[抵当権の侵害]現場編 木を切るな、土地を腐らせるな
抵当権という言葉には、どうにも強そうな響きがあります。
抵当。
権。
漢字だけ見ると、札束を積んだ銀行員が腕組みしながら、「この土地は今日から我々のものです」と言いそうです。
でも、違います。
抵当権をつけたからといって、土地を取り上げるわけじゃない。
家を明け渡させるわけでもない。
原則として、土地も建物も、持ち主がそのまま使う。
住んでもいい。
貸してもいい。
畑なら耕していいし、商売だってできる。
ただし。
担保として預かった“価値”まで、好き勝手に壊していいわけではありません。
そして、その日は朝から、まさに「価値」がトラックに積まれて逃げようとしていました。
「栞! 電話!」
朝九時。
大槻不動産の黒電話が、けたたましく鳴っていました。
受話器を取った真壁さんが、三十秒もしないうちに私へ押しつけてきます。
「なんで私に?」
「相手が怒鳴ってて分からん」
「営業ですよね?」
「怒鳴ってる相手は若い女の方が落ち着くかもしれん」
「昭和の営業術、雑すぎません?」
仕方なく受話器を耳に当てる。
「お電話代わりました、大槻不動産の藤崎です」
『あんたんとこ、抵当権つけた時に立ち会っただろう!』
耳が死ぬかと思いました。
声の主は柴崎源三さん。
六十代半ば。
市の外れに山林と古い倉庫を持つ材木商です。
半年前、事業資金として金融会社から一千五百万円を借り、その担保として山林と倉庫に抵当権を設定していました。
大槻不動産は、担保評価の際に現地確認を頼まれたらしい。
「はい。柴崎さんですね。どうされました?」
『木を切って何が悪い!』
「……はい?」
『俺の山だぞ!』
朝一番から、問いの順序が逆でした。
何が起きたのか尋ねると、さらに声が大きくなる。
『金融会社の奴が来て、木を切るなって言いやがる! 人の山に口出しするなってんだ!』
私は一瞬、受話器を離しました。
「真壁さん」
「何だ」
「山の木、切ってるそうです」
「何本?」
受話器に戻る。
「柴崎さん、何本くらい伐採しました?」
『三十……いや四十くらいだ! まだ切るぞ!』
「真壁さん」
「止めろ」
「ですよね」
『何を止めるんだ!』
聞こえてた。
「柴崎さん、いったん作業を止めてください」
『なんでだ!』
「抵当権の問題になる可能性があります」
受話器の向こうが静かになりました。
怒鳴る人というのは、不思議なもので、法律用語を出すと一瞬だけ声量が落ちることがあります。
『……抵当権?』
「はい」
『借金はまだ一回も遅れてないぞ』
「返済の遅れとは別問題です」
『俺の山だぞ』
「はい」
『俺の木だぞ』
「そこが厄介なんです」
『何がだ!』
「所有者だから使えます。でも、担保価値を壊すところまで自由とは限りません」
横で真壁さんが、珍しく真顔になっていました。
私は受話器を押さえます。
「行きます?」
「行く」
所長室から大槻さんの低い声も飛んできました。
「俺も行く」
……三人出動。
嫌な予感しかしません。
柴崎さんの山林は、町から車で二十分ほど走ったところにありました。
山道へ入ると、遠くからチェーンソーの音が聞こえてくる。
嫌なBGMです。
「まだ切ってますよね?」
「切ってるな」
「止めろって言ったのに」
「人は電話一本では止まらん」
所長が淡々と言いました。
現地へ着くと、道路脇に二トントラックが二台。
荷台には、太い杉の丸太が何本も積まれていました。
さらに山の斜面では、作業員が木に刃を入れています。
「うわぁ……」
私は思わず声を漏らしました。
土地だけが担保なら、木を持っていけば関係ない――。
そう思う人もいるかもしれません。
でも、山林では立木そのものが土地の価値を大きく左右します。
丸裸にすれば、当然、担保価値は落ちる。
それどころか、伐採の仕方によっては斜面の保水力や管理状態にまで影響する。
柴崎さんがこちらへ歩いてきました。
「大槻さん!」
「柴崎さん」
「見てくれよ。俺の山だ。木を売って運転資金にする。それの何が悪い」
所長は、積まれた丸太を見ました。
「全部売るんですか」
「使える木はな」
「いくらになります」
「五百万くらいだ」
真壁さんが眉を上げた。
「五百万?」
「悪いか」
「借金いくら残ってましたっけ」
「一千四百万くらいだ」
私は頭の中で計算します。
抵当権設定時の山林評価。
約一千八百万円。
ただし、その評価には立木の価値も含まれている。
そこから五百万円相当の材木を持ち出す。
なるほど。
金融会社が飛んでくるわけです。
「柴崎さん」
私はなるべく穏やかに言いました。
「木を一本切ったら、即、抵当権侵害になるわけではありません」
「ほら見ろ!」
「最後まで聞いてください」
