[抵当権の効力]法理編 栞とお勉強
夕方の事務所で、私はノートを開きました。
今日の事件を、もう一度整理する。
河合さんは、銀行から二千万円を借りた。
その担保として、自宅の土地と建物に抵当権を設定した。
ところが、仕事がうまく回らなくなり、返済が遅れた。
そして銀行から言われた。
――このままでは、抵当権を実行します。
「……文字にすると、やっぱり怖いな」
私は鉛筆を止めました。
「何がだ?」
後ろから声がした。
「うわっ」
振り返ると、真壁さんがいました。
「勝手に人の後ろに立たないでください」
「別に忍び寄ったわけじゃねえよ」
「顔が怖い人は、普通に立ってるだけで忍び寄った判定なんです」
「失礼だな、お前」
真壁さんは私のノートを覗き込みました。
「抵当権の復習か」
「はい」
「今日ので十分分かっただろ」
「分かった気になるのが一番危ないんですよ」
「宅建に何か恨みでもあるのか」
「あります」
「即答かよ」
ありますとも。
前世で何度、
――次の記述のうち、誤っているものはどれか。
という文章に人生を否定されたことか。
試験問題というものは、四択の顔をして人間の自尊心を削ってきます。
私は気を取り直して、ノートの一番上に書きました。
抵当権の効力――優先弁済的効力。
「まず、ここです」
「優先……なんだ?」
「優先弁済的効力」
「長い」
「四文字熟語二個分ですからね」
「もっと簡単に言え」
「他の人より先に返してもらえる力」
「最初からそう言え」
「法律の先生に怒られます」
私はその下に、簡単な図を書きました。
河合さん
↓
銀行から二千万円借りる
↓
自宅に抵当権を設定
「抵当権の一番大事な効力は、担保になっている不動産の価値から、ほかの債権者より優先して弁済を受けられることです」
「つまり、銀行が先に金を取れる」
「ざっくり言えば、そうです」
私は頷きました。
「これを、優先弁済的効力といいます」
民法三六九条一項。
抵当権者は、債務者または第三者が占有を移転しないで債務の担保に供した不動産について、他の債権者に先立って自己の債権の弁済を受けることができる。
そこが、抵当権の出発点です。
「でも」
私は鉛筆を一本立てました。
「ここで問題があります」
「なんだ」
「家からお金は出てきません」
「当たり前だ」
「土地を絞っても千円札は出ません」
「誰が絞るんだ」
「だから、お金に換える必要があります」
「ああ」
真壁さんが頷く。
「そこで競売か」
「そうです!」
私はノートに大きく書きました。
抵当権の優先弁済的効力
↓
これを現実に実現する
↓
競 売
「ここが今日の一番大事なつながりです」
「つながり?」
「はい」
私は鉛筆で矢印を何度かなぞりました。
「抵当権者には、“優先して返してもらえる権利”があります」
「うん」
「でも権利を持っているだけでは、お金は手元に来ません」
「そりゃそうだ」
「だから、不動産を売ってお金に換える」
「それが競売」
「はい」
私は大きく丸をつけました。
競売=抵当権の優先弁済的効力を現実化する方法。
「……なんか難しそうに書いたな」
「じゃあ簡単にします」
私は横に書き加えた。
抵当権
=先に返してもらえる権利。
競売
=そのために家や土地を売ってお金にする手続。
「おお」
真壁さんが頷いた。
「俺にはそっちだな」
「試験本番で『家を売ってお金にするやつ』って書かないでくださいね」
「俺は受けねえよ」
それもそうでした。
私は次のページを開きました。
「じゃあ、競売って具体的に何をするんだ?」
「簡単に言うと――」
私は、今日河合さんの奥さんに説明したことを思い出しました。
「債務者がお金を返せなくなった場合に、抵当権者が担保になっている不動産について裁判所に申し立てて、売却してもらうんです」
「銀行が直接売るわけじゃないんだな」
「そこ重要です」
私は赤鉛筆を持ちました。
競売は、抵当権者が勝手に不動産を取り上げて売る制度ではない。
「今日、河合さんの奥さんが心配してたところだな」
「そうです」
「銀行が来て、鍵を替えるんじゃない」
