[抵当権と相殺]現場編 絶望を切り分ける魔法の質問。「その借金、いつ貸しました?」
差押えという言葉には、人を黙らせる力があります。
赤い紙。
裁判所。
債権者。
差押命令。
このあたりの単語が一枚の紙に並ぶと、それまで威勢よく「話し合えば何とかなる」と言っていた人まで、急に声が小さくなります。
ましてや、
「来月から家賃を大家さんに払わず、こちらへ払ってください」
なんて言われたら、普通はこう思います。
――あ、もう逆らえないやつだ。
ところが法律というものは、ときどき、その赤い紙を見たあとで聞いてきます。
あなた、その相手にお金貸したの、いつですか?
……そこ?
もっとこう、差押えの日とかじゃないの?
そう思いますよね。
私も前世で、何度そう思ったことか。
でも宅建は、そういうところを狙ってきます。
そして昭和六十三年の大槻不動産にも、その「そういうところ」が、朝から泣きそうな顔で飛び込んできました。
「助けてください!」
事務所の扉を開けるなり叫んだのは、駅前商店街で洋食屋を営む男でした。
四十代半ば。
白い調理服の上から上着だけ引っかけて、額には汗。片手には封筒を握りしめています。
「森田さん?」
真壁さんが立ち上がりました。
「どうした。火事か」
「火事より困ってます!」
「それは困るな」
比較対象がおかしい。
森田さんは、うちで仲介した店舗の賃借人です。
駅前の古い二階建て。その一階で『キッチン森田』という洋食屋をやっている。
ハンバーグとナポリタンが人気で、私も真壁さんに一度連れていってもらったことがあります。
ちなみに真壁さんは、
「営業は客の店で食って関係を作るんだ」
と言いながら、ハンバーグ二枚と海老フライを食べていました。
あれは営業ではなく食欲です。
「これです!」
森田さんは封筒から書類を取り出し、応接机に置きました。
「うちの家賃、差し押さえられたって!」
真壁さんの顔つきが変わります。
「家賃が?」
「はい!」
私は横から紙を覗き込みました。
甲建物。
所有者、安西正雄。
賃借人、森田浩二。
抵当権者、東亜信用株式会社。
そして――。
賃料債権差押命令。
なるほど。
大家の安西さんが東亜信用から金を借り、その建物に抵当権を設定していた。
ところが返済が滞った。
そこで抵当権者が、建物そのものではなく、そこから生まれる家賃に手を伸ばした。
いわゆる物上代位。
建物を担保に取った人が、その建物から発生する賃料債権を差し押さえる。
ここまでは分かる。
問題は、森田さんが震える声で続けた一言でした。
「でも俺、安西さんに金を貸してるんですよ!」
真壁さんが眉をひそめました。
「いくら?」
「三百万円」
「でかいな」
「店を借りた頃ですよ。安西さん、屋根の修理代が足りないって言うから」
私は顔を上げました。
「……店を借りた頃?」
「はい」
「いつですか?」
「え?」
「お金を貸したのは」
森田さんは戸惑いながら答えました。
「五年前です」
頭の中で、何かがカチリとはまりました。
「抵当権が付いたのは?」
真壁さんが登記関係の書類をめくる。
「三年前だな」
私は思わず身を乗り出しました。
来た。
これだ。
前世の宅建テキストで、何度も私を混乱させたやつ。
差押えと相殺。
しかも普通の差押えじゃない。
抵当権に基づく賃料差押え。
そして反対債権を取得した時期が――抵当権設定登記より前。
「森田さん」
「はい?」
「その三百万円、まだ返してもらってないんですよね?」
「一円も」
「返済期限は?」
「とっくに過ぎてます」
私は小さく息を吐きました。
よし。
少なくとも、道はある。
「家賃、月いくらでしたっけ?」
「三十万円です」
「じゃあ十か月分で三百万円……」
「栞」
真壁さんが横から低い声を出しました。
「何かあるのか」
「あります」
「言え」
「相殺です」
森田さんが目を瞬きます。
「そうさい?」
「森田さんは安西さんに家賃を払う立場です。一方で、安西さんから三百万円を返してもらう立場でもある」
「はい」
「なら、お互いの債権をぶつけて消すことができる場合があります」
森田さんの顔がぱっと明るくなった。
「じゃあ払わなくていいんですか!」
「待ってください」
私はすぐに止めました。