「……はい」
「素直」
真壁さんがぼそっと言う。
「聞こえてますよ」
柴崎さんが睨んだ。
私は続けます。
「抵当権を設定した後でも、所有者には使用収益する権利があります」
「しよう……?」
「普通に使っていい、ということです」
「だったら木を切ってもいいだろ」
「通常の管理や利用の範囲なら、そうです」
私は山を見上げました。
「でも、担保価値を大きく下げるような伐採になると話が変わります」
「……」
「抵当権者が困るのは、返済が遅れた時だけじゃありません。いざ競売しようとした時に、担保がスカスカになっていたら困るんです」
「スカスカって言うな」
「では、著しく価値が減少した状態」
「急に教科書みたいに言うな」
「注文が多いですね」
真壁さんが吹き出しました。
その時。
「柴崎さん!」
山道の下から、スーツ姿の男が駆けてきました。
金融会社の担当者らしい。
四十代くらいで、汗だくです。
「だから止めてくださいと言ったでしょう!」
「うるさい! 俺の土地だ!」
「担保なんですよ!」
「借金は払ってる!」
また同じところを回り始めた。
こういう時、人は自分に都合のいい論点を何度でも再生します。
昭和のカセットテープです。
私は二人の間へ入った。
「ちょっと待ってください」
「嬢ちゃんは引っ込んでろ!」
担当者に言われました。
十八歳女子、便利な時だけ子ども扱いされます。
「では引っ込みますけど、このままだと丸太、運ばれますよ」
「……」
「話を整理した方がいいです」
所長が小さく頷いた。
「栞。やれ」
何を?
授業?
私は心の中で突っ込みながらも、地面に落ちていた細い枝を拾いました。
「柴崎さんが所有者」
地面に丸を書く。
「金融会社が抵当権者」
もう一つ丸。
「山は柴崎さんのものです。だから柴崎さんが使う」
「そうだ」
「でも抵当権者は、この山の担保価値をあてにしてお金を貸している」
「そうです」
担当者が頷いた。
「つまり争点は、“木を切ったかどうか”じゃありません」
私は枝で線を引きました。
「切ることで、担保価値が侵害されるかどうか」
柴崎さんが黙った。
「たとえば、枯れ木を数本切る。間伐する。管理上必要な伐採をする。それまで全部禁止したら、所有者は山を使えません」
「そうだろ」
「でも、商品価値の高い木を何十本も切って、外へ運び出し、しかも山の評価を大きく下げるなら?」
「……」
「抵当権者が止めろと言える可能性が高くなります」
担当者が勢いよく言った。
「だから止めてるんです!」
「あなたもちょっと静かにしてください」
「え?」
「金融会社だからって全部正義みたいに前へ出ると、話が壊れます」
真壁さんが横を向いて笑いをこらえている。
「お前、怖いものないのか」
「あります。宅建の統計問題とか」
「そこかよ」
柴崎さんは、積まれた丸太を見ていました。
「……もう切った木はどうなる」
来た。
私は少し慎重になりました。
「少なくとも、勝手に持って行っていい、と即断はしない方がいいです」
「木は俺のだぞ」
「所有権の話だけじゃありません」
所長がそこで口を開きました。
「抵当権の効力が及ぶ範囲の問題になる」
柴崎さんが顔をしかめる。
「切ったら、山から離れただろ」
「だからこそ揉める」
所長は短く答えました。
「少なくとも今ここで運び出すな。金融会社と話をつけろ」
「でも今日中に材木屋へ持っていかないと……」
「急いで持ち出せば持ち出すほど、心証は悪くなるぞ」
低い。
静か。
でも圧がある。
さすが所長。
チェーンソーより効きます。
「……分かったよ」
柴崎さんは作業員に手を上げました。
「今日は止めだ!」
山の音が止まった。
急に鳥の声が聞こえます。
静かになると、さっきまでどれだけ騒がしかったか分かる。
私はほっと息をついた。
――ここまでは。
「大槻さん」
真壁さんが、山の反対側を見ていました。
「何だあれ」
斜面の下。
古い倉庫の横に、小さなプレハブ小屋が二つ建っていました。
その周りには、タイヤ、ドラム缶、廃材、古い家電。
明らかに柴崎さんの材木置場とは雰囲気が違う。
しかも、焚き火の跡まである。
「柴崎さん」
私は嫌な予感とともに聞きました。
「あれ、何ですか?」
柴崎さんの顔が曇りました。
「……知らん奴が住みついた」
「はい?」
「二か月くらい前からだ」
「二か月!?」
「追い出せよ!」
真壁さんが叫んだ。
「言ったよ! でも『空いてんだからいいだろ』って」
「よくないでしょう!」
「警察にも相談したが、話がややこしくてな……」
私は額を押さえました。
朝から抵当権侵害のフルコースです。
伐採。
持ち出し。
不法占有。
ごみ。
次は何でしょう。
土地に温泉でも湧きます?
