[抵当権と賃借人]現場編 六か月後に出ていけ
家を借りる時に、普通の人が確認すること。
家賃。
間取り。
駅から何分。
日当たり。
お風呂とトイレが別か。
そして、できれば隣人が深夜二時に尺八を吹かない人であること。
――抵当権の順位。
そんなものを最初に確認する十八歳は、たぶん相当おかしい。
残念ながら、今の私はその「相当おかしい十八歳」でした。
「栞。客だ」
昭和六十三年、秋。
午後三時を少し回った頃、大槻不動産の入口から戻ってきた真壁さんが、珍しく低い声で言いました。
「お客さんなら、いつも来るでしょう」
「今日はちょっと重い」
「何キロです?」
「そういう意味じゃねえ」
知ってます。
応接机を見ると、四十代くらいの女性と、その隣に大学生くらいの男の子が座っていました。
女性は両手でハンドバッグを握りしめています。
男の子は封筒を机の上に置いたまま、黙って床を見ていました。
どう見ても、
――いい物件ありますか?
という顔ではない。
私はお茶を置きました。
「どうぞ」
「ありがとうございます……」
女性――佐伯美代子さんは、小さく頭を下げました。
所長の大槻さんが、封筒から一枚の書面を取り出します。
「それで、昨日これが?」
「はい」
佐伯さんは震える声で言いました。
「突然、知らない人が来て……この家は自分が競売で買ったから、出ていってくれって」
――競売。
私は思わず書面へ目を落としました。
建物引渡しについての通知。
佐伯さんが借りている一戸建てが、抵当権の実行による競売で売却され、買受人が決まったらしい。
「家賃はちゃんと払ってたんです」
佐伯さんが言いました。
「一度も遅れたことはありません。大家さんとも普通にやってました。それなのに、借金があったなんて知らなくて……」
「いつから借りてるんです?」
真壁さんが尋ねました。
「二年半くらい前です」
「入った時に、抵当権の話は?」
「聞いてません」
真壁さんの眉間に皺が寄ります。
「登記簿、見てみるか」
所長が机の上に置かれていた資料をめくりました。
私も横から覗きます。
所有者、野村正雄。
その下。
抵当権設定。
債権者、東亜信用金庫。
そして日付。
昭和六十一年五月。
賃貸借開始は、その約一年後。
嫌な順番です。
とても嫌な順番です。
私は頭の中で並べました。
①抵当権設定登記。
②佐伯さん入居。
③競売。
これは――。
「栞」
所長が私を見る。
「分かったか」
「はい」
でも、その答えを言うのは気が重かった。
佐伯さんは何も悪くない。
家賃を払った。
静かに暮らした。
契約も守った。
それでも、法律上は――。
「……佐伯さん」
私は椅子を少し近づけました。
「最初に、少し厳しいことを言います」
女性の肩が強張る。
「はい」
「この家に抵当権がついたのは、佐伯さんが借りるより前です」
「……はい」
「その場合、原則として、佐伯さんは競売で家を買った人に対して、『私は借りているからこのまま住ませてください』とは言えないんです」
息子さんが顔を上げました。
「なんでですか?」
声に棘があった。
「母は何も悪くないでしょう」
「そうです」
私は頷きました。
「悪くありません」
「じゃあ、なんで」
「法律上、先に対抗できる状態になった権利が優先されるからです」
「権利?」
「この場合は、抵当権です」
彼は納得できない顔で唇を噛みました。
当然です。
法律というのは、ときどき、
悪い人と良い人を並べるのではなく、
先の人と後の人を並べます。
人間として正しいかどうかと、権利関係で勝つかどうかは、別のゲームです。
「じゃあ……」
佐伯さんがかすれた声を出しました。
「明日にも出ないといけないんでしょうか」
私はそこで、首を横に振りました。
「それは違います」
佐伯さんが顔を上げる。
「え?」
「すぐには出なくていいです」
真壁さんがこちらを見る。
所長は何も言わない。
試されてる。
たぶんこれ、実務版・口頭試験です。
