[被保佐人]現場編 その判子、勝手に押さないでください
不動産屋には、ときどき妙な電話がかかってきます。
「本人が売るって言ってるんだから、売っていいんでしょう?」
――はい。
それだけなら、普通の話に聞こえます。
問題は、その「本人」が誰なのか。
そして、その人が、法律上どこまで自分一人でできる人なのか。
そこを間違えると。
土地一筆が、笑えないことになります。
「栞!」
朝一番。
事務所の電話が鳴ったと思ったら、真壁さんの怒鳴り声まで飛んできました。
「はい!」
「お前、判子持ってこい!」
「何のですか!」
「何でもいい!」
「一番困る指示です、それ!」
私が慌てて事務所へ駆け込むと、応接机の前に、六十代くらいの男性が座っていました。
白髪交じりの髪。
きちんとした背広。
そして、その隣には四十代くらいの女性。
こちらは見るからに不機嫌そうです。
「大槻さん、私はもう本人から話を聞いてるんです」
女性が言いました。
「父は土地を売ると言ってるんですよ。なのに、なんで契約できないんです?」
――なるほど。
事件の匂いがする。
不動産屋における「本人が売ると言っている」は、かなり危険な言葉です。
なぜなら。
本人が売ると言っていることと、
本人が単独で有効に売れることは、
同じではないからです。
「まず、落ち着きましょう」
所長の大槻さんが静かに言いました。
それだけで、事務所の空気が少し締まります。
「お父さまのお名前は?」
「小野寺修一です」
男性が答えました。
「売却予定の土地は?」
「駅の裏です。八百平方メートルほど」
真壁さんが資料を取り出します。
「ああ。これか」
「はい」
女性が答えました。
「父が持っている土地です。買いたいという人も見つかっているんです。だから今日、契約を――」
「待ってください」
私は思わず口を挟みました。
三人の視線が一斉にこちらへ向きます。
しまった。
十八歳の事務見習いが、いきなり会話に割り込んでしまった。
でも。
資料の端に書かれていた一文が、どうしても気になったのです。
――保佐開始の審判あり。
「お父さまは、被保佐人ですよね?」
「……ええ」
娘さんが答えました。
「でも、それが何なんです?」
私は資料をもう一度見ました。
売主。
小野寺修一さん。
被保佐人。
そして、保佐人は娘さん本人。
――なるほど。
ここで私が間違えると、土地が危ない。
「お父さまは、土地を売ると言っている」
「そうです」
「でも、娘さんが反対している」
「私は反対しているんじゃありません!」
女性が声を荒らげました。
「父が売りたいなら売ればいい。でも、私の同意が必要だと言われて、そんなの知らないって……」
私は目を瞬きました。
「……娘さんは、保佐人なんですよね?」
「はい」
「では、今回の土地売買について同意していない?」
「してません」
「なのに、お父さま本人が一人で契約しようとしている?」
「そうです!」
女性は両手を広げました。
「本人が売るって言ってるんだから、私は邪魔をしてるだけだって、父が怒るんです!」
小野寺さんが、むっとした顔をしました。
「わしの土地だぞ」
「ええ」
「わしが売ると言っている」
「はい」
「なら、わしが決めればいいだろう!」
――来た。
法律の勉強をしていると、一度は引っかかるやつです。
本人の財産。
本人の意思。
本人が売りたい。
だから本人が一人で売れる。
……とは限らない。
「お父さま」
私は恐る恐る声をかけました。
「この土地を売って、そのお金で何をするおつもりですか?」
「新しい車を買う」
「おいくらの?」
「五百万円くらいだ」
娘さんが頭を抱えました。
「ほら……」
「何だ!」
「先月、車を買ったばかりでしょう!」
「そんなものは知らん!」
「だから私は心配してるんです!」
なるほど。
これは単純な親子喧嘩ではありません。
保佐制度が、まさにこういう場面のためにある。
本人の判断能力が著しく不十分。
だからといって、何もできなくなるわけではない。
でも、不動産売買のような重要な財産行為については、一定の歯止めが必要になる。
私は頭の中で、現代のテキストをめくりました。
被保佐人。
原則。
単独で法律行為ができる。
ただし。
重要な財産上の行為については、保佐人の同意が必要。
そして。
同意なく行えば――。
「……取り消せます」
私が呟くと、真壁さんが振り向きました。
「何が?」
「今回の契約です」
「ほう」
所長の目が細くなりました。
「続けろ」
「はい」
私は資料を指差しました。
「不動産の売買は、重要な財産上の行為です」
「だから?」
「被保佐人であるお父さまが一人で売買契約をして、保佐人である娘さんの同意がなければ、あとから取り消せます」
女性の顔が変わりました。
「……じゃあ」
「はい」
「父が今日、勝手に契約しても?」
「その契約をそのまま確定させる必要はありません」
私は頷きました。
「少なくとも、保佐人の同意が必要です」
小野寺さんが机を叩きました。
「わしは自分の土地も売れんのか!」