現場へ近づくと、プレハブから男が出てきました。
三十代後半くらい。
無精ひげ。
手には缶コーヒー。
「何だよ」
真壁さんが前に出る。
「ここ、柴崎さんの土地ですよね」
「知ってるよ」
「許可取ってます?」
「取ってねえけど、誰も使ってなかったじゃん」
「理屈が強盗なんですよ」
思わず口から出ました。
男が私を睨む。
「なんだ、お前」
「事務見習いです」
「見習いが何しに来た」
「私もそう思ってます」
真壁さんが吹き出した。
所長だけは真顔です。
「ここを明け渡してください」
「は?」
「所有者から使用を認められていないなら、不法占有です」
「だから?」
男は鼻で笑った。
「銀行でも何でもねえ奴が、俺に出てけって言えるのかよ」
私は、一瞬黙りました。
そこ、なかなかいいところを突きますね。
抵当権者は所有者ではない。
抵当権は占有を移す権利でもない。
だから、単純に「抵当権者だから所有者みたいに追い出せる」とは言えない。
でも。
「事情によります」
「は?」
「不法占有のせいで、担保不動産の価値が下がる場合です」
私はプレハブの周囲を見回しました。
ごみ袋。
廃タイヤ。
割れた冷蔵庫。
そして、土が黒く変色している一角。
「柴崎さん」
「ん?」
「あそこ、何を埋めてるんですか?」
「知らん」
男が目をそらした。
分かりやすい。
真壁さんが近づこうとすると、所長が止めました。
「触るな」
「はい」
「写真だけ撮れ」
所長の指示で、現場を記録する。
担当者の顔が青くなっていました。
「これ……競売評価に響きますよ」
「でしょうね」
ゴミ屋敷つき山林。
不動産広告に書いたら、一発で売れなくなる単語です。
男が苛立ったように言いました。
「俺は土地壊してねえよ」
「もう壊し始めてます」
私は言いました。
「不法占拠して、小屋を建てて、ゴミを置いて、何かを埋めている」
「証拠あんのか」
「だから今、記録してます」
「……」
「そして、その状態で土地の売却価値が下がるなら、抵当権者にとっても無関係じゃありません」
男がせせら笑う。
「でも土地はこいつのだろ」
「そうです」
「じゃあ俺に文句言えるのは、こいつだけだ」
私は柴崎さんを見た。
柴崎さんは苦い顔をしている。
たぶん、強く言えない理由があるのだろう。
面倒。
怖い。
そのうち出ていくだろう。
人は、不動産トラブルほど「そのうち」で育てがちです。
そしてだいたい、そのうちは立派な怪獣になります。
「柴崎さん」
「何だ」
「本当に追い出したいですか」
「当たり前だ」
「だったら、ちゃんと動きましょう」
「……」
「放っておくほど、状況は悪くなります」
金融会社の担当者も口を開いた。
「こちらとしても放置できません」
「お前らに何ができるんだよ」
男が言う。
所長が答えました。
「抵当権者が、所有者の妨害排除請求権を代位して行使できる場合がある」
男の顔から、少し笑いが消えた。
「……なんだそれ」
「簡単に言えば」
私は言いました。
「柴崎さんが持っている“出ていけと言う権利”を、条件を満たせば抵当権者側から使える場合がある、ということです」
「は?」
「『所有者が動かないなら、抵当権者は何もできない』とは限らないんです」
男は黙った。
「それに」
私は、黒く変色した土を見ました。
「もしゴミや廃油なんかで土地の価値を下げているなら、別の問題も出てきます」
「……」
「除去費用などの損害について、不法行為に基づく損害賠償の話も出てくるかもしれません」
男の顔色が変わった。
こういう人は、「出ていけ」には強い。
でも「金を払え」には弱い。
世の中、だいたいそうです。
「俺、別に汚してねえし」
「では確認しても問題ないですね」
「……」
「埋めた物も確認しましょう」
「……」
「所長、専門業者と相談した方がいいですよね」
「ああ」