法律相談で最も危険なのは、「じゃあ全部大丈夫ですね!」と依頼人が勝手にゴールする瞬間です。
人生、早押しクイズじゃない。
「今回、抵当権者が家賃を差し押さえています」
「はい……」
「なので、森田さんの三百万円を、抵当権者にも対抗できる相殺として使えるかが問題です」
「……使えないんですか?」
「そこを調べます」
すると奥の机から、大槻所長が静かに言いました。
「登記簿を持ってこい」
「はい」
私はすぐに取りに走りました。
戻ると、所長は安西さんの建物の登記事項を指で追いました。
「東亜信用の抵当権設定は三年前」
「はい」
「森田さんの貸金は五年前」
「そうです」
「なら筋は悪くない」
森田さんが身を乗り出します。
「じゃあ!」
しかし所長は、そこで手を上げました。
「まだだ」
圧。
所長の「まだだ」は、普通の人の「黙れ」くらい効きます。
「証拠はありますか」
「証拠?」
「金を貸した証拠です」
「あ、あります! 借用書!」
「原本を?」
「店の金庫に」
「持ってきてください」
「はい!」
森田さんは立ち上がりかけ、ふと思い出したように止まりました。
「あ、でも……」
「何です?」
「もう一回、貸してるんです」
「……はい?」
嫌な予感。
法律トラブルというものは、だいたい「実はもう一つ」という言葉から二段目に入ります。
「去年、安西さんが税金払えないって言うから、百万円」
「去年?」
私は登記簿を見る。
抵当権設定は三年前。
つまり――。
三百万円は抵当権設定前。
百万円は抵当権設定後。
綺麗に分かれた。
宅建の神様、問題文作りすぎでは?
「合計四百万円です!」
森田さんが言いました。
「だから家賃一年分くらい相殺して――」
「それは無理です」
私が即答すると、
「ええっ!?」
森田さんの声が裏返りました。
真壁さんが横で笑いを噛み殺しています。
「さっき相殺できるって!」
「三百万円のほうです」
「百万円は?」
「たぶん無理です」
「同じ安西さんへの貸金なのに?」
「同じだからこそ、ややこしいんです」
私は紙の余白に線を書きました。
五年前――森田さん、安西さんに三百万円貸す。
三年前――東亜信用、建物に抵当権設定。
一年前――森田さん、さらに百万円貸す。
現在――東亜信用、家賃を差し押さえる。
「大事なのは、この順番です」
私は鉛筆で、抵当権設定のところに一本、大きな縦線を引きました。
「この線より前に森田さんが持っていた債権は、抵当権者に対して相殺を主張できる余地があります」
「じゃあ三百万円は」
「前です」
「百万円は」
「後です」
「……後だと?」
「抵当権に負けます」
森田さんは、紙をじっと見つめました。
「たった二年違うだけで?」
「その二年が、法律では境目です」
「なんで差押えの日じゃないんだ」
「そこなんですよ」
私は思わず机を叩きそうになりました。
「私もそう思ったんです!」
「栞」
真壁さんが呆れた顔をする。
「お前、誰に怒ってる」
「過去問です」
「知らん奴に怒るな」
知ってます。
めちゃくちゃ知ってます。
前世で何度も会いました。
その日の午後。
森田さんが借用書を持って戻ってきました。
三百万円の借用書。
日付は確かに五年前。
さらに通帳にも、森田さんから安西さんへ金が動いた記録が残っていました。
一方、百万円のほうは一年前。
こちらも借用書あり。
事実関係はきれいでした。
問題は、東亜信用がどう出るか。
「向こう、相殺なんか認めないって言ってます」
真壁さんが電話を置いて言いました。
「差押命令が出てるんだから、家賃は全額払えの一点張りだ」
「全部?」
「ああ」
私は眉をひそめました。
全部は違う。
少なくとも三百万円については、森田さんには反論できる筋がある。
すると所長が立ち上がりました。
「行くぞ」
「どこへです?」
「東亜信用」
「私も?」
「お前が一番説明したそうな顔をしてる」
してましたか。
たぶんしてました。
東亜信用の応接室は、やたら椅子が固かった。
金融会社というのは、なぜ客を座らせる椅子まで「返せ」と言ってくる感じがするのでしょう。
担当者は、細身の眼鏡をかけた四十代くらいの男でした。
名前は黒崎。
名刺を置く所作まで几帳面です。
「ですから」
黒崎さんは、書類を指で叩きました。
