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宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜  作者: 条文小説
〈権利関係 配点14点/50点〉 債権の消滅

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[抵当権と相殺]現場編 絶望を切り分ける魔法の質問。「その借金、いつ貸しました?」

挿絵(By みてみん)

差押えという言葉には、人を黙らせる力があります。


 赤い紙。


 裁判所。


 債権者。


 差押命令。


 このあたりの単語が一枚の紙に並ぶと、それまで威勢よく「話し合えば何とかなる」と言っていた人まで、急に声が小さくなります。


 ましてや、


「来月から家賃を大家さんに払わず、こちらへ払ってください」


 なんて言われたら、普通はこう思います。


 ――あ、もう逆らえないやつだ。


 ところが法律というものは、ときどき、その赤い紙を見たあとで聞いてきます。


 あなた、その相手にお金貸したの、いつですか?


 ……そこ?


 もっとこう、差押えの日とかじゃないの?


 そう思いますよね。


 私も前世で、何度そう思ったことか。


 でも宅建は、そういうところを狙ってきます。


 そして昭和六十三年の大槻不動産にも、その「そういうところ」が、朝から泣きそうな顔で飛び込んできました。


「助けてください!」


 事務所の扉を開けるなり叫んだのは、駅前商店街で洋食屋を営む男でした。


 四十代半ば。


 白い調理服の上から上着だけ引っかけて、額には汗。片手には封筒を握りしめています。


「森田さん?」


 真壁さんが立ち上がりました。


「どうした。火事か」


「火事より困ってます!」


「それは困るな」


 比較対象がおかしい。


 森田さんは、うちで仲介した店舗の賃借人です。


 駅前の古い二階建て。その一階で『キッチン森田』という洋食屋をやっている。


 ハンバーグとナポリタンが人気で、私も真壁さんに一度連れていってもらったことがあります。


 ちなみに真壁さんは、


「営業は客の店で食って関係を作るんだ」


 と言いながら、ハンバーグ二枚と海老フライを食べていました。


 あれは営業ではなく食欲です。


「これです!」


 森田さんは封筒から書類を取り出し、応接机に置きました。


「うちの家賃、差し押さえられたって!」


 真壁さんの顔つきが変わります。


「家賃が?」


「はい!」


 私は横から紙を覗き込みました。


 甲建物。


 所有者、安西正雄。


 賃借人、森田浩二。


 抵当権者、東亜信用株式会社。


 そして――。


 賃料債権差押命令。


 なるほど。


 大家の安西さんが東亜信用から金を借り、その建物に抵当権を設定していた。


 ところが返済が滞った。


 そこで抵当権者が、建物そのものではなく、そこから生まれる家賃に手を伸ばした。


 いわゆる物上代位。


 建物を担保に取った人が、その建物から発生する賃料債権を差し押さえる。


 ここまでは分かる。


 問題は、森田さんが震える声で続けた一言でした。


「でも俺、安西さんに金を貸してるんですよ!」


 真壁さんが眉をひそめました。


「いくら?」


「三百万円」


「でかいな」


「店を借りた頃ですよ。安西さん、屋根の修理代が足りないって言うから」


 私は顔を上げました。


「……店を借りた頃?」


「はい」


「いつですか?」


「え?」


「お金を貸したのは」


 森田さんは戸惑いながら答えました。


「五年前です」


 頭の中で、何かがカチリとはまりました。


「抵当権が付いたのは?」


 真壁さんが登記関係の書類をめくる。


「三年前だな」


 私は思わず身を乗り出しました。


 来た。


 これだ。


 前世の宅建テキストで、何度も私を混乱させたやつ。


 差押えと相殺。


 しかも普通の差押えじゃない。


 抵当権に基づく賃料差押え。


 そして反対債権を取得した時期が――抵当権設定登記より前。


「森田さん」


「はい?」


「その三百万円、まだ返してもらってないんですよね?」


「一円も」


「返済期限は?」


「とっくに過ぎてます」


 私は小さく息を吐きました。


 よし。


 少なくとも、道はある。


「家賃、月いくらでしたっけ?」


「三十万円です」


「じゃあ十か月分で三百万円……」


「栞」


 真壁さんが横から低い声を出しました。


「何かあるのか」


「あります」


「言え」


「相殺です」


 森田さんが目を瞬きます。


「そうさい?」


「森田さんは安西さんに家賃を払う立場です。一方で、安西さんから三百万円を返してもらう立場でもある」


「はい」


「なら、お互いの債権をぶつけて消すことができる場合があります」


 森田さんの顔がぱっと明るくなった。


「じゃあ払わなくていいんですか!」


「待ってください」


 私はすぐに止めました。


 法律相談で最も危険なのは、「じゃあ全部大丈夫ですね!」と依頼人が勝手にゴールする瞬間です。


 人生、早押しクイズじゃない。


「今回、抵当権者が家賃を差し押さえています」


「はい……」


「なので、森田さんの三百万円を、抵当権者にも対抗できる相殺として使えるかが問題です」


「……使えないんですか?」


「そこを調べます」


 すると奥の机から、大槻所長が静かに言いました。


「登記簿を持ってこい」


「はい」


 私はすぐに取りに走りました。


 戻ると、所長は安西さんの建物の登記事項を指で追いました。


「東亜信用の抵当権設定は三年前」


「はい」


「森田さんの貸金は五年前」


「そうです」


「なら筋は悪くない」


 森田さんが身を乗り出します。


「じゃあ!」


 しかし所長は、そこで手を上げました。


「まだだ」


 圧。


 所長の「まだだ」は、普通の人の「黙れ」くらい効きます。


「証拠はありますか」


「証拠?」


「金を貸した証拠です」


「あ、あります! 借用書!」


「原本を?」


「店の金庫に」


「持ってきてください」


「はい!」


 森田さんは立ち上がりかけ、ふと思い出したように止まりました。


「あ、でも……」


「何です?」


「もう一回、貸してるんです」


「……はい?」


 嫌な予感。


 法律トラブルというものは、だいたい「実はもう一つ」という言葉から二段目に入ります。


「去年、安西さんが税金払えないって言うから、百万円」


「去年?」


 私は登記簿を見る。


 抵当権設定は三年前。


 つまり――。


 三百万円は抵当権設定前。


 百万円は抵当権設定後。


 綺麗に分かれた。


 宅建の神様、問題文作りすぎでは?


