[物上保証人]現場編 あなたが差し出したのは土地だ。これからの人生全部じゃない
人間というものは、不安になると、紙に書いてある以上のものまで読んでしまうらしいです。
たとえば、
「担保提供者」
と書いてあるだけなのに、
「借金を最後の一円まで払う人」
に見えてしまったりする。
そして、もっと困るのは――。
それをわざと、そう読ませようとする人がいることです。
◇
「だから、奥さん。土地を出した以上、残りも払ってもらわないと困るんですよ」
朝九時を少し回った大槻不動産の事務所で、男の声が響いていました。
私は湯飲みにお茶を注ぎながら、その言葉に耳がぴくりと動きました。
土地を出した以上、残りも払え。
……なんだろう。
朝から嫌な日本語を聞いた気がする。
「でも……私は、お金を借りたわけじゃないんです」
応接机の前で、小柄な女性が俯いていました。
六十代くらいでしょうか。
紺色のカーディガン。
膝の上には、何度も折り直された封筒。
指先が震えています。
向かいに座っているのは、灰色の背広を着た男でした。
銀行員ではない。
信用会社でもない。
町の金融業者――東亜商事の社員らしい。
「それは分かってますよ」
男は笑いました。
「でもね。息子さんが借りた金のために、奥さん、自分の土地を担保に入れたんでしょう?」
「はい……」
「じゃあ責任はありますよ」
「……責任」
「当たり前でしょう」
男は机の上に書類を置きました。
「息子さんが返せないなら、まず土地を処分します。それでも足りなければ、残りは奥さんに払ってもらいます」
女性の顔が青ざめた。
私は急須を持ったまま固まりました。
――いや。
待って。
それ、本当?
「残りって……いくらですか」
「ざっと四百万円くらいですね」
「四百万……」
女性の肩が小さく震えた。
「そんなお金、私には……」
「だったら分割でも構いませんよ」
男は親切そうな顔をした。
「年金から少しずつでもね」
私は思いました。
うわ。
嫌な親切だ。
崖から突き落としておいて、
「着地はゆっくりでいいですよ」
と言っているようなものである。
「お茶です」
私は少し強めに湯飲みを置きました。
男がこちらを見る。
「ありがとう、お嬢ちゃん」
お嬢ちゃん。
出た。
昭和の職場に転生して以来、私の地雷ランキング上位を維持し続けている呼び方です。
十八歳だから間違ってはいない。
間違ってはいないけど腹は立つ。
「山岸さん」
奥から低い声が飛びました。
大槻所長です。
机の向こうで帳簿を見ていた所長が、ゆっくり顔を上げました。
「その話、少し確認させてもらっていいですか」
男――山岸は肩をすくめた。
「確認も何も。単純な話ですよ」
「単純なら助かる」
所長が立ち上がる。
静かな人です。
でも、静かな人というのは時々、声を荒らげる人より怖い。
「川村さん」
所長は女性に聞きました。
「息子さんの借金について、あなたは保証契約をしましたか」
「保証……?」
「息子さんが払わなければ、自分が払うという約束です」
川村さんは慌てて首を振った。
「してません。私はそんな……」
「連帯保証人にも?」
「なってません」
「署名した書類は?」
女性は封筒から紙を取り出しました。
「これだけです」
所長が受け取る。
真壁さんも横から覗き込む。
そして私も、こっそり首を伸ばした。
抵当権設定契約書。
債務者、川村正夫。
債権者、東亜商事。
担保提供者、川村澄江。
担保不動産――川村澄江所有の土地。
私は目を細めた。
担保提供者。
保証人じゃない。
「……真壁さん」
私は小声で呼びました。
「なんだ」
「これ」
「ああ」
真壁さんも気づいたらしい。
「所長」
「分かってる」
所長は短く答えました。
山岸が眉をひそめる。
「何ですか」
私は思わず口を開きました。
「川村さん、保証人じゃないですよね」
山岸が私を見る。
「は?」
「保証人でも連帯保証人でもない」
「だから?」
「物上保証人ですよね」
一瞬、事務所が静かになった。
川村さんが不安そうに私を見る。
「ぶつじょう……?」
「物上保証人です」
私は椅子を一つ引いて座りました。
「簡単に言うと、自分の財産を、他人の借金の担保に出した人です」
山岸が鼻で笑う。
「同じようなもんでしょう」
「全然違います」
私は即答した。
真壁さんが横で小さく笑った。
たぶん、
“始まったな”
と思っている顔です。
「普通の保証人は、債務者が払わなければ、自分が払う義務を負います」
「そうだ」
