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宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜  作者: 条文小説
〈権利関係 配点14点/50点〉 担保物件

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[抵当権の効力]現場編 その家を、勝手には取れません

挿絵(By みてみん)

 借金を返せなくなると、家を取られる。


 この言い方は、だいたい合っています。


 だいたい。


 法律の世界では、この「だいたい」が危ない。


 なぜなら、


「返せないなら、この家は今日からうちのものです」


 なんて言いながら、債権者が勝手に玄関の鍵を交換していいわけではないからです。


 もしそんな制度だったら、民法より先にバールの使い方を勉強したほうが早い。


 幸い、日本はそこまで世紀末ではありません。


「栞! ちょっと来い!」


 朝一番、真壁さんの声が事務所に響きました。


 私は帳簿から顔を上げた。


「なんですか。まだお茶も淹れてませんけど」


「今日はお茶どころじゃない」


「真壁さんがそう言う日は、だいたい本当にお茶どころじゃないんですよね」


「学習したな」


「嫌な方向に」


 真壁さんの後ろには、四十代くらいの男性が立っていました。


 痩せた頬。


 寝ていない目。


 作業着の胸元には、小さな工務店の名前が刺繍されています。


「こちら、河合さんだ」


「はじめまして」


 私が頭を下げると、河合さんも慌てて頭を下げました。


「あの……大槻さんに相談があって」


 奥から所長が出てきます。


「どうしました」


 河合さんは、握りしめていた封筒を机に置きました。


「銀行からです」


 中から出てきたのは、返済を求める書面。


 そして、住宅兼作業場についての話でした。


 河合さんは数年前、自宅の一階を工務店の作業場に改装するため、銀行から二千万円を借りた。


 その際、自宅の土地と建物に抵当権を設定した。


 ところが、この半年。


 得意先が一社倒れ、工事代金の未回収が続いた。


 返済は二か月遅れている。


「それで昨日、銀行の担当者から言われまして」


 河合さんの声が沈みました。


「このままだと抵当権を実行します、と」


 真壁さんが腕を組みます。


「まあ、そこまでは普通だな」


「それだけじゃないんです」


「?」


「うちの女房が、その話を聞いて……」


 河合さんは苦しそうに眉を寄せました。


「今日にも家を追い出されると思ってるんです」


「今日?」


 私は聞き返しました。


「はい。子供まで学校を休ませようとしてて。荷物をまとめて、実家に逃げようって」


 ああ。


 なるほど。


 私の頭の中で、昨日までの宅建テキストが音を立てて開きました。


 抵当権。


 優先弁済的効力。


 抵当権の実行。


 競売。


 はい。


 来ました。


 文字で見ると眠くなるのに、現実になると胃が痛くなる分野です。


「銀行の人は、本当に『今日出ていけ』と言ったんですか?」


 私が尋ねると、河合さんは首を振りました。


「いや……そこまでは。ただ、『抵当権を実行することになります』と」


「奥さんが、“抵当権を実行する”を、“銀行が家を取りに来る”と受け取った?」


「そうです」


 真壁さんが頭を掻きました。


「まあ、知らなきゃそう思うわな」


「私も昔だったら思いました」


「昔?」


「いえ、こっちの話です」


 危ない。


 前世が漏れるところだった。


 所長が書類を静かに見ています。


「河合さん」


「はい」


「まず一つ。今日いきなり銀行が来て、勝手に家を自分のものにする、という話ではありません」


 河合さんの顔が上がった。


「……違うんですか?」


「違います」


 私は思わず口を挟みました。


「抵当権というのは、返済が滞ったからといって、銀行が直接家を持って帰る権利じゃありません」


「家を……持って帰る?」


 真壁さんが笑う。


「栞、家は持って帰れん」


「たとえです」


「雑なたとえだな」


「分かりやすさを優先しました」


 所長がわずかに口元を緩めます。


「続けろ」


「はい」


 私は机の上の紙を一枚取り、簡単な図を描きました。


 河合さん。


 銀行。


 家。


 矢印。


「抵当権は、河合さんがお金を返せなくなったとき、この家を担保として使って、そこから優先して返済を受けるための権利です」


「……優先して?」


「はい」


 私は頷きました。


「でも、家そのものを二千万円分だけ切り取って持っていくわけにはいきません」


「当たり前だ」


 真壁さんが言う。


「屋根が三百万、台所が百二十万、とかなったら嫌ですからね」


「嫌という問題か?」


「なので、お金に換える必要があるんです」


 私は紙の上に大きく書きました。


 競売。


「抵当権を実行する代表的な方法が、これです」


