[法定地上権]現場編 「俺の土地だから家を壊せ」は通りません。赤い長靴を守る5文字の盾
土地を買えば、その上のものまで全部自分のものになる。
――そう思いたくなる気持ちは、分からなくもありません。
庭木。
物置。
井戸。
石灯籠。
昭和の応接間に鎮座する、やたら大きな木彫りの熊。
まあ最後のは土地についてきませんが。
問題は、家です。
土地を競売で買った。
ところが、その土地の上には他人の家が建っている。
さて。
新しい地主は、その家の持ち主に言えるでしょうか。
「俺の土地だ。家を壊して出ていけ」
――世の中、そんなに景気よくブルドーザーを出動させていい仕組みにはなっていません。
◇
「藤崎!」
朝一番、真壁さんの声が事務所に響きました。
「電話!」
「はい!」
「泣いてる!」
「それは電話の機能じゃありません!」
「相手がだ!」
なるほど。
黒電話に感情機能が実装されたのかと思いました。
昭和六十三年。まだ携帯電話もインターネットも一般家庭にはなく、電話といえば黒電話が主役の時代です。
私は受話器を受け取りました。
「お電話代わりました。大槻不動産、藤崎です」
『あ、あの……以前、こちらで家の売買をお願いした村瀬と申します』
女性の声でした。
細い。
明らかに怯えている。
「はい。どうされました?」
『家を……壊せと言われてるんです』
「……家を?」
『土地を買った人が来て……ここはもう自分の土地だから、来月までに家を取り壊して出ていけって……』
私は姿勢を正しました。
事務所の奥で新聞を読んでいた大槻所長が、静かに顔を上げます。
「少し詳しく聞かせてもらえますか」
村瀬さんの話を整理すると、こうでした。
もともとその土地と建物は、どちらも一人の男性――河原さんの所有だった。
河原さんは銀行から借金をし、その担保として土地に抵当権を設定した。
その時点で、土地の上にはすでに家が建っていた。
数年後、河原さんはその建物だけを村瀬さん夫婦へ売却した。
村瀬さん夫婦はそこで暮らし始めた。
ところが河原さんの返済が滞り、銀行が土地の抵当権を実行。
土地は競売にかけられた。
そして昨日。
土地を競落した新しい所有者が、突然やってきた。
『土地は私のものになった。借地契約もないんだから、家を壊して出ていってください』
そう言ったらしい。
「……なるほど」
私の頭の中で、四つの箱が並びました。
建物はあったか。
土地と建物は同じ人のものだったか。
抵当権は設定されたか。
競売で土地と建物の持ち主が分かれたか。
……全部、埋まる。
私は受話器を握り直しました。
「村瀬さん」
『はい……』
「その家、すぐ壊さなくていいと思います」
一瞬、電話の向こうが静まり返りました。
『……え?』
「確認は必要ですが、かなり大事な権利が成立している可能性があります」
『権利……ですか?』
「はい」
私はゆっくり言いました。
「法定地上権です」
◇
「ほうていちじょうけん?」
電話を切った途端、真壁さんが露骨に嫌そうな顔をしました。
「なんだその、漢六文字で人を帰らせる呪文みたいなの」
「五文字です」
「そこじゃねえ」
「土地を使う権利です」
「借地権とは違うのか?」
「似てますけど、ポイントはそこじゃありません」
私はメモ用紙を取り出しました。
「契約して作ったんじゃないんです」
「じゃあ、勝手に生えるのか」
「言い方」
「地面から」
「タケノコじゃないんです」
所長が新聞を畳みました。
「栞」
「はい」
「登記簿を確認するぞ」
さすがです。
私の頭の中では法定地上権の文字がネオン看板みたいに光っていますが、実務は過去問ではありません。
誰がいつ所有していたか。
いつ抵当権が設定されたか。
その時、建物は存在したか。
そこを間違えたら、全部ひっくり返ります。
「真壁」
「はい」
「村瀬さん宅へ行く。関係書類も見せてもらえ」
「了解です」
そして所長は私を見た。
「栞も来い」
「はい!」
「ただし」
所長の目が少し細くなる。
「知識だけで先走るな」
「……はい」
「法律は条件を一つ落とすと、答えが逆になる」
胸に刺さります。
宅建試験で何度その逆転パンチを食らったことか。
一番抵当権。
二番抵当権。
設定時。
競売時。
同一所有者。
別所有者。
受験生を泣かせるために日本語を組み立てているんじゃないか、と思った夜もあります。