「合計四百万円です!」


 森田さんが言いました。


「だから家賃一年分くらい相殺して――」


「それは無理です」


 私が即答すると、


「ええっ!?」


 森田さんの声が裏返りました。


 真壁さんが横で笑いを噛み殺しています。


「さっき相殺できるって!」


「三百万円のほうです」


「百万円は?」


「たぶん無理です」


「同じ安西さんへの貸金なのに?」


「同じだからこそ、ややこしいんです」


 私は紙の余白に線を書きました。


 五年前――森田さん、安西さんに三百万円貸す。


 三年前――東亜信用、建物に抵当権設定。


 一年前――森田さん、さらに百万円貸す。


 現在――東亜信用、家賃を差し押さえる。


「大事なのは、この順番です」


 私は鉛筆で、抵当権設定のところに一本、大きな縦線を引きました。


「この線より前に森田さんが持っていた債権は、抵当権者に対して相殺を主張できる余地があります」


「じゃあ三百万円は」


「前です」


「百万円は」


「後です」


「……後だと?」


「抵当権に負けます」


 森田さんは、紙をじっと見つめました。


「たった二年違うだけで?」


「その二年が、法律では境目です」


「なんで差押えの日じゃないんだ」


「そこなんですよ」


 私は思わず机を叩きそうになりました。


「私もそう思ったんです!」


「栞」


 真壁さんが呆れた顔をする。


「お前、誰に怒ってる」


「過去問です」


「知らん奴に怒るな」


 知ってます。


 めちゃくちゃ知ってます。


 前世で何度も会いました。


 その日の午後。


 森田さんが借用書を持って戻ってきました。


 三百万円の借用書。


 日付は確かに五年前。


 さらに通帳にも、森田さんから安西さんへ金が動いた記録が残っていました。


 一方、百万円のほうは一年前。


 こちらも借用書あり。


 事実関係はきれいでした。


 問題は、東亜信用がどう出るか。


「向こう、相殺なんか認めないって言ってます」


 真壁さんが電話を置いて言いました。


「差押命令が出てるんだから、家賃は全額払えの一点張りだ」


「全部?」


「ああ」


 私は眉をひそめました。


 全部は違う。


 少なくとも三百万円については、森田さんには反論できる筋がある。


 すると所長が立ち上がりました。


「行くぞ」


「どこへです?」


「東亜信用」


「私も?」


「お前が一番説明したそうな顔をしてる」


 してましたか。


 たぶんしてました。


 東亜信用の応接室は、やたら椅子が固かった。


 金融会社というのは、なぜ客を座らせる椅子まで「返せ」と言ってくる感じがするのでしょう。


 担当者は、細身の眼鏡をかけた四十代くらいの男でした。


 名前は黒崎。


 名刺を置く所作まで几帳面です。


「ですから」


 黒崎さんは、書類を指で叩きました。


「当社は抵当権に基づき、適法に賃料債権を差し押さえております」


「そこは争っていません」


 大槻所長が言います。


「森田さんの相殺の話です」


「差押え後の相殺など認められませんよ」


 来た。


 私は思わず口を開きました。


「差押え後に取得した債権なら、ですよね」


 黒崎さんの目がこちらへ向く。


「……どちら様です?」


「大槻不動産の藤崎です」


「事務員さん?」


「見習いです」


「見習い?」


 少しだけ馬鹿にした笑い。


 真壁さんが横で眉を動かしました。


 まずい。


 この人、見た目は怖いけど、身内を馬鹿にされると静かに機嫌が悪くなるタイプです。


 私は構わず続けました。


「森田さんが安西さんに三百万円を貸したのは、御社の抵当権設定登記より二年前です」


 黒崎さんの表情がわずかに止まりました。


「……それが?」


「抵当権に基づく賃料債権の差押えと、賃借人の相殺がぶつかる場合、反対債権をいつ取得したかが問題になります」


「……」


「森田さんの三百万円の貸金債権は、御社の抵当権設定より前から存在しています」


 私は借用書の写しを机に置きました。