 河合さんが、その二文字を見つめました。


「競売……」


「裁判所の手続で不動産を売ります。そこで得た売却代金から、抵当権者が優先して弁済を受ける」


「じゃあ……」


「はい」


 私は河合さんを見ました。


「少なくとも、“銀行が今日勝手に鍵を替えて、はいここから銀行の家です”という仕組みではありません」


 河合さんの肩が、ほんの少し下がった。


 たぶん朝からずっと入っていた力が、一段抜けたのだと思う。


「女房に……それ、言ってやってもらえませんか」


「もちろんです」


 真壁さんが立ち上がりました。


「行くか」


「どこへです?」


「河合さんの家」


「今から?」


「お前が説明した方が早い」


「十八歳の事務見習いに家庭の危機を投げないでください」


「さっきまで嬉々として説明してただろ」


「法律と夫婦問題は別科目です」


 所長が静かに上着を取った。


「私も行こう」


 真壁さんと私は同時に黙った。


 所長が来る。


 つまり、割と本気の案件です。


 河合さんの家は、事務所から車で十五分ほどの場所にありました。


 一階の横に、小さな作業場が付いています。


 木材の匂い。


 壁際には鉋や鋸。


 入口の上には、子供が描いたらしい看板。


 かわい歯科。


 ――ではなく。


 かわいこうむてん。


 ひらがなの破壊力、強い。


 家に入ると、玄関には段ボール箱が積まれていました。


 奥さんが、衣類を詰めています。


 小学生くらいの男の子と女の子が、不安そうに座っていました。


「あなた!」


 奥さんが立ち上がる。


「何やってるの、早く荷物を――」


「待ってくれ。その前に、不動産屋さんの話を聞いてくれ」


「不動産屋?」


 奥さんの顔がこわばります。


 こういう時の不動産屋。


 信用度は、たぶん訪問販売と同じくらいです。


 分かります。


 私も転生前なら玄関で帰ってほしい。


「大槻不動産の藤崎栞です」


「……随分若いのね」


「よく言われます」


「十八だぞ」


 真壁さん。


 余計な補足をありがとう。


 奥さんの顔に、


 十八歳に何が分かるの。


 と書いてある。


 ごもっともです。


 ただし私は前世で、宅建の肢別問題に何百回も人格を否定された女です。


 そこだけは妙に鍛えられています。


「奥さん」


「はい」


「今日、銀行がこの家を取りに来ると思っていますか?」


「だって、抵当権を実行するって……」


「その言葉、怖いですよね」


 奥さんは黙りました。


「私も、言葉だけ聞いたら怖いと思います。でも、少し意味が違います」


 私は居間の卓上に紙を置きました。


「抵当権は、“返せなければ家を瞬間移動で銀行のものにする権利”ではありません」


 真壁さんが横で噴き出した。


「瞬間移動するな」


「説明の邪魔しないでください」


 子供たちが少し笑った。


 よし。


 部屋の空気が一ミリだけ軽くなった。


「銀行は、抵当権を持っています。だから返済ができなくなれば、その抵当権を実行して、担保になっている土地や建物を競売にかけることができます」


「……競売」


「はい」


「それって、結局売られるんでしょう?」


 奥さんの声が震える。


「そうです」


 そこは、ごまかしてはいけない。


「話が進めば、この家を失う可能性はあります」


 子供たちの顔が曇った。


 河合さんが俯く。


 でも、ここで「大丈夫です!」なんて言うのは、法律じゃなくて占いです。


「ただ」


 私は続けました。


「今日突然、何の手続もなく追い出されるわけではありません」


 奥さんが顔を上げた。


「裁判所を通して競売の手続を進めて、不動産を売却する。その売却代金から、銀行が優先的に返済を受ける。それが“抵当権を実行する”という意味です」


「じゃあ……」


「今この瞬間に荷物をまとめて逃げる必要はありません」


 奥さんの手から、畳みかけていたシャツが落ちた。


「本当に?」


「はい」


「今日、知らない人が来て、鍵を替えたり……」


「しません」


「家具を出されたり」


「しません」


「子供を連れて逃げなくても?」


「少なくとも、今日その必要はありません」


 奥さんは、ゆっくり椅子に座りました。


 子供たちも、父親の顔を見る。


 河合さんは、困ったように笑いました。


「だから言っただろ」


 奥さんがきっと睨む。


「あなたがちゃんと説明しないからでしょ!」


「俺だって分からなかったんだよ!」


「あ」


 私は小さく手を上げました。


「夫婦喧嘩は、民法の試験範囲外なので」


 真壁さんが肩を震わせる。


「栞、撤退が早いな」


「勝てない戦は避けます」


「お前、営業向きかもしれんな」


「嫌です」


 所長が、河合さんの作業場を見回していました。


「河合さん」


「はい」


「銀行とは、まだ話し合える段階ですか」


「担当者からは、今週中に一度来てくれと言われています」


「なら、まず行きなさい」


「……でも、払えません」