「待てよ」
初めて、男の声に焦りが出ました。
「別に揉めたいわけじゃねえよ」
「私たちもです」
「……出てきゃいいんだろ」
真壁さんが鼻を鳴らした。
「最初からそう言ってる」
「ただし」
私は男を見ました。
「出ていくだけで終わるとは限りません」
「は?」
「置いた物は片づける。埋めた物があるなら確認する。土地に損害が出ているなら、それも話し合う」
「全部俺にやれって?」
「あなたがやったなら」
「……」
男はしばらく黙り込みました。
やがて、プレハブの横に積んであった廃タイヤを見た。
「……一週間くれ」
「柴崎さん」
私は所有者へ確認した。
「それでいいですか」
柴崎さんは男を見つめました。
怒鳴るでもなく、しばらく黙ったあと、言った。
「一週間だ」
「分かった」
「今度は逃げるなよ」
「逃げねえよ」
男は小さく答えました。
その日の午後。
事務所へ戻ると、私は椅子に崩れました。
「疲れた……」
「朝から山で民法やったからな」
真壁さんが缶コーヒーを一本投げてきます。
「危ないですよ」
「取っただろ」
「取れなかったら労災です」
「事務見習いが缶コーヒーで労災申請するな」
「じゃあ安全配慮義務違反で」
「面倒な新人だなあ!」
私は缶を開けました。
甘い。
昭和の缶コーヒー、砂糖が遠慮を知らない。
「でも、不思議ですね」
「何が」
「抵当権って、てっきりもっと単純な権利だと思ってました」
「金返さなきゃ競売、ってか?」
「はい」
「まあ普通はそう思うわな」
「でも、今日みたいに、競売する前の段階でも守らなきゃいけないものがある」
真壁さんが机にもたれた。
「担保価値な」
「はい」
私は指を折りました。
「木を今から持ち出そうとしてるなら、やめてくださいと言える」
「うん」
「もう持っていかれたなら、戻してくださいと言える場合がある」
「ただし?」
「抵当権者のところじゃなくて、所有者のところへ戻す」
「お」
真壁さんが笑った。
「分かってんじゃねえか」
「そこ、大事ですよね」
「なんで?」
「抵当権者は、物を自分で持っておく人じゃないから」
「そういうことだ」
私は続ける。
「不法占有で担保価値が下がるなら、出ていけと言える場合がある」
「うん」
「土地を汚して損害が出たら、損害賠償の話も出てくる」
「……今日だけで全部やったな」
「抵当権侵害セットメニューでした」
「二度と注文したくねえな」
そこへ所長が出てきました。
「栞」
「はい」
「一つ勘違いするなよ」
「?」
「抵当権者は、何でも止められるわけじゃない」
「……はい」
所長は机の端に腰かけました。
「柴崎さんが、自分の土地に倉庫を建てた。それだけなら?」
「それだけなら……原則として、直ちに抵当権侵害ではない」
「なぜ」
「抵当権を設定しても、所有者は土地を使えますから」
「そうだ」
所長は頷いた。
「抵当権は、土地を凍結する権利じゃない」
その言い方が、妙に腑に落ちました。
土地を凍結する権利じゃない。
所有者は、使う。
生活する。
商売する。
建物を建てることだってある。
ただし、担保価値を壊すようなことをすれば、抵当権者は黙っていなくていい。
「大事なのは」
所長が言いました。
「“所有者が何かした”ことじゃない」
「はい」
「“抵当権の実行を困難にするほど、担保価値が侵害されたか”だ」
「なるほど……」
「何でもかんでも『抵当権侵害だ!』と叫ぶと、所有権の方を食い潰す」
「逆に、何でも自由にしたら?」
私が聞くと、所長は即答しました。
「担保が意味をなくす」
ああ。
まただ。
法律は、どちらか片方だけを勝たせるようにはできていない。
所有者には、使う自由がある。
抵当権者には、担保価値を守る利益がある。
その境目を引く。
だから難しい。
でも。
だから面白い。
「所長」
「何だ」
「今日の私、ちょっと活躍しましたよね」