「でも物上保証人は違います」
私は契約書を指差した。
「この人が約束したのは、“この土地を担保にします”ということです」
「だから責任は――」
「土地については、あります」
私は山岸の言葉を切りました。
「でも、借金そのものを払う義務まで負ったわけじゃありません」
川村さんが、ゆっくり顔を上げた。
「……え?」
「息子さんが返済できなければ、この土地に設定された抵当権は実行されるかもしれません」
私は慎重に言いました。
「土地を失う可能性はあります」
川村さんの顔がまた曇る。
そこは誤魔化してはいけない。
物上保証人は無傷では済まない。
担保に出した物は、きちんと危険にさらされる。
ただし。
「でも」
私は続けました。
「土地を売っても借金が残ったからって、その残りを川村さん自身が払わなければいけないわけじゃありません」
「……払わなくて、いい?」
「保証契約を別にしていないなら、原則として」
山岸の顔から笑みが消えた。
「お嬢ちゃん、余計なこと言わないでくれるかな」
「余計じゃありません」
「これは当事者同士の話だ」
「じゃあ、なおさら契約書どおりに話してください」
「何?」
私は机の上の紙を指しました。
「ここに“保証人”って書いてありますか?」
山岸は黙った。
「“連帯保証人”って書いてありますか?」
沈黙。
「書いてないですよね」
「……」
「担保提供者です」
私ははっきり言いました。
「土地を差し出す約束と、借金を自分が払う約束は、別です」
山岸は目を細めた。
「理屈じゃそうかもしれないけどね」
出た。
法律ドラマで悪い人が追い詰められた時に言う、
“理屈じゃそうかもしれないけど”
です。
ちなみに法律の話で理屈が合っているなら、かなり重要です。
「現実問題として、息子の借金なんだから母親にも責任があるでしょう」
「親子だからですか?」
「そうだよ」
「じゃあ、子供がラーメン屋で食い逃げしたら、母親がチャーシュー代まで払うんですか」
「……何の話だ」
「家族だから自動的に借金を負うわけじゃない、という話です」
真壁さんが吹き出した。
「ぶっ……」
「真壁」
「すみません、所長」
笑いを堪えている。
堪えきれてないけど。
山岸の顔が赤くなった。
「東亜商事としては、任意で支払ってもらえれば――」
「任意なら任意と説明してください」
所長の声が落ちた。
低い。
重い。
事務所の空気が一段冷えました。
「“払う義務がある”ような言い方は感心しませんな」
「別に脅してるわけじゃありませんよ」
「今、年金から分割でも、と言いましたね」
「それは提案です」
「相手が義務だと思い込んでいる状態での提案は、ずいぶん親切すぎる」
所長は契約書を机に置いた。
「川村さんは物上保証人だ。この書類を見る限り、債務者ではない。保証人でもない」
山岸は唇を結んだ。
「抵当権を実行するなら、手続きに従ってやればいい」
所長の目が鋭くなる。
「だが、土地で足りなかった分まで、この人個人に当然請求できるような言い方はやめてもらおう」
「……」
「違いますか」
山岸はしばらく所長を睨んでいました。
でも、やがて書類を乱暴に鞄へしまった。
「今日は帰ります」
「どうぞ」
所長は止めない。
山岸は立ち上がり、私の横を通ったところで足を止めた。
「ずいぶん法律に詳しいね、お嬢ちゃん」
「ええ」
私はにこっと笑いました。
「前世でだいぶ苦しめられましたので」
「……?」
「気にしないでください」
山岸は怪訝な顔のまま出ていった。
ドアが閉まる。
事務所に静寂が戻った。
そして。
「……栞」
「はい」
真壁さんが頭を抱えていた。
「ラーメン屋のたとえはどうなんだ」
「分かりやすかったでしょう」
「チャーシュー代って何だよ」
「具体性です」
「変な具体性を出すな」
私は胸を張った。
「理解には具体例が大事です」
「お前の具体例、毎回ちょっと変なんだよ」
そんなやり取りの横で、川村さんはまだ呆然としていました。
「……本当に」
小さな声。
「私、残りのお金を払わなくてもいいんですか」
私は川村さんの方へ向き直りました。
「少なくとも、この契約書だけなら、川村さんが負っているのは土地を担保に提供した責任です」
「土地は……なくなるかもしれない」
「はい」
「でも、そのあと四百万残っても……」
「川村さんが保証人になっていないなら、それを当然に請求される立場ではありません」
川村さんの目に、みるみる涙がたまりました。
「私……」
唇が震える。
