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宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜  作者: 条文小説
〈権利関係 配点14点/50点〉 債権の消滅

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[混同]現場編 自分から自分へ家賃は払えません

挿絵(By みてみん)

 世の中には、消えると困るものがあります。


 お金。


 信用。


 冷蔵庫に入れておいたプリン。


 最後のやつについては、犯人が分かっていても家庭内紛争になります。


 でも法律の世界には、逆に、


 「消えたほうが自然」


 という権利があります。


 ――当時の私は、それを知識としては知っていました。


 まさか、その日の朝から、


「借地権が消えるんです! 家を追い出されるんです!」


 と泣きそうな青年を前に、実物を見ることになるとは思いませんでしたけど。


「落ち着いてください。とりあえず、お茶を」


 私は湯飲みを差し出しました。


 大槻不動産。


 昭和六十三年、夏。


 扇風機が首を振るたびに、机の上の物件図面がぱたぱた揺れています。


 今日の相談者は、二十代半ばほどの青年でした。


 名前は田島修一さん。


 日に焼けた顔に作業着姿。たぶん建築関係か工場勤務でしょう。


 その修一さんが、両手で一枚の書類を握りしめています。


「親父が亡くなって……土地を俺が相続したんです」


「はい」


「その土地には、俺の家が建ってます」


「はい」


「でも、家を建てる時に、俺は親父から土地を借りてたんです」


 なるほど。


 私は話が見えてきました。


 土地の所有者は父親。


 その土地を息子である修一さんが借りて、自分の家を建てていた。


 つまり、修一さんは土地について借地権を持っていたわけです。


「それで親父が亡くなって、俺が一人で相続したら……」


 修一さんは震える指で紙を差し出しました。


「昨日、北浜不動産ってところの人に言われたんです。『あなたの借地権は消えますよ』って」


「はい」


「消えるんですよね!?」


「消えますね」


「やっぱり!」


 修一さんが頭を抱えました。


「じゃあ俺、家を建てる権利がなくなるじゃないですか!」


「いえ」


「え?」


「なくなって困る権利じゃないです」


「……え?」


 私が答えると、隣で聞いていた真壁さんが噴き出しました。


「お前、説明が乱暴すぎるぞ」


「でも事実です」


「もうちょっと人間の言葉にしろ」


「法律の話を人間の言葉にするの、わりと高等技術なんですよ」


「十八歳の事務見習いが何を偉そうに」


 あなたも今、私に説明させようとしてましたよね。


 私は修一さんの前に紙を置きました。


 そして、簡単な図を書きます。


  父 ――土地所有者


   ↓


  修一さん――借地人


「今までは、こうでした」


「はい」


「修一さんは、お父さんの土地を借りていた」


「そうです」


「ところが、お父さんが亡くなって、修一さんが土地を単独で相続した」


 私は図を書き換えました。


  修一さん――土地所有者


  修一さん――借地人


「……あれ?」


 修一さんが眉を寄せました。


「自分が、自分から土地を借りてる?」


「そういう状態です」


「そんなの、変じゃないですか」


「はい。変です」


 私は大きく頷きました。


「だから、借地権が消えるんです」


 修一さんが固まりました。


「……でも、借地権が消えたら」


「土地を使えなくなるんじゃありません」


 私は鉛筆で、借地権の文字に線を引きました。


「借地権なんかなくても、土地そのものが修一さんのものになったんです」


「……」


「借りる権利より、所有権のほうが強いでしょう?」


「……あ」


 そこでようやく、修一さんの顔が変わりました。


「そっか」


「はい」


「俺、土地持ってるんだ」


「はい」


「じゃあ借りる必要、ないのか」


「そういうことです」


 真壁さんが腕を組みながら頷きました。


「自分の畑に入るのに、自分で自分に入場料払わねえだろ」


「真壁さん」


「なんだ」


「今の説明、悔しいけど分かりやすいです」


「悔しがるな」


 修一さんが、少しだけ笑いました。


 でも、その笑顔はすぐに曇りました。


「じゃあ……北浜不動産の人が言ってたこと、おかしくないですか?」


「何て言われたんです?」


「借地権が消えるから、そのままだと家に住めなくなる。だから、新しく土地使用の契約を結び直したほうがいいって」


「誰と?」


「北浜不動産が管理会社になって……」


「待ってください」


 私は思わず遮りました。


 嫌なにおいがします。


 いや、事務所に真壁さんの煙草の残り香があるという話ではありません。


 もっと、法律的に嫌なにおいです。


「管理会社?」


「はい。土地の権利関係を整理するから、名義の管理を任せたほうが安全だって」


「いくらで?」


「最初に五十万円。それから毎月一万五千円」


「は?」


 真壁さんの声が低くなりました。


 怖い。


 相談者相手ではなく、業者相手にこの声になると、急に頼もしい。


「土地はあんた自身が相続したんだろ?」


「はい」


「抵当権とか、他人の権利は?」