「払えないことと、話さないことは別です」


 所長の声は低い。


 けれど、責める響きはありませんでした。


「競売は、銀行にとっても最後の回収手段の一つです。返済計画の見直しが可能か、売却を含めて他の方法があるか。まず現状を正確に伝えることです」


「売却……」


 河合さんの顔が曇る。


「この家を、自分で売るってことですか」


「選択肢としてはあります」


 真壁さんが口を挟みます。


「競売まで行く前に、普通に買い手を探して売却代金で返済する方法だってある。ただし銀行との調整は必要だ」


「……ここ、親父が建てた家なんです」


 河合さんは、柱に手を触れました。


「俺が継いで、作業場を付けて。息子にも、いつかここで仕事するかって……」


 息子さんが小さく言いました。


「僕、大工やるよ」


 空気が止まった。


 河合さんが息子を見る。


「……そうか」


「うん」


「初めて聞いたぞ」


「言ってないもん」


「なんでだよ」


「恥ずかしいから」


 河合さんは笑いました。


 泣きそうな顔で。


 こういう場面、ずるい。


 法律の出番なのに、人間が先に殴ってくる。


「だったら」


 私は言いました。


「なおさら、逃げない方がいいです」


 河合さん一家がこちらを見る。


「残せる可能性があるなら、残すために話す。難しいなら、競売になる前に別の方法を探す。それでも駄目なら、その時は競売の手続に向き合う」


 私は机の上の紙を指で叩きました。


「でも、“抵当権を実行する”という言葉だけで、今日全部終わったと思わないでください」


 奥さんが目元を拭いました。


「……私、怖くなっちゃって」


「はい」


「銀行って聞いただけで、もう全部決まったと思って」


「分かります」


 私は少し笑った。


「法律用語って、説明なしで聞くと呪文みたいなんですよ」


「呪文?」


「抵当権実行」


 私は低い声で言ってみた。


「確かに強そうだな」


 真壁さんが言う。


「次のターンで家が消えそうでしょう?」


 息子さんが笑った。


「ゲームみたい」


「でも実際はゲームじゃありません」


 私は言いました。


「ちゃんと順番があります」


 所長が頷く。


「そこを覚えておけばいい」


 そして、河合さんに向き直りました。


「明日、銀行へ行くなら、真壁を連れて行ってもいい」


「え?」


 真壁さんが所長を見る。


「俺ですか?」


「実務の話ならお前だ」


「まあ……いいですけど」


 河合さんが深く頭を下げました。


「お願いします」


「頭上げてください」


 真壁さんは少し照れたように鼻を擦った。


「俺は銀行員と喧嘩しに行くわけじゃないですからね」


「え?」


「こういうのは、敵味方に分けたら駄目なんです。銀行は銀行で、貸した金を回収しなきゃならない。河合さんは河合さんで、生活を立て直さなきゃならない」


 私は横で真壁さんを見ました。


「なんですか」


「いえ」


「なんだよ」


「今日ちょっと格好いいですね」


「今日“は”って言ったか?」


「言ってません」


「目が言ったぞ」


 所長が咳払いした。


「帰るぞ」


「はい」


 玄関へ向かう途中、奥さんが私を呼び止めました。


「藤崎さん」


「はい?」


「ありがとう」


「いえ」


「家が助かるかどうかは、まだ分からないんですよね」


 私は少し迷ってから、頷きました。


「はい」


 ここで嘘をつくわけにはいかない。


「でも」


 奥さんは段ボール箱を見て、それから笑いました。


「少なくとも今日は、これを全部戻します」


「それがいいと思います」


「子供も学校に行かせます」


「ぜひ」


「この子、算数の宿題残ってますから」


 息子さんの顔が絶望に変わった。


「えっ」


 私は思わず笑う。


 家を失う恐怖から救われた直後に、宿題が復活する。


 人生って容赦ない。


 翌日の午後。


 河合さんと真壁さんは銀行から戻ってきました。


「どうでした?」


 私は立ち上がる。


 真壁さんがネクタイを緩めました。


「すぐ競売、って話にはならなかった」


「本当ですか」


「ああ」


 河合さんの資金繰り。


 未回収になっている工事代金。


 今後入る予定の仕事。


 返済条件をどうするか。


 すべてを一度整理して、銀行側でも検討することになったらしい。


「少なくとも、今月中に競売申立てって話ではなくなった」


「よかった……」


 私が息を吐くと、真壁さんが私の机に缶コーヒーを置いた。


「ほら」


「またですか」


「嫌なら返せ」


「いただきます」


 即回収。


 所長が奥から言いました。


「栞」


「はい」


「今回、何を覚えた」


 来た。


 大槻不動産名物、突然の口頭試問。


 私は缶コーヒーを持ったまま答えました。


「抵当権には、担保不動産の価値から、他の債権者に先立って弁済を受けられる力があります」


「うん」


「で、その力を現実に使う代表的な方法が、競売」


「もう少し」


 もう少し?