「当社は抵当権に基づき、適法に賃料債権を差し押さえております」
「そこは争っていません」
大槻所長が言います。
「森田さんの相殺の話です」
「差押え後の相殺など認められませんよ」
来た。
私は思わず口を開きました。
「差押え後に取得した債権なら、ですよね」
黒崎さんの目がこちらへ向く。
「……どちら様です?」
「大槻不動産の藤崎です」
「事務員さん?」
「見習いです」
「見習い?」
少しだけ馬鹿にした笑い。
真壁さんが横で眉を動かしました。
まずい。
この人、見た目は怖いけど、身内を馬鹿にされると静かに機嫌が悪くなるタイプです。
私は構わず続けました。
「森田さんが安西さんに三百万円を貸したのは、御社の抵当権設定登記より二年前です」
黒崎さんの表情がわずかに止まりました。
「……それが?」
「抵当権に基づく賃料債権の差押えと、賃借人の相殺がぶつかる場合、反対債権をいつ取得したかが問題になります」
「……」
「森田さんの三百万円の貸金債権は、御社の抵当権設定より前から存在しています」
私は借用書の写しを机に置きました。
「なので、その部分まで一律に『差押えたから相殺不可』とはならないはずです」
黒崎さんが借用書を見る。
そして少し黙った。
その沈黙で分かりました。
この人、知らないんじゃない。
分かっていた。
分かっていて、最初は全部取りに来た。
不動産も金融も、相手が知らなければそのまま進むことがあります。
だから知識が要る。
殴るためじゃない。
止めるために。
「しかし」
黒崎さんが言いました。
「森田さんには、ほかにも百万円の貸金債権があるそうですね」
「あります」
「なら四百万円全部を相殺すると?」
「いいえ」
私は即答しました。
「百万円は別です」
黒崎さんが初めて、少し意外そうな顔をしました。
真壁さんもこっちを見る。
「そちらは、御社の抵当権設定後に取得した債権です」
「……」
「その百万円まで、御社に相殺で対抗できるとは考えていません」
黒崎さんが眼鏡の奥で目を細める。
「都合のいいところだけ主張するわけではない、と」
「法律が分けているところを、分けているだけです」
私は言いました。
「三百万円は三百万円。百万円は百万円です」
大槻所長が、静かに付け加えます。
「うちも無理筋を通すつもりはありません。ただし、取れるものと取れないものを一緒にする気もない」
部屋が静かになりました。
いい。
この感じ。
ごちゃごちゃした話が、一本ずつほどけていく。
森田さんの四百万円という塊が、
抵当権設定前の三百万円。
抵当権設定後の百万円。
きれいに二つに分かれる。
法律のカタルシスというのは、たぶんこういう瞬間です。
怒鳴り合いじゃない。
派手な逆転でもない。
相手が一括りにして押し切ろうとしたものを、
「それとこれは別です」
と切り分ける。
それだけで、理不尽はずいぶん小さくなる。
黒崎さんは借用書をもう一度確認し、やがて言いました。
「社内で確認します」
真壁さんが少し笑う。
「最初は“認められない”だったのにな」
「確認すると申し上げました」
「はいはい」
「真壁さん」
所長の一言で止まる。
犬みたい。
いや、本人に言ったら怒られるので心の中だけにしておきます。
三日後。
東亜信用から回答が来ました。
三百万円分については、森田さんの相殺の主張を前提に処理する。
ただし、抵当権設定後に貸した百万円については認めない。
つまり――。
全部負けではない。
全部勝ちでもない。
でも、守るべき三百万円は守れた。
「ほんとに……?」
事務所で説明を聞いた森田さんは、しばらく動きませんでした。
「三百万円、消えないんですか」
「消えるというより」
私は笑いました。
「家賃とぶつけていけます」
「じゃあ俺、三百万円丸々損したわけじゃない?」
「はい」
森田さんは両手で顔を覆いました。
「よかったぁ……」
その声が震えていました。
洋食屋にとって三百万円は大金です。
家族で店を回して、仕入れをして、油を買って、ガス代を払って。
ハンバーグを何枚焼けば三百万円になるのか、私には想像もつきません。
でも、それが「差押え」の四文字だけで全部消えるところだった。
「ただし」
私は指を一本立てました。