でも今は、それが誰かの家に直結している。
「確認してから、言います」
私は答えました。
所長が頷く。
「それでいい」
◇
村瀬さんの家は、駅から車で十五分ほどの住宅地にありました。
小さな平屋でした。
玄関脇に朝顔。
縁側には子どもの赤い長靴。
庭には洗濯物。
どう見ても「不動産」というより、「暮らし」です。
それを壊せと言われたら。
そりゃ、泣きもします。
「こちらです」
村瀬さんが震える手で書類を差し出しました。
売買契約書。
古い登記簿の写し。
競売関係の通知。
所長は黙って一枚ずつ確認していきます。
「抵当権設定は昭和五十九年六月……」
私も横から追います。
「その時の土地所有者、河原正一」
「建物も河原正一」
真壁さんが建物の登記を見る。
「建物の新築は昭和五十四年だな」
――あった。
抵当権設定時、すでに建物は存在している。
そして土地と建物は同じ人の所有。
「その後、建物を村瀬さんへ売却……」
「はい」
「土地の抵当権が実行されて……」
「昨日、競落人から連絡が来ました」
村瀬さんの隣で、ご主人が悔しそうに拳を握りました。
「俺たち、土地を借りる契約書を作ってなかったんです。河原さんとは、『家を買ってくれるなら土地は使っていい』って口約束みたいなもので……」
「だから、相手はそこを突いてきたんでしょうね」
真壁さんが言います。
「借地契約がない。土地を使う権利もない。だったら壊せ、と」
村瀬さんが俯いた。
「やっぱり、駄目なんでしょうか」
「いいえ」
今度は、私は迷わなかった。
「そこが、今回の話の肝です」
所長を見る。
所長が小さく頷いた。
言っていい。
「土地と建物を同じ人が持っていた時に、土地へ抵当権が設定されています」
私は書類を指しました。
「しかも、その時にはもう、この家が建っていた」
「はい」
「そして抵当権が実行された結果、土地の所有者と建物の所有者が別々になった」
村瀬さん夫婦が、じっと私を見る。
「こういう場合、建物を存続させるために、法律上、土地を使う権利が発生することがあります」
「契約してなくても……?」
「はい」
私は頷きました。
「それが法定地上権です」
ご主人が目を見開きました。
「じゃあ……土地の新しい持ち主に、出ていけと言われても?」
「抵抗できます」
「家を壊せと言われても?」
「それも拒めます」
村瀬さんが口元を押さえました。
泣きそうだった顔が、今度は別の意味で崩れていく。
「住めるんですか……?」
「少なくとも、“土地を買ったから即取り壊せ”という話にはなりません」
私はそう答えました。
その時。
玄関の外で、自動車が止まる音がしました。
村瀬さんの顔が強張る。
「あの人です」
「誰です?」
「土地を買った人……」
タイミングがよすぎます。
法律ドラマでも、もう少しCMを挟みます。
◇
入ってきたのは、五十代くらいの男性でした。
仕立てのいい背広。
革の鞄。
いかにも「土地を安く仕入れました」という満足感が顔に出ています。
「村瀬さん。取り壊しの件ですが――」
男はそこまで言って、私たちを見た。
「……どちらさん?」
「大槻不動産です」
所長が名刺を差し出します。
男は名刺を一瞥し、鼻を鳴らしました。
「不動産屋を呼んでも同じですよ」
「そうでしょうか」
所長の声は静かでした。
この人は怒鳴らない。
だから怖い。
「この土地は私が競売で取得したんです」
男は言った。
「登記も私名義になる。村瀬さんは土地を所有してない。借地契約書もない。なら、建物を置いておく権利もないでしょう」
理屈は、ぱっと聞けばもっともらしい。
だからこそ怖い。
知識のない人なら、そのまま「そうなんですね」と出ていってしまいそうです。
「一つ、確認してもいいですか」
私が言うと、男がこちらを見る。
「何です?」
「この土地に抵当権が設定された時、この建物が存在していたことはご存じでしたか?」
「それが何か?」
「当時、土地と建物の所有者が同じ河原さんだったことも?」
男の眉が動きます。
「……登記を見れば分かる話だ」
「そうですね」
私は微笑みました。
「では、分かりやすいです」
「何が?」
「この建物には、法定地上権が成立する可能性が高いです」
男の表情から、ほんの少し余裕が消えた。
「法定……?」
「地上権です」