「売れます」
私は即答しました。
全員がこちらを見る。
「……売れるのか?」
「はい」
「なら、何が問題なんだ」
「一人で売ることができない、ということです」
私はゆっくり言いました。
「お父さまが土地を売ること自体が禁止されているわけではありません。保佐人の同意を得ればいいんです」
女性が、少し驚いた顔をしました。
「私が同意すれば?」
「はい」
「父は売れる?」
「はい」
「じゃあ、私が父の代わりに契約するんですか?」
「……それは別の話です」
私はそこで一呼吸置きました。
ここも、宅建試験では間違えやすい。
保佐人だからといって、当然に何でも本人の代わりに契約できるわけではない。
保佐人の基本的な役割は、同意すること。
代理権は別途、本人の同意を得たうえで、家庭裁判所の審判によって特定の法律行為について与えられる。
「つまり、お父さま本人が契約するなら、娘さんの同意が必要」
「はい」
「娘さんが代わりに契約するなら、代理権が必要」
「……なるほど」
所長が頷きました。
「よし。話が整理できたな」
真壁さんが腕を組みます。
「じゃあ、今回の契約は止めればいい」
「はい」
「でも、買主はもう来てるぞ」
「え?」
私が振り向く。
真壁さんが窓の外を指しました。
「駐車場にいる」
――早い。
不動産屋、こういうときだけ仕事が早い。
「誰です?」
「買主」
「もう来てるんですか?」
「ああ」
真壁さんが苦笑しました。
「諸事情あって、今日中に契約したいらしい」
嫌な予感がします。
案の定。
数分後、応接室に入ってきたのは、四十代くらいの男性でした。
「どうも。いやあ、話は聞いてます」
にこにこと笑っています。
「売主さんも売る気なんでしょう?」
「本人は売りたいとおっしゃっています」
所長が答えます。
「じゃあ、契約できますね?」
「本日はできません」
即答。
買主の笑顔が止まりました。
「……え?」
「売主が被保佐人だからです」
「でも本人が売ると言ってるんでしょう?」
「はい」
「だったら――」
「不動産売買について、保佐人の同意が必要です」
所長の声は静かでした。
「同意なしに本人だけで契約することはできません」
買主が娘さんを見る。
「あなたが保佐人?」
「はい」
「じゃあ、同意してくださいよ」
女性の顔が曇りました。
「……それは」
「何か問題があるんですか?」
「父が売ったお金を、すぐ車に使うと言っていて……」
「それは売主さんの自由でしょう」
買主が笑います。
「私はちゃんとお金を払うんです。何も悪いことはしてない」
――確かに。
買主は悪くない。
でも。
だからといって、保佐人の同意を飛ばしていい理由にはならない。
「買主さん」
私は口を開きました。
「はい?」
「今日ここで契約を急がないほうがいいと思います」
「あなたは?」
「事務見習いです」
「……」
しまった。
肩書きを言った瞬間、信用が一段落ちた。
真壁さんが横で笑いをこらえています。
「ただ」
私は続けました。
「この契約、もし保佐人の同意なしに進めたら、あとから取り消される可能性があります」
買主の表情が変わった。
「取り消し?」
「はい」
「……土地を買ったあとで?」
「はい」
「それは困る」
「だから、ちゃんと手続きを踏んでください」
買主は黙りました。
数秒。
十秒。
やがて、ため息をつきました。
「……じゃあ、どうすればいい?」
私は娘さんを見ました。
彼女は、父親を見ていました。
怒っている。
でも、それ以上に心配している。
「お父さま」
私は言いました。
「本当に、この土地を売りたいですか?」
「売りたい」
「娘さんが反対していても?」
「……うむ」
「では、まずお二人で話し合ってください」
私は続けました。
「娘さんが同意できる内容なら、契約を進めればいいんです」
小野寺さんが娘さんを見る。
「……お前は、わしが売るのが嫌なのか?」
「売ること自体が嫌なんじゃない」
娘さんは、少し涙ぐんでいました。
「お父さんが、何も考えずに土地を手放すのが怖いの」
「何も考えてないとは何だ」
「だって、車を買うって……」
「車くらい買っていいだろう」
「五百万円の車よ?」
「……」
沈黙。
真壁さんが咳払いしました。
「五百万円は、俺でもちょっと考えるな」
「真壁さんは関係ないでしょう」
「俺も車欲しいんだよ」
「今そこじゃありません」
思わず突っ込む。
買主まで、少し笑いました。
張り詰めていた空気が、ほんの少し緩む。
そして。
小野寺さんが、ぽつりと言いました。
「……実はな」
娘さんを見る。
「車が欲しいんじゃない」
「え?」
「お前に迷惑をかけたくないんだ」
娘さんが固まった。
「わしが死んだあと、お前が土地のことで苦労するだろう」
「お父さん……」
「だから、売って現金にしておいたほうがいいと思った」
娘さんの目から、涙が一つ落ちました。
「そんなこと……」
「でも、五百万円の車も欲しかった」
「もう!」
娘さんが泣き笑いになりました。
私は思わず笑ってしまいました。