「親父からは何も聞いてません」


「登記は?」


「司法書士さんに頼んで、相続登記の手続をしてます」


 私は修一さんが持ってきた書類を確認しました。


 相続関係は単純です。


 父親が単独所有。


 母親はすでに亡くなっている。


 修一さんは一人息子。


 つまり、土地の所有権は修一さん一人に移る。


 そして、修一さん自身が借地人。


 所有権と借地権が、一人のところに集まる。


 ――混同。


 それだけです。


「修一さん」


「はい」


「北浜不動産との契約、まだしてませんよね?」


「今日の午後、印鑑を持ってくるよう言われてます」


 私は真壁さんを見ました。


 真壁さんも私を見ました。


「行くか」


「行きましょう」


「所長」


 真壁さんが奥へ声を掛けると、大槻所長が新聞から目を上げました。


「話は聞いていた」


「止めます?」


「当然だ」


 短い。


 でも、その一言だけで空気が締まりました。


「ただし」


 所長は新聞を畳みました。


「喧嘩をしに行くな」


「分かってますよ」


「真壁、お前に言っている」


「俺ですか」


「栞は法律で殴る。お前は顔で殴る」


「人聞き悪いな!」


 私は吹き出しそうになりました。


 所長、静かな顔で結構ひどいこと言います。


 午後。


 私たちは修一さんと一緒に、駅前の雑居ビルへ向かいました。


 北浜不動産は二階にありました。


 中に入ると、派手な金色の腕時計をした男が立ち上がります。


 三十代後半。


 髪を後ろになでつけ、口元だけが笑っている。


「田島さん。お待ちしてましたよ」


 その視線が、私たちへ移った。


「……そちらは?」


「大槻不動産です」


 真壁さんが名刺を出しました。


 男の顔から、一瞬だけ笑みが薄れます。


「ああ、同業者さんですか」


「ええ」


「何か?」


 私は修一さんの横に座りました。


「田島さんの借地権が消える件について、確認したくて」


「ああ、それですか」


 男は笑いました。


「そうなんですよ。お父さんが亡くなられて、借地権が消える。だから、このままだと権利関係が不安定になる」


「不安定にはなりません」


 私が言うと、男が眉を上げた。


「はい?」


「借地権が消えるのは、田島さんが土地の所有権を取得するからです」


「……」


「借地権がなくなって土地を使えなくなるんじゃありません。借地権を残す意味がなくなるから消えるんです」


「そんなのは、言葉の問題でしょう」


「いいえ。権利の問題です」


 私は即答しました。


 男の笑顔が少し硬くなります。


「田島さんは土地を単独相続する。つまり土地所有者です」


「それはそうですが」


「だったら、自分が所有する土地を使うために、誰かと新たに土地使用契約を結ぶ必要はありませんよね」


 男は机の上の書類を指で叩きました。


「いやいや、しかしですね。借地権が消滅する以上、将来の紛争を防ぐために管理を――」


「誰との紛争ですか?」


「……」


「土地の所有者は田島さんです」


「だから管理を――」


「何を管理するんです?」


 私は畳みかけました。


「自分で自分に土地を貸していた状態が、所有権取得によって一本化される。それだけです」


 男の指が止まりました。


 私は続けます。


「混同ですよね」


 沈黙。


 真壁さんが、隣でゆっくり足を組みました。


 その動作だけで妙に圧があります。


「借地権と所有権が同じ人に帰属したから、借地権が消滅する」


 私は男の前の契約書を指しました。


「その説明をせずに、『借地権が消えるから住めなくなる』と思わせた上で、五十万円の管理契約を勧めたんですか?」


「そんな言い方はしてない」


「田島さんはそう受け取っています」


「誤解ですよ」


「では、今ここで説明してください」


 私は修一さんを見ました。


「田島さんは土地を相続したあと、自宅の敷地を使い続けられるんですよね?」


「……」


「所有者として」


「……まあ」


「新たな借地契約は必要ありませんね?」


「ケースによります」


「このケースでは?」


 また沈黙。


 私は心の中で、机を叩きました。


 ――法律屋の「ケースによります」は便利です。


 便利すぎて、たまに煙幕になります。


 もちろん本当にケースによる場合も山ほどあります。


 でも今は違う。


 単独相続。


 自己所有。


 借地権者も本人。


 この話で「ケースによる」は、カレーに入れた福神漬けくらい脇役です。


「北浜さん」


 それまで黙っていた大槻所長が、低い声で言いました。


 男が顔を上げます。


「うちも不動産屋です」


「……」


「商売だから、手数料を取ること自体は悪くない」


 所長は静かでした。


「だが、客が何を失って、何を得たのか。それを逆に説明して金を取るのは、感心しないな」


「逆に説明なんて――」


「借地権が消えた」


 所長は一度区切りました。


「その言葉だけ聞けば、客は“権利を失った”と思う」


 男は黙っています。


「だが実際には、借地権が消える代わりに、その根っこである所有権を手にしている」


 所長の目が鋭くなりました。


「そこを説明しなかったのか?」


 数秒。


 長い沈黙が落ちました。


 やがて男は、椅子の背にもたれました。


「……分かりましたよ」