真壁さんが横から補足する。
「つまり、あんたが土地を買ったからって、この家を好きに追い出せるわけじゃないってことです」
「いや、しかし借地契約は――」
「契約で作る地上権の話じゃありません」
私は言いました。
「法律上、成立する地上権です」
「そんな馬鹿な」
「馬鹿じゃないから民法にあるんです」
「栞」
所長の低い声。
「はい」
しまった。
ちょっと言いすぎました。
心の中では「ざまあ」と赤い旗が三本ほど立っていますが、仕事中です。
収納します。
男は苛立ったように言いました。
「私は金を払って土地を買ったんですよ」
「はい」
「なのに、他人の建物を置かせ続けなきゃならない?」
「地代の問題は別にあります」
所長が初めて口を挟みました。
「法定地上権が成立すれば、建物所有者が無償で永遠に好き勝手できる、という話ではありません」
「……」
「しかし」
所長は書類の一か所を指した。
「少なくとも、あなたが土地所有権だけを根拠に、直ちに建物収去・土地明渡しを求められる事案ではない」
静か。
でも強い。
私は思わず背筋が伸びました。
こういう時の所長は、声を張らない。
必要なことだけ言って、逃げ道を一つずつ塞ぐ。
「競売物件なら、そこまで調べて買うべきでしたね」
真壁さんが言う。
「土地だけ安く落とせたから、その上の家も退かせりゃ丸儲け――ってほど簡単じゃないんですよ」
「そんなつもりでは……」
「なら、なおさら話は早い」
所長が言いました。
「取り壊しを迫るのはやめて、地代その他の条件をきちんと協議しましょう」
男は黙りました。
さっきまで「来月までに壊せ」と言っていた人です。
それが今は、書類を何度も見直している。
やがて。
「……確認します」
「どうぞ」
「専門家にも」
「それがいいでしょう」
所長は淡々と答えた。
男は鞄を持ち直しました。
「今日のところは、失礼します」
玄関を出ていく。
車の音が遠ざかる。
家の中が、しん、と静まりました。
そして。
「……助かったぁ……」
村瀬さんのご主人が、畳の上にへたり込みました。
「まだ全部終わったわけじゃありませんよ」
真壁さんが言う。
「地代の話だってあるし、ちゃんと詰めなきゃいけない」
「はい……でも」
村瀬さんは、目に涙を浮かべながら笑いました。
「今日、家を壊さなくていいって分かっただけで……」
その言葉に、私は窓の外を見ました。
庭の朝顔。
物干し竿。
子どもの自転車。
家なんて、登記簿の上では「建物」という二文字です。
でも、人が住めば。
朝ご飯を食べる場所になって。
子どもが転ぶ場所になって。
夫婦喧嘩をする場所になって。
お正月に親戚が集まる場所になる。
そしてある日突然、
「土地が他人のものになったから壊してください」
なんて言われたら。
はいそうですかと、たたんで鞄に入れられるものじゃありません。
◇
帰りの車で、真壁さんが聞きました。
「なあ、栞」
「はい」
「なんであんな権利が勝手にできるんだ?」
「家を守るため、ですかね」
「雑だな」
「前から建っていた家なのに、抵当権が実行された瞬間、急に土地を使う権利がゼロになったら困るでしょう?」
「まあな」
「もともと土地も家も同じ人のものだったから、わざわざ自分自身と借地契約なんか結びません」
「ああ」
真壁さんが頷いた。
「自分の土地を、自分から借りる奴はいないわな」
「そうです。『俺は俺に月三万円払います』とか、一人二役で契約しません」
「やってたら怖いな」
「でも、そのまま抵当権が実行されて所有者だけ分かれると――」
「建物の側が、土地を使う根拠をなくす」
「はい」
私は窓の外を見ました。
「だから法律が、そこを埋めるんです」
真壁さんが少し笑う。
「お前、そういう説明は分かりやすいな」
「褒めました?」
「半分な」
「残り半分ください」
「調子乗るから嫌だ」
けち。
前世であれだけ苦しんだ法定地上権なのに。
現場で見ると、驚くほど筋が通っていました。
同じ人が土地と建物を持っている。
その時、建物はすでに存在している。
そこへ抵当権がつく。
競売で所有者が分かれる。
だったら建物が立ち続けられるように、土地を使う権利を認めよう。
文字だけで読んでいた時は、面倒な暗記項目でした。
でも。
さっき見た赤い長靴を思い出せば、妙に納得できる。
◇
事務所へ戻ると、所長は席に座るなり言いました。
