木さんの意思表示は無効になる可能性が高い。


 そこまではいい。


 問題は、その先でした。


「……やっぱり、ここが嫌なんですよね」


 私はノートの端を指で叩きました。


「何がだ?」


 いつの間にか、真壁さんが後ろに立っていました。


「第三者です」


「第三者?」


「はい」


 私はノートを見せました。


「心裡留保って、本人と相手方だけなら、まだ分かりやすいんです」


「ほう」


「冗談で言った人と、それを聞いた人。相手が冗談だと知っていたか、注意すれば分かったなら、無効」


「うん」


「でも、その土地を相手方が別の人に売ったら……話が変わります」


 真壁さんが、私のノートを覗き込みました。


「今日の女の人だな」


「そうです」


 私は頷きました。


「あの人は、最初は何も知らなかった。つまり善意です」


「で、俺たちが教えた」


「はい。だから、少なくともその後は事情を知ってしまった」


「なるほど」


 真壁さんは腕を組みました。


「じゃあ、あの女の人が何も知らないまま契約していたら?」


「……そこです」


 私は大きく丸をつけました。


「今日の一番大事なところです」


 ノートに書く。


 心裡留保による無効は、善意の第三者には対抗できない。


「つまり、柏木さんと諸星さんとの間では無効だったとしても、諸星さんから事情を知らない第三者に土地が渡ったら、その第三者は守られるんです」


「柏木さんからしたら、えらい話だな」


「はい」


 私は少し唸りました。


「自分は冗談だったのに、土地を取り戻せないことがあるんですから」


「でも、そもそも冗談で土地を売るって言ったのが悪い」


「……それはそうです」


「法律ってのは、正直者だけを守る仕組みじゃないからな」


「え?」


 真壁さんは、珍しく真面目な顔をしていました。


「事情を知らない人まで、あとから巻き込まれたら困るだろ。だから、誰をどこまで守るかを決めてる」


「……なるほど」


 私は、その言葉をノートの余白に小さく書きました。


 誰を、どこまで守るか。


 法律を勉強していると、条文の文字ばかり追ってしまう。


 でも、その後ろには、必ず人がいる。


 今回なら、柏木さんがいる。


 諸星さんがいる。


 そして、何も知らずに美容室を開こうとしていた女の人がいる。


 全員を同時に救えるとは限らない。


 だから法律は、一定の基準を決めている。


 私は、もう一度ノートに書きました。


 心裡留保


 ① 表意者が真意でないことを知りながらした意思表示


 簡単に言えば、


 「本気じゃないのに、本気のように言う」


 ということ。


「栞」


「はい?」


「それ、俺でも分かるように書いてくれ」


「真壁さん、これでも十分簡単ですよ」


「法律の言葉ってだけで難しいんだよ」


「じゃあ……」


 私は少し考えて、書き直しました。


 心裡留保=冗談で「売る」と言うこと。


「雑だな」


「でも分かりやすいでしょう?」


「まあな」


 真壁さんが笑いました。


 私は続けます。


 ――では、その冗談を聞いた相手が、どういう人だったら無効になるのか。


 ここが重要です。


 相手方が悪意または有過失なら、無効。


「悪意ってのは?」


「知っていた、という意味です」


「悪いことをした、じゃないんだな」


「法律の悪意は、そこがややこしいんです」


「じゃあ有過失は?」


「知らなかったけれど、注意すれば分かった場合です」


「なるほど」


 私は表にしました。


  相手方が悪意   → 無効

  相手方が有過失  → 無効


  相手方が善意無過失→ 有効


「……あれ?」


 真壁さんが眉をひそめました。


「善意なのに、ちょっと注意不足だったら無効なのか?」


「そうです」


「厳しいな」


「心裡留保では、そうなります」


 私は頷きました。


「だから、ここは宅建の問題でも狙われやすいところです」


「善意なら全部セーフ、じゃないんだな」


「はい。善意無過失でないと駄目です」


「覚えにくいな」


「私も最初はそうでした」


「お前もか」


「はい」


 私は少しだけ胸を張りました。


「でも、今日の事件を見たら覚えられます」


「どうやって?」


「柏木さんが冗談で売る。諸星さんが、それを知っている」


 私は指を一本立てました。


「だから無効」


 二本目。


「でも、諸星さんから買った人が、その事情を知らなかったら?」


 三本目。


「その人は、善意の第三者として保護される」


「……そうか」


 真壁さんが頷きました。


「じゃあ、第三者は善意無過失じゃなくてもいいんだな?」


「!」


 私は思わず真壁さんを見ました。


「そうです!」


「なんだ、その驚き方」


「そこ、今まさに書こうと思ってました!」


 私は勢いよくノートに線を引きました。


 超重要!