 机の上の契約書を引き寄せます。


「今回は、うちでは扱いません」


「今回は?」


 真壁さんの声が低い。


「真壁さん」


 私が小声で止めました。


 顔で殴るなと所長が言ったばかりです。


 男は契約書を二つ折りにしました。


「田島さん。誤解を招いたなら、すみませんでした」


 修一さんは、しばらく黙っていました。


 そして、小さく頭を下げます。


「……契約はしません」


「分かりました」


 それで終わりでした。


 派手な怒鳴り合いもない。


 机を叩く人もいない。


 ただ、五十万円の契約書が一枚、静かに引っ込んだ。


 私はこういう瞬間が好きです。


 法律は、刀みたいに振り回さなくてもいい。


 筋道を一つずつ並べていけば、相手が自分で引くことがあります。


 それが一番きれいです。


 帰り道。


 修一さんは何度も、胸のあたりをさすっていました。


「いやあ……」


「大丈夫ですか?」


「なんか、急に力抜けちゃって」


「そりゃそうでしょうね」


 真壁さんが自動販売機で缶コーヒーを三本買いました。


「昨日から、自分の家に住めなくなると思ってたんだろ?」


「はい」


「そりゃ眠れんわ」


 修一さんは缶を受け取ると、ぽつりと言いました。


「親父が生きてた頃、毎月三万円、地代を払ってたんです」


「はい」


「親父、受け取るたびに言ってたんですよ」


 修一さんが笑います。


「『お前に土地をやる日が来たら、この金も要らなくなるな』って」


 私は少し胸が詰まりました。


「……本当に、そうなったんですね」


「はい」


 修一さんは缶コーヒーを見つめました。


「親父が死んで、なんか色んなものが消えた気がしてたんです」


 誰も口を挟みませんでした。


「家に帰っても親父はいないし。地代を渡す相手もいないし。借地権まで消えるって言われて……なんか、自分の足元までなくなる気がして」


「でも」


 私は言いました。


「土地は残ってます」


 修一さんが顔を上げました。


「お父さんの土地だったものが、今は修一さんの土地になった」


「……はい」


「権利が消えたんじゃなくて」


 私は少し考えて、言い直しました。


「形が変わったんだと思います」


 修一さんはしばらく黙っていました。


 やがて、ゆっくり頷きました。


「そうですね」


 真壁さんが缶コーヒーを開けながら言います。


「親父さんから借りてた土地を、今度は自分で守る番になったってことだ」


「真壁さん」


「なんだ」


「今日は妙にいいこと言いますね」


「今日は、は余計だ」


「普段との差が」


「黙って飲め」


 缶コーヒーを一本渡されました。


 私はありがたく受け取ります。


 昭和の営業マン、言葉は雑ですが、糖分補給は早い。


 事務所に戻ると、私は机に座って、今日の出来事をノートに書きました。


 所有権と借地権。


 所有権と抵当権。


 債権者と債務者。


 本来なら別々の人に分かれているから意味を持つ権利関係が、一人のところに集まる。


 すると、そこに残しておく意味のない権利が消える。


 ――混同。


「栞」


 所長が奥から声を掛けました。


「はい?」


「今日の件、分かったか」


「はい」


「一言で言うと?」


 私は少し考えました。


「自分で自分に家賃は払えない、ですかね」


 真壁さんが吹き出しました。


「雑!」


「分かりやすいでしょう?」


「まあ分かる」


 所長も口元だけで笑いました。


「悪くない」


「ほら」


「ただし試験でそう書くなよ」


「書きませんよ!」


 たぶん。


 いや、絶対に書きません。


 でも、頭の中ではそれくらい単純でいい。


 自分が土地の所有者になったのに、自分が借地人のまま残る。


 自分が債権者なのに、自分が債務者でもある。


 自分が抵当権者なのに、その土地も自分のものになる。


 法律は、ときどき、


 「いや、それもう一人で完結してるから」


 と冷静に整理してくれます。


 私はノートを閉じました。


 今日、修一さんから借地権が消えた。


 でも、失ったわけじゃない。


 その代わりに、もっと大きな権利が手元に残った。


 窓の外では、夕方の光が町を橙色に染めていました。


 権利が消える。


 その言葉だけ聞けば怖い。


 けれど、消えることが整理であり、完成であり、受け継ぐことでもある。


 法律って、たまに妙に人間臭い。


「栞、帰るぞ」


「はい」


「電気消せよ」


「真壁さんが最後なんだから真壁さんが消してください」


「お前、一応見習いだろ」


「電気係として採用された覚えはありません」


「生意気だな」


「十八歳ですから」


「関係あるか?」


 そんなことを言いながら、私たちは事務所の戸を閉めました。


 昭和六十三年。


 相変わらず土地の値段は上がり、人は権利に振り回されている。


 でも今日のところは、一人の青年が、


 失ったと思っていたものが、実は受け取ったものだったと気づいた。


 それで十分です。


 そして私は、明日のノートの一番上に、こう書くつもりでした。


 混同。


 ――自分から自分へ、家賃は払えません。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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