緊張するからやめてください。
「建物の賃借人には、明渡しの猶予があります」
「猶予?」
「はい」
私は指を一本立てました。
「競売で買った人が所有権を取得してから、六か月間です」
佐伯さんの目が大きくなります。
「六か月……?」
「その間に、新しい住まいを探すことができます」
「じゃあ、明日出ろっていうのは」
「少なくとも、そのまま従う必要はありません」
息子さんが身を乗り出しました。
「じゃあ追い出せないんですね?」
「六か月は」
私はそこを強調しました。
「でも、六か月経ったら?」
聞かれて、私は少し息を止めた。
「……原則として、明け渡さなければなりません」
期待させてから落とす。
法律説明で一番やりたくない流れです。
でも、ここをごまかしてはいけない。
佐伯さんは目を伏せました。
「半年……」
大学生の息子さんが、机を睨みます。
「そんなの結局、出ていけってことでしょう」
「そうだな」
そこで初めて、真壁さんが口を開きました。
「ただし」
その言葉に、私は真壁さんを見ました。
「競売が全部終わっちまってるなら、な」
「え?」
佐伯さんが顔を上げる。
真壁さんは所長を見た。
「所長。これ、もう代金納付まで済んでます?」
大槻さんは書類を一枚ずつ確認しました。
「……いや」
そして、短く答えた。
「まだだ」
事務所の空気が変わりました。
「買受人は決まっているが、売却代金の納付前だ」
私は椅子から立ち上がりそうになりました。
「じゃあ、まだ……」
「競売手続を止められる可能性がある」
所長は言いました。
佐伯さん親子は話についていけていない。
「どういうことですか?」
私は頭の中を整理しました。
抵当権。
競売。
任意売却。
そして賃貸借。
――そうか。
「大家さんが、銀行への借金を何とかできれば……」
「そういうことだ」
所長が頷く。
「あるいは任意売却へ切り替えて、買主との間で賃貸借を承継する形を作れれば話は変わる」
佐伯さんが瞬きをしました。
「にんい……?」
「普通に売る、という意味に近いです」
私は説明しました。
「競売ではなく、大家さんが買主を見つけて売るんです」
「でも、それでも持ち主は変わるんですよね?」
「変わります」
「じゃあ同じじゃ……」
「同じじゃありません」
私ははっきり言いました。
「任意売却の場合、佐伯さんがすでに建物の引渡しを受けて住んでいれば、新しい所有者に賃借権を主張できる場合があります」
息子さんが眉を上げる。
「競売だと駄目なのに?」
「そうなんです」
「ややこしいですね」
「私もそう思います」
即答したら、真壁さんが吹き出した。
「お前がそれ言うのかよ」
「法律が『同じ建物の売却なんだから同じでしょ』って感覚を全力で裏切ってくるんです」
「宅建って大変だな」
「今さらですか?」
でも、可能性がある。
それだけで、佐伯さんの顔色が少し戻った。
所長が電話に手を伸ばします。
「大家の野村さんと連絡は取れるか?」
「電話番号ならあります」
「真壁」
「はい」
「銀行にも話を通せ。競売を止められるか確認する」
真壁さんが立ち上がりました。
「栞」
「はい?」
「お前も来い」
「え」
「六か月の話をあれだけ偉そうにしたんだ。最後まで付き合え」
「偉そうにはしてません!」
たぶん。
◇
大家の野村さんは、駅前の古い喫茶店にいました。
五十代半ば。
痩せた頬。
灰色の背広。
何より、その人は私たちを見るなり頭を下げました。
「佐伯さんに……迷惑かけた」
事情を聞けば、派手な話ではありませんでした。
小さな工場を経営していた。
機械を買い替えた。
売上が落ちた。
借金を返せなくなった。
銀行から督促が来た。
気づいた時には競売。
バブルの時代だからといって、全員が札束風呂に入っているわけではありません。
むしろ土地の値段が上がりすぎて、その影で沈む人もいる。
「佐伯さんを追い出したかったわけじゃないんだ」
野村さんは言いました。