「はい」
「家をトラックに積んで持って帰るんでもない」
「それは私のたとえを引きずりすぎです」
でも、この違いは大事です。
抵当権が設定されているからといって、債務不履行になった瞬間に、不動産の所有権が抵当権者へ移るわけではない。
抵当権者は、原則として担保不動産を換価し、その売却代金から弁済を受けます。
不動産担保権の実行方法としては、民事執行法上、担保不動産競売などが定められています。
つまり、
抵当権がある。
だから家が銀行のものになる。
ではありません。
抵当権がある。
↓
債務が履行されない。
↓
抵当権を実行する。
↓
裁判所の競売手続。
↓
不動産を売却。
↓
売却代金から弁済を受ける。
「こういう順番です」
「なるほどな」
真壁さんが腕を組みました。
「じゃあ、“抵当権を実行する”ってのは?」
「担保権を使って回収手続に入る、という感じですね」
「競売にかけること?」
「今回の話では、そう覚えて大丈夫です」
私はノートに書きました。
抵当権を実行する
↓
代表例
↓
担保不動産競売
「ただ、“抵当権の実行=必ず競売しかない”とまで覚えると細かいところでは危ないです」
「なんでだ?」
「不動産担保権の実行には、競売だけでなく、法律上ほかの方法もあるからです」
「へえ」
「でも宅建で基本を押さえるなら、まずは『抵当権を実行して競売し、売却代金から優先弁済を受ける』でいいと思います」
「試験ってのは、細かく考えすぎても駄目なのか」
「考えなさすぎても死にます」
「難儀だな」
本当に。
私はさらにページをめくりました。
「じゃあ、競売ってどう進むと思います?」
「知らん」
「即答ですね」
「俺は営業だ」
「便利な逃げ道ですね、それ」
私は大ざっぱな流れを書きました。
① 競売の申立て
② 競売開始決定・差押え
③ 不動産の調査・評価
④ 入札・売却
⑤ 買受人が代金を納付
⑥ 売却代金を債権者へ配当
「ざっくりこんな感じです」
「けっこう手順があるんだな」
「あります」
競売は、債権者が、
「今日から競売な」
と言って翌日に玄関先でオークションを始める制度ではありません。
裁判所の手続です。
申立てがされ、開始決定が出され、不動産が差し押さえられる。
執行官や評価人によって不動産の状況が調査され、評価が行われる。
そのうえで売却手続が行われ、買受人が決まります。
そして買受人が代金を納付する。
そこで得られたお金が、債権者へ配当されるわけです。
「配当って、宝くじみたいな言い方だな」
「全然うれしい配当じゃありませんけどね」
「株の配当でもない」
「はい」
私はノートに書きました。
配当
=競売で得た売却代金を、法律上の順位に従って債権者へ分配すること。
「順位って?」
「そこが抵当権の強いところです」
私は人の顔を三つ描きました。
絵心については触れないでください。
銀行 抵当権あり
取引先A 普通の貸金債権
知人B 普通の貸金債権
「河合さんに、銀行以外にもお金を貸している人がいたとします」
「うん」
「家が競売されました」
「うん」
「売却代金があります」
「全員で山分け?」
「ではありません」
私は銀行のところに丸をつけました。
「抵当権者は、原則として一般の債権者より優先します」
「それが優先弁済的効力」
「正解です!」
「お」
「真壁さん、今日かなり出来ますね」
「馬鹿にしてんのか」
「褒めてます」
「目が馬鹿にしてる」
失礼な。
私は続けました。
一般債権者
より
抵当権者
が原則優先。
「つまり、競売そのものが抵当権の目的じゃないんです」
「ん?」
「目的は、優先して弁済を受けることです」
「ああ」
「そのために、不動産を競売してお金に換える」
「なるほど」
私はもう一度、大きく書きました。
目的 → 優先弁済
手段 → 競売
「これ、かなり大事です」
「目的と手段を分けろってことか」
「はい!」
そこへ、新聞を持った所長がやってきました。
「いいところだな」
「所長」
所長は私のノートを見ました。
「抵当権の効力と競売をごちゃ混ぜにする受験生は多い」