「なので、その部分まで一律に『差押えたから相殺不可』とはならないはずです」


 黒崎さんが借用書を見る。


 そして少し黙った。


 その沈黙で分かりました。


 この人、知らないんじゃない。


 分かっていた。


 分かっていて、最初は全部取りに来た。


 不動産も金融も、相手が知らなければそのまま進むことがあります。


 だから知識が要る。


 殴るためじゃない。


 止めるために。


「しかし」


 黒崎さんが言いました。


「森田さんには、ほかにも百万円の貸金債権があるそうですね」


「あります」


「なら四百万円全部を相殺すると?」


「いいえ」


 私は即答しました。


「百万円は別です」


 黒崎さんが初めて、少し意外そうな顔をしました。


 真壁さんもこっちを見る。


「そちらは、御社の抵当権設定後に取得した債権です」


「……」


「その百万円まで、御社に相殺で対抗できるとは考えていません」


 黒崎さんが眼鏡の奥で目を細める。


「都合のいいところだけ主張するわけではない、と」


「法律が分けているところを、分けているだけです」


 私は言いました。


「三百万円は三百万円。百万円は百万円です」


 大槻所長が、静かに付け加えます。


「うちも無理筋を通すつもりはありません。ただし、取れるものと取れないものを一緒にする気もない」


 部屋が静かになりました。


 いい。


 この感じ。


 ごちゃごちゃした話が、一本ずつほどけていく。


 森田さんの四百万円という塊が、


 抵当権設定前の三百万円。


 抵当権設定後の百万円。


 きれいに二つに分かれる。


 法律のカタルシスというのは、たぶんこういう瞬間です。


 怒鳴り合いじゃない。


 派手な逆転でもない。


 相手が一括りにして押し切ろうとしたものを、


「それとこれは別です」


 と切り分ける。


 それだけで、理不尽はずいぶん小さくなる。


 黒崎さんは借用書をもう一度確認し、やがて言いました。


「社内で確認します」


 真壁さんが少し笑う。


「最初は“認められない”だったのにな」


「確認すると申し上げました」


「はいはい」


「真壁さん」


 所長の一言で止まる。


 犬みたい。


 いや、本人に言ったら怒られるので心の中だけにしておきます。


 三日後。


 東亜信用から回答が来ました。


 三百万円分については、森田さんの相殺の主張を前提に処理する。


 ただし、抵当権設定後に貸した百万円については認めない。


 つまり――。


 全部負けではない。


 全部勝ちでもない。


 でも、守るべき三百万円は守れた。


「ほんとに……?」


 事務所で説明を聞いた森田さんは、しばらく動きませんでした。


「三百万円、消えないんですか」


「消えるというより」


 私は笑いました。


「家賃とぶつけていけます」


「じゃあ俺、三百万円丸々損したわけじゃない?」


「はい」


 森田さんは両手で顔を覆いました。


「よかったぁ……」


 その声が震えていました。


 洋食屋にとって三百万円は大金です。


 家族で店を回して、仕入れをして、油を買って、ガス代を払って。


 ハンバーグを何枚焼けば三百万円になるのか、私には想像もつきません。


 でも、それが「差押え」の四文字だけで全部消えるところだった。


「ただし」


 私は指を一本立てました。


「去年の百万円は別です」


「ああ……」


 森田さんの肩が落ちる。


「そこはやっぱり駄目ですか」


「はい」


「何とかならない?」


「なりません」


「即答だなあ」


「期待を持たせるほうが残酷です」


 真壁さんが噴き出しました。


「こいつ、十八のくせに妙に世知辛いんだよ」


「人生二周目ですから」


「ん?」


「何でもありません」


 危ない危ない。


 翌日の夕方。


 森田さんが大きな紙袋を抱えてやってきました。


「お礼です」


「そんな、いいですよ」


「よくない。持ってって」


 中を見ると、アルミホイルに包まれた大きな容器がいくつも入っていました。


 ハンバーグ。


 海老フライ。


 ナポリタン。