「でも、自分でもどうしていいか分からなくなって……」
真壁さんが煙草を灰皿へ押しつけました。
「残債はいくらです?」
「一千四百万ほど」
「家の相場は?」
「二千万前後です」
真壁さんが私を見る。
私も意味が分かった。
余地がある。
「所長の知り合いで、収益物件を探してる人がいる」
真壁さんが言いました。
「佐伯さん付きで買ってもらえるなら?」
野村さんは顔を上げた。
「そんなことが……?」
「契約条件次第です」
私は言いました。
「でも、買主が賃貸借を引き継ぐ前提なら、佐伯さんは住み続けられます」
「……本当に?」
「問題は銀行と競売手続です」
真壁さんが続ける。
「時間がねえ」
そこから二日間。
事務所は、ちょっとした戦場になりました。
といっても、刀も銃も飛びません。
飛ぶのは電話。
書類。
数字。
そして怒鳴り声。
「真壁さん、銀行からです!」
「今出る!」
「所長、買主候補の高瀬さんが四時に!」
「応接空けとけ!」
「栞、コピー!」
「はい!」
昭和のコピー機は遅い。
こういう時だけ令和に帰りたい。
「まだか!」
「機械に言ってください!」
「お前、機械にも喧嘩売るんだな」
「時間が敵です!」
私たちは条件を詰めた。
買主候補の高瀬さんは、地元で何棟か貸家を持つ人だった。
「佐伯さんがきちんと家賃を払ってるなら、そのままでいいよ」
あっさり言った。
私は危うく拝みそうになった。
神様って、案外ジャンパー着て不動産屋に来るんですね。
売却代金から銀行へ弁済。
競売の取下げを調整。
所有権は高瀬さんへ。
佐伯さんの賃貸借は継続。
野村さんにはほとんど金は残らない。
でも借金は整理できる。
そして佐伯さん親子は、家を失わない。
全員が百点ではない。
でも、全員が零点になるよりずっといい。
最後の問題は、競売で買おうとしていた人物だった。
大槻不動産の応接室で、その男は露骨に不満そうな顔をしました。
「こっちはもう買うつもりでいたんですよ」
四十代。
不動産業者。
名刺には「丸富地所 専務 黒崎」。
「お気持ちは分かります」
所長が静かに言う。
「だが、まだあなたの所有物ではない」
「手続は進んでる」
「代金納付前だ」
所長の声は低い。
静かな人ほど怒らせると怖い、の見本です。
「債権者と所有者が合意し、適法に競売が取り下げられれば、それまでだ」
黒崎は舌打ちした。
「そこまでして店子を守るんですか?」
その言葉に、私は少し腹が立ちました。
――店子。
もちろん法律上は賃借人です。
でも、佐伯さんは単なる「店子」じゃない。
そこに住んで、息子を学校へ送り出して、夕飯を作っている。
それが家です。
「守るというより」
私は口を挟みました。
黒崎が私を見る。
「なんだ、お嬢ちゃん」
出ました。
昭和の男性、「お嬢ちゃん」で相手の知能を三割引きにする魔法。
残念ながら効きません。
「権利関係を整理してるだけです」
「ほう?」
「競売になれば、佐伯さんはあなたに賃借権を対抗できない」
「そうだろ」
「はい」
私は頷きました。
「だからこそ、競売になる前なら、別の方法を探す意味があります」
「甘いね」
「そうでしょうか」
私は机の上の資料を見ました。
「あなたが競売で買えば、佐伯さんは六か月の明渡猶予を受ける。すぐに空き家になるとは限らない」
黒崎の顔が少し変わった。
「その間、明渡しをめぐって揉めるかもしれない。建物の状態も確認が必要。買った後の管理もある」
私は続けました。
「一方で高瀬さんは、佐伯さんが住み続ける前提で買う。最初から賃料収入がある」
「……」
「どちらが正しいという話じゃありません」
私は言いました。
「ただ、競売だから何でもすぐ片づくわけじゃないです」
黒崎は私をしばらく睨んでいました。
やがて鼻で笑う。
「大槻さん。面白いの飼ってますね」
「飼われてません」
私は即答しました。
「給料も安いです」
「栞」
所長が怖い声を出した。
「そこは今関係ない」
「すみません」