 心裡留保では、第三者は「善意」であれば保護される。無過失までは要求されない。


「つまり?」


「第三者が事情を知らなければ、たとえ少し注意が足りなかったとしても、善意である限り保護されるんです」


「当事者と第三者で条件が違うんだな」


「そうなんです!」


 私はそこを赤鉛筆で囲みました。


 これが、今日いちばん覚えておきたいところ。


 当事者間


 相手方が善意無過失 → 有効

 相手方が悪意または有過失 → 無効


 第三者


 善意 → 保護される

 無過失までは不要。


「なんで第三者だけ、そんなに甘いんだ?」


 真壁さんが聞きました。


「うーん……」


 私は少し考えました。


「第三者は、そもそも最初の冗談に関わっていないから……でしょうか」


「なるほどな」


「諸星さんが事情を知っていたとしても、そこから買った人まで事情を知っているとは限りません」


「そりゃそうだ」


「だから、何も知らない第三者まで『お前も駄目だ』と言われたら、取引の安全が守れません」


「取引の安全……」


「はい」


 私は頷きました。


「法律は、柏木さんだけを守るんじゃなくて、事情を知らずに取引した第三者も守るんです」


 そこへ所長がやってきました。


「お、ずいぶん勉強してるな」


「所長、ちょうど心裡留保をまとめてました」


「そうか」


 所長は私のノートを見て、しばらく黙りました。


「……字が汚いな」


「そこですか!」


「法律以前の問題だ」


「真壁さん!」


「俺に振るな」


 真壁さんは笑っています。


 所長まで笑った。


 なんだか、昼間まで張り詰めていた事務所が、少しだけ柔らかくなった気がしました。


「まあ、いい」


 所長がノートを指差します。


「栞。最後に一つだけ付け足しておけ」


「何ですか?」


「心裡留保の事件で、一番大事なのは何だと思う?」


 私は少し考えました。


「……冗談でも、土地を売るなんて言わないこと?」


「それも大事だ」


 所長が笑います。


「だが、試験ならもっと単純だ」


 所長はペンを取りました。


 そして、私のノートの一番下に、大きく書きました。


 「相手方」と「第三者」を分ける。


「これを間違えるな」


「……!」


 私は目を見開きました。


 確かにそうだ。


 心裡留保では、相手方と第三者で扱いが違う。


 相手方は、


 善意無過失なら有効。


 第三者は、


 善意なら保護。


 無過失までは必要ない。


「つまり、問題文を読んだら……」


「まず誰の話か確認する」


「相手方なのか、第三者なのか」


「そういうことだ」


 所長は満足そうに頷きました。


「法律の問題はな、難しい言葉に惑わされると負ける。まず人間関係を整理しろ」


 私はノートを見つめました。


 A――表意者。


 B――相手方。


 C――第三者。


 昨日までなら、ただのアルファベットだった。


 でも今は違います。


 Aには柏木さんの顔があり、Bには諸星さんの顔があり、Cには今日出会った若い女性の顔がある。


「……分かりました」


 私は最後に、今日の事件を一行でまとめました。


 冗談で土地を売ると言っても、相手がその冗談を知っていれば無効。


 でも、その土地を事情を知らない第三者が買えば、その第三者は守られる。


 そして、その下に、自分への覚え書きを書きました。


 心裡留保――「冗談だった」は、万能の免罪符ではない。


 ページを閉じる。


 今日、私は一つのことを覚えました。


 法律は、冗談を笑って済ませてくれるとは限らない。


 特に土地は。


 金額が大きい。


 関係する人も多い。


 そして、一度第三者が入れば、話は一気に複雑になる。


「栞」


「はい?」


 真壁さんが、机の上に何か置きました。


 缶コーヒーでした。


「今日もご苦労さん」


「あ……ありがとうございます」


「頭使っただろ」


「はい」


「甘いもんもいるか?」


「……いります」


「所長、こいつ甘やかしていいんですか?」


「たまにはいいだろ」


 所長が笑いました。


 私は缶コーヒーを両手で包みました。


 昭和六十三年。


 見知らぬ時代に放り込まれて、最初はどうなることかと思った。


 でも、こうして一つずつ事件を経験して、一つずつ条文を覚えていく。


 教科書の中では、たった数行だった民法九十三条。


 それが今日は、一人のおばあさんの土地をめぐって、何人もの人生を動かした。


 私はノートを鞄にしまいました。


「……よし」


 明日も勉強しよう。


 そして今度こそ――。


 冗談で土地を売る人が現れませんように。


 心の底から、そう願いました。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。


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