「息子が商売を始めるって言うから……」
ぽつり。
ぽつり。
言葉が落ちてきました。
「父親が残した土地を担保にすれば、お金を貸してもらえるって」
「はい」
「息子も必ず返すって言って……」
川村さんは膝の上で手を握りました。
「でも店が潰れて……逃げるみたいに大阪へ行ってしまって……」
私は何も言えなかった。
息子の代わりに借金を払わされる。
土地も取られる。
年金まで差し出す。
きっと、この数日ずっとそう思っていたのだ。
「主人の土地までなくなったら、もう何も残らないって思ってました」
「……」
「その上、借金まで残るなら、私、どうしたらいいのか」
真壁さんも黙った。
所長がゆっくり椅子に座ります。
「川村さん」
「はい」
「土地のことは、まだこれからです」
所長は静かに言った。
「抵当権がある以上、簡単な話ではない」
「はい」
「だが、必要以上のものまで背負うことはない」
川村さんが顔を上げる。
「契約というのは、怖いものです」
所長は続けました。
「だが同時に、“どこまで責任を負うのか”を決めてくれるものでもある」
私はその言葉に、少しだけ胸をつかれました。
契約は、人を縛る。
でも。
縛る範囲が書いてあるからこそ、
そこから先まで縛られる必要はない。
「息子さんの借金は、息子さんの借金です」
所長が言う。
「あなたが差し出したのは、土地だ」
少し間を置いて。
「人生全部じゃない」
川村さんは、とうとう泣きました。
声を上げるでもなく。
ただ、俯いて。
ぽろぽろと涙を落とした。
◇
しばらくして、川村さんは帰っていきました。
玄関先で何度も頭を下げながら。
「本当に、ありがとうございました」
「まだ終わってませんからね」
私は言いました。
「土地のことは、これからちゃんと整理しましょう」
「はい」
「それから」
「はい?」
「息子さんには、一度しっかり説教してください」
川村さんは泣き腫らした目で、少し笑った。
「それはもう」
「強めでお願いします」
「はい」
「栞」
後ろから真壁さんが呼んだ。
「余計なことまで請け負うな」
「でも必要でしょう」
「まあ、それは必要だな」
川村さんが帰ったあと。
私は机に戻って、契約書の写しを眺めました。
物上保証人。
昨日までなら、宅建のテキストに出てくる、
“似た言葉が多くてめんどくさいやつ”
でした。
保証人。
連帯保証人。
物上保証人。
名前に“保証人”と入っているから、ややこしい。
でも中身は全然違う。
「なあ、栞」
真壁さんが缶コーヒーを一本投げてきた。
「わっ」
危ない。
昭和の先輩は飲み物を手渡ししない。
投げる。
なぜだ。
「今日の話、つまりどういうことだ」
「試してます?」
「復習だよ」
「真壁さんの?」
「お前のだ」
私は缶コーヒーのプルタブを開けた。
「物上保証人は、自分の財産を他人の借金の担保に提供した人」
「うん」
「でも、自分自身が借金をしたわけじゃない」
「うん」
「だから、債務者が払えなくなった時、担保に入れた財産は失う可能性がある」
「うん」
「でも、それを超えて残った借金まで、自分が払う義務を当然に負うわけじゃない」
真壁さんが頷いた。
「土地は取られるかもしれない。でも、借金まで背負うわけじゃない」
「そうです」
「名前が紛らわしいな」
「ほんとそれです」
「保証人って付けるなよ」
「民法に言ってください」
「どこに電話すればいい」
「六法全書の裏表紙あたりじゃないですか」
「載ってねえよ」
私は笑った。
所長も帳簿の向こうで、小さく肩を揺らしている。
外では、夕方の商店街に自転車のベルが鳴っていました。
昭和六十三年。
バブルの熱気の中では、
土地も借金も、
人間関係まで担保にできそうな顔をして近づいてくる。
でも、法律は意外と冷静です。
誰が借りたのか。
誰が保証したのか。
誰が何を差し出しただけなのか。
ちゃんと分けて考える。
それだけで、
「全部あなたの責任です」
という大きな声が、
ただの大きな声に戻ることがある。
私は缶コーヒーを一口飲みました。
甘い。
ちょっと甘すぎる。
でも今日は、そのくらいでちょうどよかった。
川村さんが差し出したのは土地だった。
だから。
彼女のこれからの人生まで、
担保に入ったことにはならない。
その区別を守るために法律があるのなら。
宅建の勉強も、
たまには悪くない。
……たまには、ですけど。
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