「そうだな」
「昇給とか」
「ない」
「即答」
「見習いだ」
「抵当権より強いですね、所長の財布」
「担保価値を守ってるんだ」
「誰のですか!」
真壁さんが腹を抱えて笑いました。
夕方。
柴崎さんから電話がありました。
伐採は当面中止。
金融会社と相談し、必要な間伐と売却可能な範囲を改めて確認することになったそうです。
すでに切った木も勝手に搬出せず、処理方法を協議する。
不法占拠していた男も、仲間を呼んでプレハブの片づけを始めたらしい。
『栞ちゃん』
「はい」
『朝は怒鳴って悪かったな』
「本当ですよ」
『そこは“大丈夫です”って言うところじゃないのか』
「鼓膜がまだ覚えてますので」
電話の向こうで、柴崎さんが笑いました。
『でもな』
「はい」
『あの山、親父から継いだ山なんだ』
少しだけ、声が変わった。
『借金の担保に入れた時から、もう自分のもんじゃない気がしてたんだよ』
「……」
『だから、木くらい好きにしてやろうと思った』
私は窓の外を見ました。
夕方の光が、古い事務所のガラスを橙色に染めています。
「柴崎さん」
『ん?』
「抵当権がついても、山は柴崎さんの山ですよ」
『……』
「だから使っていいんです」
『うん』
「ただ、借りたお金を支える分だけ、少し責任が増えただけです」
『責任、か』
「はい」
私は少し考えてから続けました。
「全部取られたわけじゃないです」
『……そうか』
「だから、今度はちゃんと相談して切ってください」
『分かった』
「あと不法占拠、二か月放置は長いです」
『そこまで怒るなよ』
「土地トラブルは熟成させても美味しくならないんです」
『ははは』
電話が切れた。
私は受話器を置きました。
「誰にそんな言い回し教わった」
真壁さんが聞きます。
「人生です」
「十八歳の台詞じゃねえな」
まあ。
二周目ですから。
言いませんけど。
机の上には、宅建のテキスト。
抵当権。
抵当権の効力。
抵当権の侵害。
昨日までなら、項目の名前だけで眠くなったところです。
でも今日、私は山で見た。
切られる木を。
運ばれそうな丸太を。
勝手に建てられたプレハブを。
埋められたゴミを。
そして、その全部の向こう側にある「価値」を。
抵当権は、土地を取り上げる権利じゃない。
むしろ、土地を持ち主の手元に置いたまま、その価値だけを信じて待つ権利だ。
だから、その価値が壊されそうになった時。
黙って見ていなくてもいい。
止める。
戻させる。
出ていかせる。
損害が出れば、償わせる。
ただし。
何でもかんでも禁止するわけじゃない。
持ち主には、使う権利があるから。
私はノートの端に、一行だけ書きました。
抵当権――「持っていないから、守れない」ではない。
「栞」
「はい?」
真壁さんが、紙袋を机に置きました。
「柴崎さんから」
「何です?」
「しいたけ」
「山だから?」
「山だからだろ」
袋を開けると、立派な生しいたけがぎっしり入っていました。
昭和の人情、今日も物量で来ます。
「所長」
「何だ」
「これも抵当権の効力、及びます?」
「食え」
「ですよね」
その夜。
私はしいたけを持って帰りました。
木は切られかけた。
土地は荒らされかけた。
でも、山はまだそこにある。
持ち主の手元に。
担保としての価値も、どうにか残したまま。
それでいい。
抵当権というのは、奪うための権利ではない。
最後までちゃんと価値を残しておくための権利なのだから。
……そして私は、この日の夕飯で初めて知ることになります。
しいたけは、バター醤油で焼くと法律よりずっと分かりやすい。
昭和六十三年。
今日もまた、宅建の条文が一つ。
教科書の中から、現場へ降りてきました。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