「去年の百万円は別です」
「ああ……」
森田さんの肩が落ちる。
「そこはやっぱり駄目ですか」
「はい」
「何とかならない?」
「なりません」
「即答だなあ」
「期待を持たせるほうが残酷です」
真壁さんが噴き出しました。
「こいつ、十八のくせに妙に世知辛いんだよ」
「人生二周目ですから」
「ん?」
「何でもありません」
危ない危ない。
翌日の夕方。
森田さんが大きな紙袋を抱えてやってきました。
「お礼です」
「そんな、いいですよ」
「よくない。持ってって」
中を見ると、アルミホイルに包まれた大きな容器がいくつも入っていました。
ハンバーグ。
海老フライ。
ナポリタン。
そしてプリン。
「多っ!」
「所長さんと、真壁さんと、栞ちゃんの分」
「いや三人分の量じゃないですよね?」
「うちは洋食屋だから」
理由になっていません。
昭和の人情、やはり物量で来ます。
「栞ちゃん」
「はい?」
森田さんは、少し照れくさそうに頭を下げました。
「ありがとうな」
「……いえ」
「赤い紙見た時は、全部終わったと思った」
そう言って、笑いました。
「でも、いつ貸したかなんてことまで、意味があるんだな」
私は頷きました。
「あります」
「五年前に貸した三百万と、去年貸した百万。同じ借金だと思ってたよ」
「私も昔ならそう思ってました」
「昔?」
「……勉強を始めた頃です」
危ない。
二回目。
転生者、口が軽い。
森田さんが帰ったあと。
真壁さんが紙袋から勝手に海老フライを一本抜きました。
「それ私のかもしれませんよ」
「名前書いてない」
「小学生ですか」
「早い者勝ちだ」
「所長!」
「真壁」
「はい」
「一本戻せ」
「……はい」
所長、強い。
私は笑いながら、自分の机に戻りました。
そこには、今日の登記簿の写しと、森田さんの借用書のコピー。
私はノートの端に、簡単な線を書きました。
貸金三百万円。
↓
抵当権設定。
↓
貸金百万円。
↓
賃料差押え。
こうして見ると、たった四本の線です。
でも今日、その順番が三百万円を守った。
差押えが先か。
相殺が先か。
そんな単純な話ではない。
抵当権がいつ設定され、
反対債権をいつ取得したのか。
そこを見る。
前世の私は、この論点を見るたびに、
――もう日付で殴ってくるのやめて。
と思っていました。
でも今なら、少し分かります。
法律が日付を見るのには理由がある。
その時点で、誰がどんな権利を持っていたのか。
あとから現れた権利が、前から存在していた関係をどこまで壊せるのか。
順番を見なければ、人を公平に扱えないからです。
「栞」
「はい?」
真壁さんがハンバーグの容器を持ち上げました。
「冷めるぞ」
「今行きます」
「プリンは俺な」
「駄目です」
「なんでだよ」
「今日いちばん働いたの私です」
「運転したの俺だ」
「それを言い出したら所長が一番偉いですよ」
二人で所長を見る。
大槻所長は新聞を読みながら、静かに言いました。
「プリンは三つある」
私たちは紙袋を見た。
本当に三つありました。
「……森田さん、できる人ですね」
「商売人だからな」
真壁さんが笑いました。
私はプリンを一つ手に取りました。
昭和六十三年。
差押命令は怖い。
抵当権も難しい。
相殺まで出てくると、頭の中はもっとややこしくなる。
でも。
難しいものほど、順番に並べればいい。
誰が。
誰に。
何を持っていて。
それを、いつ手に入れたのか。
法律は、ときどき冷たい顔をしています。
けれど、その冷たい線引きが、誰かの三百万円を守ることもある。
私はスプーンをプリンに刺しました。
「真壁さん」
「ん?」
「人にお金貸す時は、日付の入った借用書、絶対ですね」
「そうだな」
「じゃないと、五年後に泣きます」
「十八歳が言う台詞じゃねえな」
「社会は怖いんです」
「お前が一番怖いよ」
失礼な。
私はプリンを一口食べました。
甘い。
今日くらいは、それでいい。
抵当権も差押えも相殺も、明日また頭を抱えればいいのです。
ただ一つだけ。
これだけは、もう忘れない。
――その借金、いつ貸しました?
たったそれだけの質問が、ときどき人を救うのだから。
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