 そしてプリン。


「多っ!」


「所長さんと、真壁さんと、栞ちゃんの分」


「いや三人分の量じゃないですよね?」


「うちは洋食屋だから」


 理由になっていません。


 昭和の人情、やはり物量で来ます。


「栞ちゃん」


「はい?」


 森田さんは、少し照れくさそうに頭を下げました。


「ありがとうな」


「……いえ」


「赤い紙見た時は、全部終わったと思った」


 そう言って、笑いました。


「でも、いつ貸したかなんてことまで、意味があるんだな」


 私は頷きました。


「あります」


「五年前に貸した三百万と、去年貸した百万。同じ借金だと思ってたよ」


「私も昔ならそう思ってました」


「昔?」


「……勉強を始めた頃です」


 危ない。


 二回目。


 転生者、口が軽い。


 森田さんが帰ったあと。


 真壁さんが紙袋から勝手に海老フライを一本抜きました。


「それ私のかもしれませんよ」


「名前書いてない」


「小学生ですか」


「早い者勝ちだ」


「所長!」


「真壁」


「はい」


「一本戻せ」


「……はい」


 所長、強い。


 私は笑いながら、自分の机に戻りました。


 そこには、今日の登記簿の写しと、森田さんの借用書のコピー。


 私はノートの端に、簡単な線を書きました。


 貸金三百万円。


   ↓


 抵当権設定。


   ↓


 貸金百万円。


   ↓


 賃料差押え。


 こうして見ると、たった四本の線です。


 でも今日、その順番が三百万円を守った。


 差押えが先か。


 相殺が先か。


 そんな単純な話ではない。


 抵当権がいつ設定され、


 反対債権をいつ取得したのか。


 そこを見る。


 前世の私は、この論点を見るたびに、


 ――もう日付で殴ってくるのやめて。


 と思っていました。


 でも今なら、少し分かります。


 法律が日付を見るのには理由がある。


 その時点で、誰がどんな権利を持っていたのか。


 あとから現れた権利が、前から存在していた関係をどこまで壊せるのか。


 順番を見なければ、人を公平に扱えないからです。


「栞」


「はい?」


 真壁さんがハンバーグの容器を持ち上げました。


「冷めるぞ」


「今行きます」


「プリンは俺な」


「駄目です」


「なんでだよ」


「今日いちばん働いたの私です」


「運転したの俺だ」


「それを言い出したら所長が一番偉いですよ」


 二人で所長を見る。


 大槻所長は新聞を読みながら、静かに言いました。


「プリンは三つある」


 私たちは紙袋を見た。


 本当に三つありました。


「……森田さん、できる人ですね」


「商売人だからな」


 真壁さんが笑いました。


 私はプリンを一つ手に取りました。


 昭和六十三年。


 差押命令は怖い。


 抵当権も難しい。


 相殺まで出てくると、頭の中はもっとややこしくなる。


 でも。


 難しいものほど、順番に並べればいい。


 誰が。


 誰に。


 何を持っていて。


 それを、いつ手に入れたのか。


 法律は、ときどき冷たい顔をしています。


 けれど、その冷たい線引きが、誰かの三百万円を守ることもある。


 私はスプーンをプリンに刺しました。


「真壁さん」


「ん?」


「人にお金貸す時は、日付の入った借用書、絶対ですね」


「そうだな」


「じゃないと、五年後に泣きます」


「十八歳が言う台詞じゃねえな」


「社会は怖いんです」


「お前が一番怖いよ」


 失礼な。


 私はプリンを一口食べました。


 甘い。


 今日くらいは、それでいい。


 抵当権も差押えも相殺も、明日また頭を抱えればいいのです。


 ただ一つだけ。


 これだけは、もう忘れない。


 ――その借金、いつ貸しました?


 たったそれだけの質問が、ときどき人を救うのだから。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。


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