「やっぱりですか」
「ああ」
所長は私の鉛筆を借りると、一番下に二行書きました。
抵当権の効力
=優先して弁済を受ける。
その効力を実現する方法
=競売。
「これを分けろ」
「……なるほど」
まさに今日のテーマそのものだ。
抵当権があるから競売できる。
競売することで不動産が金銭に換わる。
その売却代金から優先して回収する。
一つずつなら簡単なのに、問題文になると急に絡まる。
「ところで所長」
真壁さんが聞きました。
「抵当権が二つ付いてたらどうなるんです?」
「お」
私は顔を上げた。
「いい質問です」
「なんだその教師みたいな言い方」
「抵当権が複数ある場合は、順位があります」
たとえば、同じ家に、
一番抵当権。
二番抵当権。
三番抵当権。
と設定されている場合。
競売代金から好きな順で取っていいわけではありません。
「原則として、抵当権の順位に従って弁済されます」
「一番が先」
「そうです」
「一番が全部取ったら?」
「二番以下には回らないこともあります」
「厳しいな」
「担保って、順位が大事なんですよ」
たとえば、
競売代金が二千万円。
一番抵当権者への債務が千五百万円。
二番抵当権者への債務が一千万円。
だったとします。
売却代金 2,000万円
一番抵当権 1,500万円
↓
まず1,500万円
残り500万円
↓
二番抵当権へ500万円
「二番の人は五百万足りないな」
「はい」
「抵当権があるからって、必ず全額取れるわけじゃないのか」
「その通りです」
私はそこに二重丸をつけました。
抵当権がある
=必ず全額回収できる
ではない。
「担保不動産の価値が足りなければ、当然、全部は回収できません」
「当たり前っちゃ当たり前だな」
「でも試験では、“抵当権がある=完全無敵”みたいな気分になって間違えるんです」
「お前だけじゃねえのか?」
「全国に仲間がいるはずです」
たぶん。
「じゃあ、足りなかった分はどうなる?」
真壁さんが聞きました。
「そこも大事です」
私は別の例を書きました。
銀行の債権 2,000万円
競売代金から受け取れた額 1,500万円
残額 500万円
「この五百万円は消えません」
「そうだよな」
「競売して抵当権を実行したからって、借金そのものが自動的に全部なくなるわけではありません」
「じゃあ残りを請求できる?」
「はい。基本的には、回収できなかった残額について、債務者のほかの財産から弁済を受けることになります」
民法三九四条。
抵当権者は、抵当不動産の代価から弁済を受けない債権の部分についてのみ、他の財産から弁済を受けることができます。
「なんで“部分についてのみ”なんて書いてあるんだ?」
真壁さんが首を傾げる。
いいところに気づきました。
「抵当権者には担保があるからです」
「うん」
「だから、まず担保不動産から回収する」
「それで足りない分だけ、ほかへ行く」
「そうです」
私は整理しました。
抵当不動産から全額回収
↓
終了。
抵当不動産から一部しか回収できない
↓
不足部分について、他の財産から弁済を受ける。
「なるほどな」
真壁さんが感心したように頷きます。
「抵当権って、ただ競売するだけじゃないんだな」
「そうなんです」
これまで覚えてきたことが、ようやく一本につながってくる。
抵当権は、設定して終わりではない。
占有を設定者に残したまま担保にする。
目的物の価値を担保として確保する。
そして、返済されなかったときに、その価値から優先して回収する。
その最後の出口の一つが、競売なのだ。
「栞」
所長が言いました。
「試験で競売が出たら、まず何を見る」
「え?」
また口頭試問ですか。
この職場、いつから予備校になったのでしょう。
「ええと……抵当権者?」
「もっと簡単でいい」
私は少し考えました。
「……誰が、何から、どの順番で回収するか?」
所長が頷いた。
「それだ」
そして私のノートに書きました。
①誰が?
抵当権者。
②何から?
担保不動産の売却代金から。
③どうやって?
抵当権を実行し、競売などによって換価する。
④どういう立場で?