「栞」
「はい」
「今日の件、覚えたか」
「ばっちりです」
「じゃあ問題だ」
嫌な予感。
仕事が終わると突然始まる、大槻不動産宅建道場です。
「抵当権を設定した時、土地が更地だった。その後、所有者が家を建てた。競売で土地だけ別人のものになった。法定地上権は?」
「成立しません」
即答。
「なぜだ」
「抵当権設定時に建物が存在していないから」
「よし」
真壁さんが横から口を挟みます。
「じゃあ抵当権設定時、土地は父ちゃん名義、建物は息子名義。同じ家族だ。これは?」
「成立しません」
「冷たいな」
「親族愛で民法の所有者欄は一体化しません」
「なるほど」
「抵当権設定時に、土地と建物が同一所有者じゃないと駄目です」
「じゃあ」
真壁さんがにやりとする。
「土地に一番抵当権をつけた時は土地と建物が別人。あとで同じ人の所有になって、二番抵当権をつけました。その後競売。どうだ?」
うっ。
来た。
受験生絶対殺すマン。
「……一番抵当権設定時を見ます」
「ほう」
「その時点で土地と建物の所有者が別なら、原則として法定地上権は成立しません」
「なんで二番じゃねえんだ?」
「一番抵当権者が担保価値を判断した時に、法定地上権の負担がある土地だと思ってないからです」
所長がほんの少し口元を上げました。
「よくできました」
「やった」
「では今日はもう一問」
「まだあるんですか!?」
「勉強は勢いだ」
「昭和のスポ根理論!」
真壁さんが笑った。
「諦めろ、栞。所長は一度始めると長いぞ」
「助けてくださいよ先輩!」
「俺も巻き込まれるから嫌だ」
薄情者。
その時、黒電話が鳴りました。
私が出る。
「はい、大槻不動産です」
『藤崎さん?』
「村瀬さん?」
さっきの奥さんでした。
『主人と相談して……ちゃんと相手の方と話し合ってみます』
「はい」
『それとね』
「はい?」
『娘が帰ってきて、今日もここに住めるの?って聞いたんです』
電話の向こうで、少し笑う気配がした。
『住めるよって言ったら、すごく喜んで』
「……そうですか」
『本当に、ありがとうございました』
「まだこれからですよ」
『はい。でも』
一拍置いて。
『今夜、安心して眠れます』
それだけで十分でした。
私は受話器を置きました。
「村瀬さんか」
所長が聞く。
「はい」
「どうだった」
「今日は安心して眠れるって」
所長は、それ以上何も言いませんでした。
ただ、「そうか」とだけ答えた。
窓の外では、夕焼けが町を赤く染めていました。
私は机の上のノートを開きます。
法定地上権。
昨日までの私なら、
成立要件を四つ。
抵当権設定時に建物あり。
土地建物が同一所有者。
土地または建物に抵当権。
競売で所有者が分離。
そう暗記して終わっていた。
でも今日からは、たぶん違う。
法定地上権と聞けば、あの家を思い出す。
縁側。
朝顔。
赤い長靴。
そして、
「この土地は俺のものだから、家を壊せ」
という言葉に対して。
法律が静かに差し出す、一枚の盾。
私はノートの端に書きました。
――土地と建物が離れても、家まで消えるとは限らない。
「栞」
「はい?」
真壁さんが缶コーヒーを一本放ってきました。
「今日はよくやった」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「明日から、電話に出ていきなり『法定地上権です!』とか言うなよ」
「言いませんよ!」
「お前ならやりそうだ」
「信用なさすぎません?」
所長が新聞を開きながら、ぼそっと言いました。
「栞なら、やるな」
「所長まで!」
二人が笑う。
私も、つられて笑いました。
昭和六十三年。
土地の値段が上がり続けると、本気で信じられていた時代。
土地は金になる。
担保になる。
競売にもかかる。
人の欲も集める。
でも、その上には。
誰かの家が建っている。
誰かの生活が載っている。
だから民法は、ときどき妙に人間くさい仕組みを用意している。
法定地上権。
名前は固い。
六文字もある。
試験では面倒。
でも今日、私は少し好きになりました。
だってあれはたぶん。
土地と一緒に、人の暮らしまで競売にかけさせないための法律なのだから。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