真壁さんも苦笑しています。
所長だけが、いつもの静かな顔でした。
「小野寺さん」
所長が言いました。
「売るか売らないかは、ご本人が決めることです」
小野寺さんが顔を上げる。
「ただし、法律が定めた手順を守ってください」
「……うむ」
「娘さんも、頭ごなしに反対するのではなく、売却条件を一緒に確認してあげてください」
「はい」
女性が頷きました。
「それなら……」
彼女は父親の手を取った。
「一緒に考えよう」
「……ああ」
私はその光景を見ながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じました。
法律というものは、本人の自由を奪うためだけにあるわけではない。
かといって、本人の言うことを何でもそのまま通すものでもない。
本人の意思を尊重しながら。
危ないところには、ちゃんと手を添える。
それが保佐という制度なのかもしれません。
「栞」
帰り際、真壁さんが私を呼びました。
「はい?」
「今日、お前が最初に『被保佐人ですよね』って言わなかったら、どうなってたと思う?」
「……普通に契約を進めてたかもしれません」
「だよな」
真壁さんが腕を組みました。
「でも、お前」
「はい?」
「最初、保佐人だから本人は何もできないと思ってなかったか?」
「……」
図星。
「一瞬だけ」
「やっぱりな」
「でも途中で違うって気づきました」
「そこが大事だ」
真壁さんが笑いました。
「被保佐人ってのは、何でも一人じゃできない人じゃない」
「はい」
「基本は本人がやる。ただ、大事なところには保佐人の同意がいる」
「はい」
「不動産売買みたいなやつだな」
「はい」
私は頷きました。
そして、今日の事件を頭の中でもう一度整理する。
本人は土地を売りたい。
でも被保佐人。
不動産売買は重要な財産行為。
だから保佐人の同意が必要。
保佐人だからといって、当然に代理できるわけではない。
代理権は別途。
私はそこで、ふと気づきました。
「……真壁さん」
「何だ?」
「今日の事件、もし私たちが『被保佐人だから契約できません』ってだけ言って終わらせてたら……」
「ああ」
「お父さんの意思を無視してましたよね」
真壁さんは、少し黙りました。
「そうだな」
「でも、売りたいという意思そのものは尊重していい」
「そういうことだ」
その言葉が、妙に胸に残りました。
法律は、人を一律に縛るためのものじゃない。
できることは、できる。
ただし。
大事なところでは、誰かの同意を求める。
その境界線を間違えないこと。
不動産屋にとって、それは土地の値段を見るのと同じくらい大切なことなのです。
事務所に戻ると、所長が机の上に缶コーヒーを置きました。
「ご苦労だった」
「ありがとうございます」
私は缶を手に取ります。
冷たい。
でも、なんだか今日は温かく感じました。
「所長」
「何だ」
「被保佐人って、難しいですね」
「そうか?」
「はい」
私は苦笑しました。
「本人を守る制度なのに、本人の自由もちゃんと残してるから」
「だから難しい」
所長は静かに答えました。
「だが、その難しさを雑にしてはいけない」
「……はい」
「本人のためだからといって、本人の意思を無視していいわけではない」
「はい」
「逆も同じだ」
所長は私を見る。
「本人が望んだからといって、何でも一人でさせていいわけでもない」
私は頷きました。
机の上の資料を見る。
被保佐人。
最初は、ただの試験用語だった。
でも今日、その言葉の向こうに、一人の父親と、一人の娘がいた。
父親は土地を売りたかった。
娘は父親を守りたかった。
どちらも、間違ってはいなかった。
だからこそ。
法律が二人の間に立ってくれた。
「栞」
真壁さんが声をかけました。
「はい?」
「明日から、売買契約のときは必ず権利関係だけじゃなく、本人の状況も確認しろよ」
「はい」
「あと、判子」
「はい?」
「朝、持ってこいって言っただろ」
「ああ」
「結局いらなかったな」
「最初からそう言ってください!」
「俺は『何でもいい』と言った」
「余計ひどいです!」
所長が、珍しく声を出して笑いました。
私も笑いました。
法律は難しい。
人間はもっと難しい。
でも。
だからこそ、間に入る仕事には意味がある。
その日の帰り道。
私は夕焼けの空を見上げながら思いました。
――本人が望んでいる。
だから、全部本人の自由。
……ではない。
――本人を守らなければならない。
だから、全部本人の代わりに決める。
……それも違う。
本人の意思を大切にしながら。
危ないところには、保佐人の同意を求める。
法律は、そのちょうど真ん中に線を引いている。
そして不動産屋の仕事は。
その線を、誰にも踏み越えさせないことなのだ。
……まあ。
五百万円の車については。
私には何の権限もありませんけどね。
そこは、お父さん。
娘さんと、よーく話し合ってください。
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