一般債権者より優先して弁済を受ける。
「この四つを押さえれば、大崩れしない」
「おお……」
私はそこを赤鉛筆で囲みました。
真壁さんも覗き込む。
「確かに、これなら分かる」
「でしょう?」
「でも俺なら三行にする」
「またですか」
真壁さんは私から鉛筆を取った。
そして横に書きました。
返せない。
家を売る。
そこから先に返してもらう。
「……」
私は黙ってそれを見た。
「どうだ」
「悔しいですけど」
「おう」
「ものすごく分かりやすいです」
「だろ」
「ただし試験答案としては零点です」
「だから俺は試験受けねえって」
所長が笑いました。
私は最後に、今日の内容をまとめました。
抵当権の効力――優先弁済的効力。
抵当権者は、担保不動産の価値から、他の一般債権者に先立って弁済を受けることができる。
抵当権の実行。
債務が履行されない場合に、抵当権者が担保権を使って債権回収を図ること。
担保不動産競売。
裁判所の手続によって担保不動産を売却し、その売却代金から弁済を受ける方法。
つまり――
優先弁済的効力
↓
「先に返してもらえる権利」
競売
↓
「その権利を現実にお金へ変える手続」
私はそこに、大きく星印を付けました。
そして、その下。
超重要。
抵当権が設定されていても、債務不履行になった瞬間に不動産の所有権が抵当権者へ移るわけではない。
抵当権者が勝手に家を取り上げるわけでもない。
担保不動産を換価し、その代金から優先して弁済を受ける。
「よし」
私は鉛筆を置きました。
「終わったか?」
「はい」
「じゃあ今日の一言まとめ」
「また言わせるんですか」
「復習だ」
私は仕方なくノートを見た。
「抵当権者は――」
一拍置いて。
「返してもらえなければ、担保不動産を競売などでお金に換えて、その代金から優先して返してもらえる」
「合格」
真壁さんが言った。
「真壁さんに採点権ありませんよ」
「細けえな」
所長が新聞を畳みました。
「栞」
「はい?」
「一つ忘れてるぞ」
「え?」
「今日の河合さんだ」
私は口を閉じました。
そうだった。
教科書だけ見ていると、
抵当権。
競売。
差押え。
売却。
配当。
全部が無機質な言葉に見える。
でも、その不動産には人が住んでいる。
家族がいる。
仕事場になっていることもある。
子供が、
「いつかここで大工をする」
と夢を持っていることもある。
もちろん、それだけで借金が消えるわけではない。
法律は、事情がかわいそうだからと債務をなかったことにはしてくれない。
債権者にも、貸したお金を回収する権利がある。
だから担保があり、
抵当権があり、
競売がある。
でも同時に。
誰かが力任せに家を取り上げるのではなく、
裁判所の手続で売却し、
決められた順位に従って配当する。
そこにも、一つの秩序がある。
私はノートの最後に書きました。
抵当権は、
「家を取る権利」
と覚えると少し違う。
正しくは、
「担保不動産の価値から、優先して債権を回収する権利」。
そして、
その価値を現実のお金に換える代表的な仕組みが、
競売。
「……これならどうでしょう」
所長が一度だけ頷きました。
「いい」
真壁さんが机の上に缶コーヒーを置く。
「ほら」
「今日もですか」
「今日は頭使ったろ」
「毎日使ってます」
「昨日、お前、電話帳の上で寝てたぞ」
「あれは考えながら目を閉じていただけです」
「世間じゃそれを居眠りって言う」
「法的評価が違います」
「何法だよ」
所長が小さく笑いました。
私は缶コーヒーを開ける。
昭和六十三年。
古い事務所。
古い黒電話。
古い法律の本。
でも、人がお金を借りて、
返せなくなって、
家を失うかもしれないと怖くなる気持ちは、
たぶん何十年経っても変わらない。
今日まで私の頭の中では、
抵当権と競売は別々の暗記事項だった。
でも、もう違う。
返してもらえない。
だから、担保をお金に換える。
そのお金から、優先して返してもらう。
一本につながった。
私は最後に、試験直前の自分へ向けて一行書きました。
――抵当権で迷ったら、「権利」と「実現方法」を分けろ。
権利は、
優先弁済。
実現方法は、
競売。
そこまで書いて、私はノートを閉じました。
「栞」
「はい?」
「その家を?」
真壁さんがニヤニヤしている。
嫌な予感しかしない。
「……なんですか」
「勝手には?」
「取りません!」
「よくできました」
「子供扱いしないでください!」
夕暮れの大槻不動産に、所長の低い笑い声が響いた。
たぶん私は、この先。
競売という文字を見るたびに、河合さんの家を思い出す。
そしてきっと、
試験問題の四択を見るたびに思うのだ。
家は勝手には取れない。
まず、抵当権を実行する。
競売でお金に換える。
そして、その代金から優先して弁済を受ける。
――よし。
今度こそ、間違えない。
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