真壁さんが横で肩を震わせていた。
◇
三週間後。
競売は取り下げられた。
高瀬さんへの任意売却が成立した。
そして佐伯さんの賃貸借は、そのまま続くことになった。
事務所へ報告に来た佐伯さんは、最初の日とは別人みたいな顔をしていました。
「本当に……住んでいていいんですね」
「はい」
所長が答えます。
「今まで通り家賃を払ってください」
「はい!」
「遅れると、今度は普通に怒られます」
私が付け足すと、佐伯さんが初めて大きな声で笑いました。
「栞ちゃん、それくらいなら大丈夫」
隣にいた息子さんも笑う。
そして彼は、私に小さく頭を下げました。
「あの時、きつい言い方してすみませんでした」
「え?」
「母が悪くないのに出ていけって言われるのが、どうしても納得できなくて」
「普通ですよ」
私は言いました。
「私でも怒ります」
「法律知ってるのに?」
「知ってるから余計に怒る時もあります」
法律は万能の正義ではない。
そこにある順番を整理する道具です。
先に抵当権があれば、後の賃借人は競売の買受人に対抗できない。
それ自体は変えられない。
でも、
競売しか道がないとは限らない。
そこに任意売却という道があるなら。
関係者が合意できるなら。
まだ別の出口を探せることがある。
「栞」
帰り際、佐伯さんが私を呼び止めました。
「はい?」
「半年って聞いた時ね」
少しだけ笑いました。
「半年もある、と思ったの」
「……」
「最初は明日出ろって言われたから」
私は何も言えませんでした。
「それだけでも、あの時は救われた」
佐伯さんは頭を下げた。
「ありがとう」
その言葉は、思ったより重かった。
六か月。
宅建の問題なら、ただの数字です。
選択肢の中で、
「直ちに明け渡さなければならない」
と書いてあれば、
×。
「買受人が所有権を取得した時から六か月間、明渡しを猶予される」
なら、
○。
それだけ。
でも実際の人間にとって、六か月というのは――。
次の家を探す時間で。
子どもの学校を考える時間で。
貯金を確認する時間で。
そして、今日みたいに別の解決策を探す時間でもある。
数字って、不思議だ。
問題集の中では無機質なのに、現場ではちゃんと人を守る。
佐伯さん親子が帰ったあと、私は自分の机に戻りました。
真壁さんが缶コーヒーを置く。
「ご褒美ですか?」
「まあな」
「甘いやつ?」
「微糖」
「やり直し」
「贅沢言うな」
私はプルタブを開けました。
「でも今回、危なかったですね」
「ああ」
「最初は、六か月後には出てもらうしかないと思いました」
「法律だけ見りゃな」
真壁さんは机に腰を預けた。
「現場じゃ、法律で負けるから終わり、とは限らん」
「……」
「他の道を探すのも不動産屋の仕事だ」
私は少し考えてから言いました。
「真壁さん」
「なんだ」
「たまに格好いいこと言いますね」
「たまにを付けるな」
奥から所長の声が飛んできます。
「真壁」
「はい?」
「机に座るな」
「……はい」
格好いい時間、十八秒。
短い。
私は笑いながら、ノートを開きました。
今日の欄に書く。
抵当権と賃借人。
先に抵当権。
後から賃借人。
競売なら、原則として賃借人は買受人に対抗できない。
ただし建物なら、六か月の明渡猶予。
そして、その下にもう一行。
競売と任意売却を混同しない。
私は鉛筆を止めました。
窓の外では、夕方の町を自転車が走っていく。
きっと今頃、佐伯さんも家へ帰っている。
今日までと同じ玄関を開けて、
今日までと同じ台所で、
夕飯を作るのだろう。
その「同じ」が続くことは、案外すごいことなのかもしれない。
私はノートを閉じました。
宅建の勉強をしていた頃、
六か月なんてただの暗記だった。
でも今なら分かる。
法律がくれる六か月は、
ただの猶予じゃない。
人生を立て直すための、
小さな余白なのだ。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