 所長、採点が厳しい。


「債務者が返済できなくなったとき、担保になっている不動産を裁判所の手続で売却する」


「それで?」


「売却代金から、抵当権者が優先して弁済を受ける」


 所長が頷いた。


「それでいい」


 真壁さんが横から口を挟みます。


「つまり、銀行が家を持って帰るんじゃない」


「まだ言います?」


「分かりやすかったぞ」


「褒め方が雑です」


 私はノートを開きました。


 今日のところだけ、簡単に書く。


 抵当権。


 優先して弁済を受ける権利。


 その実現方法の代表例が、競売。


 抵当権を実行する。


 昨日までなら、これだけだった。


 四行。


 試験なら、正誤を選ぶだけ。


 でも今は、その四行の向こうに河合さんの家が見える。


 段ボール箱。


 不安そうな子供たち。


「僕、大工やるよ」


 あの声。


 抵当権は、冷たい制度に見える。


 返せないなら、担保を売る。


 代金から回収する。


 たしかに文字だけなら冷たい。


 けれど一方で、


 誰かが勝手に家へ押しかけて、


「金を返せないなら、今日から俺のものだ」


 と取り上げる世界よりは、ずっとましだ。


 誰が、何を、どんな順番で行うのか。


 どこから回収するのか。


 そのために手続がある。


 法律は、人を助ける魔法じゃない。


 借金を消してもくれない。


 でも。


 人が恐怖で走り出しそうなときに、


「順番があります」


 と言って止めてくれることはある。


 私はノートの最後に一行だけ書きました。


 ――抵当権は、家を奪う呪文ではない。


 真壁さんが横から覗き込みました。


「なんだそれ」


「今日のまとめです」


「試験で書くなよ」


「分かってます」


「採点者が困るぞ」


「でも覚えやすいでしょう?」


「まあな」


 所長が新聞をめくりながら言う。


「その下に、もう一行書いとけ」


「何ですか?」


「返せなくなってから考えるな」


 私は一瞬黙って、それから笑いました。


「法律じゃないですね」


「実務だ」


 真壁さんが頷く。


「そっちの方が大事だったりする」


「宅建試験に出ます?」


「出ない」


「じゃあ赤線は引きません」


「薄情だな」


 夕方。


 事務所の電話が鳴りました。


 私が取る。


「はい、大槻不動産です」


『藤崎さん?』


 河合さんの奥さんでした。


「あ、こんにちは」


『昨日はありがとうございました』


「いえいえ」


『主人、銀行から帰ってきて、久しぶりにちゃんとご飯食べました』


 私は少し笑いました。


「そうですか」


『あと、息子が』


「はい」


『今日から急に、父親の作業場を手伝うって言い出して』


 電話の向こうで、誰かの声がする。


『母ちゃん! 鉋どこ!』


『触らないの!』


「……まだ早そうですね」


『まだ早いです』


 二人で笑った。


 電話を切る。


 窓の外は、昭和六十三年の夕暮れ。


 土地も建物も、数字だけ見れば財産です。


 担保価値。


 売却価格。


 債権額。


 配当額。


 試験問題なら、それで終わる。


 でも、その中で暮らしている人にとっては、家は数字じゃない。


 だからこそ。


 それを売ってお金に換えるという制度には、順番が必要なんだと思う。


 私は缶コーヒーの残りを飲みました。


「栞」


「はい?」


「さっきのまとめ、もう一回言ってみろ」


 真壁さんがニヤついている。


「嫌です」


「抵当権は?」


「嫌です」


「家を奪う?」


「言いません」


「呪文では?」


「しつこい!」


 所長の新聞の向こうから、低い笑い声が聞こえました。


 私はノートを閉じる。


 抵当権。


 優先弁済。


 競売。


 また一つ、バラバラだった言葉が一本につながった。


 返してもらえない。


 だから、担保をお金に換える。


 その売却代金から、優先して返してもらう。


 それが抵当権の強さであり、


 その強さを現実のものにするのが、競売だ。


 ――ただし。


 できれば一生、


 自分の家では経験したくない法律知識である。


 私はそこだけ、二重線を引いておいた。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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